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2009年05月 アーカイブ

2009年05月01日

東の西陣・桐生織物

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●桐生市の足跡
 群馬県桐生市、地名は桐の木が繁茂していたことにちなむと言う。大正10年(1921)に市制。昭和8年(1933)境野(さかいの)村、同12年広沢村、同29年梅田、相生(あいおい)2村と川内村の一部、同34年栃木県足利郡菱(ひし)村編入、2005・6平成の大合併で新里村、黒保根村を合併して今日に至る。市街は渡良瀬川と支流の桐生川の間を南北に長く広がっている。南北朝時代(14世紀)の武士、桐生国綱(くにつな)が築城し城下町として発展した。16世紀になり桐生新町を建設し、絹織物、絹市場の町として栄え、我が国の織物産業史を代表する一つの町となる。江戸中期の元文3年(1738)に京都の西陣から染色、紗綾(さや)織技術が導入されてから大きく発展した。もちろん、周辺には桑の木栽培、養蚕、製糸の地帯を抱えていたことと、染色、洗浄に必要な水が桐生川であったことも欠かせない。江戸後期の最盛期には「西に西陣、東に桐生」とまで言われるようになった。白縮緬(ちりめん)、御召(おめし)、銘仙(めいせん)、帯地(おびじ)、刺繍物(ししゅうもの)などが有名である。一帯はノコギリ屋根で有名な織物工場のほか、製糸、染色、機織、倉庫などの近代建築物や織物産業関連施設が今なお多く残る。また、古代からの遺跡も多くあり見所のある産業遺産観光地である。なぜ産業遺産? 戦後の繊維不況は絹織物から機械工業都市に変わっていき、案外知られていないのがパチンコ産業である。大手メーカーが多く集まり、全国一のパチンコ都市とも言われている。

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●桐生地域のノコギリ屋根の特徴
 桐生のノコギリ屋根工場は、一つひとつが個性的で魅力的な建築物である。近代化建築の産物であり、桐生には染織業の建築物に多く使用され、現存する数は全国で最も多いと言われる。織っている生地の具合を見たり、織り上がった生地を点検したりするにも、北窓からの自然光が最適で、晴天、曇天に拘わらず光に影がなく一定しているからである。芸術家のアトリエなどで北窓が多いのもうなづける。

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●森秀織物参考館「紫(ゆかり)」
 この「紫」で桐生織物産業史が学べる。前述のノコギリ屋根の建物はもちろん、登録有形文化財指定の建物もある。明治から昭和にかけて使用された織機や道具、染色、古器具類や資料約1200点を展示している。

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 織物工程を一堂に展示しており、桐生の織物、染色などに関する学習の場である。単に見学するだけでなく専従の講師が教えてくれる。筆者が訪問した時も、市内の小学生が先生と父兄に引率されて体験学習をしていた。実際に織機に座り、絹の縦糸、横糸を操り布地にしていく体験をし、子どもたちは大いに感心し驚き喜んでいた。

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 売店では絹織物の製品も数多く並べられ、着物や帯という高価なものから小物まである。筆者もちょっと奮発して、車のキーホルダー(写真右)を買ったが、とても綺麗で気に入って使っている。

●森秀織物参考館「紫(ゆかり)」
群馬県桐生市東4-2-24/JR両毛線桐生駅から徒歩20分
入館700円/10~16時/月曜休/0277-45-3111 

投稿者:菊地正浩
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2009年05月02日

京都・下鴨神社の春

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 桜の時期、待ってましたと京都へ。お目当ては下鴨神社と上加茂神社ですが、「賀茂」か「鴨」かよく迷います。
 平城京の水を治めた加茂一族は、京都の扇状地の扇頂部にこの神社を置き、洛中の水の権利を一手に抑えたと推察されます。
 神社の境内は水路がいっぱい。水面の高さは、京都駅近く東寺五十塔頂上と同じです。いろいろ不思議だらけです。
 だから下鴨神社に惹かれるのカモ、ですが。
 写真は上から神社横にある「加茂みたらし団子」と「神社内の橋殿」「糺の森と奈良の流れ」。
 境内の清らかな空気もさることながら、やはり「団子」は欠かせない。

投稿者:伊藤建介
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2009年05月03日

『天地人』第18回「義の戦士たち」

 久々にCGでお金をかけた魚津城攻めが登場しましたね。魚津城3000に対し、織田軍15000となっていましたが、実際の織田軍は4万くらいいたといわれます。
 与板城で留守を預かるお船から志駄(志田)義秀率いる一隊が救援に駆けつけていましたが、この志駄義秀という人物、直江景綱の娘の子にあたり、お船とは従兄弟にあたります。このとき直江家当主の短刀とひと房の黒髪が兼続に贈られ、「死んでなるものか」という決意を新たにします。
 でもね、魚津城救援が実は兼続の秘策で、信濃からの織田軍を陽動したというのはあり得ない話。すでに織田と上杉の兵力差は歴然としており、上杉が八方塞がりで滅ぶのを待つしかなかったのが実情。むしろ上杉が魚津城救援に向かった隙をついて信濃から越後へ侵攻したのは、織田軍の策略であったといえましょう。
 景勝の軍は天神山城まで兵を進めますが、すでに魚津城は二の丸も落ち、本丸を残すのみとなってにっちもさっちもいかなかったわけです。これも兼続が最初から陽動のために兵を出したというのはムリな話で、しかも家老である兼続が織田の包囲網をかいくぐって使者に立つというのはあり得ない話。しかも主命で「魚津に降伏を勧める」としています。しかし、「降伏」というのは敵方に降るということであり、実際は「魚津城を明け渡して上杉本隊に合流を勧めた」わけですから、どうもこのあたりは降伏に対する矛盾がみえます。結局、魚津城の将はこれを潔しとせず玉砕の道を選んでしまうわけですが。
 この時点で魚津城を見殺しにした上杉は、武田が高天神城を見殺しにして崩壊の道を歩んだように、同じ道をたどった可能性はあったわけです。いくら「義の戦士」とはいえ、他の越後国人衆は新発田重家のように信長になびいていたわけですから、武田家滅亡のように上杉家も離反を相当招いたのではないでしょうか。
 それだけに本能寺の変は景勝・兼続主従にとってラッキーマンであり、反対に1日違いで玉砕の道を選んでしまった魚津城はアンラッキーであったといえるのです。この本能寺の変はその後の大名や織田家家臣の明暗をくっきり分けてしまった一大事件だったのです。

あと、こちらの批評も併せてお読みください。
桐野作人先生『膏肓記』
橋場日月先生『日次記(ひなみき)』

 史跡紀行では富山県魚津市の魚津城跡や天神山城跡などが紹介されました。魚津は未訪でしたが、本を制作する際に魚津市から写真を提供してもらいました。天神山城跡の麓には魚津歴史民俗博物館が立っていますが、魚津城跡は大町小学校内に碑が立っているため、自由に見学できません。とくに最近は凶悪な犯罪事件が起こった影響もあって、各学校への立ち入りは厳重になっています。平日とかに職員に声をかければ撮らせてもらえることも多々ありますが、確実に許可を得て撮影しようとすると教育委員会や校長の審査が必要になってしまい、これまた手続きだけで結構な手間がかかってしまうものです。今回は『天地人 直江兼続』(メディアボーイ)から転載した魚津城跡とJR魚津駅のスタンプをUPします。

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追伸:米沢ではGWの期間中、上杉まつりで盛り上がっている様子です。嗚呼、行きたかった……。

『天地人 直江兼続』(メディアボーイ)をまだ購入していない方は、ぜひこちらからご覧になって購入してくださいまし。

投稿者:管理人
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2009年05月05日

手漉き和紙の里(7)~消えた鷲(とり)ノ子紙~1

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●水戸藩指定紙漉き場と風車の弥七、女房お新の墓
 茨城県常陸国(ひたちのくに)那珂(なか)郡嶐郷(りゅごう)村一帯(現・常陸大宮市)は、鷲ノ子和紙を漉く古い紙郷である。茨城県北部で西は栃木県に接し、八溝(やみぞ)山地の鷲ノ子山塊南東部にあり、大部分は2~300mの山に囲まれた山林である。那珂川と支流緒川の谷地平野に集落が点在する農山村である。合併の歴史を辿ってみると、昭和31年(1956)小瀬(おせ)、八里(やさと)、長倉(城址)、檜澤、の5村で緒川村、檜澤の一部と嶐郷村で美和村が誕生した。2004になり緒川村、美和村、大宮町、山方町、御前山(ごぜんやま)村の平成大合併により常陸大宮市となった。

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 江戸時代には水戸藩指定紙漉き場となり、水戸光圀は風車の弥七の進言により、城内の侍女たちを寒中に遣わして紙の尊さを知らしめるため見学させたという。当時の面影はなく、紙漉き場であったという碑(写真左)が建っている。テレビで御馴染みの『水戸黄門』で、家来の風車の弥七と女房お新の墓(写真冒頭2枚)、住居跡碑(写真中央)がある。墓地も立派で訪れる人も多い。本名を小八兵衛といい、忍びの技術に長けた盗賊で、捕まってから光圀に仕えたという。
 駐車場のところにある公衆トイレ(写真右)には、男女別の表示ではなく弥七とお新になっているのがおもしろい。此処で漉かれた和紙は水戸藩のほか江戸へと送られたが、紙街道(現・国道293号)は和紙の輸送と紙商人で賑わったという。明治時代には選挙用投票用紙に鷲ノ子紙が使用された。

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●何故、鷲ノ子紙なのか?
 昔は下野国と常陸国の国境、今は栃木県那須郡馬頭(ばとう)町(現・那珂川町)と茨城県那珂郡美和村(現・常陸大宮市)の県境にある、鷲子山(標高468m)。常陸風土記には大山と記されており、1200年以上も前から名を残している山である。山には樹齢千年を越す杉の大木をはじめ、いろいろな樹木が生い茂り、古来より霊峰と呼ばれている。
 山頂から眼下に北関東平野が一望でき、南は筑波山や晴れた日には富士山、西は日光連山や那須連峰、北は八溝山という展望である。昭和58年(1983)に「日本の自然百選」に選定されている。
「紙街道」と言われる道を通り、鷲子山への道は未開発のままであったが、昭和も後半になってから車で登れるようになった。だが、相変わらず曲がりくねった細い山道である。鷲ノ子地区も昔から辺鄙(へんぴ)な土地で、昔は石の道路標識に「はとうからすやまとりのこみち」と書かれ、見る人が「鳩烏山鳥」と読み、人が通るところではないと考えて引き返すという話が伝えられている。いまでは国道293号線に「馬頭・烏山・鷲子」となっている。

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 鷲子山には古くから人が住み、弥生式土器の出土や宝物が発見されている。鷲子山上(とりのこさんしょう)神社の創建は古く、大同2年(807)馬頭の大蔵坊宝珠(ほうしゅ)上人が諸国遍歴中、四国阿波国で紙漉きの神に出会ったと云われる。神様は天日鷲命(あめのひわしのみこと)で神社名も、鷲権現、鷲子権現、鷲子山神社などと呼ばれた。明治4年(1871)に現在の鷲子山上神社となったのである。天日鷲命は『古事記』『日本書紀』にも記されているが、まだ未開発であったこの地に産業振興の一つとして製紙殖産の神として迎えられたと言われる。水戸光圀も紙漉き振興のため参拝に訪れたという。
 また、名前のとおり鳥の神様で、フクロウ、キジ、ニワトリ、カラスなど多くの鳥が崇敬され大切にされてきた。神社のいたるところにフクロウがあり、日本一の大フクロウ(不苦労といい7mある)が開運福徳を招くといって参拝者も多い。つまりここの神様は紙の神様であり、この地一帯で漉かれた和紙を「鷲ノ子紙」と言ったのである。

5月7日につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年05月07日

手漉き和紙の里(7)~消えた鷲(とり)ノ子紙~2

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●観光振興を図る茨城県常陸大宮市・栃木県那珂川町

 平成の大合併によりそれぞれが大きな町となった。水戸から郡山へはJR水郡線と国道118号線。国道293号線は太平洋から常陸太田市を通り那珂町から宇都宮方面へと貫いている。かつての手漉き和紙の里もほとんどが姿を消し、新しい観光産業を生んでいる。

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 JR水郡線の常陸大宮駅から郡山方面へ一つ目に玉川村駅(写真左)がある。「関東の駅百選」に選ばれた田舎の駅である。さらにここから国道293号を北西に行くと緒川村役場(現・緒川支所)の水準点がある。東京湾の平均水準を0として、千代田区永田町にある日本水準原点標庫が24.4140mと定められている。この緒川支所の水準点は80.505mと表示されているので、久慈川の支流に囲まれた低い土地かと思うと、まあまあ標高の高いことがわかる。

hokutoseiteisyoku1000yen.jpg 道の駅みわの北斗星定食1000円

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 和紙の里美和村まで行くと、道の駅みわ「北斗星」ができた。ここは星が綺麗に見える地域なので、天井に星空が描かれているトイレ「満天トイレ」がある。観光地トイレとしては満点のランクに入るであろう。

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 県境にある鷲子山上神社を通り過ぎると栃木県に入り、那珂町の馬頭である。馬頭とは水戸光圀が馬頭観音を訪れつけたとされる。奈良時代には砂金産地で「ゆりがねの里」と言われた。馬頭郷土資料館や広重美術館なども整備されている。道の駅ばとうには那珂川町観光センターも設置されている。

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 だが何といっても馬頭温泉郷の存在であろう。温泉宿が15~6軒ほどあるが、町営の「ゆりがねの湯」が良い。「ゆりがね」とは砂金のことで、砂金の含まれた土砂を水洗いしながら、ゆり動かすことから生まれた。眼下に那珂川の清流が一望でき、泉質も良い。町営だから入浴600円と手頃だが、70歳以上は半額としている。この馬頭を抜けると、小川、喜連川、那須と温泉郷が続いている。

●那珂川町馬頭郷土資料館
栃木県那須郡那珂川町馬頭116-5/JR烏山線烏山駅からバス、馬頭町役場前下車徒歩4分
入館無料/9~17時/祝祭日、月曜、第3日曜休/0287-92-1103

●馬頭温泉郷「ゆりがねの湯」
栃木県那須郡那珂川町小口1671-1
10~21時/月曜(祝日の場合は翌日)休/0287-92-3023

おしまい

投稿者:菊地正浩
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2009年05月09日

京都の春 上賀茂神社と塩

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東山の都ホテルから桜の鴨川を遡って、上賀茂神社へ約10キロのウオーキング。
見事な桜が続く鴨川の土手は、ほとんどがシダレザクラです。下がる、垂れる、流れる、京都の桜は仏教影響で意味深長。
上賀茂神社は祭神が雷(いかずち)で、神社背後の神山を形どった砂を拝殿前に並べています。ここから清めの砂、塩が発祥しました。雷は雨、水のもとでもあり、ここも鴨長明ゆかりで、葵祭はこの神社の1400年続く伝統行事です。

写真は上から拝殿前の砂盛り。ここも水を使った橋殿がある。
下は満開の境内のシダレザクラ。見事な美しさです。


投稿者:伊藤建介
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2009年05月10日

『天地人』第19回「本能寺の変」

 ガガガーン! とうとう前回で第13回のワーストを更新する16.7%。せっかく米沢では上杉まつりで盛り上がっていたというのに、どーすんだよ、この数字。あまりの萎えぶりに他の歴史作家先生も連載は止めてしまったし……。
 魚津城を放棄して春日山に戻った上杉軍。春日山まであと5里という二本木まで迫った森長可の軍は三国峠で滝川一益の軍が敗れると、あわてて信濃へ引き返したとしていますがあり得ない話。史実では森長可は関山に止まっており、越後から撤退するのは当然、本能寺の変を知ってからです。「鬼武蔵」の異名をとる長可が泣くぜ。で、その退却する森軍を討ち漏らす兼続。春日山に戻ってくるとお船がいます。魚津を見殺しにしてしまったことで泣きながら飯を喰う兼続。お船と結婚しても結局、泣き虫は治りませんね。
 一方の本能寺の変。先に光秀から魚津城に密使が届いていましたが、信長を討つ前に手紙を出すとはいい度胸しています。で、これまで何度も劇的に描かれた本能寺の変でしたが。これを台無しにしたのは初音。とっくに包囲されているのに、「お逃げください」とか馬鹿なことをいい、信長も「信長の夢、お前が見届けよ」とか相変わらず最期まで漫才コンビ。本来なら濃姫とか長可の弟蘭丸君が活躍するのに、どこへやら……。さらに信長が自害する際には謙信の亡霊が出てくるわで、なんかせっかくの本能寺の変のハイライトを見ようと戻ってきた視聴者に「もーみたくねぇ」と止めをさしたようなアホな設定でした。
 で、もっていつの間にか光秀の陣中に潜入し、光秀の首を絞めている初音。そんな優秀な忍者なら本能寺の変が起こる前に光秀を暗殺できただろうが! この初音という存在がドラマをぶち壊しているのですが、この女今後も秀吉や家康と絡んでくるのでしょう。脚本家は視聴率落とす元凶と思っていないのでしょうか。
 魚津城玉砕は悲しいシーンでしたね。城将たちが耳に孔をあけて自分の名札を結んだエピソードが採用されていましたが、雲洞庵で一番利発そうな弐介(安部政吉)とミニ与六をもう少し絡ませ、回想シーンに使えばもうドラマチックになったでしょうに。そして間に合うと思って駆けつけたけど、間に合わず玉砕してしまったとしたほうが悲劇性ももっと出たでしょう。最後は兼続とお船の夫婦ドラマで終わってしまいましたが。

 史跡紀行では京都市中京区の本能寺が紹介されました。元の本能寺は元本能寺南町の本能寺小学校にあったのですが、廃校後に発掘調査が行われて遺構などが発見されたようです。現在の本能寺も本能寺跡も未訪ですが、京都の特派員が撮影してきた本能寺跡とJR京都駅のスタンプをUPします。

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 あとついでに先週、上杉まつりで米沢へ取材に行ってきた女流漫画家かつレキジョ空飛鳥特派員が食した新発売のJR米沢駅の駅弁「上杉の智将 直江兼続公御膳」1300円もUPしておきます。直江の家紋をイメージした六角形の容器に米沢牛の牛串や肉団子、油揚げの巾着、棒だら煮、玉こん・里芋の串刺し、松前漬け、おみ漬け、厚焼玉子焼き、蒸し海老のちらし寿司、山形県産米はえぬき、米澤のもろみ茄子、梅しそ団子などが入ったデラックスな中身。しかも1日限定10食なのですが、よくぞ買えました。ご苦労さまでした。

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『天地人 直江兼続』(メディアボーイ)をまだ購入していない方は、ぜひこちらからご覧になって購入してくださいまし。

投稿者:管理人
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2009年05月12日

故郷心の旅「秋葉街道を旅する」2

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 静岡県の北の端、指折りの豪雪地帯でもある水窪の町は、ちょうど桜が満開。町の細い商店の通りには、縄文時代の昔からつながっていたという信州と太平洋を結ぶ「塩の道」の表示が、歴史の舞台を物語っておりました。
 地図を見れば、水窪を離れると青崩峠[標高1082m]を越えて、信州・遠山郷に抜けるルートになっているのですが、青崩の名の如く、たいへん崩れやすい地質層で、昔から秋葉街道の難所。現在、峠越えの道路はできておらず、将来は三遠南信高速道になるという部分的に整備された草木トンネルを抜け、峠を迂回。長野県との境であるヒョー越峠を越え、信州遠山郷に到着しました。

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 遠山の金さんの故郷とは違いますが、遠山川の堤防沿いは約2.5㎞、70本程はあろう桜並木が見事な花を咲かせており、散り際には、金さんに負けぬ桜吹雪が舞うことでしょう。遠山郷「飯田市上村・南信濃村」は、南アルプスの麓・遠山谷に開けた村で、町では「日本の原風景が残る山の里」として観光案内を行っています。その案内の中に、日本のチロル「下栗の里」の紹介があり、上村から看板に従って急坂道を登って行きました。

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 約20mほど坂を登り詰めると視界が開け、南アルプスの白い山々が目の前に拡がります。標高千メートル前後の山の急斜面を切り開き、耕地や民家が点在する風景は、アルプスの山々とともに美しい絵のようなロケーションです。澄んだ空気の中で、爽やかな時を与えてもらい、やがて村をあとにします。日本のチロル、下栗の里の印象は? といえば失言かもしれませんが、チロルと言うよりは、南アルプスシェルパの村? と感じつつ、遠山郷をあとにしたのでした。

5月16日につづく

投稿者:にわあつし
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2009年05月14日

手漉き和紙の里(8)~再現なるか彦間紙~

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飛駒の根古屋森林公園と梅林

●飛駒村(ひこまむら)とは彦間川(ひこまがわ)からの地名
 栃木県下野国(しもつけのくに)安蘇(あそ)郡飛駒村(現・栃木県佐野市)は、県南西部で群馬県と接し渡良瀬川の支流彦間川が流れている。ちなみに桐生田沼線(R66)を走ると桐生川ダムのある梅田湖に抜け桐生和紙の里に出る。明治22年(1889)、田沼(低湿地のためにつけられた地名といわれる)など8村が合体して田沼町となる。昭和29年(1954)、三好、野上の2村、同31年に飛駒と新合の2村を編入。2005・2平成の大合併で佐野市、田沼町、葛生(くずう)町が合併し今日に至っている。町域の大部分は足尾銅山のある足尾山地で、根本山(標高1199m)をはじめ1000m級の山々を背にし、旗川、秋山川、彦間川などが渡良瀬川へと注ぐ。飛駒村とは彦間川からきた地名である。
 原料の楮は山野や畦に自生し、また畑でも栽培した。ネリの黄蜀葵(とろろあおい)のことを古くからオホレンと呼んでいた。飛駒産の生紙(きがみ)は「飛駒八寸」と言われ有名であった。八寸とは障子の桟(さん)の寸法で障子紙や大福帳として使われた。色は多少黒いが丈夫で長持ちすると評判であった。大正4年(1915)に新しい製法を取り入れ、八寸から襖紙や唐傘紙の大判を漉くようになった。また、桐生地方の絹流通手形紙としても使われ、市札の彦間紙として重要な役目を果たした。この頃の漉き家は24~5戸もあったという。しかし、戦後は洋紙に押され、昭和43年(1968)に惜しまれつつ歴史の幕を閉じたのである。

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飛駒和紙会館と飛駒名物天大根そば850円

 平成4年(1992)にまちづくりの一環として、飛駒和紙保存会が結成され、和紙作り伝承の活動を開始した。平成8年(1996)に飛駒の根古屋森林公園内に飛駒和紙会館を建設した。現在、休日には手漉き和紙の体験教室が行われている。しかし、今のところ彦間川から名付けられた彦間紙を漉く家はなく、残念ながら消えてしまったのである。今後は保存会の彦間紙復活の活動を期待するのみである。


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●唐沢山城址(唐沢山神社)
 唐沢山(標高230m)城は約1000年も前に、「むかで退治」の伝説や天慶の乱で平将門を討伐した藤原秀郷(ひでさと)が築城した。その後、後裔の佐野房綱が小田原征伐で豊臣秀吉に味方をして所領安堵となった。慶長7年(1602)、房綱の養子信吉の時代に幕府の命により春日岡城(現・城山公園)に移り、廃城となったのである。城は宇都宮、新田山、厩橋(うまやばし)、川越、忍、太田とともに関東七堅城と言われた。

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 明治16年(1883)、一族、旧臣などで秀郷公の遺徳をしのび、本丸跡に神社を創建し今日に至ったのである。神社のある本丸跡(写真左)には苔むす石垣が当時のまま残されている。その他、二の丸、三の丸、馬場、大炊井(写真中央)、枡形城門跡(写真右)など多くの古跡、旧跡が見られる。

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●安蘇の河原
 彦間川と並行して流れる秋山川、唐沢山への入口に架かる唐沢橋のたもと、ここが万葉集に出てくるところである。万葉集(巻14)にある「下毛野(しもつけの)安蘇の河原よ石踏まず、空ゆと来ぬ汝(な)が心告(の)れ」と刻まれた歌碑がある。阿蘇の河原とはこの秋山川の河原のことである。我が国最古の歌集である万葉集、まだ仮名がない時代で原歌は漢字の音を使っている。「私はこの河原の石踏んだのも気づかないほどに夢中で空を飛ぶように急いで貴女に逢いに来たのです、ぜひ貴女の気持を聞かせてください」と若者が娘に求愛している歌である。現代版ラブレターと比べては如何でしょう。

manyosyukahi.jpg 万葉集の歌碑


投稿者:菊地正浩
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2009年05月16日

故郷心の旅「秋葉街道を旅する」3

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 遠山郷の秋葉街道沿いドライブインの入口には、“梨元停車場”と書かれ、薄緑と空色に塗られたディーゼル機関車と客車がひっそりと置かれていました。昭和15年(1940)から30余年間、約30㎞の区間で木材を山々から運搬した遠山森林鉄道の車両で、歴史を語り継ぐ遺産として展示されています。じっと貨車を見つめていると、南アルプスの山合いで木材を切り出す樵の声や、ゴトゴトと音を響かせて走って来る樵列車の情景が浮かんできます。

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 秋葉街道152号線も、この先の地蔵峠は車道がないため、再び迂回することになります。将来の三遠南信自動車道になる矢筈トンネルを抜けて、飯田市内へと向かいました。途中の喬木村では、廃校跡の土手に満開の枝垂桜が色鮮やかに咲き、木の下では村の人々がお花見を楽しんでいます。明治6年(1873)に開校を記念して植えられたという樹齢130余年の「うじのりの桜」(写真右)は、先に消え去った学びの歴史を深く刻みながら、今日も春爛漫の姿を見せていました。

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 その後、渓谷沿いの曲がりくねった道を走り抜け、飯田市街中央高速を経由、伊那・高遠に向かいます。最終目的地である高遠城祉公園のタカトウコヒガンサクラは五分咲きではありましたが、快晴の空の下「天下第一の桜」にふさわしい見事な輝きを見せていました。

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おしまい

投稿者:にわあつし
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2009年05月17日

『天地人』第20回「秀吉の罠」

 あれっ! 本能寺の変からいきなり3年もすっ飛んでしまいました。早くも天正13年(1585)夏の越中落水城での秀吉との会見ですか。新発田重家の反乱のほうはまったくスルーされています。賤ヶ岳の戦いも、小牧・長久手の戦いも……やっぱりメインは中央舞台との絡みなのですね。
 で、またも鬱陶しい初音が春日山に登場。兼続はなぜか焦っています。このノリって『功名が辻』のときと同じでもういいやって感じですね。で、秀吉の使者かと思えば故郷に帰るって……。
 秀吉が景勝に面会を求めると、景勝は「会わぬ」といい、兼続が必死に説得すると、景勝は「会っても話さぬ」といいます。しかし、景勝はこのとき31歳。秀吉との年齢差は18歳ありますから、無愛想な無言ではかえって秀吉の機嫌を損ねかねないと思うのですが。
 そして落水城で秀吉・三成・景勝・兼続の4者で面会。相変わらず調子よく話す秀吉に景勝はギャグの通じぬ無言。兼続がフォローしますが、ついに秀吉は上洛をうながします。ここで景勝も口を開き、秀吉との同盟が成立しました。
 しかし、三成は兼続に対して無愛想。しかも過去に命を救われているのに忘れている兼続をなじり、「義とは都合のよいときふりかざすものか」と図星をつかれてしまいます。さらに「まっすぐ正直なのもよいが度がすぎるとアホ」とまで言い放つ三成。兼続立場がありません。というところで次回に続きます。

 史跡紀行では新潟県糸魚川市の塩の道や親不知海岸、勝山(落水)城跡などが紹介されました。糸魚川駅には何度か行ったことがありますが、落水城は取材で行くことができませんでした。ということで落水城の写真がUPできませんので、今回はJR糸魚川駅のスタンプと駅にあった翡翠勾玉のモニュメントをUPします。

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2009年05月19日

手漉き和紙の里(9)~消えた海底(うぞこ)染色紙・障子紙~

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 相模国愛甲郡高峰村大字角田・同海底(現・神奈川県愛甲郡愛川町)は、海底障子紙と言われたほどの和紙の里であった。神奈川県中央北部に位置し、西には丹沢山塊が連なり町の中央は宮ヶ瀬湖から中津川が流れる。この中津川流域を中心に丹沢山地の東に広がる扇状地である。地名は中津川の別名、鮎川に由来するといわれる。昭和30年(1955)、愛川町と高峰村が合併、同31年中津村を編入した。
 奥の中津渓谷は景勝地であったが、宮ヶ瀬ダム完成(1996)により水没してしまった。西部の半原(はんばる)地区では養蚕が盛んで、絹糸の産地としては全国の80%を占めていた。ミシン糸の産地で「糸の町・半原」として知られる。さて、和紙の里であるが、現在の愛川町役場がある角田を中心とした地域で、中津川に角田大橋が架けられている。橋の下に拡がる地域に上海底、下海底という所があり、川沿いの集落が手漉き和紙の里であった。

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赤・白の三椏

 現在はその面影もないが、わずかに楮(こうぞ)や三椏(みつまた)が自生している。ネリに使う黄蜀葵(とろろあおい)のことを「ネ」と呼んでいたらしい。

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取壊される郷土資料館

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愛川繊維会館(レインボープラザ)と手漉き和紙の体験コーナー

 愛川町郷土資料館が半原小学校脇にあり、和紙に関する器具資料が展示されていたが、老朽化したのでふれあいの村へ新築移転のため閉館してしまった。歴史を感じさせる建物だけに惜しい気もするが、新設された資料館には色々な歴史遺産が展示されるという。また、半原神社の至近に愛川繊維会館(レインボープラザ046-281-0356)があり、養蚕、撚糸、染色に関する展示のほか、和紙の体験コーナーも設けられている。このように生産こそ行われていないが、海底和紙の伝統を守って行こうと活動している。

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塩川の滝

 話は少しそれるが、この地域には難読地名が多い。海底(うぞこ)、八菅(はすげ)、半原(はんばる)、三増(みませ)、馬渡(まわたり)、などであるが、三増峠は武田信玄と北條氏康が大合戦したところとしても知られる。八菅神社はかって八菅山の山岳信仰の聖地であり、山伏が集う修験道場で毎年3月には火渡り神事が行われて有名である。背後の山は仏果山(748m)、経ヶ岳(633m)などといった山がある。塩川の滝や鉱泉旅館も多いところである。

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丹沢山塊の鉱泉、飯山温泉郷、美登利園


投稿者:菊地正浩
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2009年05月21日

2009ヨーロッパ鉄道心の旅1

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北ドイツの真珠と言われる、エリカ街道の美しい木骨組みの町「ツェレ」に来ています。クレヨンで塗りたくったようなカラフルな家並みが町を埋め尽くし、おもちゃ箱の中に入り込んだみたい! この洋服屋の建物である「ホッペナーハウス」は、とくに大きく見事です。通りのカフェでは、器から溢れるほどに盛られたパフェーを食べている人が多いのに驚いています。
5/10 ツェレにて

投稿者:にわあつし
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2009年05月23日

『大河紀行荒川』のこと

本日は伊佐会員からいただいた『けやき新聞』(ブックセンター滝山)の内容を掲載します。

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※写真は秩父鉄道上長瀞~親鼻間の荒川(親鼻)橋りょうを渡るSLパレオエクスプレス(新聞の内容とは関係ありません)

紀行作家・日本山岳会員 伊佐九三四郎
 『大河紀行荒川―秩父山地から東京湾まで』のタイトルで一冊まとめたい、と思ってからずいぶん年月が経った。かつて『幻の人車鉄道』(河出書房新社)という本を書いたが、荒川も同様の大仕事なので、なかなか取りかかれずにいた。とくに奥秩父の名峰甲武信ヶ岳山頂直下の最初の一滴を、真の沢という谷を完登して手に掬ってから始める、とかたくなに決めていたので、余計スタートが遅れたのだった。
 それが三年前の秋に実現し、若い岳友二人を誘って谷に入った。しかし、通ラズの難所で私がみごとに滑落し滝壷に落ちて敗退した。だが、うれしいことに二人に励まされて、翌年七十五歳の夏にリベンジ。やっと念願叶い完全遡行することができたのだった。その後は、源流域の自然や三峰神社、秩父御嶽普寛神社、猪狩山山頂の神事など山岳信仰の跡を訪ねて秩父盆地に入る。原始の地質を剥きだしにして「地球の窓」などと呼ばれる長瀞周辺では、繰り返された洪水の歴史の痕跡、たとえば高い岩肌に刻まれた「水」の文字からその水量の膨大さに驚かされる。関東平野の大扇状地に顔を出す扇項部の寄居では、戦国乱世にピリオドを打った鉢形城合戦の跡や埼玉県立川の博物館と下って、白鳥飛来地から熊谷に入る。
 ここでは江戸時代の大土木工事で、それまで利根水系に入って江戸湾に注いでいた流れを、入間水系に付け変えた跡をみる。旧水路は元荒川にその名残をとどめていて、清流にしか棲めない貴種ムサシトミヨという魚もみた。下ってサクラソウの田島ヶ原から岩渕水門にでる。隅田川と荒川に二分される所だ。今荒川と呼ばれるのは旧荒川放水路。この人工の川は洪水対策で、明治から昭和にかけて掘削されたもので、工事の指揮をとった青山士という立派な土木技師にも光を当てたい。
 ここまで歩いてみて思うことは多いのだが、河口までまだ点でしか捕えられず、切り口がなかなか見つからない。『幻の人車鉄道』の時のように大枠を決めておいて見切り発車し、踏査しているうちに全体像が浮かんでくる、という方法になるかもしれない。いずれにしても「足で書く最後の仕事」で、寿命と競争の心境といっていい。それでも焦らずにじっくりと行くしかない、と毎日思案をめぐらしている。
(けやき新聞/平成21年4月20日 第65号より)

伊佐九三四郎(いさ くみしろう)
一九三二年東京生まれ。早稲田大学卒。東久留米市在住。歴史と風土に根ざした人間の生活を求めて内外の山に登り旅する紀行作家。日本山岳会、旅ジャーナリスト会議会員。著書に『幻の人車鉄道』(河出書房新社)『奥多摩奥武蔵の山々』『奥多摩奥武蔵日帰り山あるき』『東京江戸を歩く』(実業之日本社)『キリマンジャロの石』(現代旅行研究所・絶版)他著書多数。

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2009年05月24日

『天地人』第21回「三成の涙」

 前回はえらく時代をすっ飛ばしてくれましたが、今回は三成との友情に1話を割いてしまいました。でも、これって隆慶一郎先生の『一夢庵風流記』にも出てきたネタですし、今さらねという感じがしないでもないです。三成との友情を描きたかったのは、のちの関ヶ原合戦の共謀説の伏線にしたかったのかもしれませんが、この説自体、現在は否定的な見解もみられますしね。
 宴席で三成の図星に切れてしまった兼続。秀吉がその場をおさえて三成の過去を話しますが、結局またもまたも出てきたうざい初音。あれっ前回故郷に帰ったのではなかったの? どうやら三成は初音にホの字の様子ですが、初音が関心をもつ兼続に対抗意識をもっているようにみえてしまうのは、僕だけでしょうか。こうなるといくら天下国家などとうたったところで、一人の女性をめぐる争いになってしまいます。まぁそれで『三国志』の董卓も呂布も滅んでしまうのですが。
 一方、菊姫の懐妊の誤報に慌てている最中に、三成が兼続の屋敷に訪ねてきますが、不在中に上田衆の面々を愚弄する始末。兼続が屋敷に戻ってくると、帰ろうとする三成に鉢合わせ。ついでに百姓たちが農産物をもってきてみなで宴会が始まります。場を盛り上げようと裸踊りをする兼続。三成は「アホにはなれぬ」といいながらも、兼続を認め合う仲になり、おにぎりを半分っ子してお友達になりました。めでたし、めでたし。
 次回、ようやく真田幸村が登場。しかし、予告編でもまた初音が~嗚呼、お願いだからもう出ないでおくれ!

 史跡紀行では石田三成の故郷ということで滋賀県長浜市を取り上げ、長浜城、北国街道、三成出生地、観音寺などが紹介されました。長浜城や三成出生地は訪れたことがあるのですが、観音寺だけは未訪です。今回はJR長浜駅前の秀吉&三成出会いの像、長浜駅スタンプ、長浜城をUPします。

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2009年05月26日

佐野市と出流原(いずるはら)湧水1

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 佐野市は栃木県南西部、渡良瀬川の北岸に位置し、市域の大部分は秋山川、旗川の谷が開けたところに形成されている。ここの歴史は古く、『万葉集』の中で詠われた「安蘇(あそ)の河原」とは秋山川の河原である。江戸時代は日光例弊使(れいへいし)街道の宿場町、市場町として栄え天明宿と呼ばれていた。古くから佐野綿縮(ちぢみ)(写真上)の産地として有名であるが、近年は色々な織物を生産している。最近でこそ佐野ラーメンで知れわたっているが、近世では足尾銅山の鉱毒事件で有名となった。昭和18年(1943)佐野、犬伏(いぬぶし)、堀米の3町、植野、界(さかい)、旗川の3村が合併。同30年吾妻村、赤見町を編入、2005・2平成の大合併で田沼町、葛生(くずう)町を合併して今日に至った。

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●歴史がいっぱいの佐野市郷土博物館
 回廊の白い列柱が印象的でモダンなデザインの建物は、日本建築学会賞を受賞した。出流原遺跡や八幡山古墳から出土した考古資料、中世の天明鋳物、宿場風景、村絵図、古文書、綿縮などの産業、足尾鉱毒事件で活躍した田中正造の特別展示室など見どころの多い博物館である。

佐野市郷土博物館
JR・東武佐野駅から徒歩20分/入館無料(ただし企画展開催中は210円)/9~17時/月曜(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日、毎月末日休館/0283-22-5111

http://www.city.sano.lg.jp/city-museum/index.htm

5月28日につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年05月28日

佐野市と出流原(いずるはら)湧水2

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●出流原弁天池湧水と赤見温泉
 池は県指定天然記念物で「名水百選」指定である。古生層の石灰岩を溶解してできた洞穴から湧出する清水によって作られる。年間を通じて一日2400㎥、水温は16度に保たれている。

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 磯山の山腹には鮮やかな赤色の弁財天、ふもとには数千尾の錦鯉が泳ぐ澄み切った弁天池。この池から湧出した水は養魚場、公園などに利用している。佐野市が直接管理をし、清掃などは観光協会が主体となって行っている。

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 湧水を利用した赤見温泉郷はリピーターも多い。昔は近くにいると水の湧く音で話し声も聞こえないほどであったという。石灰岩を溶解した癖のない水は、単純冷鉱泉の湯でさらっとして気持ちが良い。

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 また、飲料水にも適しており、ペットボトルに入れて持ち帰る人も多い。湧水を利用した食品も多いが、なかでも豆腐と湯葉が抜群である。もちろん日本酒やワインなどは当然である。

おしまい

投稿者:菊地正浩
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2009年05月30日

2009ヨーロッパ鉄道心の旅2

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5/14[木]ナショナル・ジオグラフィック誌で「世界一の観光地」に選ばれた、ノルゥエー、最長・最深のソグネフィヨルドです。
絶景を走るフロム鉄道を乗り継いで、険しくもすばらしい風景が続くフィヨルドに感動の連続です。そして、緑多き自然の中に町が作られているノルゥエーの国に魅せられています。

つづく

投稿者:にわあつし
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2009年05月31日

『天地人』第22回「真田幸村参上」

 ようやく戦国武将人気No.1の真田幸村が登場しましたが、相変わらず初音の存在が場をぶち壊しにしています。真田の使者としてやってきた初音。ここで初めて自分が真田家の姫ということを明かしますが、母の身分が低いため忍びとして扱われたということになっています。そこまで昌幸が手段を選ばず非情な人間でしたら、もっと子づくりに専念して、歩き巫女の集団をつくっていると思いますがね。まぁ、自分の娘にもさらに間諜つけているのは昌幸らしくていいですが。あと、くうだらない初音と兼続のラブシーンは余計。
 しかも上杉に人質に出される幸村も姉に惚れている様子でお前はシスコンか! 「姉上以上に美しい女子はいない」って、だからお前はしょせん信州の田舎者なんだよ~。こう書くと幸村ファンを敵に回しそうですね。クワバラ・クワバラ、ドラマに対する突っ込みです。
 で、人質の身分でありながら横柄な態度に出る幸村。これって前回のツンデレ三成と同じではないですか。唯一の見応えあったシーンは幸村と泉沢久秀の槍の手合わせですね。稀代の智謀の士といわれる幸村より、こちらのほうが幸村の実像に近くていいです。しかし、槍を盗んだ事件は余計でした。で、なぜに幸村は知らないふりしながら「自分が腹いせに盗んだ」とかいうのでしょうか。これでは単なる天邪鬼ですよ。
 で、真田が徳川家康に攻められると、兼続は援軍を出すとともに人質であった幸村を真田に返します。原作にもあった話ですが、兼続の「義」や「愛」というのを強調したかったのでしょう。で、もって幸村は役目を終え、また春日山に戻って兼続の弟子となりました。めでたし・めでたし。

 史跡紀行では真田家ゆかりの長野県上田市、真田本城跡や長谷寺、上田城、真田幸村像などが紹介されました。上田駅周辺の上田城は行ったことがありますが、旧真田町エリアは未訪です。上田城も行ったのが10年以上も前になりますから、デジタルデータがありません。今回は上田駅前の幸村像とJR上田駅のスタンプをUPします。幸村像も駅前が整備されて場所が変わりましたね。

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