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2009年04月 アーカイブ

2009年04月02日

地図記号(温泉マーク)の変遷・磯部温泉1

~温泉っ子必見~地図記号(温泉マーク)の変遷

 国土地理院が制定する2万5千分の1地形図の地図記号は、全部で161種類ある。なかでも温泉は湯つぼと湯けむりとし、湯けむりはS字曲線3本である。しかし、どこの地形図を見てもほとんどS字曲線ではなく、直線3本としか見えない。一体これはどういうことなのであろうか?

onsenmark.jpg    地形図は明治維新後に本格的な測量を導入して作られ始めた。筆者が調べる限り、地図記号は明治11年(1878)の測絵図譜、明治19年(1886)の測図記号発行によると思われる。明治22年(1889)になって温泉ではなく鉱泉で登場し、記号はS字曲線である。他におたまじゃくしのような湧泉、湯つぼに噴水が出ているような噴泉なども登場する。  明治27年(1894)、陸地測量部発行の伊豫国温泉郡という地図では、松山道後湯之町のところに楕円形の湯つぼの中から、湯けむりが3本まつ毛のように出ている描き方がされている。明治28年式地形図図式には帽子に3本毛が生えているようである。ちなみにこのときの郵便局は横書き封筒の裏側を記号としており、現在の○に〒字とは違う。他にも城郭・古城、神社、墓地なども現在とは大きく違う。(手書きの記号ご参照)明治後半から大正を経て昭和となり、さらに戦後は陸地測量部解体、地理調査所の発足となる。その間は鉱泉、鉱泉・温泉、温(鉱)泉、温泉と表示も変化、記号も湯けむりがS字曲線、Z字曲線、直線などと変化し、現在はS字曲線に落ち着いた。
 なぜ、湯けむりが直線で描かれるようになってしまったのか? それは地形図の製図方法が、ペン製図からスクライブ法に変わり、曲線が描きにくくなったからと云われる。その後、コンピューター化が進み描きやすくなったので、明治の頃に描いた温泉らしいS字曲線に戻したのである。平成14年(2002)の浦和・岩槻にS字曲線が登場するが、その他ではめったに見ることができない。だが良く探せばあるものである、平成19年(2007)1月発行の与那国島である。立派なS字曲線で温泉・鉱泉となっているが、地形図の中を探してもそのマークは見つからない、与那国島には温泉が無いのか? 残念。その他の地形図を見る限りどう見ても直線3本である。要するに、国土地理院の地形図の改定作業が進まない限り、S字曲線にならないのである。民間の地図やその他の出版物では、温泉マークはS字曲線が常識である。

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我が国最古の温泉記号
 群馬県立博物館所蔵の「万治四年(1661)辛丑二月二十六日絵図記」(わが国最古の温泉記号の描かれた村絵図)がある。この絵図に基づいて群馬県安中市磯部温泉の湯元に記念碑がある。無料の足湯に入りながら見られるのだが、筆者には湯けむりがS字曲線や直線でもなく、長いZ字曲線に見える。となればZ字曲線に落ち着けば良かったのではないだろうか。
 温泉が良ければ地図記号などどうでも良いなどとお叱りを受けそうであるが、古地図研究をする立場からすれば、一言変遷を記述することで、温泉フアンに知って欲しいと思うのである。
 余談だが、S字とZ字どちらが妥当なのか。あくまでも筆者の推測であるが、手書きの時代に右利きはS字、左利きはZ字を描いたのであろう。理由は料理屋に行くと割り箸が置いてある。決まって半分ほどの袋に入っている。その切り端はほとんどが右側である。めったにないが良く観察していると左側の時がある。調べると何のことはない、作った人が左利きだからで極めて単純なことである。これと同じだと考えるのは如何なものか、S字とZ字の違いが判る方のご教授を賜りたい。

4月4日につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年04月04日

地図記号(温泉マーク)の変遷・磯部温泉2

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舌切雀の磯部温泉
 我が国最古の温泉記号のある磯部温泉は、群馬県西部の安中市南西部で、利根川の支流である碓氷(うすい)川中流部南岸にある。昭和30年(1955)、安中、原市、磯部、板鼻の4町と東横野、岩野谷、秋間、後閑(ごかん)の4村が合併。2006年3月、平成の大合併で松井田町とも合併した。
 もともと安中藩板倉氏3万石の城下町として栄えたが、明治11年(1878)、碓氷製糸社が創業、県の蚕糸業の一翼を担うようになった。加えて、鉄道も開通して磯部駅ができると、温泉地付近に別荘もできて賑わったが、やがて軽井沢に繁栄を奪われるようになった。そもそも磯部とは海部(あまべ)と同じく、もとは航海や漁業をする民で奈良時代の豪族、地名もこの名前からとったと言われる。本拠地は伊勢、志摩の沿岸と言われ、和名抄には三河、美濃、信濃、但馬、上野、越前の各国に磯部の郷名が見られる。安曇の海部が西日本の漁民から出発し東海、信濃に勢力を伸ばしたのに対して、磯部は隠岐、但馬を西限に近畿、中部内陸、越後、上野、下総へ進出したと言われる。
 筆者が現在把握している範囲において、「磯部」の地名はこの磯部温泉の他、北は福島県から南は三重県、兵庫県の範囲で17カ所がある。

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舌切雀の由来
 昔話、民話の一つで原型は宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)の腰折雀(雀恩を報ゆる事)と云われ、室町時代末期の成立とされる。内容は動物報恩説話、物羨み話の一つと言われ、モンゴルや朝鮮半島にも同様の話があるという。内容は雀が糊を舐めてしまったと怒った婆が雀の舌を切ってしまった。可哀想に思った爺が雀の宿を訪ね詫びると、雀が土産に葛篭(つづら)をくれた。爺は小さくて軽い葛篭のほうを選び家に帰って開けると、中からたくさんの宝物が出てきた。それを見た婆は羨んで雀の宿を訪ね、大きな思い葛篭を貰って帰り開けてみると、中から蛇や百足などの怪物が出たという話である。
 その雀の宿とされるのが磯部温泉湯元の隣にある『雀のお宿・磯部館』である。碓氷川のせせらぎと風、木と竹と和紙の文化が今も残る温泉に入ると舌切雀の昔話に思いが及んでいくのである。

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おしまい

投稿者:菊地正浩
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2009年04月05日

『天地人』第14回「黄金の盟約」

ガ~ン! あまりの脱力系の番組づくりと軟弱兼続に視聴者は離れていき、前回はとうとう17.8%というワースト更新。3月中に20%を切ってしまったよ。この先、どうなるんでしょうかね。お先真っ暗です。
 で、今回も脱力系のストーリーに唖然。前回の約定を違えて攻めてくる武田軍に兼続が「もう一度使者として行かせてくれ」といい、周囲から幽閉されてしまいます。これでは第12回で桑取の郷士に真心で接したはずの兼続が、今度は黄金で武田を懐柔しようとする矛盾。この銭ゲバと化した兼続を、周囲が幽閉したのもわからないわけではないですが。第12回で余計なストーリーを挿入したから、さらにおかしくなったわけで、兼続の「義」もここまでくると、単なるご都合主と成り下がってしまいました。もちろんこれは妻夫木君が悪いわけではなく、支離滅裂な脚本を書く作家がいけないのですが。
 今回のストーリーをうまくもっていくとしたら、兼続は前回で死ぬ寸前の高坂弾正に会っているわけですから、史実とは違えども『甲陽軍鑑』のように長坂長閑斎・跡部勝資の両名に悪役ぶりを発揮してもらえばよかったのです。兼続が再び使者に立ち、この奸臣両名に会います。このような感じで……。

兼続「高坂殿との和議の約定は成立したはずです」
長坂・跡部「はて、わしらは知らんのう。第一、筆頭家老であるわしらは何も聞いておらぬ」
兼続「ですから信濃と上野の上杉領を譲るという条件で」
長坂・跡部「そんなもの、今の殿の力をすればたやすく攻略できることじゃ」
兼続「……」
長坂・跡部「それよりもホレ、謙信公は莫大な遺産を遺したというではないか。そちらを出すのじゃ」
兼続「……」
長坂・跡部「どうせ討死すれば金など不要じゃろ、出すのじゃ出すのじゃフェッフェッフェッフェッ」

兼続が去ったあとで、
長坂「跡部、お主も悪よのう」
跡部「そういう長坂様こそ」

 最後は時代劇に登場する悪代官と商人のノリになってしまいましたが、こうすれば兼続が悩んだうえで、黄金を武田軍に差し出したのは苦渋の決断だったとなります。こういうの期待したんですが、長坂長閑斎・跡部勝資の両名は登場しませんでした。結局、金を武田軍に贈ることを決断した景勝。兼続と上田衆を百姓に変装させて武田への使者にたち、あっさりと景虎の監視網をクリアしてしまう。全然緊迫感がありませんな。しかもいきなり武田勝頼と面会。「金で動かさそうとは上杉も落ちたものよう」となじる勝頼に、兼続は謙信が信玄に塩を贈った話(ウソ)を出し、「金は使い方次第で卑しき者にも尊き者にも変わります」って、これ「塩は使い方次第でうまくもなればまずくもなる」という徳川家康と阿茶の局(お梶の説もあり)のパクリではないですか。で、金と塩は一緒なんでしょうかね。
 このあと、またも二元中継で安土城の信長と初音のコンビが出ていました。合成の風景でアニメじみた両名。青春ドラマやってんじゃないんだからさぁ~。
 上杉と武田の同盟が成立したあと、勝頼の妹菊姫が景勝との婚儀が決まりますが、勝頼の妻北条夫人は、北条氏政の妹で景虎とも兄妹のはず。こちらの関係はまったくスルーされてしまいましたね。どうでもいいことですが。

遅れましたが、他の先生方の批評も併せてお読みください。
橋場日月先生『日次記(ひなみき)』

 史跡紀行では新潟県湯沢町の荒戸城跡、南魚沼市の龍澤寺や樺沢城跡などが紹介されました。なぜか季節に似合わない冬の景色で。実は僕も昨年1月に樺沢城跡と龍澤寺へ行ったのですが、あの豪雪は半端ではなく、城山の登山は断念しました。最寄は上越国際スキー場前ですが、北越急行の各駅停車は通過してしまうのが残念です。樺沢城跡と上越国際スキー場前(無人駅)に近いJR石打駅のスタンプは、第6回でUPしてしまったので、今回は昨年1月の豪雪のとき、凍死寸前で撮影した龍澤寺と雪煙をあげる北越急行電車をUPします。関連するスタンプはありませんので今回は割愛します。

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投稿者:管理人
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2009年04月07日

大仏あんぱん

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 散歩の途中に目にとまったパン屋さん『パネトーネ』(近鉄奈良駅下車、高天交差点を北へすぐ)。この地に古くから店を開いているらしいが、店の前に書かれた「大仏あんぱん」の文字に惹かれて店内へ。
 大仏あんぱん168円を購入。ずしっと重い。計ったら318グラムもあった。

daibutsuanpan2.jpg  パンの入った袋にはこうある。 「名物つぶつぶ大仏あんぱん たかがあんぱん されどあんぱん 味なぞ言わぬが花 まずはご笑味あれ えらいことになりまするぞ」  完食して「大仏」の意味がわかり、また袋の文字に偽りがないことがわかるが、時既に遅し。「えらいことになり」ました。


投稿者:高木浩明(読者)
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2009年04月09日

小さな日本のパナマ運河

「小名木川の扇橋閘門(こうもん)(ロックゲート)」

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●小名木川(江戸時代は小奈木川)という運河
 隅田川の清洲橋付近、芭蕉庵史跡と旧中川の中川大橋付近を結ぶ小名木川は、下町の東西を流れている。隅田川~中川~江戸川を結ぶ江戸舟運の名残りの一つである。幕府は浦安の塩を運ぶために造ったが、その後、年貢米、味噌、醤油、木材、石材等々の生活資材物資を、江戸府内に運ぶための重要な運河となった。隅田川に出た船は幕府が造った日本橋川に入り、河岸の倉庫へと向かった。

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 この小名木川には幾筋もの人工の堀川が流れている。横十間川(写真左)は代表的な堀川で、小名木川と交差する江東区猿江2、扇橋3、北砂1、大島1の場所は、4地区の接点で何処の町へも渡れるように十字形になっている。クローバー橋(写真右)と言われ、川に架かる橋としては車の通行ができない人道橋である。

●扇橋閘門(ロックゲート)
 隅田川の水位が高く、小名木川のほうが低い。これは東側ほど地盤沈下が大きくなったからで、江戸時代にはなかった現象である。そこで水位を調整して船の航行をさせるため、日本版パナマ運河を造ることになった。工事は5年3カ月をかけ、昭和52年(1977)に完成された。ここよりさらに東、荒川と旧中川の水面の高さも、最大3.2m差があり、荒川ロックゲートで調節して船を通している。長さ55m、幅12mの大きな船も通れる。しかし、小名木川の扇橋閘門は大きな船は制限され、例えば幅8m以下の船しか通行できない。

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前扉(隅田川側)は閉まって赤信号(写真左)/開けられて青信号となった(写真右)

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閘門の後扉(中川側)(写真左)/閘門の後扉を開けているところ(写真右)

 船を通すには閘門を開閉して水位を調整する。二つの水門の間に船を入れる閘室があり、船が入ると水門を閉じ、出ていく側の水位と同じにしてから水門を開けて船を出す仕組みである。この方法の大きいものが太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河である。江戸時代の隅田川、中川口、小名木橋の五本松を見比べると、地盤沈下や公害の無い時代が懐かしい。

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川岸にあった五本松(写真左)/小名木橋の五本松跡(大正時代にセメント工場の公害で枯れ、復元された)(写真中央)/芭蕉が詠んだ句碑跡地(写真右)

投稿者:菊地正浩
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2009年04月11日

春の花冷え

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 信州・標高680mの木島平村大字上木島字糠塚。私が通っている限界集落です。 ここでは梅もまだ蕾で、桜は4月20日ごろ開花でしょう。
「温暖化だから早く咲きます」と、流行に遅れ、平年より5日ぐらい早い程度でしょう。花冷えの日、3月29日の朝、10万キロを超えたわが相棒のボディーは凍りつき、残雪のスキー場ではモーターパラグライダーまで元気に飛びまわっていました。
 この日からニコンの簡単カメラが壊れてキャノンの簡単カメラに変わりました。

投稿者:伊藤建介
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2009年04月12日

『天地人』第15回「御館落城」

 まだ15回というのに、あまりにもちぐはぐ陳腐なストーリーに、すでに歴史作家の先生方も気分が萎えて批評から脱落してしまった今年の大河ドラマ。こちらも相当気分が萎えており、見続けるのも辛くなってきました。すでに視聴率20%を切ってしまっているのに、ワーストを更新しそうで怖いです。
 で、何なんじゃ? この緊迫感まるでなしの御館の乱は! ストーリーでは御館の乱の張本人である兼続が、景勝の母仙桃院と妹華姫のいる御館へ使者に立とうとし、代わりにお船が仙桃院のもとを訪れています。でも、まったく効果なしで、景虎側についていた北条高広は何者かに殺されてしまいます。戦死したのは高広の子景広なんですがね。
 結局、この御館の乱の顛末は本来は兼続が一番腹黒いことをしておきながら、それを景虎の側近遠山康光に悪事のすべてを押し付ける乱暴なストーリーでした。実際は景勝と武田勝頼が同盟を結んだ時点で、一度は勝頼の仲裁で景勝と景虎の和議はいったん成立しているわけです。御館落城前に仙桃院の説得に応じ、道満丸を人質に出そうとしますが、これも遠山ともとれる和平反対派に殺されてしまいます。でも、史実では御館落城後に上杉憲政が道満丸を連れて仲裁にあたろうとしたところを、景勝の手の者に殺されているわけです。
 でも、優しい妻夫木兼続に泥を塗らせたくない脚本家がおかしなシナリオにしてしまったおかげで、もう支離滅裂な内容になってしまったわけです。鮫ヶ尾城の最期ももう無茶苦茶。城主堀江宗親の裏切りにあったのは史実ですが、それなら堀江勢が景虎に攻めかかってきてもよさそうなのに、景虎のところは誰も攻めてくる気配もなく、しかも兼続と上田衆が駆けつけています。で、この期におよんで「道満丸様の不幸は我らの仕業じゃない」ってあなたおかしいでしょ。しかも景虎は「兼続、大義であった」ってね。大義って一体なんなのと思う結末でした。だから景虎の最期もわけ分からぬままで、せっかくの名場面すら台無しにしました。
 そういえば今回、信長と初音の漫才コンビは出てきませんでしたね。出てきたところでどうにもなりませんが。

このひどいストーリーぶりはこちらの批評も併せてお読みください。
橋場日月先生『日次記(ひなみき)』
桐野作人先生『膏肓記』

 史跡紀行では新潟県妙高市を取り上げ、関山神社、鮫ヶ尾城跡、勝福寺などが紹介されました。ここは昨年二度訪れたところで、鮫ヶ尾城の遠景は午後逆光になるので、午前中に再撮しました。アクセスでJR信越本線北新井駅から徒歩25分となっていましたが、徒歩25分は往復で考えると結構きついです。それならば隣の新井駅でレンタサイクルを借りたほうが賢明。ただし、変則ギアのない自転車なので坂道は結構辛かったのですが。今回は勝福寺の子どもっぽい景虎像とJR新井駅のスタンプ、および鮫ヶ尾城跡と城の麓・斐太県民休養地にあったスタンプをUPします。余談ですが、斐太県民休養地では景虎グッズを多数販売していました。

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投稿者:管理人
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2009年04月14日

皇居周辺の桜は日本一だ!

 今年、皇居周辺の桜は3月下旬の一時的な冷え込みにより、満開になるのが昨年に比べて10日ほど遅れた。待ちかねたようにファンがどっと押し寄せ、いつもながらの光景が繰り広げられた。筆者は何処よりも皇居周辺の桜を愛し、靖国神社と千鳥が淵戦没者墓苑の参拝を兼ね花見を楽しむ。これが年中行事の一つなのである。以下、今年の桜をご紹介するのでどうか見てください。

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四谷駅前の四谷見附跡(御門)を起点に外堀公園の桜。延々と市ヶ谷見附(御門)までの遊歩道にはたくさんの見事な桜が続く。桜の木の下には夜の宴に備え、すでに陣取りが終わっている。

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靖国神社境内。毎年気象庁が「開花宣言」を行うための桜である。4月3日夜、薪能が開催されるため、傍らに建つ能楽堂が開けられている。この桜も最近では老朽化のため、開花が千鳥が淵よりも2~3日早まっているらしい。そのために新しい若木を選定しているらしい。

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田安御門、武道館の桜、毎年各大学の入学式で賑わう。今年は法政大学で父兄共々ごった返していた。

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北の丸公園の桜と花(写真左)/竹橋御門のしだれ桜(写真右)

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(上6点)千鳥が淵でボートに乗っての観桜。水面スレスレに伸びた枝振りや靖国神社の一番鳥居が見える。

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半蔵濠から春霞の中、遠く国会議事堂を望む(写真左)/二の丸庭園の桜(写真右)

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北桔橋門を渡り本丸跡傍の桜、少し散った路上の花びらが綺麗。

投稿者:菊地正浩
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2009年04月15日

桜だより1

2009年春に撮影した桜の一部を紹介します。

●飛鳥山

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写真左は3月28日に撮影した飛鳥山で、まだ二分咲き程度でした。4月7日に再撮したのが写真右です。

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山全体が桜色に染まり、沿道は桜のトンネルです。


●井の頭恩賜公園

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井の頭池畔の桜が見事です。ただし、七井橋からの撮影は午前中は逆光になります(写真左/4月7日撮影)。9日に再度夕刻近くに訪れましたが、池はボート客で大繁盛の様子です。

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すでに桜は散り始め、水面も桜色に染まっていました。


1日おいて4月17日につづく

撮影者:村野鎮守
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2009年04月16日

横浜の春

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4月1日に横浜の港へ。家からクルマで20分。近いのか遠いのか?
赤レンガ広場では、開港150周年記念のイベントがオープン。
港には南米と南洋の楽園クルーズ「にっぽん丸」とサイパンクルーズ船が着岸中でした。上の写真の中央がその2隻です。


花の美しさと、暖かな海からの風、花の香。

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帰路、中華街・東林で「海老そば」を。遅い昼食。まことに美味!


投稿者:伊藤建介
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2009年04月17日

桜だより2

●増上寺・芝公園

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浜松町駅スタンプのデザインにもなっている増上寺と東京タワー。午後は逆光になるので午前中が狙い。将軍家の廟所が公開される御忌大会(ぎょきたいえ)と4月8日の花まつりが終わると、急に人気もなくなるのでオススメです。

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4月8日にはお釈迦様の誕生日で、花まつりが各寺院で行われました(写真左)。お釈迦様の像に甘茶をかけてお祝いします。甘茶は砂糖が入ってなくてもほんのり甘くておいしい。昔は貴重な甘味料でした。
芝公園や増上寺からは桜と東京タワーのセットも絵になります(写真右)


●桜坂

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六本木にある桜坂です。オフィス街にありながら桜のアーチが続きます。


明日につづく

撮影者:村野鎮守
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2009年04月18日

桜だより3

●隅田川・隅田公園

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滝廉太郎作曲『花』で知られるハルウララの隅田川です。嗚呼、一度でいいから、こんな日和に水上バスに乗ってみたいですね。

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隅田川でおなじみなのは、『山本や』の「長命寺の桜もち」です。普段ならすぐ買えるのに、シーズン中は長蛇の列。この季節だから桜餅が食べたくなるのは、大衆心理でしょうか。

●目黒川

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 JR目黒駅から近い目黒川の桜並木です。桜並木はきれいですが、コンクリで固められた川の汚染が残念。クロメダカが棲めるような川になってほしいです。

●新宿御苑

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 今回の桜めぐりで一番の掘り出し物は、この新宿御苑でした。桜の種類が多いのと、広大な園内の至るところで桜が見られ、都心にいることを忘れさせてくれる楽園。芝生広場も気持ちよく木陰で春眠している人も多数いました。

 まだまだ紹介したいところは多々ありますが、以上をもって2009年桜だよりを終わりにします。都内の桜めぐりは、やはりJRの都区内パス730円か東京メトロ一日乗車券710円、東京メトロ・都営地下鉄共通一日乗車券1000円(ただし、都電は利用できないので注意!)、都営地下鉄、都電、都バスが1日乗り放題の都営まるごときっぷは700円がおすすめですが、都営は3月下旬~4月下旬の土休日に「春」のワンデーパス500円(ただし、こちらは都電・都バスは利用できない)もあります。それぞれのフリー区間に合わせた沿線の名所をめぐるとよいでしょう。また、小石川後楽園などは地下鉄一日乗車券の割引対象施設で、入園料の割引特典の恩恵に預かれます。

おしまい

撮影者:村野鎮守
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2009年04月19日

『天地人』第16回「信玄の娘」

 なんか、本日の大河ドラマ終了後あたりからぐぐっとアクセスが増えていたようですが、この日は仕事が立て込んでおり、日付が変わってから更新しています。愛読者には申し訳なかったかな。
 今回はまったりとしながらも時代が2年も進み、急展開になってしまいました。でも、ホームドラマ仕立てで肝心の歴史的事項はすっ飛ばされていたようで……。景勝と菊姫の婚礼に関しても、いきなり寝所に懐剣を所持している菊姫。予告ではもっと緊迫した雰囲気が流れるかと思っていたのですが、さすがはホームドラマ。庭先の雪割草を見ただけで上杉家と打ち解けてしまいました。体育会系の姫様って単細胞なのね。実際には晩年は人質生活が続いて不遇な人生を送ったのですが、このあたりはどう描かれるんでしょうか。
 一方、浜松城の徳川家康(松方弘樹)が顔見せ。なんか秀吉とキャラがかぶりすぎていませんか。そして安土城の信長とともに「上杉家には策士がいる」と、兼続との絡みに伏線をはります。
 といっているウチに御館の乱はあっけなく終結したかと思えば、兼続は家老に抜擢されます。しかし、まだこの時点での兼続の地位はそれほど高くなかったはずなのに、直江信綱と二人体制になっています。実際は信綱死後に兼続は狩野秀治と二人の執政体制に入るのですが、狩野秀治は出てきませんね。
 でも、兼続と信綱がようやく打ち解けあったと思いきや、もう信綱は殺されてしまって何が何だか分からない。実際は御館の乱の論功行賞のもつれがあって、上田衆と外様国人衆の対立があったんですけど。このあたりはのちに反乱を起こす新発田重家すら登場しません。この事件の起こったのは天正9年(1581)9月で、御館の乱の最中に景虎から景勝に鞍替えした毛利秀広が、景勝の側近の山崎秀仙を殺害し、止めに入った直江信綱も巻き込まれて殺されてしまうのです。その毛利秀広も岩井信能に討ち取られているのですが、名前も何も出てこないんじゃ、一体なんなのととまどうばかりです。次回で未亡人となったお船と兼続が結婚して「直江兼続」となるわけですが、この回想シーンもう少し細かくやってくれないと、せっかくの信綱の立場はどうなってしまうのでしょうか。

久々にタイムリーに書いてくださった、こちらの批評も併せてお読みください。
桐野作人先生『膏肓記』
橋場日月先生『日次記(ひなみき)』

 史跡紀行では菊姫の故郷である山梨県甲府市を取り上げ、信玄の居城・躑躅ヶ崎館跡(武田神社)が紹介されました。ここは2007年の大河ドラマ『風林火山』の取材で訪れた地ですが、なぜか『風林火山』のときは写真をUPしていませんでしたので、今回は武田神社とスタンプをUPします。

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 あと菊姫が歌舞伎『本朝廿四孝』の「八重垣姫」のモデルと紹介されました。八重垣姫は架空の人物で、こちらは上杉謙信の娘で武田勝頼に嫁ぐ設定になっています。諏訪法性の兜が原因で両家が不和になったが、八重垣姫が兜に祈願して氷のはる諏訪湖を渡って勝頼のもとへ行くというストーリーです。今回は紹介されませんでしたが、諏訪湖上にはこの八重垣姫像が立っていますので、今回はこの八重垣姫像と最寄駅のJR中央本線上諏訪駅のスタンプもUPしておきます。

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なお、来週の4月26日は取材で不在のため、帰京後の更新になり、遅れますのでご了承ください。

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投稿者:管理人
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2009年04月21日

世界遺産登録をめざす富岡製糸場1

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●富岡市誕生の歴史
 いま群馬県富岡市周辺が熱い。平成19年(2007)に世界遺産国内暫定リストに搭載されてから、訪れる観光客も多く、官民あげての観光振興に力を入れている。富岡市とは県西部、利根川の支流鏑(かぶら)川流域に位置し、地名は江戸時代初期に始まり比較的新しい。明治22年(1889)、富岡、七日市(なのかいち)、曽木の三郷が合併して富岡町となる。昭和29年(1954)、富岡町、一ノ宮町、小野、黒岩、高瀬、額部(ぬかべ)の四村が合併して富岡市となる。昭和30年(1955)吉田村、昭和34年(1959)福島町の一部、昭和35年(1960)丹生(にう)村を編入、2006年平成の大合併で妙義町と合併して現在に至り、数奇な合併の歴史を辿った。
 慶長16年(1611)、徳川幕府が中仙道脇位置に新町建設を計画、宮崎村(現・富岡市)の住民を小幡藩瀬下郷へ移住させ富岡郷をつくったのが始まりである。富岡郷は砥沢(とざわ)村(現・南牧(なんもく)村)で産出される幕府御用達の砥石(といし)や廻米(かいまい)の下仁田(しもにた)(姫)街道における輸送基地とした。中央に位置する七日市には七日市藩(加賀前田藩の支藩1万石)の陣屋跡(現・富岡高校)が残っている。

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樋の造り方で屋根が曲がって見える目の錯覚

●製糸都市への道
 この富岡市に明治5年(1872)、我が国最初の官営模範工場、富岡製糸場が建設されてから製糸都市へと変貌していった。この富岡製糸場を中心に絹産業遺産群(10か所)を、世界遺産に登録させようと運動している。何故、富岡を中心に絹産業が発展したのか? 地理的には南部に御荷鉾(みかほ)山地、西端部には大桁山、北部は標高2~300mの丘陵性山地などに囲まれている。中央部を鏑川が東へ流れ、左岸の高田川との合流点西方で、両川に挟まれた段丘面に主邑の富岡市街が形成されている。
 市域一帯は和銅4年(711)に建てられた多胡(たご)碑に見える「甘楽(かんら)郡」の地がある。甘楽は韓(から)で、この地に移り住んだ高い農業技術と文化を持った韓(現朝鮮半島)からの帰化人を中心に開拓が進められた。隣の下仁田町で韓の古銭がたくさん発見されたことや、一ノ宮の本宿郷土遺跡からは、古墳時代~平安時代の大集落跡が発見されたことなどからも伺い知ることができる。もともと群馬県でもこの一帯は蚕糸業が盛んであり、藤岡市の高山社や小幡・上野(こうずけ)地区などの養蚕農家が組織した、甘楽社小幡組や黒保根村(現・桐生市)の甘楽社水沼組などが代表格である。京都の西陣に対して東の西陣と言われた桐生絹産業を支えていた。即ち、桑の木栽培に適した段丘と、清流があり地理・地形的にも適地である。溯れば、楮や三椏の栽培にも適し、清流があることは、手漉き和紙の里でもあった。小幡・秋畑紙、桐生紙などは代表的な和紙であった。しかし、明治維新後の養蚕振興により和紙の里は姿を消すことになったのである。

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4月23日につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年04月23日

世界遺産登録をめざす富岡製糸場2

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ワインを飲んでいたブリューナ邸

●富岡製糸場の歴史
 ペリー来航、開国、安政の五カ国条約締結、貿易開始、生糸の輸出という流れは、各地の蚕糸場から日本のシルクロードを経て横浜に運ばれ、輸出が盛んになった。明治新政府は殖産興業の一つとして製糸業に力を入れ、生糸の輸出による外貨獲得に乗り出した。そして、我が国の模範となる官営の製糸場建設に取りかかった。軍需、産業、文化などあらゆる分野で欧米に追いつけ、追い越せと外国人指導者を招き技術導入を図るが、製糸技術についてはフランス人、ポール・ブリューナを招いた。ブリューナは候補地選定のため各地を回った。東京への至便さと、工場の立地条件を考えて富岡に白羽の矢を立てたのである。
 主な理由は、①もともと養蚕地を抱えており原料の繭(まゆ)が確保しやすい、②広大な工場建設地に地元の同意が得られる、③製糸に欠かせない清流(鏑川)があり、東京への舟運ともなった、④燃料の石炭は近くの高崎、吉井で採炭できる、⑤建設に必要な資材、材木は妙義山の大木杉、石材は甘楽の連石山、レンガの目地(めじ)は下仁田の石灰と揃えられる。などであつた。
 明治4年(1871)、ブリューナはいったんフランスへ帰国、製糸機械を購入し技師、女工13名を伴い帰国した。翌年、建造物は完成したが、工女募集に際しては、ブリューナが毎夜赤ワインを飲む姿を見て、若い娘の血を飲んでいるという噂により、思うように採用ができなかった。国は全国の町長、村長、士族の娘を率先して応募に当らせ、下は10歳から20歳以上、556名を採用、当時の労働時間では初の8時間労働を採用、給料も破格の待遇とした。それまでは、細井和喜蔵の著書「女工哀史」に書かれているとおりの実態であつたが、それに比べれば様変わりの待遇であった。その表れは、「女工」とは呼ばず「工女」と呼ばれた。しかし、これらの待遇は採算がとれず赤字であったが、国営だからこそできたことである。
 このような努力の甲斐あって、明治5年(1872)10月、明治政府の生糸輸出振興策模範工場、我が国初の官営機械製糸場は操業を開始したのである。その後、明治26年、三井製糸に払下げ、同35年、原合名会社へ譲度、昭和13年(1938)、片倉工業㈱へ譲度されてから同62年工場閉鎖まで続けられた。平成16年(2004)、国の文化財指定となったことを受け、翌17年、富岡市が買収を計画、その敷地はなんと、55391㎡の広さである。同時に片倉工業から富岡市へ建造物が寄贈された。平成18年(2006)、敷地が無事富岡市に譲度されたので、国重要文化財の指定を受けた。このような経過を辿り、世界遺産国内暫定リスト搭載を迎えたのである。

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レンガはフランス積み倉庫(写真左)/レンガはイギリス積み油倉庫(写真右)

daientotsu.jpg 大煙突

●富岡製糸場の見どころ
 日本の赤レンガ番付表で東の横綱に位置されている。建築方法は木骨レンガ造り、積み方はフランス積みと一部油倉庫はイギリス積み。木骨は妙義山の杉の大木、レンガは甘楽で焼いたもので土のみによる。土台石は甘楽町連石山の牛伏砂岩(ちなみに甘楽町小幡の城下町は見事な石垣による武家屋敷などが残っているが、石垣などは連石山の石と鏑川の支流雄川(おがわ)の石である)。大煙突は高さ37.37m(これまで37.5mとされてきたが先般国土地理院による測量で修正、原因不明、筆者は地盤沈下と推定)。我が国初の避雷針。など見どころが多い。これらは、多くの観光ボランティアである解説員が、自作の資料とアイデアで親切に説明してくれる。

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製糸場の機械群(写真左)/乾燥庫(写真右)

 なんと云っても圧巻は内部の製糸機械であり、今でも同型は碓氷製糸場で稼動している。筆者はグループではなく、ほとんど独占的に長い時間説明を受けたが、付き合ってくれた人は、小幡出身の学校の先生で、定年後ボランティア活動をしている解説員岩井隼人さんであった。ここに紹介し深謝したいと思う。

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 その他、旧甘楽社小幡組倉庫(歴史民俗資料館)、碓氷峠鉄道施設、赤岩地区養蚕農家群、養蚕栃窪風穴、荒船風穴、薄根の大クワ、冨沢家住宅、高山社発祥の地、旧上野(こうずけ)鉄道関連施設、絹産業遺産群(リスト搭載)も含め、百聞は一見にしかず、である。

おしまい

投稿者:菊地正浩
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2009年04月25日

故郷心の旅「秋葉街道を旅する」1

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 静岡県の主要交通路には、東西に延びる東海道、そして北に延び、山梨県に抜ける甲州街道と長野県に抜ける秋葉街道があります。秋葉街道は長野県飯田と静岡・遠州を結ぶ総延長220㎞余の道で、遠信古道とも呼ばれ、また、太平洋の海で採れた塩が、この道を通って信州に運ばれたことから「塩の道」とも呼ばれていました。
 街道の途中、秋葉山にある秋葉神社が、江戸時代になって、火伏せの神としての信仰が盛んになると、やがて“秋葉街道”と呼ばれて親しまれるようになりました。春爛漫の穏やかな日、東海道の雑踏を逃れるようにして、国道152号線「秋葉街道」を一路、長野県飯田をめざしてひた走ります。
 天竜二俣の町からは、深い山間を縫うように、天竜川に沿って進んで行きます。快適なドライブの途中、船明ダム湖を過ぎ、秋葉トンネルを抜けると、右側に大銀杏を印す二つの大石塔が現れました。石塔の間を抜け、朱色のアーチ橋を渡って9㎞奥に入ると、そこには火祭りで名高い秋葉神社があります。
 大井橋の交差点からは天竜川と離れ、車は山間部に入って行きます。離合しにくいワインディングロードが続き、のんびりペースのドライブで風情を楽しみながら走るなか、走り馴れた地元のおばさんドライバーの車が、猛スピードで我が車を追い越していくのには、度肝を抜かれます。

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 相月地区に入ると、JR飯田線が道路に沿って続きます。城西の駅前では、近所のおばあさんが、清掃作業を行っていました。1時間に1本あるかないかの単線駅。これはたいそうのどかな光景です。

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 城西駅近くには、鉄道ファン注目のフォトスポットが・・・。第六水窪川橋梁、別名「S字橋」と呼ばれ、中央構造線断層の地殻変動で予定していたトンネルが崩壊。水窪川の上を橋で迂回させた、いわくつきの鉄橋です。

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 春空に気持ちよく泳ぐ鯉のぼりの下を、ゴトンゴトンとゆっくりとした音を響かせながら走って行くローカル列車。スローな時間のなか、人と自然が調和した日本の原風景に、心癒されるひとときでありました。
5月12日につづく

投稿者:にわあつし
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2009年04月26日

『天地人』第17回「直江兼続誕生」

 大変遅ればせながら、取材から帰京後にようやく録画を観ましたのでUPします。本来なら4月末日に更新するつもりだったのですが、5月に入ってしまいました。
 いろいろなことがあって焦点がボケてしまったような今回でしたね。直江信綱が亡くなって未亡人となったお船と兼続が結婚して直江家の名跡を継ぐ。これで今回の主人公である直江兼続が誕生するわけです。でも国内争乱で夫婦は顔を合わすこともなかったと。まぁ、時期的にいえばそうかもしれませんが、形だけでも式くらいはあげてもいいでしょうに。本来のラブコメ&ホームドラマのつくりに習うなら……。

兼続「お船ちゃん、じ、実わ、ぼ、僕は君のことがず、ずっと好きだったんだ」
お船「私もよ兼続、あなたのことが好き」

 とこんな具合な青臭いドラマなるのですが、どうもシリアスになってしまい、どういう視聴者を対象にしているのかわかりません。その頃、すでに信長の軍は越中に侵攻し、防御の要となる魚津城に迫ります。魚津城では老臣の吉江宗信や兼続の幼なじみの安部政吉も討死してしまうわけですから、このあたりは幼少の頃からの深い関わりも描いてほしかった気がしますね。
 一方、余計な安土城で信長と石田三成が面会。信長への仕官を断ったあと、あのうざい初音と何やら話しております。原作では初音と兼続が男女の関係をもつのですが、これでは三成と初音のほうが仲睦まじいですね。ドラマでは初音との関係をはばかったのでしょうか。どーでもよいことですが。
 天正10年(1582)に入って武田家はあっけなく崩壊。景勝も援軍を送りますが、勝頼は自害して武田家は滅亡します。ここで信長が光秀を折檻。これを家康が止め、このあと光秀は家康と茶をたしなみ、「このまま上様について行く気か」と家康にもちかけます。本能寺の変は光秀・家康共謀説をとるのでしょうか。そして光秀は天海に転身するのでしょうか。
 武田家滅亡後、景勝のもとへ輿入れしていた菊姫は「何の値打ちもありません」と嘆き、景勝は「夫としてこれからも守ってまいる」と無骨ながらも美しき夫婦愛。菊姫も「いま初めて妻となれた」と涙を流します。ですから本題の兼続とお船夫婦はどーしちゃったのよー?

こちらの批評も併せてお読みください。
橋場日月先生『日次記(ひなみき)』

 史跡紀行では新潟県長岡市与板町の与板城跡や与板歴史民俗資料館の直江兼続像、日吉神社などが紹介されました。ここは昨年8月に「青春18」で日帰り旅行したところです。与板町内のポイントをくまなく取材したのですが、本与板城だけは本丸まで行けませんでした。今回は与板城遠景と兼続像、与板歴史民俗資料館のスタンプをUPします。

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『天地人 直江兼続』(メディアボーイ)をまだ購入していない方は、ぜひこちらからご覧になって購入してくださいまし。

投稿者:管理人
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2009年04月27日

手漉き和紙の里(6)~桐生和紙~

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●桐生城下町
 文治2年(1186)、藤原秀郷(ひでさと)の後裔といわれる桐生小太郎綱元が住みついたのが始まり。観応元年(1350)、桐生国綱が市外の北郊梅田の里、柄杓山(標高361m)に城を築いた。通称、城山と呼ばれ今も山頂付近や山腹に馬回り、掘割などの遺構を残している。桐生田沼線という街道を行くと、城の入口には日枝神社がある。桐生国綱が神木として献じた楠の大木が生い茂っている。クスノキ科の常緑高木で南国から渡来、関東以南の暖地に生え、高さ20mにも達するもので普通は群生しない。しかし、ここの楠は4本の大木が並んで立っており珍しいとされている。昭和33年(1958)、群馬県の天然記念物に指定された。城は室町時代末期まで桐生氏の本拠であった。永禄の頃(1558~70)には、越後の上杉謙信について小田原の北条氏と戦う。上杉謙信も桐生氏を重要していたという。天正18年(1590)、小田原城が落城し徳川家康によって廃城されたのである。

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●和紙の里・梅田
 桐生市の北端、根本山を水源とする桐生川は、桐生湖・桐生ダムを経て渡良瀬川へと流れる。その綺麗な流れと水質は、川のほとりの其処、此処に小屋掛けをして、楮(こうぞ)を洗い、叩き、手漉く、和紙の里であった。漉かれた和紙は桐生城御用達のほか、享保から天明にかけて桐生商人、書上(かきあげ)文左衛門により「桐生紙」として江戸に送られたという。

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 今では当時を偲ぶことができないが、桐生紙の伝統を受け継ぎ、未晒(みざらし)で黄ばみと張りのある和紙を作り続けている和紙工房がたった1軒ある。桐生湖をさらに上流へと進むと、梅田5丁目という里で星野増太郎氏一家が和紙工房をやっている。桐生紙の伝統技法を守り、漉き方だけでなく漉き模様や透かし模様などにも取り組んでいる。作られた和紙は大切に箱に納められ保管されている。この和紙を求めて訪れる人だけに直売している。

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 知る人ぞ知るで、星野氏は「桐生市指定重要無形民俗文化財技術保持者」なのである。漉かれた和紙は、書画や文化芸術に多く使われるが、学校の卒業証書にも使用されている。和紙工房には楮(写真右)、三椏(みつまた)が栽培されている。また、昔は桐生川の清流を使っていたが、近年は不純物も多く、水量も減少してきたので、山の湧水をパイプを引いて使っている。楮や三椏を洗ったり、黄蜀葵(とろろあおい)をつけたり、手漉きの水として使うが、飲料水にも良い。一杯飲ませていただいたが、軟水で癖もなく滑らかでとても美味しい水である。家族に後継者もいて伝統を守りながら頑張っている。ぜひ桐生和紙を守っていって欲しいと願う。

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●名物桐生うどん
 この地域は寒いので稲作にはあまり適さない。小麦と蕎麦を作る農家が多い。そのうえ良質な水があるために「うどんやそば」が美味しい。それは「桐生うどん」として評判を呼んでいる。桐生市街でもよいが、この梅田の里で味わう「うどん」は格別である。桐生湖畔、旧道のところに『椿茶屋』という店がある。店内には和紙で作られた凧などの作品が飾られて雰囲気を出している。
 庭には和紙の原料となる三椏が植えられている。三椏は春に花をつけるが、普通は白い蕾から黄色い花を咲かす。しかし、ここにはやがて赤い花を咲かせる三椏が植えられていた。さすが和紙の里だけはあると思う。「うどん」のほうも本物である。ここを訪れた人は会員となり、リピーターも多い。それだけの価値はある。水は何にでも命なのである。

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白い蕾の三椏(写真左)と黄色の花をつける三椏(写真右)


投稿者:菊地正浩
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2009年04月29日

ヘンプなのお

 最近の我のストレス解消は、ヘンプ(麻ひも?)アクセの結び方練習だったり~~~、汗汗。
 下の画像~、「丸四つだたみ」っちゅうヤツに挑戦した時ん残渣?~~~w。

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 玉がポコポコついてるからって、下品な想像せんといてや~~~、冷汗w。

投稿者:ざつはち
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