« ヨーロッパ鉄道心の旅2-10(1) | メイン | ヨーロッパ鉄道心の旅2-10(2) »

『篤姫』第31回「さらば幾島」

 安政の大獄がエキサイトし、禍は篤姫の二度目の養家である近衛家にもおよびます。養父の近衛忠煕は落飾謹慎し、老女の村岡は捕えられて江戸送りに。天璋院は将軍家茂に村岡の赦免を求めようとしますが、滝山に止められます。将軍といえど実権は井伊大老に握られているようでこのあたりはもどかしい。
 そこで天璋院は村岡に婚儀の際に使用した白装束を渡し、これで30日後に放免されます。取り調べにあたった松本藩主戸田光則が出てきましたね。最後の戊辰戦争で将軍家を裏切ってしまう人ですが。村岡放免の役を果たした幾島はお暇を申し出て、大奥を去ることになります。鹿児島時代から養育に尽くしてきた幾島との別れ。幾島は今一度婚儀の際に着た衣装を再度着てほしいと願い、幾島の泣き顔に天璋院は「ひどい顔じゃぞ」と云って別れを告げます。
 この幾島、実際に大奥を去ったのはいつか分からないようですが、奥女中分限帳の女中一覧には行く島の名はなかったようで、いつの間にか歴史の舞台から消えてしまったようです。こういった女中ですから没年も不詳なことが多いのですが、なんと本年度になって幾島は明治3年(1870)に東京で没したことが明らかになったようです。享年63。江戸で没したということは江戸開城後に天璋院と再会したのでしょうか。そのことはドラマで描かれるのか気になりますね。
 一方、薩摩では再び実権を握った斉興が没し、ようたく忠教(久光)が国父として台頭します。藩主は茂久(忠義)ですが、桐野先生の『膏肓記』でも指摘のように、忠義と改名するのは慶応4年(1868)のことですから、本来ならこの時点では茂久なのですが、歴史舞台では忠教(久光)中心で動くので割愛されてしまったのでしょうか。

 史跡紀行では京都市右京区の村岡ゆかりの史跡を紹介していました。嵐山には村岡の像もあるんですね。残念ながら嵐山渡月橋も直指庵も未訪の地ですので、写真もスタンプもまたまたありません。名古屋より西は本当にほとんど行っていない有り様です。

投稿者:管理人
【人気blogランキングへ】

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://tabija.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/524

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

>>当会議について

About

2008年08月03日 01:13に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「ヨーロッパ鉄道心の旅2-10(1)」です。

次の投稿は「ヨーロッパ鉄道心の旅2-10(2)」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。