和紙の里探訪1

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日本の伝統美「小川和紙:細川紙」
我が国独特の技術と上品で素朴、強靭な和紙。経巻、書道、文庫、工芸紙をはじめ色々な紙が漉かれ広い分野で使われてきた。我が国の歴史と文化そのものであろう。埼玉県比企丘陵一帯に1300年の歴史が息づく「細川紙」を漉く和紙の里がある。
●紙の伝播
 後漢の時代(105年)に蔡倫(さいりん)が麻から紙を作った。紙漉きの始まりである。それまでの木簡、竹簡、ヨーロッパではパピルスの葉、羊皮紙などにかわる画期的な発明であった。蔡倫の発明した紙漉き技術は、シルクロードを経てすぐ伝播すると思うであろうが、歴代の皇帝達は決して外部には漏らさなかったようである。もっともそれだけ紙は貴重品であったという何よりの証拠である。ヨ-ロッパへの伝播は、751年、唐と西の大帝国アッパース朝が、中央アジアのタラス(カザフスタンとキルギスの上辺)で戦争をした。結果はアッパース朝の大勝に終わり、捕虜となった唐人のなかに紙漉き職人がいたのである。791年にこの職人はバクダッドに送られた。紙漉き技術はやがてアラブ全域、ヨ-ロッパ、アメリカへと伝播していった。中国製紙法の西方伝播はシルクロ-ド史上特筆される事件であった。ちなみにイギリス、アメリカへの伝播は発明以来実に約1000年の歳月を要しており、この間、パピルスの葉、羊皮紙などの時代が続いたのであった。
●日本への伝播
 推古18年(610)に高麗人の僧侶、曇徴(どんちょう)によってもたらされたと言われる。これより先607年に第一回遣隋使として小野妹子などが派遣された。また、隋が滅んだあと引き続き行われた遣唐使のなかには真言宗開祖の空海(弘法大師)、天台宗開祖の最澄もいたので、色々な技術とともに経巻に纏わることゆえ紙漉き技術を持ち帰ったとして何ら不思議ではない。
 大化改新(645)で孝徳天皇が詔を発したなかに、「よろしく国々のさかいを観、或は図し持ち来たって示したてまつれ」(『日本書紀』)とある。我が国で最初の地図の作成命令とされる。もちろん紙がなければできない話であろう。天平10年(738)諸国に命じて、「国郡図」を作成させている(『続日本紀』)。
 さらに、平安中期になると源氏物語前編のなか、鈴虫では「唐の紙はもろくて、朝夕の御手ならしにもいかがとて、紙屋(かんや)人を召して———–心ことに清らに——-」とある。朝夕におけるトイレの紙のことである。この頃の紙はもろかったので、日本独特の和紙が生まれていく。もっともトイレの紙を使えるのは相当身分の高い者であり、江戸時代でも庶民は竹箆を使用していたくらい紙は貴重品であった。やがて日本の和紙は中国へと逆輸出されていくことになる。
パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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