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2007年01月 アーカイブ

2007年01月01日

元旦だからこそ「正月パス」

新年明けましておめでとうございます。
それではさっそく旅じゃBLOGの第1回は元旦に大変重宝する「正月パス」の紹介です。
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さっそく管理人はこのフリーきっぷを使って新年早々、東北の秋田と角館へ日帰り旅行(取材)をしてきました。JR東日本が毎年12月中旬~晦日まで発売し、使用できるのは翌年の元旦のみというきっぷですが、新幹線・特急・急行の自由席が乗り放題に加え、座席が4回まで指定できます。ねだんは普通車用12,000円、グリーン車用18,000円(ともにこども半額)。フリー区間はJR東日本エリア全線に加え、JR北海道中小国~函館間と第三セクターの青い森鉄道・IGRいわて銀河鉄道・北越急行・伊豆急行の全線が乗れてしまうすぐれものです。
似たような商品に土・日曜限定の「土・日きっぷ」18,000円(2日間有効)がありますが、こちらはフリー区間が南東北・信越エリアに限られています。その点、正月パスなら東北全域をカバーし、かつはるばる来たぜの函館まで行けるわけです。単純に東京から秋田まで秋田新幹線こまちの指定席を利用すると、片道17,150円なわけですから、片道の移動手段だけでも十分モトはとれてしまうのです。いつも管理人は「青春18」を使っているだけに新幹線の機動力にはビックリしました。元旦しか使えず、美術館・博物館・飲食店などの施設も年末年始休のところが多いなど、観光としてみればネックな部分もありますが、安く移動できる手段のきっぷとしておすすめです。来年は「青春18」と併用して函館へ行こうかなと考えています。
寝正月もいいけれど、正月早々アクティブに動くのも“三文の得”。

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2007年01月02日

スタンプ物語1・東京駅

いよいよスタートしましたこのブログ。まだスタートしたばかりで会員からの投稿もありませんので、しばらくというか埋め草として管理人が執筆いたします。第2回は管理人のスタンプコレクションから現在、JR東京支社のお江戸をテーマにしたものを中心にしたスタンプの紹介です。2004年からはじまったスタンプのシリーズで、きちんとスタンプ台(左)も設置されており、山手線を中心に中央線・京浜東北線・常磐線など首都圏エリア77駅にあります。こういったスタンプに目を向ければ、ふだん何気なく乗り降りしている首都圏駅もまた別の楽しみが湧くというものです。スタンプの色は黒で統一されていますが、備え付けの朱肉ではインクが乾いていてきれいに押せないことも間々ありますので、スタンプの朱肉は持ち歩いたほうがいいかもしれません(管理人は強引に駅改札係員から朱肉を借りたこともありました)。なお、スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。
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やはり最初は日本の顔というべき東京駅でしょう。細かい駅の歴史は省略してスタンプの絵柄を考察します。東京駅といえば皇居で、スタンプの二重橋は皇居正門から宮城に至る濠に架かる正門石橋とその奥の正門鉄橋の総称ともいわれますが、厳密には奥の橋のこと指し、撮影ポイントとして知られます。
大正3年(1914)に東京駅が開業したとき、丸の内中央口から皇居まで新しく道幅60mの道路がつけられ、この道を進むと和田倉門があり、広大な皇居外苑に出ます。このスタンプの二重橋までは丸の内中央口から徒歩10分。東京メトロ千代田線の二重橋前・日比谷、有楽町線桜田門、次の有楽町のほうが目的地まで近かったりするのですが、やはり東京駅は皇居に向けて造られた駅ですので、当駅からの皇居散策をお楽しみください。皇居は徳川将軍15代の居城で、現在は西側の115万平方メートルに御所が置かれ、東地区の江戸城旧本丸、二の丸、三の丸、北の丸が公園として一般公開されています。
ところで東京駅には2007年1月現在、上記のスタンプしかないのが寂しい限りです。僕が学生の頃は「東京駅にはたくさんスタンプがある」と聞いており、かつては新幹線の乗車記念スタンプから他のスタンプなど、広大な東京駅構内を歩き回って集めた記憶があるのですが、故郷の押入れにお蔵入りとなっており出てきません。それにしても日本一の東京駅ですから、スタンプも数種類用意して各案内所に設置し、JR東海も独自のスタンプを設置してほしいものです。

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2007年01月03日

スタンプ物語2・有楽町駅

さて、旅じゃBLOGも開始3日目でなんと、旅行・観光(全般)のランキングが400近いブログから100位まで浮上しました。まさかランキングクリックが管理人ばかりでないとは思いますが、代表の森田氏などの投稿があると順位ももっとUPするに違いありません。本日も管理人の趣味にお付き合い願います。

東京駅の次は山手線内回りに沿って各駅停車で紹介します。本日は有楽町。
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この地名の由来は織田信長の弟長益(1547~1622)が江戸開府の際に、徳川家康からこの付近に土地を拝領したことから、号名の有楽斎(うらくさい)をとって明治時代に有楽町と付けられたそうです。ところでこの織田有楽斎、信長が横死した本能寺の変時に嫡男信忠とともに二条城に立て籠もったのですが、自分だけ自害せずに城を脱出。さらにその後の大坂冬の陣でも豊臣方として大坂城にいて、夏の陣前に城から出る(徳川のスパイ説・和平派説などあり)など、その運のよさと戦国の世におけるしぶとさは特筆できます。一等地の地名に残るほどですから。ちなみに昨日の東京駅の八重洲口は、家康の外交顧問や通訳として活躍したオランダ人ヤン・ヨーステン(日本名は耶楊子:やようす)が拝領した土地に由来しています。
ずいぶん脱線してしまいましたが、スタンプの歌舞伎座は銀座口から徒歩6~7分のところです。歌舞伎専用の劇場として明治22年(1889)に開設。その後、漏電による焼失、関東大震災などに見舞われながら大正14年(1925)に新築したのですが、こちらも昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失。現在の建物は戦後昭和25年(1950)に竣工したもので、先に焼失した第三期の建物のデザインを生かしています。しかし、この建物も老朽化・バリアフリーへの対応を理由に建替の方針が決定しており、この風格のある建物が見られるのもあとわずかといえるでしょう。
ちなみに有楽町には銀座口改札に古いスタンプ(右)が保管されており、係員に申し出ると押すことができます(2007年1月現在)。すでに消耗が激しく右のようにきれいに押せない(80年代に押印)のですが、こちらもいつ廃棄されるかわかりませんので、コレクターの方は急いだほうがいいかもしれません。ちなみにこちらのスタンプに描かれているのは山手線とマリオンと大黒様。なんで大黒様かなと思って調べたら、高額当選で有名な宝くじ売り場に祀られている大黒様(有楽町ロッタリープラザ)だったんですね。
いや宝くじには全然興味ないので(馬券には興味あるが)初耳でしたが、昭和62年(1987)4月のJR誕生と同時にできたと思われるスタンプも有楽町の特徴をよく表現しています。
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2007年01月04日

スタンプ物語3・新橋駅

本日は鉄道唱歌でおなじみ「汽笛一声」の新橋駅です。

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明治5年(1872)10月14日、新橋~横浜(現・桜木町)間に日本初の鉄道が正式開業し、以来10月14日は鉄道記念日となっています。まあ、ちょっと鉄道に詳しい方なら現在の新橋駅は大正3年(1914)に烏森駅から改称された駅で、旧新橋駅は国鉄の貨物駅となった汐留駅ということはご存知でしょう。その汐留駅も昭和61年(1986)に廃止され、跡地は国の史跡に指定。2003年には旧新橋駅停車場として、開業当時の駅舎が再現されています。鉄道歴史展示室として無料で入館(月曜休)できますので、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか? 新橋駅汐留口から歩いて5分です(スタンプもあるよ)
またまた脱線してしまいましたが、本題のスタンプは浜離宮恩賜庭園。新橋駅汐留口から徒歩12分のところにあります。これぞ徳川将軍家ゆかりの庭園。承応3年(1654)、甲府藩主松平綱重(6代将軍家宣の父)が当地に別邸を建てたのが始まりで、将軍家宣の代に大幅な改修が行われたといいます。やはりここの魅力は東京湾の海水を引き入れた「汐入りの池」でしょう。御恥ずかしながら管理人はまだ行ったことないのですが、池にボラやセイゴ、ハゼなどが泳いでいるってなんか竜宮城の趣がありませんか(乙姫様はいませんが)。それに四季の花々や野鳥の宝庫としても知られ、水上バスの発着地にもなっています。浅草・両国およびお台場や葛西臨海公園などへはちょっとしたクルーズもおもしろいかもしれません。
新橋にはお江戸シリーズの他にも、鉄道唱歌の碑とSLのスタンプ(右)もあります。
鉄道唱歌は明治33年(1900)に大和田建樹の作詞で、駅前には鉄道唱歌の歌碑とSLのC58の動輪があります。さらに日比谷口のSL広場には、C11が静態保存されており、12時、15時、18時の1日3回汽笛が数秒間鳴るそうです(これもまだ聴いたことがないのです)。汽笛に耳をすませば、やはり新橋は「鉄道発祥の地」ということが実感できるのではないでしょうか。

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2007年01月05日

スタンプ物語4・浜松町駅

本日は浜松町。スタンプの色が赤になっていますが、たまたま駅に黒の朱肉がなかったのでしょう。赤とはいえ黒味を帯びています。どうしても黒で統一したい方は黒の朱肉を持参ください(ただし、他の色と混じってしまいますので、スタンプは押印後、きれいにインクをふきとりましょう)
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東京タワーの最寄駅が浜松町です。とはいえ北口から徒歩15分、約1kmありますので、東京メトロ日比谷線の神谷町駅か都営三田線御成門駅のほうが最寄といえますが……。
東京タワーといえば映画『ALWAYS三丁目の夕日』でもおなじみですが、昭和33年(1958)に竣工された高さ333mの集約電波塔です。昔は田舎の修学旅行で東京へ行くと、必ずとはとバスのツアーで立ち寄りました。ペナントや置物のカレンダーなど、ひと昔前のおみやげは懐かしいものです。タワーには高さ150mと大展望台と高さ250mの特別展望台がありますが、だいたい修学旅行では大展望台までしか登らせてくれません。特別展望台はさらに料金がかかってしまうからです。他にも蝋人形館やギネスワールドレコードミュージアム、トリックアートギャラリー、東京タワー水族館など楽しげな施設が目白押しです。ところでこの東京タワー、地上デジタル放送に対応した第2東京タワーの建設構想が持ち上がっており(候補地は墨田区押上)、2011年7月24日のアナログ放送終了とともにその使命をまっとうするものとみられています。その後も文化遺産として残されてゆく予定ですが、現役の東京タワーを楽しむのは今のうちでしょう。
東京タワーの東側にあるのが、徳川家の霊廟がある芝増上寺です。開山は明応4年(1393)で、慶長3年(1598)に現地に移転し、徳川家康および歴代将軍の手厚い保護を受けました。歴代将軍のうち2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂と6人が眠っています。ただし、墓所は通常非公開で、 4月上旬の御忌大会などの特別な日しか公開されません。毎年行きそびれていますので、今年こそは行こうと思っています。この増上寺、江戸時代には日光東照宮に劣らぬほどの絢爛さを誇ったといいますが、政教分離で境内の大半が芝公園となり、貴重な霊廟や五重塔なども戦災で失われてしまったそうです。それでもお江戸の華やかさを体感するにはおすすめのスポット。スタンプに描かれた大殿は昭和49年(1974)の再建ですが、その荘厳さを失っていません。
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2007年01月06日

スタンプ物語5・田町駅

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田町といえば「勝海舟・西郷隆盛会談の碑」。昭和55年(1980)に設置された「わたしの旅スタンプ」の絵柄にもなりました。このときは勝海舟と西郷隆盛の顔が描かれていたのですが、これまた全然似てませんでした(笑)。碑のほうでは西郷隆盛が「南洲(なんしゅう)」となっていますが、これは西郷の称号です。坂本龍馬の取材時に訪れたことがありますので写真もUPしておきます。碑は芝浦口(西口)から徒歩2分の第一田町ビルの脇に建っています。この付近は江戸時代、薩摩藩邸があった場所でした。
慶応4年(1868)の正月3日、大坂から京都へ入ろうとした旧幕府軍と薩長軍が衝突。これが2年にわたって繰り広げらる戊辰戦争の始まりです。しかし、鳥羽・伏見の戦いでは、銃火器に勝る薩長の前に旧幕軍はあっけなく敗退。大坂城に戻った前将軍・徳川慶喜は6日夜に大坂城から脱出し、天保山沖に停泊中の開陽丸に乗船。12日には江戸へ帰還してしまいます。どうやら朝敵になるのを恐れて戦いを放棄してしまったのです。これに勢いづいた薩長軍は官軍として東海道・東山道・北陸道に別れて江戸に進軍。慶喜は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示しましたが、あくまで武力討伐にこだわる官軍は江戸城総攻撃を3月15日と決めていました。旧幕府の陸軍総裁として全権を任された勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を西郷の使者として派遣し、3月13・14日の両日、高輪の薩摩藩邸で西郷と会談、江戸無血開城が決定しました。江戸城は4月11日に明け渡され、官軍と交戦派の彰義隊が衝突した上野戦争を除けば、江戸の街は戦火から救われたのです。ところでこの会談、どうしても西郷隆盛と勝海舟ばかりクローズアップされてしまいますが、来年のNHK大河ドラマ主人公の13代将軍家定正室・篤姫(天璋院)や14代将軍家茂正室和宮(静寛院)なども暗躍していますし、江戸城開城を最後まで拒んだのは篤姫(天璋院)でした。このあたりのことはまた後日書きたいと思います。
平和裏にことが進み、戦火から救われた貴重な江戸の文化史跡でしたが、77年後の太平洋戦争の東京大空襲によって大半が灰燼に帰してしまいました。そういう意味で250年もの間、天下泰平の世を保った江戸社会を見直すべきだと思うのです。
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2007年01月07日

『風林火山』第1回「隻眼の男」

連載の「スタンプ物語」をお休みして、いよいよ2007年NHK大河ドラマ『風林火山』が始まりましたので、管理人が当ブログで主題とするドラマの突っ込みどころを描きたいと思います。
はじめこの『風林火山』の予告を見たとき、1年間大丈夫かなと思って心配していましたが、なかなかよい出来映えのスタートを切りました。オープニングの音楽と自然の風景を駆ける武田騎馬隊がうまくマッチしています(『功名が辻』に比べたら)。まあ、歴史を重視して木曽馬などの在来国産のポニーを使って再現しますとさまになりませんので、サラブレッドやアラブに騎乗するのは歴史ドラマの「お約束」といえるでしょう。登場する乗馬には中央や地方競馬を引退した競走馬もいることと思われますし……。
気になる物語の始まりは天文4年(1535)の万沢口合戦でした。井上靖の原作や『甲陽軍鑑』では、勘助が登場するのは、信玄が国主となる天文10年(1541)以降なので、6年前からの時代設定。それでも勘助はすでに50近くになっていますが、今回の内野聖陽演じる勘助はどうみても30代、片足は不自由といいながらも、かなりアクティブに演じられています。女っ気のない勘助にミツという思い人の設定も(*^ー゜)b グッジョブ!! これまで演じられてきた老人勘助のイメージを払拭する内野勘助に期待しましょう。
気になる勘助の出生地ですが、井上靖原作と『甲陽軍鑑』の説を採用し、三河牛窪(愛知県豊川市)となっていました。勘助の出生地は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市)と三河国八名郡賀茂(愛知県豊橋市)の2説が有力ですが、両説とも牛久保(牛窪)城主牧野家の家臣大林勘左衛門の養子となるところで他の史料と合致します。ドラマでも勘助が「大林勘助」を名乗ったのはそのためですが、歴史の史料では大林家に嫡子が生まれたため、養家を離れるのは大永7年(1527)のことなので、多少時代設定が変えられています。まあ、ドラマだから歴史を忠実に再現するよりいいかもしれません。
最後の史跡紀行紹介では、いきなり信玄の本拠躑躅ヶ崎館跡(武田神社)と信玄出生地の要害山城を取り上げていましたが、ドラマのストーリーからみても万沢口古戦場を取り上げてほしかった気がします。この万沢口(山梨県南部町)は駿河と甲斐の国境に近く、番所(関所)が置かれたところなのですが、意外にも古戦場を示す史跡は残っていません。NHKもそのあたりを考慮して取り上げなかったのかもしれませんが。

最後に昨年11月に管理人が制作しました大河ドラマ歴史紀行の副読本を紹介します。


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『風林火山をゆく』
(英知出版) B5判 980円 ISBN4-7542-5606-9
2006年11月発行。12月2刷。2007年度NHK大河ドラマ『風林火山』の主人公・山本勘助生誕の地から終焉の地・川中島古戦場まで勘助69年の生涯と足跡を追いかけ、その実像に迫った歴史紀行。勘助・信玄ゆかりの史跡からグルメ・おみやげ・沿線の記念スタンプまで旅の情報満載! 旅ジャーナリスト会議代表かつ伊那市ふるさと大使森田芳夫氏ご推奨の一冊です。

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2007年01月08日

スタンプ物語6・品川駅

大河ドラマコーナーのため、1日お休みしましたが、再びスタンプ物語ということで本日は品川駅です。

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品川は東海道の最初の宿駅で、スタンプには歌川広重の「東海道五十三次」が描かれています。すぐ近くに海があるように江戸時代は品川駅のあったところはまだ海でした。実際の旧宿場町は駅から徒歩10分ほどの八ツ山橋からで、京急北品川駅に近い八ツ山コミュニティー道路には、200mほどのミニ東海道が再現されています。散策コースとなっている旧東海道は何の変哲もない商店街ですが、注意して路上観察すると壁に浮世絵が描かれていたり、遊郭跡などの碑が建っていたりと、歴史的な重みが感じられます。そのまま京急に並行して続く旧東海道を歩けば、品川本陣跡・品川神社・品川寺(ほんせんじ)などの名所・旧跡があり、うなぎ(荒井家)や品川餅(木村家)などの江戸の味を楽しむことができます。品川寺まで来たら京急の青物横丁駅が近いので、帰りは京急で品川へ戻りましょう。
ところで品川駅には改札を出た駅事務室に、お江戸シリーズ以外のスタンプが11個も保管されており、希望者は押すことができます(2007年1月現在)。右のスタンプは汐留貨物駅が健在だった昭和60年(1985)7月に九州まで乗用車を貨車で運搬したカートレイン(のちに浜松町・恵比寿駅始発に変更)のものですが、今はなき汐留駅のスタンプが押せるのは貴重。この他にも開業111周年記念(1983)、EXPO85サイエンストレイン展示記念(1985)、お座敷列車運転記念(1986)など、国鉄時代の遺構を残す記念スタンプが数多く残されています。こういうメモリアルもののスタンプは、普通は一定期間しか設置されず、押せる機会も非常に少ないのですが、大事に保管しつづけてくれるのはファンにとって嬉しい限りですね。

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2007年01月09日

スタンプ物語7・大崎駅

東海道・京浜東北と並行して走っていた山手線も品川から田端までは正式な路線区間として走ります。本日は山手線内に入った最初の駅・大崎です。

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スタンプの絵柄は、お江戸の史跡からはずれて「新駅舎とお台場」。スタンプは駅の顔といいますので、たしかに近年急速に様変わりした駅舎と線区の様子を描くのもよいPRになるでしょう。
大崎駅の新駅舎完成は2003年。2002年12月に東京臨海高速鉄道りんかい線天王洲アイル~大崎間の全線開業で、JR埼京線との相互乗り入れを開始。スタンプの副題に「埼京線お台場まで直通」と書かれているのはそのためです。さらに2001年12月に開業した湘南新宿ラインも当初は大崎を通過していましたが、りんかい線開業に伴い全列車が停車するようになりました。元々大崎は山手線の保守整備をする東京総合車両センターが隣接していたため、当駅発着の山手線電車が多いことで知られ、山手線で内外とも大崎以遠へ行く方は「なんだ大崎止まりかよ」と見送ったり、あるいは大崎で次の電車を待つなんてこともありましたが、いまやターミナルの要所として生まれ変わり、乗降客数も埼京線・りんかい線開業前と比べると2005年度で倍近くまで増えています。
大崎は江戸期には天領や大名下屋敷があったところですが、工場群と駅前再開発で急速に変貌を遂げました。それでもお江戸の史跡は開発の狭間に残されています。新東口から山手通りを右へ進み、目黒川を渡って山手線ガードをくぐり、東海道本線と山手線にはさまれたところに、タクアン漬を考案したと伝わる沢庵和尚や江戸中期の国学者・歌人で知られる賀茂真淵が眠る東海寺大山墓地があります。駅から徒歩7~8分のところです。お茶漬けに欠かせないダイコンのタクアン漬けは元々備蓄食として以前からあったといわれますが、3代将軍家光が沢庵和尚の漬物をたいそうお気に入ったようで、和尚の没後、墓参りをした際に「沢庵漬けとせよ」と命じたことから、「タクアン漬け」といわれるようになったといいます(『守貞漫稿』)。

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2007年01月10日

スタンプ物語8・五反田駅

本日は管理人が山手線内では一番よく利用する五反田駅です。スタンプも再度、手持ちの朱肉での押し立てホヤホヤです。

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絵柄は東口にある愛の母子像と池田山公園です。待ち合わせ場所で知られる愛の母子像は、昭和49年(1974)、東京五反田ライオンズクラブによって建立されました。像自体は子どもが今にもずり落ちそうでおかしいのですが、五反田の顔として古い2つのスタンプにも描かれています。この古いスタンプのほうは東口みどりの窓口に保管されており、係員に申し出ると押すことができます(2007年1月現在)。でも、スタンプを出してもらっても、後ろに切符を買う人が並んでいれば、脇によけて押して切符購入は譲ってあげましょう。極力、業務の邪魔はしないよう、管理人からのお願いです。
江戸の面影を残すものとしては、東口から徒歩15分のところに池田山公園があります。寛文10年(1670)に備前岡山藩池田家の下屋敷として下賜されたところです。高低差を活かした池泉回遊式の庭園は四季折々の花が美しい区民憩いの場。開園時間(9~17時、ただし7・8月は~18時)を制限しているため、整備も行き届いています。また、薩摩島津家の大名下屋敷のあったところは島津山と呼ばれ、清泉女子大学内には本館として、コンドル設計の旧島津公爵邸が現存します。
五反田は目黒川の谷間の低地で、名の示すように田畑の規模を表す五反(一反は10a、300坪)の田に由来します。地名は旧大崎村の小字で、駅が開設された明治44年(1911)のときは一面農地だったといいます。昔から通っていた中原街道は、江戸虎ノ門から平塚中原(神奈川県平塚市)に至る東海道の脇道ですが、最初は江戸への最短として、江戸入り当初の徳川家康が利用し、幕府の鷹狩りにも使われていました。駅北側のは三代将軍家光が鷹狩りの折に命名した雉子神社も残っています。のち東海道が幹線として整備されると、中原街道も通行量が激減しましたが、大名行列を避けられるため、沿道の農産物を最速で江戸に供給する物資輸送の道として利用されたといいます。

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2007年01月11日

スタンプ物語9・目黒駅

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うまく押せたスタンプのデータがなくて申し訳ないのですが、今回の目黒駅のスタンプは「爺々が茶屋」。歌川広重の「名所江戸百選」に描かれたものを再現しています。
目黒は江戸時代、将軍の鷹狩り場として知られ、また幕府の庇護を受けた目黒不動がありました。そして将軍が鷹狩や参詣の帰りに立ち寄る茶屋があり、3代将軍家光は百姓の彦次郎が営む茶屋を愛し、彦次郎に「爺、爺」と呼びかけたことから「爺々が茶屋(爺が茶屋ともいう)」という名がついたそうです。この茶屋に欠かせないのが落語噺に出てくる「目黒のサンマ」です。このあらすじを簡単に紹介すると、
「鷹狩で目黒に出かけた殿様が、腹が減ったところにサンマを焼く匂いが漂ってきたので、サンマを取り寄せてご飯のおかずにした。以来、殿様はサンマ中毒になり、家来にサンマを求めると、家臣たちは殿様の健康を気遣ってサンマを脂抜きのパサパサで出した。日本橋魚河岸で求めたサンマではあったが、これではうまいわけがない。殿様が『やっぱサンマは目黒(海から4kmほど離れた場所)に限る』というのがオチ」
この殿様のモデルが家光で、サンマを出したのが彦次郎といわれていますが、殿様は松江藩主松平出羽守という説もあります。「爺々が茶屋」のあった場所は目黒駅から15分ほど歩いた現在の目黒区三田2丁目の茶屋坂を登り切ったところに茶屋坂街かど公園があり、「茶屋坂と爺々が茶屋」の案内板が立っています。96年から始まった毎年秋に行われる「目黒さんま祭り」は、目黒駅から徒歩3分の誕生神社手前が会場。無料の焼きたてサンマが振る舞われ、寄席などのイベントもありますが、混雑必至で行列は1時間待ちになるそうです。
目黒には他にも甘藷先生で知られる青木昆陽(1698~1769)の墓がある目黒不動(正式には泰叡山瀧泉寺)や、隠れた人気スポットの目黒寄生虫館などもあり、散策が楽しめます。
最後に余談ですが目黒駅は目黒区になく、所在地は品川区上大崎にあります。山手線では他にも品川駅(港区高輪)にも見られます。代々木駅も旧千駄ヶ谷村だったのですが、こちらは区画整理で代々木一丁目となりました。
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スタンプ物語10・恵比寿駅

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縁起のよい駅名の恵比寿は、明治期に日本麦酒醸造会社(現・サッポロビール)が製造していたヱビスビールの商標からつけられた地名です。明治34年(1901)、ビール工場から出荷専用の貨物駅として開設し、旅客営業をはじめたのは明治39年(1906)。当初は下渋谷といいましたが、工場周辺を「ゑびす」と呼ぶようになり、昭和3年(1928)には駅周辺の地名も「恵比寿」に改められました。スタンプの恵比寿様の像は西口にあります。工場は昭和60年(1985)に都市化の開発に伴い、千葉県船橋市に移転。その跡地の再開発が91年からはじまり、94年にはサッポロビール(現・サッポロホールディングス)によって高さ40階(167m)の恵比寿ガーデンプレイスタワーが竣工されました。スタンプに描かれたガーデンプレイスまでは駅から動く歩道「スカイウォーク」で直結。サッポロビールの本社もここに置かれ、新鮮なビールが試飲(有料)できる恵比寿麦酒記念館も併設されているほか、38・39階には展望レストラン街が形成され、デートスポットとしても有名です。
今回のスタンプはお江戸ではないのですが、ガーデンプレイスとは反対側西口から徒歩10分のところに、江戸の大名13家が眠る祥雲寺(渋谷区広尾5丁目)があります。当墓地には筑前福岡藩祖黒田長政(1568~1623)の墓をはじめ、筑後久留米藩有馬家、丹波園部藩小出家、河内狭山藩北条家などの墓があり、戦国時代の医師として有名な曲直瀬道三(1507~1594)の墓もあります。
また西口から徒歩5分くらいのところに寛文4年(1664)から明治38年(1905)まで7基の庚申塔が建っています(恵比寿西2-11-7)。庚申信仰というのは60日ごとにある庚申の夜にうっかり寝てしまうとそのまま死んでしまうことがあると伝えられ、庚申の日は一晩中飲んだり食べたりしながら語り明かして眠らないように過ごし、その仲間を「庚申講」といいました。庚申講は平安期の清少納言『枕草子』にも登場するので、日本では古くから伝わっていたようですが、江戸期にはこれが民間に広まり盛んに行われていたようです。現在では廃れてしまいましたが、地方では親睦会に置き換えて庚申講を行っているところもあるようです。まあ東京でもこの伝統はしっかり受け継がれていますよね。学生時分は2か月に1回朝まで宴会なんて当たり前でしたから。もっとも社会人では翌日仕事にならない(もうその体力はない)のでやらなくなりましたが。

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2007年01月13日

スタンプ物語11・渋谷駅

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渋谷といえば、これまでの開業120周年(2005)スタンプのように必ずといっていいほど、忠犬ハチ公が描かれていましたが、お江戸シリーズということで東口徒歩5分の「金王八幡宮」です。江戸期には江戸八所八幡の一つとして崇敬を集めました。総漆塗りの現社殿は慶長17年(1612)、春日局が家光将軍決定の御礼として建立したといわれ、渋谷区最古の木造建築物。よく戦災から免れたものです。摩天楼のような高層ビルが建ち並ぶ喧騒の中に鎮座し、渋谷の街を見守り続けています。
渋谷の地名は、源頼朝の父義朝の腹心だった渋谷金王丸の姓に由来しています。ここに金王丸の一族渋谷氏の拠点・渋谷城がありました。神社自体は寛治6年(1092)、渋谷氏の祖河崎基家の創始でさらに500年以上前にさかのぼることになります。当初は元渋谷八幡宮といわれていましたが、金王丸の名声にちなみ現在の神社名になったそうです。
今回はこの渋谷金王丸にスポットを当ててみます。平治元年(1159)12月27日、平清盛に敗れた源義朝は、東国で再起をはかろうとして逃走。途中、義朝は家人の鎌田政家(正清)の舅にあたる尾張国野間(愛知県美浜町)の長田忠致を頼ることにしました。長田屋敷で新年を迎えて、出立しようとしていた正月3日、忠致は義朝をこのまま逃がすより、討ち取って平氏の恩賞に預かろうと画策。そこで武勇の誉れ高い義朝に朝風呂をすすめ、丸腰のところを3人の剛の者が襲うことにしたのです。しかし、入浴中の義朝には従者の金王丸が太刀を携えて控えていました。ところが用意周到に忠致は替えの服をそろえておらず、金王丸が服をとりに場を離れた隙に陰に潜んでいた長田の家来3名が湯殿に入り、義朝に襲いかかり、義朝は38歳で絶命したのです。服をとって湯殿に戻った金王丸は、たちまち3人を斬り伏せ、玄光法師とともに主君の仇を討とうとしたのですが、すでに長田父子は恩賞に預かるため、義朝の首を持って京都へ向かったあとでした。やむなく金王丸は野間を去り、義経の母常盤のもとを訪れて、義朝の最期を報告します。その後、義朝の菩提を弔うため、剃髪して僧侶となり諸国を行脚したといいますが、消息は不明で、全国に金王丸の墓が伝わっています。
また一説によれば、剃髪後は土佐坊昌俊と変名したといわれます。土佐坊は平家滅亡後の文治元年(1185)10月に頼朝の命を受け、京都の義経邸を襲撃し捕えられて斬られる人物です。もしこれが真実なら、前半生をみるとむしろ義経に親近感が湧きそうな気がしますが、敬愛する主君の子供同士が争うのをしのびなく、義経に討たれることを覚悟で志願したともとれます。『義経記(ぎけいき)』によれば、鞍馬で捕えられた土佐坊を義経は鎌倉へ返そうとしましたが、怖じることなく自ら死を願い出て斬られたといいます。
話が長くなってしまいましたが、渋谷駅のお江戸シリーズスタンプは、南口みどりの窓口内に設置されているのですが、他の国鉄時代のスタンプと開業120周年(2種)は(いずれもハチ公が描かれています)、保管されているので駅係員に申し出るしかありません(2007年1月現在)。混雑必至の渋谷駅ですが、それでも根気よく他の3つのスタンプもGETしましょう。

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2007年01月14日

『風林火山』第2回「さらば故郷」

第2回目で過去にさかのぼり、勘助の出生地は駿河富士郡山本村(静岡県富士宮市)であることが明らかになりました。まあ、山本という地名が残っているぶん、駿河説のほうがドラマにからみやすいですからね。ここで少年勘助(幼名源助)登場。すでに隻眼で片足が不自由になっています。勘助は疱瘡にかかる前は利発で美男だったと伝えられ、隻眼になる前に大林家に養子に入ったともいいます。このほうが勘助の不幸値をUPさせるのに効果的だったと思いますが。また隻眼になった原因として『名将言行録』ではイノシシに不覚をとったと記されています。ちょうど亥年なので、こちらの演出のほうがよかったようにも思えますが、ロケをするのも大変か? 野生のイノシシはかなり危険ですので。
さて、前回も書きましたが、勘助が牛窪(牛久保)の養家・大林家に戻ってくると、すでに実子勘兵衛が生まれており、もう元服して初陣までしています。しかも晩年に生まれた子なので、可愛がりすぎたのか軟弱な設定。しかも勘助が苦労してとった兜首(赤部下野守)は、実子勘兵衛の手柄に奪われる始末。哀れ勘助、せっかく気味の悪い生首を甲斐から三河まで運んだというのに……。
おまけに駿河に戻ってきたら、兄貞久は武田と内通している福島越前守に仕え、その内情を知る勘助は兄に襲撃され、「駿河を去れ」といわれます。ちょうどそのとき、武田家では勝千代(信玄)と次郎(信繁)が剣の試合をし、父信虎が次郎を寵愛しているのに、気づいた信玄はわざと負けてしまいます。このあたりは信玄と勘助、互いに不幸な者同士がいずれ共鳴する設定なのでしょうか。元服前の信玄が、信虎の名馬鬼鹿毛を所望し、信虎の怒りを買ったというのは『甲陽軍鑑』の話ですが、元々信玄びいきに書かれた書物ですので、信虎が信玄をどこまで疎んじていたかは疑問です。天文5年(1536)、信玄が元服するときも、室町幕府12代将軍足利義晴の「晴」の字をもらい、「晴信」と称していますし、正室に京都の公家(三条夫人)を迎えていますので、嫡子として扱われているのは事実ですから。
嗚呼、哀れ勘助、養家と実家から追われ、行き着く先は思い人ミツの葛笠村しかありません。でも、まだ頼れる場所があってよかったね勘助。この不幸設定、個人的には好きなのですが、あまり重いと他の視聴者がついて来れるかどうか。あの最悪だった『MUSASHI』のようにならないことを願うのみです。
今回の歴史紀行は静岡県富士宮市が紹介され、僕が昨年正月に訪れた山本勘助誕生地や、代信寺の勘助両親の木像を取り上げていました。それにしても勘助もうひとつの出生地の愛知県豊橋市や、勘助が養子時代を過ごした牛久保の愛知県豊川市は紹介されずに終わってしまうのでしょうか。勘助がお守りにしている摩利支天像は、愛知県豊川市の長谷寺に安置されており(現物は親指ほどの大きさしかありません)、当寺の念宗和尚とはずっと親交があった関係で勘助の墓もあるのですが。
このまま勘助の育った三河牛窪(愛知県豊川市)が史跡紀行から埋もれてしまうのも可哀想なので、僕の写真を掲げておきます。

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JR飯田線牛久保駅下車。
牛久保城跡(写真左)駅から徒歩2分。長谷寺・山本勘助の墓(写真中央)駅から徒歩8分。
他に今川義元の墓がある大聖寺も近い。あと豊川といえば豊川稲荷(写真右・豊川駅から徒歩5分)です。稲荷寿司もおいしいよ! 詳しくは管理人制作の『風林火山をゆく』(英知出版)を読んでね。

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2007年01月15日

スタンプ物語12・原宿駅

本日の原宿駅はスタンプのインクがなくてきれいに写っていません。すいません。再び押しに行こうと思っていたのですが、とうとう機会を得られないままになってしまったのです。

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絵柄は「木造駅舎と明治神宮」。原宿の駅舎は大正13年(1924)竣工で、都内では最古の木造駅舎です。都内の木造駅舎では、他に2番目に古い中央本線国立駅南口もあったのですが、こちらは連続立体交差事業で2006年10月に解体が始まり、12月までに撤去が完了しました。都内の変わりゆく風景――撮っておきたくても結局行けずじまいに終わったところもたくさんあります。ただ、原宿の場合は東側に聖地の明治神宮がありますので、都市開発も西側しかできず、今後も保存されてゆくでしょう。
東側に鬱蒼と茂る森が初詣で毎年最大の参詣客を誇る明治神宮です。本年度正月3が日は311万という目が回るほどの参拝客を集めました。これで29年連続トップだそうです。原宿の外回り線にある臨時ホームは、この正月の明治神宮参詣などに使われています。明治神宮の創建は大正9年(1920)で、明治天皇と昭憲皇太后が祀られています。ところで明治神宮の広大な境内(22万坪)を包む常緑樹や落葉樹の森は、太古の森を連想させますが、神宮ができる前は大半が農地や草地でした。江戸時代には加藤清正の下屋敷がありましたが、加藤家改易後は彦根藩井伊家の下屋敷となり、明治維新後に政府所管に移ったようです。大正4年(1915)から造林がはじまり、全国から約10万本の献木がなされました。こうして鎮守の杜として現在に至るわけです。この後世にも残る自然を創ったのは林学博士の本多静六で、他にも日比谷公園や大沼公園ほか国内の公園造成に多大な貢献をしています。まさに「国土づくりの神」といわれる方ですね。
原宿駅から代々木方面に向かうと天皇陛下専用のお召し列車の発着に使われる「宮廷ホーム」があり、その先に近代的な建物に囲まれて延命寺があります。すでに本堂や墓地の塀もコンクリートで、そこに押し付けられる形で庚申塔の石仏群が建っています。開発の波に呑まれながらも延宝8年(1680)や宝永7年(1710)などに造立された庚申塔だけが、江戸の生き証人になっているのです。

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2007年01月16日

スタンプ物語13・代々木駅

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山手線がいったん中央線と合流するのが代々木駅です。スタンプは「明治神宮北参道と近代ビル」。原宿に続いて明治神宮が描かれているのは、それだけ明治神宮が広い証でしょう。ちなみに当神宮には代々木口と呼ばれる西参道もあり、こちらは小田急線参宮橋が最寄になります。
北参道からだと明治神宮宝物殿に近く、こちらへ行かれる方は代々木下車が便利です。ただし、開館は土・日曜、祝日が中心で、平日は開館していないので注意。奈良正倉院の校倉造りを模した建物は大正10年(1921)に竣工され、2003年には東京都の歴史的建造物にも選定されていますので、一見だけでも価値はありますが。
もうひとつスタンプに描かれた近代ビルは2000年に竣工したNTTドコモ代々木ビルです。「近代ビル」とぼかしたのはビル名が長すぎるためでしょうか、あるいは使用許諾の問題があったのかもしれません。過去にスタンプに会社のロゴを入れて、後でその部分を削ったいわくつきのものがありましたから……。ニューヨークのエンパイアステートビルを思わせる当ビルは地上27階高さ240m。都内では東京都庁第一本庁舎に次ぐ2番目の高さを誇りますが、内部の大半は通信機器とサーバで埋め尽くされ、ドコモ傘下の携帯電話のメールやパケットデータの配信を行っています。よって強固なセキュリティシステムによってガードされ、部外者は立ち入りできません。
代々木は新宿との駅間が700mしかなく、新宿御苑にも近いのですが、こちらは隣駅の中央線千駄ヶ谷が最寄りとなるため、当駅でのお江戸史跡はこれ以上言及できないのも事実です。でも代々木といえば気になるのは、B級スポットとして有名な代々木会館です。代々木駅隣にありながら築50年以上になろうかという6階建のビルで、かつて『傷だらけの天使たち』(1974-1975)のドラマのロケにも使われたようですが、管理人も昔中国書専門の東豊書店に行ったとき、その魔窟ぶりに度肝を抜かれました。老朽化がひどく数年前から取り壊しが決まっていたようですが、テナント権利関係の複雑さから立ち退きが思うようにいかず、新築が遅れに遅れていたようです。昨年7月に行ったときは1階部分の『香蘭』はまだ営業していました。ラーメン250円、チャーハン350円のビックリ価格です。まさに『ALWAYS 三丁目の夕日』を思わせる古きよき昭和の雰囲気を味わえる聖地だったのですが、2007年1月現在でどうなっているのかわかりません。近々代々木に行く機会がありますので追信したいと思いますが。

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2007年01月17日

青春18きっぷで“スロートラベル”を楽しもう

本日は管理人以外の会員からの初投稿。記念すべき第一号は小関秀彦さんです。

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JRの格安切符の決定版「青春18きっぷ」が人気を集めております。一日2,300円でJRの普通列車が乗り放題となるため、格安旅行の定番アイテムとして“知る人ぞ知る”存在から徐々に一般層にも浸透してきました。旅行シーズンには同きっぷを題材とした刊行物も各社から出版され、レイルファンのみならず一般旅行者をも巻き込んだ静かなブームとなっています。旅好きが集まる本サイトをご覧の頂いている方の中にはご存じの方も多いかとは思いますが、ここでは本切符の利用方法をおさらいするとともに、その楽しみ方簡単にをご紹介します。
 青春18きっぷはそのネーミングから若者限定のイメージが強いのですが、年齢制限はなく大人も子供も利用可能(但し、ジパング倶楽部、学割などその他の割引との併用は不可)販売・利用可能期間は春・夏・冬の年3回となっており、販売価格は11,500円。1枚で5回使用することが出来、1回ずつスタンプが券面に押印されます。複数人数が同一行程で旅行する場合にも使用でき、その場合は人数分のスタンプが押印されます。
 片道71km以上、往復で141km以上乗車すればもとは取れるので、週末のちょっとした移動にも重宝します。また、ひたすら列車に乗り続けることを厭わなければ、高速バスをも遥かに凌駕する安価な移動が可能になるのです。

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 さて、この切符を語る上で欠かせない存在が、東京と大垣(岐阜県)を結ぶ夜行快速列車「ムーンライトながら」(写真)です。指定券(通常期510円)を事前に買い求める必要があるのですが(下り小田原以西は自由席の設定もあり)、充当されている車輌は特急用車輌でそれなりに快適に移動できるとあって大いに人気を集めています。下りの場合東京駅を23時43分発、大垣には5時55分に到着。本切符の有効期限は24時から翌日の24時までなので、日付の変わる横浜までは別途乗車券が必要になりますが、それでも3,000円ちょっとで東京から大阪まで行けるわけですから相当に激安です。列車では高速バスとは異なり通路を歩き回ることもできますし、もじ眠れなければ25分程度停車する浜松駅でコンビニに買い物に行くこともできます。
 さらに、「ムーンライトながら」から普通・快速を乗り継いでいけば大阪には8時、岡山には12時、福岡にも21時頃には到達できます(もちろん追加料金はかかりません)。どこかの温泉旅館のコマーシャルではありませんが、“乗れば乗るほど得をする”きっぷなのです。また、一部区間を特急で“ワープ”(この場合は特急券の他、乗車券も必要)したり、夜行快速列車で連泊するなどの裏技を駆使すれば、さらに面白い日程を組むこともできます。駅の中にはトイレや売店もあるので、気が向いた駅で途中下車を繰り返していけば国内旅行の面白さも再発見できるのではないでしょうか。
 ここ数年、あくせくした世相のアンチテーゼとして“スローライフ”なる概念が脚光を浴びていますが、青春18きっぷが人気を集めている要因にはコストパフォーマンスの良さに加え、効率最重視の新幹線で素早く移動するだけでは飽き足らない層が増えてきたこと(個人的には新幹線も大好きです。新幹線の魅力と楽しみ方についてはまたの機会に)も挙げられるあるのかもしれません。
 さて、最後に私のことを少しだけ書きます。父親の都合で引っ越しが多かった私は、何故かどこに行っても鉄道沿線に住むことになり、気が付けばどっぷり鉄道にはまっていきました。高校時代には故・宮脇俊三さん、種村直樹さんの本の影響を受け、日本の鉄道の全線完乗を志し、以来周遊券と青春18きっぷを利用した乗り鉄がライフワークとなりました。一度は全線完乗を果たしたものの、20代後半からしばらく海外の鉄道に浮気したこともあって、近年の新規開業区間には乗り残しが多くなり徐々にフラストレーションが溜まってきつつあります。そこで、今年は年末を目標に再び全線完乗を果たすことを目指すことにしました。もちろん乗るだけではなく写真と音も集めていこうと思ってます。その経過は随時本稿にてご紹介して参ります。今年は久しぶりに「18きっぷ」を利用することが多くなりそうです。

投稿者:小関秀彦
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2007年01月18日

新年早々

今年松の内に受け取った年賀状は約350通。外国人からのクリスマス・年賀カードが30通。
 旅ジャーナリスト会議のメンバーからの内容を拝見すると、新年早々旅へ出たり、編集作業や執筆活動に多忙の様子がよく分かる。

 会員の皆さんと同様、私も忙しく、1月早々ふるさと伊那市の市民大学講座へ講師として招かれ、12日にテーマ「ふるさとへの思い」を一時間半述べてきた。生徒は200人、まさしく私と同年代の人々。終わってから中高の同級生がヒョッコリ楽屋へ現れて、うろたえた。
「ふるさとへの思い」と言ういわば個人が感情のうちに秘めて、表現しにくいテーマを一般論として述べることはむずかしい。そのままテーマに沿って喋れば、自分の「ふるさとへの信仰告白」になってしまう。それじゃー誰も納得しないだろうと不安がいっぱいだった。
 話の流れとしては、①ふるさとという言葉の歴史と外国語での表現。②ふるさと感覚の目覚め。③私のふるさと、伊那市への思い雑感。④私にとっての未解決の問題(今の居住地を第二のふるさとと呼べるか、郷土を愛することは即国を愛することに通ずるのか)など。
 なお質疑応答の最後に、入笠山山頂に設置が提案されている風力発電30機について、私の意見を求める質問があった。三つの条件で「反対」と述べたとたん、会場のあちこちから拍手が湧きおこって、一瞬場の空気が引きしまったように感じられた。

 翌日の地元紙は「ふるさと大使森田さん 伊那のすばらしさ 市民大学講座で語る」という見出しで、大きく報じた。そして私の現在の経歴について触れ「現在は『旅ジャーナリスト会議』の代表を務める一方、観光評論家などとしても幅広く活動している」とあった。今年は当会が一般紙の活字に載る戦略を積極的に進めたいものだ。

 明日はクリスマスカードと一緒に送られてきた、私のことを写真付きで報じた12月21日付けの外国の新聞記事を紹介したい。どこの国のどんな新聞か――お楽しみに。

投稿者:森田芳夫
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2007年01月19日

私のことがオーストリア東チロル州の日刊紙(ドイツ語)に載りました。

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年が明けてもなお海外からのクリスマスや年賀カードが届いていますが、10日にオーストリア人メスナー氏から届いたカードに、私と家人のカラー写真入りの記事が載っている新聞が同封されていて、本当にビックリしました。
 昨年9月14日、インスブルックからパノラマ画家フィールキント氏のアルファロメオで遥々3時間、アルプスをトンネルで抜けて、東チロルのアイネート村へ行って来ました。そこで故ベラン画伯(1915-1999)の展覧会が開かれていたのです。ベラン画伯は20世紀を代表する山岳パノラマ画家で、生涯に約600点のパノラマ画をインスブルックで制作、アメリカのナショナルジオグラフィック誌からも制作を依頼されたほどの名声を馳せた人です。日本を舞台に、富士山、スキーの白馬、地図の街佐原などを描き、弟子のフィールキント氏は上高地、飛騨全域を描きました。
 1982年、私はオリジナル出版の『ベランのパノラマーアルプスとヒマラヤの世界』を企画、編集し、当時編集者として勤務していた実業之日本社から発行、この本は大英図書館や各国の大学からも注文がありました。

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 新聞は「東チロル時報」06年12月21日。見出しは「日本の出版人がベラン展へ」とあります。そして「展示企画者メスナー氏がこの著名な編集者の来訪を特に喜んだ」と報じています。会場は室内展示と戸外展示に分かれ、戸外展示の広場には石を並べた世界地図が広がり、写真はまさに日本の部分を指差している情景です。

さて、明日は旅ジャーナリスト会議の年誌『旅行主義』第4号の執筆テーマを何にするか、20日例会で検討する内容を巡って、欠席会員から寄せられた話題などを紹介しようと思います。

投稿者:森田芳夫
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2007年01月20日

年一回発行の会員誌『旅行主義』第4号、今年の執筆テーマはなに?

1年1回発行の会員総執筆の雑誌『旅行主義』は、今日的な「旅」をめぐる問題が何であるかを会員で検討し、そのテーマに即した内容や、旅、地域起しなどのルポ、紀行などを満載し、関係方面に幅広く配布しています。
 今年は6月3日(土)に予定されているセミナーと総会にあわせて発行日を決定していますが、今日開かれる1月の月例会でそのテーマが決まります。

 これについて、過日会員である伊佐九三四郎さんから葉書を頂きました。
 今南半球オーストラリアのコジオスコ山などへ登山に出かけているとのことですが、その内容をご紹介します。テーマは次の通りです。
 
①追跡・団塊の世代
②変わるか観光地
③どう変わる観光地
④追跡・団塊の世代ジュニア 
大きなとらえ方として
⑤旅はどう変わるか

 これらも大切な検討材料として今日検討され次号のテーマが決定されますが、『旅行主義』の各方面の反応は思わぬところから来ています。
 2号(2005年発行)の特集『市町村合併と観光』に寄稿した拙稿「『美濃』の馬籠に木曽節が流れる」が、馬籠(現岐阜県地籍・元長野県地籍)にある島崎藤村ゆかりの展示館「藤村記念館」の理事長の眼に留まり、昨年夏同様の主旨でいいからと執筆依頼がありました。
 それは同館発行の「藤村記念館だより」116号に1頁で掲載されました。私の主張の骨子は「観光パンフレットに見る行政の悪平等主義は、そう扱われた者が内側から壊して行くべき」というものです。

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 興味のある方にはコピーを差し上げますのでお申し出ください。

投稿者:森田芳夫
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2007年01月21日

『風林火山』第3回「摩利支天の妻」

森田代表の3日連続投稿などもあって、しばらく管理人はお休みさせていただきましたが、日曜は管理人担当ということで、『風林火山』第3回です。
今回は史実とはあまり関係なく、最後以外はまったりとした内容でした。勘助が思い人ミツのいる葛笠村に行くと、ミツが妊娠中。勘助の子が宿っています。一方、晴信(信玄)も父信虎に疎んじられ、放蕩三昧の日々を送ります。そして以前出会ったミツを侍女に所望しますが、原美濃守が葛笠村へ行くと、ミツのお腹はすでに大きく、晴信に召し出すのを断念。このあたりは信玄と由布姫、勘助の微妙な三角関係の伏線なのでしょうか。
しかし、まあ勘助、ミツと農耕して暮らしているうちに、箱庭で城の縄張り造っているものの、ミツに「こんなところで百姓している人ではない」と問いただすと、勘助は「そなたはワシの城じゃ」と思いっきり家庭に入っている。似合わね~。本当だったらミツが「ワタシを捨ててでも天下に名をお残しください」と言い、勘助は黙って去っていくほうが実像に近いのに。実際の勘助の子としては、晩年に原美濃守虎胤の姪か妹を娶り、三男一女がいたとされます(新城市黒田の山本家系図)。文化年間(1804~18)に成立した『甲斐国誌』には、天正3年(1575)の長篠の戦いで、勘助長男の勘蔵信供が討死したと記されており、年齢を推察すると、勘助に子ができたのは1550年代とみられます。まあ、それ以前にも子がいたかもしれませんが、信玄に仕官して知行をもらうまでは所帯をもつなど難しいことだったでしょう(今回はミツのヒモになっていますが)。
貧しくとも幸せな日々を送る勘助夫婦に新たなる魔の手が。信虎が鹿狩りに出かけた際、信虎が鹿を射ようとしたまさにその瞬間、タイミング悪くミツの物音に気づいて鹿は逃げてしまい、怒りのあまり信虎はその矢先をミツに向けて放つというところで次回に続きます。
歴史紀行は今回愛知県豊川市が紹介されていました。当ブログでは一週間前の第2回で紹介しており、まさに予測が的中したといえましょう。今回のような史実にない設定ですと、そのドラマの舞台とは関係のない土地を紹介せざるを得なくなるのが辛いところです。甲府市も何度かに分けて紹介されることでしょう。でも、もうひとつの生誕地で知られる愛知県豊橋市賀茂町は紹介されないのかな?
ということで管理人の写真から先に愛知県豊橋市賀茂町を紹介します。

kansukeseitanchi.jpg honganji.jpg kansukehakuto.jpg

JR飯田線豊川駅からタクシー。
豊橋市賀茂町字出口には山本勘助の生誕地の碑(左)があり、近くの菩提寺である本願寺(中央)には、勘助両親の墓も安置されています。またこの付近は勘助子孫の方が品種改良した勘助白桃(右)の産地でも知られ、甘くておいしいと評判。毎年夏場に出荷されます。クルマ以外のアクセスが不便なのですが、豊川市の地域文化広場(9~17時、月曜休)では、無料のレンタサイクルがあり、史跡散策の強い味方になってくれます。

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2007年01月22日

スタンプ物語14・新宿駅

6日ぶりになりますが、本日は会員からの投稿がなかったので、管理人の埋め草趣味にお付き合い願います。

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スタンプはお江戸シリーズでなく、明治18年(1885)3月1日に開業した新宿停車場が描かれています。JR山手線の前身である日本鉄道赤羽~品川間が開業したときに設けられた駅で、ずいぶんと殺風景ですが、当時は町はずれの角筈に設けられたため、利用客は少なく雨の日などは利用客0人だったこともあったようです。その後、甲武鉄道(現在のJR中央本線)が立川まで開業。その後も京王や小田急など私鉄の乗り入れが相次ぎ、一大ターミナルに変貌しました。2005年度の乗降客数はJRで約151万人で第1位。各社総合では約347万人で世界第1位を誇りますから、このスタンプは駅の歴史を語るうえでは貴重な史料といえるでしょう。
ただ、新宿はお江戸とも縁が深く、甲州街道の宿駅で栄えました。甲州街道は当初、日本橋から高井戸まで4里(約16km)あり、起点と宿場までの距離が長いため、多くの旅人が難儀していました。そこで元禄11年(1698)に設けられたのが内藤新宿です。信州高遠藩主の内藤氏の中屋敷(現在の新宿御苑)があったため、こう呼ばれました。新宿駅西口から出て新宿3丁目から四谷4丁目にかけての通りには、内藤家代々の墓所と都内最大の閻魔像で知られる太宗寺、奪衣婆で有名な正受院、江戸後期の戯作者・恋川春町の墓のある成覚寺、江戸三名鐘のひとつ「時の鐘」のある天竜寺など、見どころがたくさんあります。また約60年前から続く追分だんご本舗は、甲州街道と青梅街道が分岐する「追分」の名を残すだんごの店で、だんごを頬張れば往時の街道旅の雰囲気を味わうことができます。
新宿にはもうひとつ「都庁とあずさ号」のスタンプ(右)があります。1999年に新宿指導センターが独自に製作したもので、管内の山手線・中央線の駅に設置されたのですが、その後支社統一印設置のため、現在ではほとんどの駅で消滅しました。お辞儀している駅員は新宿地区のマスコット「しんちゃん」です。このスタンプは2007年1月現在、同じものが2カ所に保管されていますが、東口みどりの窓口は結構並ぶことになるので、おすすめは南口インフォメーションセンターのほう。きれいな受付嬢が応対してくれます。

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2007年01月23日

スタンプ物語15・新大久保駅

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新大久保駅のすぐ西側に皆中(かいちゅう)稲荷神社があります。この付近は徳川幕府の将軍警護を目的とした鉄砲組百人隊の屋敷があったところで、現在も「百人町」の地名が残っています。創祀は天文2年(1533)と古く、鉄砲組与力がこの稲荷神社にお参りをしたところ、射撃が百発百中となり、「皆中(みなあたる)の稲荷」と呼ばれるようになったといわれています。その後、射撃だけではなく「当たる」ものに御利益があるということで、現在は「ギャンブルの神様」として親しまれているそうで、馬券や宝くじを当てたい方は一度参拝するとよいかもしれません。この皆中稲荷神社で隔年の9月下旬に行われるのが、スタンプにも描かれている「鉄砲組百人隊」による出陣行列です。
昭和36年(1961)に江戸幕府鉄砲組百人隊保存会によって復活。甲冑に身をまとった鉄砲隊百人組が法螺貝の音とともに皆中稲荷神社から百人町を行進し、数箇所で実際に火薬を使った火縄銃の試射が行われます。現在は新宿区の無形民俗文化財に登録されており、すさまじい轟音はまさに迫力満点。本年度はこの儀式が行われる年ですので、ぜひお忘れなきように。
ところでこの鉄砲組百人隊屋敷は、時代考証家・名和弓雄氏の説によると、万が一、将軍が江戸城を追われた際に地下坑道で甲州へ抜ける退避路が設けられており、将軍警護のための要塞の役割を果たしたといわれます。皆中稲荷神社の拝殿にも抜け穴があり、江戸城の半蔵門から通じているといわれ、半蔵門といえば伊賀衆の頭領・服部半蔵に由来しています。鉄砲組百人隊というのは忍者で知られる伊賀・甲賀衆や、鉄砲の扱いに慣れていた雑賀衆および焔硝・弾丸の製造保管・配給を行った玉ぐすり方の青山組などで構成されていました。また、8代将軍吉宗が創設した幕府お抱えの忍び「お庭番衆」にも、吉宗の故郷・紀州から伴ってきた忍びのほかに、伊賀・甲賀衆がいたとされます。
江戸城は慶応4年(1868)に戊辰戦争で無血開城されたので、鉄砲組百人隊の出番はありませんでしたが、定期的に軍事演習があったことは確かで、その伝統は今も受け継がれています。
なお、新大久保駅周辺はコリアンタウンと呼ばれ、韓国料理の店がたくさん並んでおり、韓流ブームでも賑わいをみせています。また、中央線大久保駅とは、大久保通りで200mほどしか離れておらず、そのまま大久保まで歩いても5分とかかりません。スタンプコレクターの方はこちらにも立ち寄るといいでしょう。

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2007年01月24日

スタンプ物語16・高田馬場駅

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高田馬場の地名は、寛永13年(1636)に幕府によって造られた馬術の訓練場に由来しています。家康6男で越後高田藩主の松平忠輝の生母高田殿の庭園があったことから「高田」ととったとも、一帯が高台であったことから「高田」と呼ばれていたともいいます。実際に高田馬場があった場所は旧戸塚村で、現在の西早稲田3丁目あたりですから、駅からは1kmほど東にあり、明らかに東京メトロ東西線早稲田駅のほうが最寄となります。スタンプに描かれていますのは、毎年10月に行われる流鏑馬です。鎌倉期の狩装束に身を包んだ射手が、約200mの直線を馬で疾走しながら3つの的を射抜いていく馬術で、西早稲田2丁目にある穴八幡神社の境内を出発した馬場行列は午後2時頃、戸山公園内の会場で流鏑馬を披露します。外国人にも人気の高い日本伝統行事。新大久保の鉄砲演舞同様、要チェックです。
また江戸の史跡として近くには戸山公園もあります。園内にある箱根山は山手線内で一番高い44.6mの人造の小山で、寛文年間(1661~73)に尾張藩主徳川光友によって回遊庭園が造られました。起伏のある公園は憩いの場となっています。
高田馬場には1999年に新宿指導センターが独自に製作したスタンプ(右)も残っています。こちらに描かれているのは、早稲田大学と水稲荷神社境内に建つ堀部安兵衛武庸加功績跡の碑です。講談でもおなじみの「決闘高田馬場」です。元禄7年(1694)2月11日、御前試合で菅野六朗左衛門に負けた村上庄右衛門が、高田馬場で再決闘を申し込んだが、村上は菅野を騙し討ちにしようと、仲間を集め菅野は苦戦します。そこに菅野と叔父・甥の契りを結んだ中山安兵衛が助けに駆けつけて形勢逆転。不利になった村上らは逃げ出します。この安兵衛の武勇を聞いた赤穂藩士の堀部弥兵衛が娘婿に迎え、赤穂浪士の一人堀部安兵衛となるのです。

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2007年01月25日

スタンプ物語17・目白駅

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目白駅のスタンプは「目白ろまんすテーション」。2000年7月に完成した3代目駅舎です。開業は明治18年(1885)で、大正8年(1919)に改築され、全国初の橋上駅舎となりました。早稲田と同じ学生の街なのですが、こちらは学習院大学・川村学園女子大学と付属の小中高があり、女子学生であふれています。周辺は学校敷地が多いのですが、少し足を延ばして15分ほど歩けば、駅の西側におとめ山公園があります。おとめ山は「乙女山」でなく「御留山」と書き、江戸期は徳川家の狩猟地で一般の立ち入りが禁止されていました。敷地内の傾斜地から湧水が出ており、この清水を利用してホタルの養殖も行われ、毎年7月にはホタル鑑賞会も開催されます。まさに都心の秘境ですね。さらに道路を隔てた東側にも池があり、カルガモの親子の姿も見られます。公園を東西に分ける道路には「カルガモ横断注意」の標識までありますから微笑ましいですね。
反対に駅から目白通りを東へ500mほど歩くと都電荒川線が走っており、安産・子安で有名な鬼子母神がありますが、これは次のネタになってしまいますので、今回は割愛します。ちなみに目白の地名は江戸五街道守護の五色不動(目白・目赤・目青・目黄・目黒)のひとつ目白不動に由来しており、目白不動の金乗院は、この先の豊島区高田にあり、駅から歩くと25分ほどかかります。まあ目白通りにはバスも走っていますので、鬼子母神のバス停で降りれば近い(徒歩7分)ですが。

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2007年01月26日

スタンプ物語18・池袋駅

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池袋のスタンプは「鬼子母神とすすきみみずく」です。鬼子母神は昨日の目白駅からも近いのですが、池袋でも東口から明治通りを南下すれば徒歩10分程度です。このスタンプには池袋~雑司ヶ谷間をLRT(超低床式路面電車)で結ぶ構想への意図が込められているかもしれません。まだ未知数ですが、実現すれば鬼子母神へのアクセスもグッと便利になりますから。
本当は都電荒川線に鬼子母神前の停留場があり、そこからが至近なのですが、樹齢数百年のケヤキ並木の参道の先に法明寺鬼子母神堂があります。鬼子母神とはインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供(500人とも1000人ともいわれる)を産みました。しかし、性質は暴虐で近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。そこでお釈迦様が末の子を隠して、我が子を失う母の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させたとのことです。
鬼子母神堂は永禄4年(1561)に山村丹右衛門が現在の目白台付近で鬼子母神像を掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりで、天正6年(1578)年に現在地に移ったといいます。現在の社殿は寛文4年(1664)の建立で、豪華な彫刻が施されており、東京都指定有形文化財に指定されています。境内に一軒ある駄菓子の『上川口屋』は江戸時代からの老舗で、毎年10月16~18日に行われる御会式大祭では『名所図会』にも描かれている郷土玩具すすきみみずくを買うこともできます。1800年頃、病の母を看病する久米という娘が、家が貧しいため薬も買えず、鬼子母神にお祈りを続けていたところ、ある夜、夢枕に突然蝶(鬼子母神)が現れ、「すすきみみずく」の作り方を教えてくれました。これを門前で売ってみたところ、飛ぶように売れて母親の薬も買えるようになり、母の病気も治ったという孝行物語です。
また、毎週日曜と縁日(8・18・28日)鬼子母神境内の大黒堂では、おせん団子も売られます。おせん団子は鬼子母神に千人の子供がいたことにあやかり、たくさんの子宝に恵まれるよにという願いに由来し、江戸期には鬼子母神参詣のお土産でも知られていました。おせん団子は近年復活したようです。
ところで池袋は現在でこそ新宿の次に乗降客数が多いのですが、明治28年(1895)に日本鉄道品川~赤羽間が開通したとき、何もない農村地帯だったため駅が設けられませんでした。明治35年(1902)にようやく信号所として開設し、その後、現在の山手線となる田端への支線を分岐する際に、当初予定されていた目白での分岐を、地形の問題や住民の反対で池袋に変更されたため、翌年に駅として昇格しました。しかし、その後も駅の東側に広大な巣鴨プリズンがあったため、思うように発展しませんでした。サンシャインシティや東武・西武の百貨店など派手な変貌を遂げるのは戦後のことです。
池袋にはそんな発展を記すような1985年9月30日の埼京線開業記念スタンプ(右)のほかに1988年3月13日の東北・高崎線の電車乗入記念スタンプ(2種類)が東口駅長室に保管されています(2007年1月現在)。もっとも駅長室までスタンプを押しに訪ねてくる客も稀のようなので、管理人が訪れたときは、ずいぶんと気持ちのよい応対に感激しましたが。

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2007年01月27日

スタンプ物語19・大塚駅

今週は結局管理人の執筆だけで終わってしまいました。会員の皆さん、例会で打ち合わせした件の約束を守り、皆で協力していきましょうよ。

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スタンプの絵柄は「駅舎と都電」です。山手線内では唯一都電荒川線に接続しており、大塚駅前停留所があります。また駅は高架にもかかわらず、北口と南口が改札で分断されており、通り抜けるには都電のホームを歩くしかありません。現在は自由通路の建設が進められているようですが。
この都電荒川線は三ノ輪橋~早稲田間12.2kmを走る路面電車です。かつては都内に縦横無尽に張り巡らされ、41系統最大総延長213kmにおよんだ交通網でしたが、モーターリゼーションと東京都交通局の経営悪化によって、1967年から1972年にかけて181kmの区間が廃止されました。都電荒川線は27系統と32系統を統合して、現在に至っています。当区間には30もの停留場が設けられ、下町や江戸の史跡散策には最適な路線です。料金は均一160円。1日乗車券は400円という格安で、3回乗ればモトがとれてしまうすぐれものです。のんびり散歩するなら都電に乗って移りゆく町の風景を楽しむのもいいかもしれません。沿線には荒川遊園地・飛鳥山公園・高岩寺(とげぬき地蔵)・雑司ヶ谷霊園・鬼子母神など見どころがたくさんあります。
大塚駅周辺の史跡としては、南口徒歩2分のところに天祖神社があります。大塚駅は文京区でなく豊島区にあり、現在は豊島区南大塚となっていますが、旧来は巣鴨と呼ばれていました。ここが旧巣鴨村の総鎮守でした。鎌倉期の元亨年間(1321~23)創建と伝わり、境内にある樹齢600年といわれる夫婦銀杏は太平洋戦争の際、空襲で焼け焦げになったのに、いつの間にか青々と葉をしげらせて生き返ったといいます。自然の生命力には感服しますね。また同じく南口から徒歩10分のところには東福寺があります。石段の参道には明治37年(1904)に建てられ道標の役割を果たした庚申塔や、付近に牧場があったことにちなむ「疫牛供養塔」も建っています。

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お詫びと訂正
事務局から送信しました2007年の1月例会報告で、新規会員の大谷氏がブルボンクリエイションの非常勤スタッフとなっていましたが、WEB制作およびPCメンテナンスの誤りで、大谷氏は現在アパレル会社通販部門に勤務しております。会員限定報告のほうで訂正いたしましたが、大谷氏には深くお詫び申し上げます。
あと『フリーきっぷガイド』2007年度版のブルボンクリエイションの問い合わせ住所も変わっています。詳しくは「会員限定報告」をご覧ください。

2007年01月28日

『風林火山』第4回「復讐の鬼」

いきなり衝撃的な信虎の乱行が描かれていましたね。勘助の思い人ミツに向かって矢を放ち、かろうじて摩利支天にお守りに当たって助かったものの、信虎は妊娠中のミツの腹を裂き……さすがに画面には写せませんが。この信虎の乱行は伝説の類なのですが、乱行で妊婦の腹を裂くというのは、豊臣秀吉の養子秀次や家康次男秀康の子松平忠直にも見られ、乱行に共通する行為ですが、もちろん一級史料には見られず、後世の創作と考えられます。
しかし、ミツの縁者関係を板垣信方が召し抱えるという設定にはちょっと無理が。そんな怨みをもつ人間を召し抱えれば、寝首をかかれる可能性が高くなるだけです。勘助なんかいきなり信方に斬りつけていますし。「無礼討ち」されてもおかしくないくらいです。結局、ミツに片思いしていた平蔵は甲斐を去り、勘助とミツの兄伝助と村人の太吉は勘助と一緒に武田家に仕えることになります。信玄の器量の大きさを強調したいような設定ですが、勘助は初対面では「青二才が」と怒って去っていきます。
勘助はその後、板垣に今川の間者として潜伏するように命じ、勘助はそのまま今川に情報を漏らし武田を滅ぼそうと画策します。この設定もすごく変。わざわざ寝返る人間を相手に送り込むでしょうか。それとも武田側も「埋伏の毒」で、勘助を逆利用しようとでもいうのでしょうか。
そして天文5年(1536)3月17日、駿河の当主今川氏輝と弟の彦五郎が急死。氏輝の弟にあたる正室寿桂尼の子で出家していた梅岳承芳(のちの今川義元)と、側室の子で出家していた玄広恵探との家督争いとなる花倉の乱へと発展していきます。まさかこの今川の内乱にまで勘助が首を突っ込む設定とは……ということは間接的に今川義元の人質であった松平竹千代(徳川家康)や織田信長あたりとも絡むのでしょうか。関西エリアの視聴率をとるには効果的ですが。
史跡紀行はいきなりとんで山梨県北杜市の山本勘助の子孫と伝わり、屋敷に勘助の墓がある山本勘助屋敷を紹介していました。これは勘助が信玄に正式に仕える天文12年(1543)以降に知行を与えられたと伝わる場所なのですが、ドラマではすでに勘助が仕官という形になっているので紹介したのでしょうか。うーんそれにしてもドラマとの関連性が薄い。この山本勘助屋敷墓は、勘助子孫の方の個人宅でこれまで一般にもほとんど知られていなかったのですが、昨年夏から公開されるようになったということです(墓参料100円必要)。最初訪れたとき、個人宅の所蔵品を拝観させてもらえるなんてビックリしましたが、そればかりか記念スタンプまで用意している力の入れようです。の勘助スタンプは家に伝わる肖像から起こしたもので、勘助が絵柄になったスタンプとしては全国唯一のものではないでしょうか(個人宅なので都合により墓参りできない場合もありますので予めご了承ください)。

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2007年01月29日

サヨウナラ鹿島鉄道

本年3月31日を以て、茨城県のローカル私鉄・鹿島鉄道が約83年間の歴史に幕を閉じることになりました。マイカーの爆発的普及、高校生の減少、貨物輸送の廃止などの様々な逆風にも堪え続けてきた同鉄道ですが、親会社の関東鉄道がつくばエクスプレスの開業によるバス事業の不振で同鉄道に対する支援を打ち切ったことが決定打となり、住民の存続運動も空しく昨年末、廃止が正式に決定したのです。
 私も廃止フィーバーの起こる前に一度ゆっくり乗車しておきたいと思い立ち、先週末鹿島鉄道の“乗り鉄”を楽しんで参りました。

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 同鉄道を訪れたのは約20年振りですが、鹿島鉄道石岡駅に至る跨線橋やホームの雰囲気は当時とほとんど変わっていません。さっそく土・日曜、休日のみ発売の「鹿島鉄道一日フリーきっぷ」(鹿島鉄道全線が乗り放題で1,100円)を入手。石岡と鉾田の片道運賃が1,080円なので、これはなかなかの“お値打ち切符”。乗車した車輌はKR500形という平成初期に製造された気動車。前回同線に訪れた際に乗車したのはキハ600であったので、本形式には初めての乗車ということになり気分も盛り上がります。ともすれば味気ない存在と思われがちなこの種の軽快気動車ですが、シートピッチも広く身体の大きい私にとっては快適な車輌です。また、大きな側窓からは車窓風景がじっくり味わえます。
 列車は石岡駅を出発後しばらく国道と併走。しばらくは郊外型量販店や分譲住宅が建ち並らぶ都市近郊の風情なのですが、常陸小川を過ぎると車窓は一変。田畑や雑木林が増えのんびりムードが溢れてきます。さらに、桃浦からは車内から霞ヶ浦が望めるなど、同鉄道の車窓風景はなかなかバラエティに富んでいます。霞ヶ浦が遠ざかってからは運転台横の立ち席スペースに陣取り、今度は前面風景を堪能。あっという間に55分の乗車時間は過ぎていきました。20年前は何気なく“斜め乗り”したので、これといった印象が残っていなかったのですが、今回は終始集中していたこともあってか、いつになく充実した旅行を満喫できました。

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 なお、鹿島鉄道にはKR500の他に、夕張鉄道(現存せず)出身のキハ714、元加越能鉄道加越線(現存せず)出身のキハ430(写真左)、元国鉄キハ07の改造車であるキハ600(写真右)など希少性の高い車輌が在籍していますが、残念ながらこれらの車輌も同鉄道とともに鬼籍に入ることが決定しました。 
 鹿島鉄道では現在記念硬券入場券やDVD、鹿島参宮鉄道時代の復刻懐中時計など“さよなら記念グッズ”を販売中です。詳しくは同鉄道ウェブサイト(http://www.katetsu.co.jp/)で。

投稿者:小関秀彦
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2007年01月30日

スタンプ物語20・巣鴨駅

うーん、夜半になるとレンタルサーバーの回線が集中するのか、つながりがものすごく悪い!

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スタンプは「桜ととげぬき地蔵」。桜というのは駅北口から徒歩5分の染井霊園のサクラです。日本の国花である代表的なサクラ・染井吉野は、江戸末期から明治初期にかけてこの旧染井村で、造園師や植木職人によって育成されていた吉野桜(ヤマザクラ)が発祥です。のちの調査でヤマザクラとは別の品種とわかり、明治33年(1900)に『日本園芸雑誌』で「染井吉野」と命名されました。これが明治から戦後にかけて日本全国に植樹され、サクラの開花全線にもこの染井吉野が基準になっています。霊園内には約100本の染井吉野が植えられ、サクラの名所としても知られますが、墓地には『智恵子抄』の高村光太郎・智恵子夫妻や、明治の小説家・二葉亭四迷などの著名人も眠っています。また、近くの本妙寺には遠山金四郎一族、慈眼寺には芥川龍之介・谷崎潤一郎の墓もあり、お参りに来る人があとを絶ちません。
染井霊園のすぐ西に「とげぬき地蔵」で有名な高岩寺があります。扶岳太助が慶長元年(1596)に江戸神田湯島に創建し、明治24年(1891)に現在の巣鴨へ移ってきました。「とげぬき地蔵」の由来は、江戸の正徳年間(1711~16)に毛利家の女中が誤ってトゲを飲み込んだ際、地蔵の御影(肖像)を飲み込んだところ、トゲが抜けて外に出てきたそうで、以来、病気やけがの治療にきく地蔵ということで、多病のお年寄りが来るようになりました。この延命地蔵尊は秘仏のため非公開ですが、御影の札が1枚100円で売られており、お守りで身につけるもよし、細かくちぎって飲むもご利益があるといわれています。また、洗い観音と呼ばれる観音様は、自分の治癒したい部分を濡れタオルで拭くとご利益があります。昔はタワシでこすっていたのですが、磨耗が激しいため、初代観音様は2代目観音様の後ろの祠に納められています。
参道にあたる巣鴨地蔵通り商店街は、毎月4のつく(4・14・24日)は縁日となり、露店で賑わい、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる所以もそこにあります。高齢者向けの洋品や衣料品の店があるほか、甘味処・食事処・和菓子屋なども建ち並び、最近は若い女性にも人気があるようです。

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2007年01月31日

スタンプ物語21・駒込駅

本年度元旦から始まった旅じゃBLOGも1カ月を迎えました。管理人の負担がいっぱいでこのまま続くかどうかは、その他会員の投稿にかかっています。

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スタンプは「六義園とつつじ」です。六義園は南口から徒歩7分。徳川5代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保が元禄8年(1695)に駒込の地を拝領し、7年がかりで下屋敷と「回遊式築山泉水庭園」を造り上げました。「六義園」という名称は、中国の古い漢詩集『毛詩』の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来しています。まさに吉保の文学的造詣の深さを象徴する庭園といえます。明治21年(1888)に、三菱創設者の岩崎弥太郎氏が購入し、昭和13年(1938)に東京市に寄贈されて一般公開されることになりました。昭和28年(1953)には国の名勝に指定されています。桜や紅葉など四季折々の風景が楽しめる庭園ですが、なかでもツツジは有名で、4月下旬~5月上旬はヤマツツジ・ドウダンツツジ・リュウキュウツツジなどさまざまなツツジに彩られ、「ツツジまつり」も行われます。
駒込といえばもうひとつ忘れていけないのが、北口徒歩10分ほどのところにある旧古河庭園です。こちらは京浜東北線上中里駅が最寄で、スタンプも上中里駅で紹介されていますので、詳細は割愛しますが、4月中旬~下旬はツツジが見頃です。
六義園や旧古河庭園に見られるツツジは、まさに駒込を代表する「花」といえますが、もうひとつツツジで見逃してはいけないのは駒込駅です。明治43年(1910)の駒込駅開業を記念して、近隣の植木屋さんによって植えられたもので、ホームに立つと線路沿いに彩られるツツジが乗客を和ませてくれます。

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