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2009年03月 アーカイブ

2009年03月01日

『天地人』第9回「謙信死す」

 日曜というのに出張校正があり、午前様で帰ってきてから録画をみました。
 今回で阿部謙信は亡くなります。死に際に兼続を呼び寄せ、口をパクパクしていましたが、何が云いたかったんだか分からない。むしろこれを機に「後継は景勝様じゃ」とでっち上げるかと思いましたが。すでに謙信が死ぬ前から景勝派と景虎派が分かれて争っていましたが、謙信が亡くなるとエスカレート。そこにお船の方の母妙椿尼が「家督は景勝」とでっち上げます。なぜこの場に妙椿尼が? と驚きでしたが、謙信の姉で景勝の母である仙桃院も、このウソにのってしまいます。
 結局、仙桃院、妙椿尼、お船、兼続の4者で謀議がされ、景勝が後継となってしまうのです。仙桃院ならともかく、ここにお船と兼続を加えたのは、のちのお船の再婚へと伏線としたかったのでしょう。お船は「直江家の女として覚悟はできている」と云い、兼続に「何かあったときはそなたを頼る」と云っています。
 景虎の側近・遠山康光が不気味な存在ですが、上田衆の台頭を嫌う柿崎晴家と北条高広は景虎支持です。晴家は景勝派によって謀殺されたようですが、ここでは果敢に景勝の屋敷に棒をもって攻め寄せてまいりました。弟か子の憲家は景勝支持に回っていますが、こちらは出てきません。
 いずれにせよ安穏な日々は終わり、景勝・兼続主従にとって修羅場が始まります。

あと、他の先生方の批評も併せてお読みください。
橋場日月先生『日次記(ひなみき)』
桐野作人先生『膏肓記』

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 史跡紀行では景虎の故郷である神奈川県小田原市と箱根町が出てきました。北条氏の居城・小田原城はインドゾウの梅子さんが有名です。梅子さんは昭和25年(1950)に来日。小田原市の花であるウメから名付けられました。当時推定3歳だったそうですから、今年で62歳になりましょうか。小田原城の再建が昭和35年(1960)なので、城よりも先輩なのです。僕は小田原城へ二度行きましたが、ゾウの長生きと飼育係の尽力に感心しました。この梅子さん、かなりの人気者で、水をお客にかけるというお茶目な芸ももっています。小田原城の動物園はこの梅子さんが亡くなると閉園されてしまうそうなので、早めに会いにいくとよいでしょう。

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 あともうひとつは箱根の北条五代の墓がある早雲寺で、ここは景虎が幼少時を過ごしたところ。ここは2007年11月に『篤姫』の取材で訪れています。このときは箱根湯本から箱根関所を経由し、バスで熱海へ出て清水で一泊という変わったルートで旅をしました。
 今回は大盤振る舞いで小田原城と梅子さんおよびJR小田原駅のスタンプ、早雲寺と箱根登山鉄道箱根湯本駅のスタンプをUPします。

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投稿者:管理人
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2009年03月03日

緊急のお知らせ★わたらせ渓谷鐵道水沼温泉センター閉館

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 当ブログ2007年7月26日付でも紹介したが、一日フリーきっぷでお馴染みの、第3セクター・わたらせ渓谷鐵道(通称:わた渓)は、利根川の支流渡良瀬川の渓谷に沿って走る。群馬県桐生を起点に栃木県日光市となった銅山の町、足尾(間藤)を結ぶ。沿線には全長5242mの草木トンネルもあり、夏のトロッコ列車に乗り通過すると、天然クーラーそのもので涼しさは格別である。

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 春の新緑と桜、秋の紅葉が渓谷美を引き立たせ、変化に富んだ車窓が楽しめる。そんな渓谷美を求めて4月からのトロッコ列車にのるリピーターも多い。お目当ての一つに水沼駅で下車、駅舎と温泉が一体の日帰り施設、「かっぱ露天風呂」があった。一日フリーきっぷを呈示すると、入浴料500円が2割引となる。渡良瀬川の清流を眺めながら、かっぱ露天風呂で旅の疲れを癒すフアンも多い。

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 この水沼駅温泉センターは、国鉄の廃止路線から第3セクターに引き継いだ平成元年(1989)に水沼駅構内に温泉施設を併設。しかし、2006年度以降赤字に転落しており、昨年10月1日からは燃料高騰を理由に露天の「かっぱ風呂」の利用を休止。内風呂だけしか利用できなくなってしまった。同鐵道会社は経営から撤退する方針を固め、経営を引き継ぐ民間企業を探していた。しかし、引受先が見つからず、昨年12月29日から長期休館となり、20周年を迎える2009年の時点では稼働していない。何とも淋しい限りである。

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 わた渓自体も看板の一つを失い、閑散として先行きが思いやられる。現在、桐生市やわた渓で出しているパンフレット類には、かっぱ露天風呂が掲載されている。知らずに訪れる観光客も多かろう。影響は大きい。今後の動向から目が離せない。わた渓はどうなる? 何とか頑張って欲しいものである。


投稿者:菊地正浩
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2009年03月05日

りんごの天ぷらそば。信州名物いっぱい

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信州・木島平村のそば打ち研究会直営店「樽滝」では、とうぜん手打ちで、朝早くから石臼でそばの実をで引いています。
「てんぷらそば」を注文すると、てんぷらには「リンゴ」が入っています。
フジリンゴの甘みと酸味が口に広がって、リンゴパイ、リンゴジャム?
そばよりもリンゴだけを注文したくなりますよ。


投稿者:伊藤建介
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2009年03月07日

~早春の彩りと香りをお届けします~「偕楽園の梅林」

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 水戸の梅まつり(2月20日~3月31日)は、113回の歴史を誇り今が見ごろとなっています。金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつと言われています。江戸時代末期(1842)に、徳川斉昭(最後の将軍慶喜の父)によって造られました。市街地に位置する都市公園としては、ニューヨークのセントラルパークに次ぐ世界第二位の広さを誇っています。

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 園内には約3000本、100品種、南側の田鶴鳴梅林には約1000本の梅が咲き誇り、早春の芳しい彩りと香りを放っています。同時に多くの史跡名勝見学も楽しめ、温かい梅そばも人気で連日賑わいを見せています。見ごろの梅を写真でお届けします。

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人気の温かい梅と紫蘇のそば(左)と梅に囲まれた綺麗なトイレ(右)


投稿者:菊地正浩
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2009年03月08日

『天地人』第10回「二人の養子」

 まぬけな番組づくりに視聴者も嫌気がさしてきたか、前回はこれまでのワースト視聴率20.3%を記録してしまいました。阿部謙信がいてこれですから、20%を切るのも時間の問題となっており、先が思いやられます。しかし、冒頭ガイドのイケメンって何とかなりませんかね~。
 柿崎晴家(角田信朗)の奮戦で始まりました今回。棒を振り回してゾンビの如く立ち回る角田氏。さすがK1選手です。刀を素手で折ってしまうし、K1のよいPRになったと思います。3月でテレビ放映が終わってしまうノアからも一人派遣すればよかったのに。そうだ! まだ配役の決まっていない前田慶次は三沢光晴にやってもらおう。
 なんてバカなことを書いてしまいましたが、この落とし前をつけるために、景虎が景勝のところに赴き、詫びを入れています。仙桃院の勧めがあったようですが、プライドの高い景虎はいたく憤慨していた様子。それに加え、側近の遠山康光が茶々を入れている様子で、景勝と景虎が互いに信じていたとしても周囲が巻き込んでしまうような描かれ方でした。
 ここでいきなり兼続の父樋口惣右衛門登場。景勝に春日山城本丸へ移り、さらに金蔵をおさえることを進言します。なるほど、よくこれは兼続が仕掛けたように書かれているものが多いのですが、軟弱な兼続より親父の進言のほうがリアリティあふれますね。結局、聞き入れない景勝に対し、責任を惣右衛門がとるような形で本丸乗っ取りを実行します。
 景虎方もそれに気づいており、本丸へ兵を進めますが、上田衆のたった4人で撃退してしまいました。相手の兵弱すぎです。本丸乗っ取りに成功した兼続が急ぎ景勝、ついで仙桃院のところに急行しますが、ここで景虎と鉢合わせ。刀を抜いたところで次回に続きます。さて誰が止めるのでしょうか。
あと、他の先生方の批評も併せてお読みください。
橋場日月先生『日次記(ひなみき)』

 史跡紀行では新潟県長岡市の栃尾エリア(旧栃尾市)の秋葉公園や常安寺、新潟県上越市の春日山城跡や林泉寺などが紹介されました。春日山城はこれまで三度ほど行っているのですが、栃尾エリアは未訪です。ただ取材のため秋葉公園や常安寺は撮影していますので写真をUPします。肝心の栃尾エリアにはスタンプがありませんので、スタンプは春日山城の売店にあったものをUPします。 

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投稿者:管理人
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2009年03月10日

たかが凧・されど凧

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安藤広重作「名所江戸百景」大判錦絵の霞かせき(左)と日比谷さくら田(右)

 江戸時代に開国を迫った欧米人は、日本の生活文化を「木と竹と紙」と評しました。昔は正月ともなると羽根突き、竹馬、面子、凧揚げが風物詩でした。我が国の凧揚げの歴史は古く、千年以上も前、平安時代以前に中国から伝わったとされます。この頃、すでに紙漉き技術が伝播されていたので、日本独特の和紙による凧が作られたとしても何ら不思議ではありません。
 当初は豊作を占ったり、吉凶判断をするためなど宗教色が強かったのですが、遠くからでも良く見えるので、戦争時に狼煙と同様連絡手段にも使われました。天下統一がなり戦のなくなった江戸時代になると、手漉き和紙の生産も奨励され、同時に浮世絵を中心とする日本独特の文化が開花し、その一つに凧があります。

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 凧は商人の屋号や主家の家紋を描いて揚げると宣伝効果は抜群でした。また、正月には子どもの遊びとして凧揚げが流行り、浮世絵や錦絵、商売繁盛の達磨や福助、子どもに受ける金太郎や桃太郎などの御伽噺物が描かれるようになりました。

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写真左から西の内紙の凧/烏山和紙の凧/小川和紙の凧

 今日では街中での凧揚げも難しくなりましたが、地方の広場や河原などで、大凧上げ祭り、喧嘩凧、連凧を競うなど、凧は日本の文化を継承しています。筆者は手漉き和紙の里を訪ねる旅をしながら、その土地柄の凧を興味深く見て歩きます。

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 ここに日本橋の凧の博物館を紹介し、しばし昔の記憶を蘇らしていただきたいと思います。筆者ならずとも読者の中にも昔、凧揚げ、羽根突き、竹馬、面子に夢中となった時代があったことと思います。

凧の博物館 東京都中央区日本橋1-12-10たいめいけん5階
入館200円。11~17時。日曜、祝日休。TEL03-3271-2465
凧の博物館ホームページ http://www.taimeiken.co.jp/tako/index_t.htm

投稿者:菊地正浩
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2009年03月12日

ユ~ナ

ちい~と地味な色合いだけど~、最近我ん中で人気急上昇中の石がこれ~~~♪

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ユナカイト~ちゅうて~、4種類くらいの鉱物が合わさってるらしく…。過去の罪悪感とか、今ある恐怖心や意固地さを除いてくれて~、激しく前向きになれるんだとか……。
 ほんまかいなあ~~~!?!んなら~、近々間違いなく緊張するであろう場所に臨む日にゃ~、しっかり身につけてくれるで~、覚悟しいや~~~♪♪。

投稿者:ざつはち
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2009年03月14日

国歌(君が代)と国旗(日の丸)を知る旅

 君が代と日の丸のルーツ、意味を知らないで国旗に向かい歌っている日本人が多くなりました。オリンピックや国体などでも、若者は知っていて日の丸を見上げ歌うのでしょうか?
 今年、初詣の折、千鳥が淵戦没者墓苑にある細石(さざれいし)の巌を見てそんなことを思いました(1/13付旅じゃCom参照)。そこで、長野県諏訪大社(下社秋宮)にある細石の巌と日の丸の発祥地、鹿児島県の照国神社を紹介してお話いたします。

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●君が代---「君が代は千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」です。
写真のように小さな石が、長い間にたくさん集まり固まって大きな巌となり、さらに苔がむすほど、千年も万年も大君の長寿と治世が栄えますように、という意味をこめたお祝いの歌です。その原歌(もとうた)は古今和歌集巻七に賀歌として「わがきみは-----」とあります。平安中期頃に「わがきみは」が「きみがよは」に変わって広まり、中世・近世を通じ色々な所で使われました。明治新政府は、外交上からも国歌制定が必要となり、薩摩琵琶歌「蓬莱山」の中で歌われていた「君が代」を歌詞にしました。当初、英国人が作曲したが馴染まず、10年後宮内省の雅楽部によって今日の曲にされました。明治13年(1880)11月3日天長節(明治天皇誕生日、現文化の日)に宮中で初演奏されました。明治26年(1893)に祝祭日の奉唱歌として文部省より告示され、我が国の国歌として定着したのです。

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●日の丸---歴史は古く、赤い丸は万物に恵みをもたらす太陽を形どり、皇祖神天照大神を仰ぐ日本人が考え出した、シンプルなデザインと言えます。王朝時代の儀場に掲げられた「日章」の幡(ばん)に見られます。やがて源平以来、武士たちは扇面に日の丸を描きました。後醍醐天皇は「日月を金銀にて打付けたる錦の御旗」を官軍の旗印とし、戦国武将たちは日の出をかたどった日足紋を家紋とし、赤丸印を旗指物などに使いました。秀吉・家康の御朱印船には朱の丸が、江戸時代には将軍の御座船や御城米船にも掲げられ、幕府の旗印と考えられました。開国を迫り外国船が来航したり、諸大名も大型船を建造したりするようになりました。
 NHK大河ドラマ『篤姫』でお馴染みとなった薩摩の島津斉彬が、水戸の徳川斉昭と建議、安政元年(1854)7月、「白地に日の丸の幟(のぼり)」を日本の惣船印と定めて布告しました。発案にあたった島津斉彬は、「日の丸の旗は日本(ひのもと)を日本(にっぽん)といひ且つ日出づる国と唱(よ)ぶに相応し、又天照大神の岩戸を出でられしよりこの日本は開け始めし国なれば、夫等(それら)の故事をも考えて発案したものだ」と語っている。これにより日本の船も日の丸を国旗として掲げ航海するようになったのです。明治新政府も、明治3年(1870)1月27日に正式に公布、これを記念して1月27日を「国旗制定記念日」としました。今では、この日に国旗を掲揚する家もほとんど見られなくなりました。
 読者の皆さんも鹿児島へ旅をしたら西郷隆盛も結構ですが照国神社へ、長野県諏訪に旅したら御柱の祭りだけでなく、諏訪大社下社に立ち寄り、君が代、日の丸のルーツに触れてみては如何でしょう。

投稿者:菊地正浩
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2009年03月15日

『天地人』第11回「御館の乱」

 前回はなんとか視聴率が22.2%まで回復し、なんとか20%切りを防ぐことができて何よりです。ところで、前回「毒を食らう」→「二人の養子」、今回「鬼の面」→「御館の乱」とテレビガイド予告からタイトルの変更があったようですが、なぜなんでしょうか。理由を知っている方がいれば教えてください。
 本題に入ります。本丸を乗っ取ったのもかかわらず、仙桃院のもとへ駆けつけ、景虎と鉢合わせになる兼続。腕を切られますが、なんとか仙桃院に助けられます。結局、景虎を説得できず御館の乱が始まります。でもまだこの時点で政庁となる御館は出てこず、春日山城内での戦いが繰り広げられます。お船は仙桃院のもとへ駆けつけ、景勝の陣に移ることを勧めますが、仙桃院はこれを拒否。さらに兼続のもとへ行き仙桃院のメッセージを伝えます。兼続が「鬼にならねばならぬ」といえば、お船は「そなたが鬼なら、わらしは夜叉になろう」といい、妖怪夫婦の誕生です。これが予告でのタイトルだったのですが。妻夫木兼続では険しい表情に乏しかったのでしょうか。しかし、まだ夫の信綱が存命なんですけど……兼続とお船の仲を羨む信綱には哀愁が漂っておりました。
 一方の播磨の書写山では羽柴秀吉と明智光秀が面会。光秀は謙信を誉め、信長の悪運が強いと云ってへらず口を叩きます。吉川信長も自分の覇道に疲れている様子で「謙信ならばこの俺を止めることをできたであろうに」とつぶやき、そこに初音が「鬼になりなされ」と慰めます。だからどうしてタイトル変更しちゃったのでしょうかね。
 2カ月におよぶ攻防の末、景虎は春日山城を撤退し、御館に移ります。このとき華姫が死を決意しながら景虎についていくといい、鬼の表情だった景虎に束の間の安らぎが。一方の景勝側は兵糧が尽きかけているところで次回に続きます。

 あと、他の先生方の批評も併せてお読みください。
橋場日月先生『日次記(ひなみき)』


 史跡紀行では引き続き新潟県上越市が登場。春日山城の上杉三郎屋敷跡、御館跡、十念寺、居多神社、居多ヶ浜などが紹介されました。十念寺と居多ヶ浜以外は行ったことがあります。居多神社の宮司をつとめる花ケ前盛明氏は、上杉謙信や直江兼続研究の第一人者として知られ、歴史関係の著作を多数出していいます。今回は最寄のJR直江津駅とスタンプ、居多神社と五智歴史の里にあったスタンプをUPします。

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2009年03月16日

べにこのおふろたび

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http://www2.ocn.ne.jp/~veniko/main.html

会員の山田べにこさんが運営しているホームページです。これまで彼女が入った温泉の数々を紹介しています。

2009年03月17日

大相撲よもやま話1

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昨年から大相撲に関する話題が世間を騒がせています。筆者は戦前、相撲の町両国で生まれ育ち、ファンの一人を自認しています。いくら時代とはいえ寂しいかぎりです。今回は大相撲界の立ち直りを願いつつ、筆者が幼少の頃より温めてきた歴史の一端を披露し、若い方々に参考としていただきたいと思います。

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大相撲発祥地1
 富岡八幡宮は江東区の東京メトロ門前仲町駅至近にあります(旅じゃCom2008.3.6参照)。筆者が子どもの頃は、通称深川の八幡様と言って、8月15日の深川祭りを楽しみにしたものです。深川祭りとは江戸三大祭(山王日枝神社6月15日、神田明神5月15日)の一つで、お神輿の見事さを見ようと全国から多くの観光客が押しかけます。この富岡八幡宮の境内が「江戸勧進相撲発祥の地」なのです。

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 境内には「横綱力士碑」(歴史資料の江東区指定文化財)が建立されています(写真左)。この碑は江戸時代最後の横綱、第十二代陣幕久五郎(写真中央)が中心となって、明治33年(1900)に建てられました。横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、初代の横綱明石志賀之助の名前から刻まれ、重さ約5500貫(約20t)もある堂々たる石碑です。
 相撲は古くから庶民に親しまれ、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に行われた)へと発展しました。大阪、京都、江戸で興行しましたが、幕府が初めて江戸での勧進相撲を始めたのは、貞享元年(1684)でこの富岡八幡宮の境内でした。その後、明和年間(1764~71)には春秋二場所のうち、一場所がここで開催され、享和元年(1801)までに本場所31回の興行が行われました。横綱だけでは可哀想と考えたのでしょうか? 昭和50年(1975)8月に「大関力士碑」(写真右)が建立されました。横綱になった大関と取り組みには入らなかった看板大関を除く、歴代の実力大関たちです。

パート2(明日)につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年03月18日

大相撲よもやま話2

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大相撲発祥地2
 両国回向院は現在の国技館とJR両国駅をはさんだところにあります(旅じゃCom2008.4.17参照)。境内には鼠小僧次郎吉の墓(写真左)や歴史ある墓碑があります。明和5年(1768)9月、この境内で初めて興行が行われました。もちろん青空興行です。天保4年(1833)10月からは掛小屋となり、相撲の定番所として年2度興行されるようになり賑わうようになりました。明治になってからも相撲は回向院境内で続けられ、明治17年(1884)には天覧相撲が行われ、相撲人気に加えて名力士が生まれるようになりました。明治42年(1909)になり、回向院境内の北に国技館が竣工し、天候に関係なく興行でき相撲の大衆化が一段と進みました。
 境内にある相撲関係石碑群「力塚」(写真右)は、昭和11年(1936)に歴代の相撲年寄慰霊のため建立されたものです。このとき、周囲に玉垣を巡らせ、大正5年(1916)に建てられた角力記(すもうき)と法界万霊塔もこのなかに移動されました。

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名所江戸百景に描かれた両国橋と現在の橋

 国技館は大正12年(1923)9月1日の関東大震災と昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲によって焼失しました。筆者は赤々と燃え盛り、窓という窓から炎を噴出す国技館を真横に眺めながら、回向院の境内を必死で走り抜け、両国橋を渡り逃げて助かりました。

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 焼けた国技館は戦後修復されてGHQに接収(写真上)されましたが、のちに日本大学へ払い下げられ、同大学の講堂(写真下)として使われました。現在はすっかり取り壊されて大きなマンションとなっております。大相撲の興行は、昭和29年(1954)9月に浅草橋の蔵前に蔵前国技館が建ち再開されました。昭和60年(1985)1月になり、現在の両国国技館が竣工しました。相撲自体は新国技館に移りましたが、回向院境内は相撲発祥の地の一つとして、また力塚を中心としたこの一画は相撲の歴史76年が刻まれ、相撲の町両国の姿を象徴しています。

パート3(明日)につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年03月19日

大相撲よもやま話3

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国技館の歴史1
 国技館は明治42年(1909)、回向院境内北側に誕生しました。同時に桟敷席などを仕切る御茶屋さんも回向院の参道両側に建ち並ぶようになりました。この回向院裏手で隅田川の辺に筆者の母親の家がありました。家の前から周辺は相撲部屋が多く、近所付き合いが多かったそうです。
 筆者が生まれた時には、家の前にある若松部屋からお祝いとして兜を頂きました。隅田川の花火になると朝から忙しく、ビールやスイカを冷やし、枝豆と冷麦を茹でて、屋上の物干しに席を作って招待しておりました。また、母親が娘時代には盆暮れになると、佃の渡しに乗り佃煮を買いに行かされたそうです。その中元・歳暮品を持って相撲部屋回りをしていたそうで、なぜ喜んでお使いをしたかと言うと、相撲部屋の女将さんたちは「ご苦労さん」と言ってお駄賃をくれたそうです。
 そんな国技館でしたが、大正12年(1923)9月1日、関東大震災で焼失したのです。ですから筆者の知っている国技館は再建された国技館(写真上)というわけです。母親はちょうど女学校時代だそうで、みな国技館の焼失を惜しんだそうです。
 さて、相撲の場所が始まると、筆者も子どもながら毎日のように相撲が見られました。本日の打ち止めから4~5番位の取り組み、すなわち三役の登場頃になると、木戸を開放していたようです。お馴染みの御茶屋さんのところへ行くと、「良く来たね」と言って中へ入れてくれるのです。関取が支度部屋から出て通路を通り土俵に行く、その通路で見られるのです。土俵の四隅には柱があって、その上には神社の屋根が飾られ、立派な男の千木が光っていました。柱は邪魔で現在のように屋根を吊るしたほうが相撲は見やすいですが、柱を相手にてっぽうの準備運動をする姿が見られないのは寂しいです。
 御茶屋さんでは桟敷客に酒やつまみ、料理にお土産を出しますが、料理には必ず厚焼き玉子が付いています。その玉子を焼いて四方を切り落とし綺麗な型にしますが、そのときに出る、切り取られた隅の部分を頂けたのです。これが何とも美味しい一品でした。

パート4(明日)につづく

投稿者:菊地正浩
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緊急NEWS!
会員の山田べにこさんが3月23日(月)19時~20時48分放送『解禁!日本全国スゴイ女SP いきすぎビューティー大百科2』 (テレビ大阪発12ch)に出演します。
詳しくはこちらをご覧ください。

2009年03月20日

大相撲よもやま話4

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国技館の歴史2

 国技館は相撲のない期間色々な興行をしていました。写真上の台湾大博覧会は昔の催しですが、筆者は木下大サーカスを見るのが楽しみでした。いつもの土俵がある場所が円形の広場となり、象や虎、ピエロの曲芸など、上を見上げると空中ブランコ。楽しみの少なかった時代ですから、今でもその光景は忘れられません。そんな思い出のある国技館は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼けました。

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 以後、GHQに接収(写真左)され、また日本大学の講堂(写真右)になり、現在はマンションとなってしまったのです。これらの経緯を筆者の母親はカメラに収めておりました。

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 昭和60年(1985)1月には現在の国技館が竣工しますが、工事中の姿と落成記念1月場所の様子もカメラに収めていました。櫓太鼓の脇には幟が立ち並び琴錦、貴ノ浪、貴闘力、安芸ノ島などの懐かしい名前も見られます。一目ひいきの関取を見ようと人々が群がっているのが判ります。この国技館も昨今修復の話がマスコミで報じられました。若・貴人気にも支えられた時代もあって、財団法人には剰余金があるようです。リニユーアルされた国技館もまた良いかもしれません。

パート5(明日)につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年03月21日

大相撲よもやま話5

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ちゃんこ料理って何?

 相撲部屋で若手力士、すなわち新弟子や付け人と言われるお相撲さんの玉子が作るちゃんこ鍋、今では、両国界隈もさることながら、名古屋、大阪、福岡などにもちゃんこ料理屋ができ、一般の人でも気軽に味わえる時代となりました。筆者も時々は両国にあるちゃんこ料理屋に行きますが、魚と野菜主体のちゃんこ料理が好きです。ちゃんこ料理といっても相撲部屋によって伝統と特徴があり、街中の料理屋でも様々です。ただ共通しているのは、おおむね「鍋料理」ということでしょう。5月のゴールデンウィークになると、両国にぎわい祭り(旅じゃCom2008.4.17付両国にぎわい祭り参照)では、歩行者天国となった大通りで各部屋のちゃんこが楽しめます。最近ではキムチ風とかカレー風などのちゃんこもあってバラエティに富んでいます。では、ちゃんこ料理とは一体どんな料理なのか?
 国技館に縁のあった祖父が話しをしてくれたことがあります。昔は回向院の境内で相撲協会の小屋掛から始まった相撲ですが、そこにある炊事場に働いていた人が大勢いたそうです。その多くは新潟県のほうから出稼ぎに来ていたようで、お相撲さんの食べるご飯を炊いたりしていたそうです。一口に飯炊きといっても米を研ぐ人、炊く人、薪を割る人、料理を作る人、野菜を洗う人、魚や肉を捌く人とそれはそれは大勢の人がいたそうです。何しろ、一つの相撲部屋だけでなく全体のお相撲さんに食べさせる量だから、想像をはるかに超えた量のようです。朝暗いうちから準備し、夜が明けるころには各部屋からお相撲さんがやって来て食べる。大方食べ終る頃を見計らって、働いている男たちの子どもらが「ちゃん、ちゃん」と言って来るのだそうです。
 「ちゃん」というのは昔から越後地方の方言で「お父さん」という意味なのだそうです。「ちゃん・ちゃん」と言っては来て、ご飯を食べて帰って行くのだそうです。だから、ここで働く男「ちゃん」が作る料理のことを言ったのです。そう、もうお判りでしょう、テレビで御馴染みのメロディ(しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん♪)で始まる『子連れ狼』の中で、大五郎が父親を「ちゃん」と呼んでいることに気がつくはずです。
 では、「こ」が余分ではないか? そんな疑問も出てきます。この頃多くのお相撲さんは東北地方の出身でした。このお相撲さん達は東北弁で話すと、言葉のおしまいに何でもかんでも「こ」をつけるのだそうです。魚っこ、肉こ、飯っこ、箸こ、下駄こ、べここ等々という具合だそうです。今でもそうだとは知りませんが、この時代の東北弁は「こ」がついたと言っていました。そこからここに出稼ぎに来ていた親父さんたちのことを「ちゃんこ」と呼び、ちゃんこの作る料理だから、ちゃんこ料理と呼ぶようになったそうです。ご飯や漬物の他には主に鍋物が主体だったことから「ちゃんこ鍋」となったようです。

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鍋料理のイメージ(上の店のものではありません)

 とどのつまり、「ちゃんこ鍋」とは親父さんの作る鍋料理のことで、別にこれといった特別な意味はなかったようです。筆者もそれを覚えていたので、ちゃんこ鍋にも色々なメニューがあることを納得していましたし、調理士の免許もいらず、若い新弟子がちゃんこを作ることも納得していました。こんな知識をもって「ちゃんこ鍋」を食べに行ってはいかがですか。

おしまい

投稿者:菊地正浩
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2009年03月22日

『天地人』第12回「命がけの使者」

 すっかり更新が遅くなってしまい申し訳ありません。25日になってようやくUPできます。今週前半は完徹で、食事もロクにとれなくなるわで、マジやばかったです。本当。
 今回はいきなり春日山城が兵糧不足という窮地からはじまりました。謙信が春日山城に金蔵以外、兵糧は備蓄していなかったというのも変な話ですが。歴史作家先生たちが気にしていた謙信もう一人の養子だった上条政繁(鷲生功) がようやく登場しました。本当に一瞬だけでしたが。
 さらに武田勝頼(市川笑也)や妹菊姫(比嘉愛未)も顔見せです。勝頼は相変わらず暴君に描かれ、高坂弾正が諫めるわ、妹からも「兄は器を知らぬ」というひどさ。『甲陽軍鑑』が元になっていますので、仕方なしともいえるのですが、実際、2万ともいわれる大軍を越後と信濃の国境に進めているのですから、「本当に長篠で大打撃を被ったの?」と疑問に思う研究家さんたちもいるわけでして。現実、長篠敗戦以後、信長・家康が取り戻せたのは、それ以前の失地くらいなもので、この時点では甲斐・信濃に攻め込んでいません。菊姫はお船の方とキャラがかぶるような男勝りの登場でした。

●桑取って何処?
 今回のメインは軍需物資の援助を頼みに郷士のいる桑取へ兼続が独りで出かけるというアドベンチャーでした。兼続が桑取の長である斎京三郎右衛門へ会いに行く途中、怪我をした老婆を助け刀まで預けてしまいます。結局、背後から殴られ、牢に入れられるわリンチに会うわ、散々な目に会う兼続。景虎が金品を贈ってきたのに対し、兼続は真心で接し、結局、桑取の長を動かしたという道徳臭いお話でした。ところで気になったのは桑取の位置です。検索してみますと地図の赤囲みあたりで、ちょうど春日山の背後にあたり、東側の御館と南の信濃方面は景虎側におさえられていたとなると、西側を頼るしかなかったわけです。もっともこんな山間で米がたくさんとれたかは疑問なんですが。不慣れながら地図で初めてペイント挑戦してみました。あくまで管理人の推測です。

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●信綱の立場は……?
 もうひとつ気になった点は、お船と兼続の仲を嫉妬し、「そなたはわしの妻、わしが直江の婿とは不足か」と怒る直江信綱です。一応、お船と兼続が従姉関係なのですが、兼続を引き立てるための演出なのでしょうか。兼続よりずっと上位の重臣なんですがね。第7回でも書きましたが、長尾景孝説は年齢的に符合せず否定されているようです。総社長尾家の出自とされていますが、未研究なのでコメントは控えます。それにしてもお船が床で待っていても信綱は来ず、朝を迎えてしまい、ずっと見守っていた侍女のかよが足がしびれるというオチ……。当時の夫婦感覚にはなんとも理解しがたいことでした。これは次号への伏線のようにもとられたのですが果たして。

あと、他の先生方の批評も併せてお読みください。
橋場日月先生『日次記(ひなみき)』

 史跡紀行では相変わらず新潟県上越市の春日山城跡、さらに桑取谷、新潟県十日町市の犬伏城などが紹介されました。春日山城はともかく、桑取谷や犬伏城は未訪でさすがに写真をUPするのが苦しくなってきました。今回は春日山城跡から望む市内の眺めとJR十日町駅のスタンプ(いただきもの)で失礼します。

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『天地人 直江兼続』(メディアボーイ)をまだ購入していない方は、ぜひこちらからご覧になって購入してくださいまし。

投稿者:管理人
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2009年03月23日

『モロッコの風』

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『モロッコの風』(伊佐九三四郎 著/白山書房)
A5判上製 214P(巻頭カラー8P) 1890円 ISBN978-4‐89475‐128‐6

2009年3月発行。紀行作家伊佐会員の新刊です。世界を股にかけて登山を楽しむ先生の紀行で、巻頭には美しい山岳風景写真がのっていて見応え十分。さらに本文には詳しい地図もついていますので、伊佐氏の旅の行程が手に取るように分かります。その土地での風土や生活にもふれ、その時々の臨場感が伝わってくる渾身の一冊です。

購入

内容は下記のとおり(目次より)

モロッコの風 
ロシア辺境の地・カムチャッカ 
モンゴル最西端の山旅 
ビスターリの一国 
イギリスの山と旅 
コーカサス南麓を行く 
コスタリカのチリポ山に登る 
ギアナ高地の石 
小さな大国ブータン 
オーストラリア紀行 
パタゴニアの山旅 
辺境の山と旅から 

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2009年03月25日

手漉き和紙の里(4)~幻の湯倉・紙敷和紙

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 千葉県夷隅(いすみ)郡大多喜(おおたき)町は県南東部に位置し、房総丘陵の山間部である。南西には養老川、東部は夷隅川が流れる盆地状の沖積地である。山といっても300m級の山で(愛宕山は408m)比較的低い。余談になるが、地球温暖化が進み海面上昇で日本列島に海進があれば、真っ先に沈む県が千葉県なのである。町名は滝が多いことからという説があるとおり、近くの養老渓谷にはたくさんの滝がある。
 中世末期に武田氏が大多喜根古屋城を築いたのが始まりとされ、江戸時代の天正18年(1590)、本多忠勝が大多喜城を築城して10万石の城主となった。明治4年(1871)、大多喜県を設置したが、すぐに現在の千葉県となったのである。昭和29年(1954)、旧大多喜町と老川(おいかわ)、西畑(にしはた)、総元(ふさもと)、上爆(かみばく)の4村が合併した。
 この旧西畑村に大字湯倉(ゆぐら)と紙敷(かみしき)という集落があり、上総の国の手漉き和紙の里として知られていた。文献によれば上総の国には、夷隅郡西畑村湯倉と東葛飾郡小山村(現・松戸市)が和紙の里となっている。残念ながら現在では和紙の里の痕跡を見ることもできないのである。

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 筆者が訪れた永島郷土資料館(大多喜町の旧名主の家)は、残念ながら館主が病気療養中のために閉館、古文書等の確認や取材もできない。また、大多喜城博物館でも確認することができない。旧西畑村大字湯倉に在住の長老と大字紙敷の長老に話しを聞く機会に恵まれたが、昭和初期には紙漉(かみす)き道具一式もあって、小学校や農家で手漉き和紙を作ったということが判った。

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 地理的条件から考察すると、夷隅川の支流に西畑川という清流があって、扇状地と段丘のおりなす温暖な地形は、三椏(みつまた)や楮(こうぞ)が今でもたくさん植えられている。しかも和紙の原料として使用しないから背丈も高く、三椏の花が綺麗である。古くから当地でたくさん栽培されていたことが判る。明治24年(1891)、天然ガスが噴出してから地域一帯の様相も変化し、手漉き和紙の里は幻と消え去ってしまった。なぜか、大多喜城博物館近くの土産物店に飾られている和紙の凧が虚しいかぎりである。

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投稿者:菊地正浩
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2009年03月26日

会員・山田べにこさんのテレビ出演に思う

代表森田芳夫氏の寄稿につき本日急遽UPします(管理人)。

 およそテレビではニュースかドキュメントしか見ない私は、「大爆笑」とか「スゴイ女たち」などという新聞の番組表を見ると、スポーツ新聞のバランスを失した大活字の見出しを連想してしまい、見たいという気が起こらない。

 しかし3月23日放映の「ア然! 仰天! 大爆笑日本全国スゴイ女たち ○秘人生大公開」(テレビ東京)に、山田べにこさんが出演するという知らせを「旅じゃ.Com」で知り、チャンネルをあわせた。山田さんは「旅ジャーナリスト会議」の新しい会員であり、しかもこの分野では珍しい女流温泉研究家である。

 番組にラーメンの味を求めて各地をめぐる三十代の女性やら何人か女性が登場したが、山田さんの「温泉を究める努力」というようなものが、ひときわ異彩を放っていたと見たのは私だけではないだろう。

 最も心に残る場面は、スノータイヤを自分で付け替えて雪道を走り、さらに道の途絶えたところから歩いて雪に埋もれた無人の温泉に向かう様子だった。その先で、凍りついて逆立ってしまった髪の毛を撫でながら、同行の女性タレントと雪降る露天風呂に浸かる。そこで彼女がタレントに語りかけた言葉、「自然の中の温泉で、自然のままで楽しめていいじゃない?」はさらに印象に残った。

 私と同じように、着飾ってスタジオに並ぶ「ゲスト」たちも強い印象を受けた様子で、ほかの「スゴイ女」方とはまったく違うコメントが聞かれた。

「寝袋で車に泊まるあの努力はなんだろう」、「まるで『おしん』だ」という感嘆の声や「ナビ無しで北海道から鹿児島まで、女性がよく走れるな」という男性の声。中には「温泉には単純泉と言うものがあるが友達に『あいつは単純泉』と言ってやることがある」とギャグにもならないコメントがあり、これは不愉快だった。

 もし「温泉研究」にプロというものがあるとすれば、山田さんはアマチュアの心でプロを越えようとしているのではないか。その心と女性の視点をもって、貪欲に湯に浸かり、記録しながら、眼に見えない境界線を越えようと努力を重ねているのではないか。

 すでに2000を越す日本の温泉をマイカーで訪ねた記録は、山田さんのweb「べにこのおふろたび」で公開されている。

投稿者:森田芳夫
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2009年03月27日

銚子の隠れた名物 ひしお

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銚子は醤油の町、17C初頭に紀伊からの醤油が伝わったそうです。
下総台地や北関東の豆、江戸湾の塩を利根川を使って運び込み、醤油を製造したそうです。江戸の庶民の食を潤したわけですね。
今日でもヒゲタ醤油やヤマサ醤油があり、銚子漁港は製造元ごとに原料や醤油の積み出し用のプライベート岸壁でした。

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さて、「ひしお」は醤油の製造途中の味の濃い少しつぶれた豆で、江戸時代から従業員の「まかない食材」だったそうです。今では港に近い「山十」で「ひ志お」と記して細々と製造されています。
ご飯にのせると、「柔らかうす味醤油」といったうまみの塊でした。

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私のために、「山十」の蔵でご主人に説明していただきました。


投稿者:伊藤建介
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2009年03月28日

手漉き和紙の里(5)消えた小幡・秋畑紙

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 群馬県甘楽郡甘楽町は県南西部、烏川の支流鏑川中流域南岸にある町で、町名は古代からの群名をあてた。朝鮮半島からの渡来人が定住した土地で、「韓(から)」が語源と伝えられている。
 昭和30年(1955)、甘楽郡小幡町と秋畑村が合併。昭和34年(1959)に新屋村と福島町の一部を合併して甘楽町となった。中世(12~16世紀)から豪族小幡氏の勢力下で、南西部にある国峰城址はその名残りである。元和元年(1615)からは織田信長の次男信雄が小幡藩城主となり以後七代信富まで約150年統治した。今でも崇福寺の旧境内に織田家七代の墓がある。

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 小幡と秋畑は御荷鉾山地の山あい集落で、鏑川の支流雄川(おがわ)という清流に恵まれている。ここが手漉き和紙の里であった。楮と三椏を原料とし、ネリの黄蜀葵(とろろあおい)のことをオホレン、タモ、ネバシ等と呼んでいたという。文献によると美濃紙系である理由は、大字善慶寺加藤氏に嫁いできた人が、美濃国武儀郡上牧出身で美濃紙の紙漉き技法を心得ており伝播したという。

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かつての紙漉き民家

 現在、小幡も秋畑も和紙の痕跡は見られず、わずかに三椏や楮の植えられた畑地を目にする程度である。当時の道具や資料は歴史民俗資料館(旧甘楽社小幡組繭倉庫0274-74-5957月休館)に集められ展示されている。

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武家屋敷や中小路(写真左)と喰い違い郭(写真右)

 秋畑は蕎麦の里と言われる長閑な集落だが、小幡はさすがに城下町としての名残りが多く見られる。石垣で築かれた多くの武家屋敷をはじめとする文化遺産があり、町をあげての保存、整備、観光振興に取り組んでいる。富岡製糸場が世界遺産登録候補となっているが、旧甘楽社小幡組繭倉庫も絹産業遺産群のリストに加えられている。
 余談になるが、旧甘楽社は製糸業に携わり、例えば桐生市黒保根町水沼(わたらせ渓谷鉄道水沼駅至近)にある、旧水沼製糸場は旧甘楽社水沼組といって、多くの女工が働いていた(文献資料は隣接の歴史民俗資料館0277-96-3125/月曜休館)。

投稿者:菊地正浩
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2009年03月29日

『天地人』第13回「潜入!武田の陣」

 冒頭の「あふれる若さで戦国をChange」って止めてもらえませんかね。モチベーション上げるどころか、かえって脱力してしまいます。
 兵糧の憂いはなくなっても、相変わらず景虎側には北条・武田の二大大名が支援しているのですから、これでは景勝・兼続主従もひとたまりもありません。悩む兼続に父の励ましがあったり、弟の与七の何気なく云った言葉がヒントになって、武田との同盟を画策します。信濃と上野の上杉領の割譲という屈辱的な和睦に周囲は反対。景勝も最初は拒否していましたが、兼続の「自ら立つ勇気はないのか」という説得に、ついに景勝も応じます。
 そして兼続が武田の使者に立つ前夜、夫信綱と同衾したお船ですが、寝付けず外に出ているところを兼続と出会い、髪結いの紐を渡します。嗚呼、信綱の立場はどうなるのでしょうか。そして泉沢久秀と弟与七の3人で武田軍の高坂弾正昌信(大出俊)と面会。高坂昌信の死は旧暦で5月7日なので、景虎が御館に移る前に亡くなっているのですが、どうしても花をもたせたかったようです。昌信は「謙信公は信玄が見込んだ男児」といって和睦を承諾し、同盟が成立すると思いきや、次回で亡くなってしまうんですね。つまりこの時点の兼続の命がけの使者はまったく無に帰してしまうわけで、次回、高坂弾正と勝頼の奸臣といわれる長坂・跡部の両名との対比がされるのでしょうか。
 最後にどうでもいいけど、信長と現代衣装風の初音のコンビはもういいや。とくに初音は時代劇の雰囲気をぶち壊しにしてますね。

 あと、他の先生方の批評も併せてお読みください。最近は他の先生もひどい番組に気分が萎えてしまったのか、連載は橋場先生と僕だけになってしまいましたが。
橋場日月先生『日次記(ひなみき)』

 史跡紀行では高坂弾正昌信ゆかりの長野市松代町を取り上げ、海津(松代)城や明徳寺、昌信の墓などが紹介されました。昌信をここで登場させたのはこの松代を紹介したかったからなのかもしれません。松代は2006年に『風林火山』の取材で行きました。この場所は『風林火山』第48回「いざ、川中島」で紹介しましたが、今回は別のアングルの海津城跡碑をUPします。最寄の長野電鉄松代駅にはかつてスタンプがあったようですが、現在はないみたいです。観光地なのでぜひスタンプは復活してほしいんですがね。松代駅には無料のレンタサイクルもあって便利です。ただ僕は明徳寺未訪でしたので、今回は長野駅のスタンプでごまかします。

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 余談ですが、大河ドラマ視聴中に千葉県知事選で森田健作氏の当確のテロップが流れました。いすみ鉄道の元社長の吉田氏も立候補していたようですが、2年の任期を10カ月で投げ出してしまったようで、いすみ鉄道のほうはどうなってしまうんでしょうかね。同じ森田でもカリスマ編集者森田芳夫氏に千葉県知事選出馬してほしかったのは、あくまで私見ですが。

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投稿者:管理人
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2009年03月31日

居酒屋『旅路』通信(3月28日付)

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3月28日の旅じゃ例会終了後に小川写真事務所で懇親会が行われました。
今回の参加費は2000円ポッキリ。もちろんアルコール込みです。こんな芸当ができるのは、事務局長・小川金治氏の尽力の賜物です。K地さん顔切れちゃってごめんなさいm(_ _)m
金ちゃんありがとう!

「今日の料理は何だろな? お腹一杯食べちゃうぞ!」
(byドリフの大爆笑!)

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焼きサクラダイとチーズ

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平貝と金ちゃん特製の松前漬

本日のメイン料理は……

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じゃん! マグロブツ、サクラダイ、平貝などの刺身盛り合わせ

 今回初参加のビジターさん2名も大変満足そうで、宴会はまだ明るい17時から23時まで6時間ぶっ通しで行われました。たぶん、普通の居酒屋でこれだけ飲み食いすれば1万円はかかるでしょう。なお、居酒屋『旅路』は予約制ですので、参加者は例会前日までに必ず参加の旨をお伝えください。差し入れも歓迎します。

撮影者:村野鎮守(歴史記録官)
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About 2009年03月

2009年03月にブログ「旅じゃ.com」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

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