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2009年07月 アーカイブ

2009年07月02日

手漉き和紙の里(12)~陸奥紙(みちのくし)・上川崎和紙~

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阿武隈川の清流と和紙の里

 福島県岩代国安達郡安達町(あだちまち)上川崎村(現・二本松市)は千年の歴史を伝承する和紙の里である。西部は安達太良(あだたら)連峰の裾野にあたる丘陵部で、東に向って低くなっていき阿武隈川に至る。この東端が上川崎和紙発祥地で、ここから小澤、下川崎、沼袋各村へと広まり、二本松藩の用紙を献納していった。

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智恵子大橋から和紙の里を望む

 文献によると後冷泉(ごれいぜい)天皇の御宇(ぎょう)(康平年中1058)、漉き場は本村川之端栗船渡し場の畔で、冬に安達太良おろしと呼ばれる強い風の吹く時に行われたと言われる。冬は川が最も澄んで、楮も虫がつかないからである。この渡し場は平成4年まで渡し舟で利用されていたが、現在は公園となり東和と安達を結ぶ智恵子大橋が架けられた。

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二本松市歴史資料館 記念スタンプとチケット

 昭和30年(1955)油井(ゆい)、上川崎、渋川の3村、同32年松川町の一部を編入、同35年に安達町が誕生した。2005平成の大合併で二本松市、安達町、岩代町、東和町が合併して現在に至る。安達町の中心である二本柳地区は奥州街道の宿場町で交通の要衝地。昔は安達牧の名で知られ、馬に関する地名が多く残っている(陣馬、鍛冶屋など)。

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手漉き和紙の農家と製品

●上川崎紙のルーツ陸奥紙とはどういう紙だったのか?
万葉集七、陸奥安達郡にあだちの真弓(まゆみ)。古今和歌集に安達真弓と出てくる。
色々な説があるが、檀紙(だんし)であったという説が有力である。檀紙とは、壇(まゆみ)の樹皮で作られた上質紙である。壇は「真弓」とも書き、古来より弓を作る材料である。安達太良山周辺には真弓が多く自生し、楮の栽培も多く行われ阿武隈川の清流とが陸奥紙との深い関係を築いたと言われる。
 明治7年(1874)には、山口県、高知県に次いで磐前(いわさき)県は全国第三位の生産量を誇っていた。明治9年(1876)になり、磐前県は福島県と若松県(会津)の3県が合併して現在の福島県の姿になった。

●「あだたら」と「あだち」
 安達太良山(1700m)はあだたら、安達町はあだち、と山と町名で呼び方が異なる。何故か、町名は古代の荘園にちなんだものと言われる。また、安達の出身である高村智恵子(旧長沼智恵子、高村光太郎と結婚)の里でもある。「智恵子抄」で有名な光太郎の作品には、「阿多多羅山」という万葉集から引用したとされる題名がつけられている。とにかく山の名前と地名の呼び方を変えていることには変わりがない。

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智恵子の生家 記念スタンプ

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智恵子記念館

 安達には智恵子の生家である米屋であり清酒旅霞の家と、智恵子記念館に展示されている数々の作品を拝観するため訪れる観光客が多い。(0243-22-6151水休み400円)

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●二本松市和紙伝承館(0243-61-3200)
 これまで上川崎の集落には手漉き和紙の伝統を守るため、安斉由一氏をはじめ技術を伝承する人々が頑張ってきた。しかし、多くは高齢となり後継者も儘ならず対策を迫られた。平成13年(2001)、道の駅「安達智恵子の里」がオープンするのに伴い、安達町和紙伝承館を開設した。伝承館では上川崎の伝統を引き継いでいこうと、紙漉き体験コーナーや数々の展示品、和紙製品の販売などを行っている。二本松市への観光で道の駅に立寄った人々を楽しませるとともに、紙漉き和紙の伝統を継承していこうとしている。

投稿者:菊地正浩

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2009年07月04日

2009ヨーロッパ鉄道旅日記1

マスク騒ぎ

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 4月から5月初めにかけてのオランダは、列車の車窓から、絨毯を敷詰めたような果てしなく広がるチューリップの畑を眺められる。この美しい景色を見たく、5月7日「にわツァー鉄道旅」は最初の地アムステルダムに向かう。
 豚インフルエンザ流行で成田からマスク顔だったメンバーも、スキポール空港に降り立ちと早々にマスクをはずす。マスクをしているとなぜかヨーロッパでは「危ない人?」に見られやすい。
 昨年の冬、クリスマスで賑わうパリで、風邪気味のメンバーのひとりが、メトロ内でおもむろにマスクをしたところ、いっせいに周りのお客からの異様な視線を浴びたことがあった。マスクは日本で戦前、公衆衛生の改善のために学校の児童にマスク着用をすすめたのが習慣になったようだが、ヨーロッパでマスクは医療や工事関係者が使う物で、それに、マスク=強盗とか、大重病人などとか、すごく危険な人物に思われることもあるみたいだ。一般に外でマスクをする習慣はなく、文化の違いをまざまざと体験させられる。

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 スキポール空港鉄道駅からは、黄色に紺色配色の、オランダ国鉄カラー2階建て国内線IC列車で約20分、アムステルダム中央駅に到着。1889年完成の、歴史と伝統ある赤レンガ造りの中央駅の前は、市電やバスが引っきりなしに発着して、オランダ表玄関の賑わいを見せている。東京駅丸ノ内側はこの駅を参考に造られたようで、歴史展開の早い東京駅前も、当時は都電が発着して、昔のままのこのアムステルダム中央駅に似たの雰囲気であったであろう。目まぐるしく往来する市電の音に負けないくらいにトランクを引く音を響かせながら、我グループ11人は、駅近くの宿、アベニューホテルに到着。

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『アンネの日記』で知られる第2次大戦の悲劇の舞台となったアンネの隠れ家は、閉館の19時間際でも観光客が列をつくっている。以前訪れた時は、アンネ家族の隠れ部屋すべて当時のままを見せてくれたのだが、遺産保存のためか、いたるところがガラスで覆われていた。
つづく

投稿者:にわあつし
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2009年07月05日

『天地人』第27回「与六と与七」

 期待したほどミニ与六と与七が出てきませんでしたね。残念です。
 やっぱり中央場所と絡まなかったのが痛いか。哀れ7年にわたって抵抗を続けた新発田重家の反乱はナレーションだけで終わってしまいました。今回は賢兄に対する弟の葛藤を描いたようなホームドラマでした。源氏の流れをくむ小国家の名跡を継いだ弟実頼ですが、婿養子は肩身が狭いようですね。上杉の名代として上洛し、秀吉から従五位下但馬守の官位をもらい、姓を小国から大国に改めます。この改姓は主君景勝の命によるものなのですが、ドラマではドロンジョー様の茶々(深田恭子)が提案し、秀吉が命じたことになっています。まぁ許容範囲でしょう。
 春日山に帰郷後、官位をもらった実頼に対して兄の兼続が激怒。喧嘩になります。鎌倉時代の頼朝と義経のような兄弟だったのでしょうか。しかし、兼続さん、あなただってのちに豊臣の姓をもらっているではないですか。天正16年(1588)、景勝・兼続主従は実頼も連れて二度目の上洛を果たし、景勝は従三位参議、兼続は従五位下山城守の官位をもらいます。これに対し、兼続が秀吉に対し、「我々の心中を察してくだされ」とわけのわからないことを口走っています。
 結局、実頼は兄と比較されるのが厭で京都に残ることを申し出たようですが、というより実家が厭で単身赴任を選んだと思ったのは僕だけでしょうか。話しは変わってお船の方がおめでたようですが、この時期に生まれた子って誰? 長男景明は文禄3年(1594)生まれだし、長女於松なのでしょうか?
 次回はもう伊達の話で佐渡攻めはやはりスルーされてしまうのでしょうか。あれ? 前田慶次がまだ出てきませんねー。

あと、こちらも併せてお読みください。
桐野作人先生『膏肓記』

 史跡紀行では旧白根市(現・新潟市南区)の大凧と、西蒲区の天神山城跡が紹介されました。両方とも未訪ですが、岩室の天神山城跡は上田氏が取材に行っていますので、今回は上田氏撮影の城跡をUPします。最寄はJR越後線岩室駅ですが、残念ながら2007年3月に無人駅になってしまいスタンプがありません。あしからず。

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投稿者:管理人
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2009年07月07日

19世紀のガイドブックをめぐる訴訟事件

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ベデカー『スイスSchweiz』表紙・ドイツ語版/1868年(明治元年)刊・改定11版


 定期購読をしている岩波書店発行の「図書」7月号が6月29日に届いた。

 表紙には1836年版『外国人のための新パリ案内』(18版)というガイドブックの「表紙」があしらわれ、表二に宮下志朗氏(フランス文学・書物の文化史)による解説がある。

 それによると、本書は1810年代に初版が出て、その成功に触発されて1827年に『真のパリ案内』なるものが発刊されたが、その内容は『新パリ案内』の窃盗品で構成されていた代物であった。そこで版元のモロンヴァル社は盗作の嫌疑で訴訟を起こし、罰金と偽版の押収という判決を得たという。以来「本扉の裏に手書きの署名が無い本は偽造である」と序文に書かれているという。

 これで思い出したのが『ベデカー・スイス』をめぐる訴訟事件である。

 19世紀の前半から中ごろにかけて、ドイツのベデカー(1801-59)やイギリスのマレー(1808-92)が発行した旅行案内書シリーズがシリーズ化した案内書の祖であることはよく知られている。

 前者のカール・ベデカーは1849年刊『ライン河の旅』(第6版)の序文でガイドブック(ハンドブック)刊行の意図を幾つか述べているが、その冒頭に「旅先で出費がかさむ案内人を雇うことなく、旅行者が本書に頼り、旅先で判断ができる「旅人の自主性」を身につけることを助成する」と述べている。

 ところで、手元にある『スイスSchweiz』の序文に10行ほどの「注」が設けられ、現地の案内人を訴えて勝訴した経緯が書かれている。

 その内容をかいつまんで紹介すると次のようである。

 N.N.というスイスの案内人が案内を依頼した旅行者に対し「『ベデカー』 はその本の中で推薦する宿から、40-50フランを取っている」と根拠の無い噂さを流していた。それを知ったベデカーは1856年9月N.N.を名誉毀損で訴えて勝訴し、そのことを10月21日、スイス国内の幾つかの新聞が「警告」として記事としたというものである。


 私もかつて手がけた案内書の文章や絵地図を模倣し、またはそっくり掲載した相手と何度と無く交渉をし、必ず相手が折れてきた経験をもっている。

 ひとつは著者や絵地図作家の権利を保持するためであり、もうひとつはそのまま放置しておくと、暗黙のうちに私が手がけた案内書が「模倣した」と受け取られ、立場がまったく逆になる恐れがあるからだった。


投稿者:森田芳夫

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2009年07月09日

手漉き和紙の里(13)~遠野(とおの)和紙~

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入遠野川の清流

 福島県磐城国石城郡上遠野村(かどおのむら)深山田(みやまだ)(現いわき市)は、常磐の山里に古くから伝わる和紙の里である。いわき市は昭和41年(1966)、平(たいら)、磐城(いわき)、常磐(じょうばん)、内郷(うちごう)と四倉(よつくら)、遠野、小川、久之浜の5市4町、好間(よしま)、三和(みわ)、田人(たびと)、川前(かわまえ)、大久(おおひさ)の5村が大合併した全国でも珍しいケースである。夏井川、藤原川、鮫川など総計21流の各支流をあわせて太平洋へと流れ込む。日本一長い海岸線(約80㎞)と日本最大級の面積を誇る広域都市である。

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遠野和紙の紙漉き場

 そのなかで北西に位置する遠野地区は、鮫川の支流、根本川、入遠野川、上遠野川などの清流に恵まれ、山に囲まれた長閑な地域である。早くから安達郡川崎村(現・二本松市)より大判の障子紙を漉く技術が伝えられた。原料の楮や三椏を栽培し、黄蜀葵(とろろあおい)をニレと呼んでいた。秋の彼岸から翌年の八十八夜までの副業とし、その数250軒にもおよんだという手漉き和紙の里として知られた。現在ではほとんどが高齢化と後継者がいないため、廃業してしまった。

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遠野和紙の紙漉き場と紙製品

●いわき市遠野オートキャンプ場での和紙伝承

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市営の入遠野オートキャンプ場 キャンプ場の三椏

 いわき市では入遠野に市営の遠野オートキャンプ場を開設した。入遠野川の畔でオートキャンプのできる施設を作り、宿泊設備やバーベキューなどの設備が充実している。紙漉き体験のほか、野鍛冶、つる細工、干し柿作りなど色々な体験イベントを企画している。和紙については、古くから地元で和紙作りを続けている人の技術を学びながら、遠野和紙の伝統を守っていこうとするものである。

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深山田の紙漉き農家 見事な赤い花の三椏

 原料の楮は栽培して使用するが、周囲には見事な三椏が沢山植えられて綺麗な花をつけている。深山田地区にある紙漉き農家を訪れたが、それは見事な三椏の山である。今を盛りと花をつけているが、なかでも赤い花をつける三椏が印象的であり、これほど多くの三椏を見たのは初めてである。

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壊れてしまった釜 深山田の見事な三椏栽培

 このお宅のご主人は、入遠野のキャンプ場へも出張して技法を教え、体験をさせている。何分にも高齢となり思うように活動できなくなったとのことである。漉き場を見せてもらったが、歴史を感じさせるものがある。現在、釜が壊れてしまったが、困ったことに修理をする職人がいない。他の道具は手作りでできるが、釜だけは専門の職人が必要であり、ここにも伝統産業を守る職人不足であることを痛感させられた。

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カッパ伝説の鉱泉宿中根の湯

 この入遠野川沿いはイワナ、ヤマメ、鮎の渓流釣りとしても人気があり、6~7月下旬ともなれば源氏ホタルが光を放つ豊かな清流である。中根の湯という和紙の里に相応しい鉱泉宿もあり、訪れる観光客を癒してくれる。これからも永く和紙の里を伝承していってもらいたいと思う。

投稿者:菊地正浩

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2009年07月11日

2009ヨーロッパ鉄道旅日記2

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アルクマールのチーズ市

 オランダ滞在2日目は金曜日にあたり、念願のアルクマールのチーズ市を訪れる。朝10時からワープ広場で行われるチーズの市は、17世紀から続く伝統ある町のイベントだ。到着したアルクマール駅構内では、美人の駅職員がチーズの試食サービスを振る舞い、チーズイベントをアピールしている。
 降り立つ観光客の流れに続き、我々もいざワープ広場へ! 広場には、農家から運ばれた直径30センチはあろう大きなエダムチーズが並び、多くの観光客が広場の周りを囲む。

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 気持ちよい快晴のなか、まだかまだか? とカメラのファインダーを見ながら、イベントが始まるのを待っていると、民族衣装でガイドブックを販売するアルクマールの美人が、突然我レンズの焦点に立ち止まり、「写して下さい!」とセールス笑顔である。
 チーズ市のイベントも楽しかったが、チーズ美人の視線が重く心に刺さったアルクマールであった。

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つづく

投稿者:にわあつし
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2009年07月12日

『天地人』第28回「北の独眼竜」

 ようやくレキジョの間で人気急上昇の伊達政宗(松田龍平)登場しましたね。松田優作のサラブレッド一族。昨年は弟翔太君が『篤姫』の徳川家茂役で出ていましたね。なかなか対照的な兄弟です。あの野心剥き出しのキャラが、なかなか滑稽です。まぁ、政宗と兼続が相容れなかったのは逸話にもありますし……。でも、どうみたってあれって東北の人たちを「蝦夷(えみし)」といって蔑視した大和朝廷のようなものです。
 あの時点で秀吉の中央政権が天下を併呑するのは時間の問題だったわけだし、家康が北条・伊達と結んで天下をひっくり返そうとする思惑はわからないわけではないですが。田舎にいたから時流が読めないといったって、冷静に相手の力量が読めなければ政宗もタダの馬鹿者にしかみえないです。
 で、もって政宗と兼続の会見。「無謀な戦はおやめくだされ」という兼続に対し、野心剥き出しにする政宗。挙げ句の果てに家族の話をするもんだから、あらら政宗の逆鱗にふれてしまったよ。この人。で、もって政宗が刀まで抜いたのに、愛姫をみて止めてしまうなんて拍子抜け。だったら最初から刀なんて抜くなって。これなら『花の慶次』のように慶次にぶん殴られている政宗のほうがよかったよ。
 佐渡攻めもちびっとだけ出ましたが、すでに兼続が河原田城に乗り込んで本間高統が城で降伏するシーン。あれ? 高統って自害したのではなかったっけ? で、もって佐渡の金山開発がはじまりますが、兼続が安産の御守に彫った犬。最初は景勝が猪と間違えるほどお粗末な出来でしたが、すごい上達ぶりでした。木彫りといえば『わたしのアンネット』のルシエンの木彫りを思い出します。どうせならルシエン兼続が彫った木彫りをアンネットお船が破壊するとおもしろかったのに……。
 で、兼続が佐渡の経営をしているうちに、政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼしてしまいます。それを遠目で見て喜ぶ家康に北条の使者が。なんと御館の乱で鮫ヶ尾城を去った遠山康光ではありませんか。史実では景虎に殉じたはずですが、これは意表をつかれました。
 といっている間に今度は北条が真田の名胡桃城を奪い、「惣無事令」違反ということで小田原攻めが始まろうとしています。

 史跡紀行では新潟県佐渡市の羽茂城や鶴子銀山、妙宣寺などが紹介されました。佐渡島は15年以上前に一度だけ行ったことありますが、史跡関連は未訪です。妙宣寺には兼続奉納の槍があるんですね。写真は『天地人 直江兼続』(メディアボーイ)で使用した佐渡市羽茂支所提供の羽茂城跡をUPしますが、残念ながらスタンプは今回もありません。せめて佐渡フェリーのスタンプぐらいはあればよかったんですが。

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投稿者:管理人
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2009年07月14日

手漉き和紙の里(14)~信州松崎紙~

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高瀬川と北アルプス 旧千国街道(塩の道)入口

 大町市松崎は長野県北西部、松本盆地北端に位置する高瀬川と鹿島川の扇状地で、北アルプスの眺望は抜群、西部は飛騨山脈の山岳地帯である。市名は、千国街道(糸魚川街道、塩の道)の宿場町中心地で、本町と中町の総称を大町と呼んだ。古くから塩の道として、また大町温泉郷や黒部渓谷の入口としても栄えてきた。

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青木湖畔の桜と北アルプス 佐野坂中央分水界からの北アルプス

 昭和29年(1954)大町と平、常盤、社(やしろ)の3村が合併。2006年平成の大合併で八坂村と美麻(みあさ)村を加え、県下最大の市となった。中世鎌倉時代の仁科(にしな)氏の館跡などがあり、仁科の里とも呼ばれる。木崎湖、中綱(なかつな)湖、青木湖は仁科3湖と云われ断層湖である。青木湖北岸の佐野坂は、内陸型(雨の少ない)と裏日本型(北陸の多雨型)気候の境目で、佐野坂峠は中央分水界である。 

●二つの松崎紙
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和紙の里松崎からの北アルプス 漉き場風景

 松崎紙の歴史は古く、長久3年(1042)に仁科神明宮のお札紙を作ったのが始まりとされる。その後、農家の冬季副業として手漉き和紙が発達した。原料は主に楮で、ネリは黄蜀葵(とろろあおい)であるが、南部を流れる高瀬川の清流と、高い紙漉き技術によっての和紙は全国的に知られるようになった。しかし、松崎紙には二つの系統があったことはあまり知られていない。一つは北アルプスを発源とする高瀬川の清流で漉いた和紙。もう一つは東山低山帯、仁科3湖と鹿島川などを支流とする農具川の清流で漉いた和紙である。

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漉き場風景と製品

 なぜ、同じ松崎なのに違った和紙となるのか? 高瀬川は北アルプスの雪解け水で和紙を漉くのにこの上ない清流である。農具川とて同じではないか、と思うのであるが、農具川の方は鉄分の含有量が多いため、漉いた紙が黒っぽくなるのである。だから農具川の和紙は一工夫も二工夫もしなければならなかったのである。

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漉き場風景と製品 天日干し

 現在、高瀬川系松崎紙は残念ながら絶えてしまった。しかし、農具川系和紙は更に工夫を凝らし、信州松崎和紙として伝統を守っている。ここでの和紙作りは他所にはない苦労もある。冬季は極寒のため水が凍る、しかし黄蜀葵は腐り難いという利点もある。風の無い穏やかな春の日差しを受け、天日干しされる和紙の風景は何とも云えない長閑さがある。

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信州松崎和紙工業

 幸い紙漉き技術の後継者も育ち、親子で伝統を守り、信州松崎和紙工業㈲を経営している。ここで漉かれた和紙は様々な工夫を凝らし、製品化され大町市周辺のみならず全国に出荷されている。もちろん白い障子紙や帳簿用紙のようなものではない。伝承された伝統の技法に独特の特殊処理を施し、色々な木の葉を漉き込んで持ち味を出している。どうか将来にわたって日本の伝統産業を守り、伝承していって欲しいと思う。

投稿者:菊地正浩

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2009年07月16日

2009ヨーロッパ鉄道旅日記3

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風車とチューリップ
 オランダの風車観光といえば、世界遺産に登録されたキンデルダイクの風車群と風車の村ザーンセ・スカンスが有名で、鉄道でかけ巡る我々にとっては、移動上便利なザーンセ・スカンス観光を選ぶ。

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 アルクマールから鉄道で約30分、コーグ・ザーンダイクの駅で下車、閑静な町並を10分程歩き広い運河を渡し舟で渡ると、ザーン・スカンスの村に到着する。運河沿いには風車がまわり、チーズや木靴などオランダ伝統の工房もあり、のんびりとしたオランダの風情を楽しめる。オランダを含めヨーロッパの国々は、歴史的景観や歴史遺産をそのままに残す事をモットーにしているので、この美しいザーン・スカンスの村も、観光地というよりは、昔からある一般的な農村風景であるから羨ましい限りだ。

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 オランダで期待していた、絨毯を敷き詰めたようなチューリップ畑の風景は、もう花を摘みとった後で車窓から眺められず、チューリップ観光の目玉であるキューケンホフ公園に向かう。オランダが世界に誇るこの公園は、今が花のシーズン真っ盛り。園内は、3500種のチューリップが見事な花を咲かせている。

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 牛一頭、羊一群れと売り買いされた時代があったという幻の花・黒いチューリップは、「クイーン・オブ・ザ・ナイト」と呼ばれ、一際目立って輝いていた。

つづく

投稿者:にわあつし
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2009年07月18日

手漉き和紙の里(15)~絶えた大聖寺(だいしょうじ)藩の紙屋谷和紙~

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山中温泉ホテル大黒屋と温泉

 石川県加賀国江沼郡河南(かわみなみ)村長谷田(はせだ)、中田(なかだ)、上原(うわばら)、塚谷(つかたに)(現・加賀市山中温泉郷の玄関口)は、紙漉きが副業として盛んになった江戸時代中頃には、紙屋四ヵ村とも紙屋谷とも呼ばれたほどの手漉き和紙の里であった。現在でも紙屋谷、紙屋用水などと名称は残るが、区画整理された上原、塚谷の台地を加美谷(かみや)台と変えて地名としている。

 紙屋谷の地形は山中町の北西部に位置し、大聖寺川中流域に広がる山代温泉と山中温泉の間にある。紙屋谷の歴史は古く、縄文、弥生、古墳時代の史跡も多い。奈良時代の天平(てんぴょう)12年(740)越前国江沼郡山背郷計帳に、戸籍、戸別、人頭税に関する台帳が残されている。昭和30年(1955)山中町と河南、西谷、東谷奥の3村が合併。2005年加賀市と合併して今日に至っている。

●紙屋谷和紙 

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大聖寺川の清流

 農閑期の副業として、女子は紙漉き、男子は藁仕事をしたが、とくに紙漉き、養蚕はこの地の大きな副業であった。「大聖寺藩年譜草稿」弘化3年(1846)によると、延宝4年丙寅(1676)四代将軍家綱の頃、「中田村五郎兵衛、二俣村(金沢市)へ足軽小頭栗村茂右衛門を添えて紙漉き習に被遣、是より追々広る」とある。金沢の二俣村(二俣紙の里)で紙漉き技術を習得して、紙屋四カ村の村民に教えた。この地区は山中谷と呼ばれていたが、紙漉きが盛んになると紙屋谷と呼ぶようになった。

 文献によると当時長谷田45戸233人、中田14戸73人、上原33戸123人、塚谷26戸170人、計118戸509人もが従事していた。大聖寺藩時代の「江沼志稿」によると、御前延紙(のし)、藩札、帳紙、傘紙、茶紙、鳥子紙、塵紙などの多種類が漉かれていた。もちろん山中漆器の包装紙も例外ではない。原料は楮で、この地では木コウズと呼び、自生のものは質が悪いので畑で栽培した。ネリには黄蜀葵(とろろあおい)、水は大聖寺川の清流である。大聖寺藩のみならず加賀藩でも藩札に使われるほどの和紙の里であった。

●紙屋谷和紙の影を山中温泉郷に見る 

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山中温泉ホテル大黒屋の温泉 加賀市山中温泉支所

 山中温泉は天平年間(729~749)に僧行基によって発見された。松尾芭蕉も長逗留し有馬温泉に匹敵すると云い、「山中や 菊はたおらじ 湯のにほい」の名句を残した。山中節でも有名な北陸の名湯として栄えてきた。正徳5年(1715)の古地図には、湯街の家屋敷47戸、享和3年(1803)では170戸、安政年間(1854~60)の温泉絵図では500戸ほどに発展している。旧役場である山中温泉支所で取材したところ、かつては歴史民族資料館のような設備もあったが、残念ながら現在はなくなったとのことである。

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芭蕉の館

 至近にある芭蕉の館を訪ねると、奥の細道と伝統工芸や古文書などに触れることができる。和紙に記された数々の古文書や芭蕉に関する文献に混じり、山中温泉古図(天保年間)や加州山中温泉風景(文久3年版木刷)といったお宝古地図が見られる。それは見事な木版による絵図で、この地で漉かれた和紙を使用したに違いあるまい。この芭蕉の館は展示物の良さもさることながら、施設管理、メンテナンスも行き届き塵一つ目にすることはない。とくにトイレの清潔さとメンテナンスは観光地トイレとしても一級品であろう。

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ギャラリー耀の和紙 芭蕉も訪れた黒谷橋

 もう一つ、ギャラリー耀(よう)に寄ってみた。今よみがえる加賀山中、加美谷の里和紙というふれこみで、小さなギャラリーが営まれている。和紙の里復活と再現を夢みる店主の気持が痛いほど良くわかる。しかし、紙漉きまでには至らず、売られている和紙類は越前和紙などである。諦めずにいつか紙屋谷和紙再現の夢を果たしてもらいたい。清流大聖寺川には芭蕉も訪ねた黒谷橋が架かり、そこから眺める奇岩層列と静寂な風景は、かつて和紙の里であったという痕跡すら感じさせない。

投稿者:菊地正浩

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2009年07月19日

『天地人』第29回「天下統一」

 詰め込み気味の小田原攻めでしたね。兼続が小田原出陣の際に魚津城で玉砕した武将の木札を身につけて出陣しました。前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら東山道軍が松井田城を攻め、降伏した城主の大道寺政繁に兼続が酒を差し出す。「敵に礼節をもって尽くし、真心で返せば心にかえす」などといっていますが、このおかげで大道寺政繁は小田原攻めの道案内までしちゃって、あとで秀吉に「不忠者」として切腹を命じられています。もっともこの件はドラマには出てこなかったので、兼続も面目躍如といったところでしょうか。
 八王子城攻めも、秀吉から「攻撃が手ぬるい」と叱責され、力攻めで殺戮を繰り返したのが事実。せっかく兼続も久々に刀をふるって戦っているのですから、少しは「鬼」と化した一面をみせてもよかったのではないでしょうか。
 今回のドラマはやはり小田原攻めに本筋が置かれたようで、兼続の出番はあまりなかった感じでしたが、あとあとの伏線となる家康の態度はなかなか奥が深いですね。伊達に「参陣の必要はない」と書状を送っていたり、北条に通じているとみせかけて見殺しにしたりと。で、もって北条は石垣山一夜城をみて戦意喪失で降伏。
家康の関東移封も三成の進言となっています。家康は三成に「こたびは城ひとつ落とせず、戦は苦手なようじゃの」と云っていますが、これは忍城の水攻めに失敗した話です。でも、この失敗ひとつで戦下手とされてしまうのも三成が可哀相な気がしますが。
 で、もって天下統一がなり、兼続は春日山に帰って家族に再会。「関ヶ原まであと10年」って、このあとも九戸政実の乱や朝鮮出兵もあって戦乱は続いているんですが……。

 史跡紀行では宮城県仙台市と大崎市を紹介。仙台市博物館の政宗の甲冑や仙台城跡、岩出山城跡などが登場しました。岩出山、仙台ともに未訪ですが、スタッフが仙台を取材していますので、今回は青葉(仙台)城跡の伊達政宗像とJR仙台駅のスタンプをUPします。

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投稿者:管理人
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2009年07月21日

北海道の動物たち(第1回キタキツネ)

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 イヌ目イヌ科キツネ属アカギツネの亜種。アイヌ語ではチロンヌップ(どこにでもいるもの)と呼ばれる。それくらいどこでも見かけられる北海道の動物の代表。その愛らしい姿が多くのキャラクターグッズとなり、ぬいぐるみなどは土産物の定番でもある。

 夏になると、春先に生まれた仔ギツネたちが母親に連れられて人間の前に姿を現わすことが多くなる。本来は人間との距離を適当に取りながら共生していくものだが、観光地では観光客らに餌をねだる通称“観光ギツネ”が増え、人間の食べ残しを漁る個体も多い。
 私が積丹半島神威岬の駐車場で見かけた母子ギツネは観光客からスナック菓子をもらって食べていた。近づいて写真を撮ろうとしても逃げず、1メートルの近さまで近づいても平気で食べ続けていた。警戒心を失ったキタキツネたちは人間の与えた餌によって寿命を縮めたり、車に轢かれて死んでしまうという悲劇に見舞われる。

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 人間の無知や身勝手が野生の生態系を崩し、キタキツネに限らず他の野生動物たちの生息環境を悪化させてしまっているのだ。またキタキツネはエキノコックスという寄生虫によって引き起こされる感染症を媒介する。だから決して彼らには近づかずに適度な距離を持って見守ってやりたいと思う。

第2回エゾジカ(7月28日)につづく

投稿者:渡邊恵美子
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2009年07月23日

2009ヨーロッパ鉄道旅日記4

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ツェレへ

 夜のアムステルダムは異様な程に活気に満ち溢れていた。政府公認「飾り窓地帯」で、光り輝く下着姿で踊りながら、手招きをする娼婦達の姿に、我「飾り窓ツァー」参加者の皆さん、興奮覚めやらぬままに、鉄道旅のスタートとなった。

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 約7500Kにおよぶ鉄道旅のスタートは、アムステルダム中央駅乗り入れのドイツICE国際高速列車バーゼル行から。指定座席は運転台すぐ後ろに設けられた一等車で、なんと時速300K/Hのパノラマが展望できる客席だ。黒革シート張りの、ドイツ車らしい少し固めの座席に落ち着くと、大聖堂のある町ケルンをめざした。ドイツに入りエメリッヒを過ぎる頃、ICEは徐行運転を繰り返し走る。アクシデント発生だ! 
 車掌が寄って来て、「ケルン駅前で大規模なデモがあり、この列車はケルンを迂回するため、あなたたちは手前の駅デュツセルドルフで降りて下さい!」。縦横無尽に線路が張り巡らされているドイツ国鉄の路線もすばらしいが、それ以上に、乗客の安全を第一に考えながら、路線を変えて列車を走らせる連絡網には頭が下がる思いだ。

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 急遽、デュツセルドルフでベルリン行ICEに乗り換えると、北ドイツ・ツェレに向かった。緑の牧草地帯と鮮やかな春爛漫の菜の花畑が、パッチワークのように車窓いっぱいに広がり、そして流れて行く。ハノーバーで列車を乗り換え20分、エリカ街道木骨組みの町ツェレに到着した。

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つづく

投稿者:にわあつし
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2009年07月25日

手漉き和紙の里(16)~紙祖神(しそじん)川上御前を祀る岡太(おかもと)神社と越前和紙~

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越前かわだの湧水 式年大祭のポスター

 福井県越前国今立郡岡本村(旧今立町、現・越前市大滝町)は、県中部武生(たけふ)盆地南東部の山沿いの町である。旧町名は古代以来の郡名であった。昭和30年(1955)に粟田部(あわたべ)町と南中山村が合併して粟田部町となった。あわたべは男大迹皇子(おおとのおうじ)(26代継体天皇)の名に由来している。昭和31年(1956)粟田部町が今立町と改称し、その翌日に岡本村を編入した。南部地域は紙漉きの里五箇(新在家、定友、不老、岩本という集落)があり、それぞれに神社がある。町の中には5本の川が流れ合流し九頭竜(くずりゅう)川となって日本海へ流れる。 

●紙祖神岡太神社と大瀧神社(国の重要文化財)

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川上御前像 上宮奥の院から眼下に見える越前和紙の里

 1500年前頃、南部の五箇村を流れる岡本川の上流より美しい姫が現れて、貧農の村人達に紙漉きを教えたという伝説がある。1500年前といえばこの越前から出た継体天皇の時代である。村人達は「川上御前」と呼び、岡太神社に祀ったのである。二つの神社は権現山(標高565m)の頂にある上宮奥の院と麓にある下宮からなっている。下宮から上宮までは細くて急な山道(標高321m)を30分ほど登らなくてはならない。その奥は大瀧城跡である。式年大祭にはお下りといって、神輿を担いでご神体を迎えに行く。最終日にはお上りといって神輿を担いで登り還御する。筆者一人で登るのも喘ぎ喘ぎであるのに、神輿を担いで狭い山道を登り下りする大祭の行事も大変なものである。

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上宮奥の院 右端が川上御前を祀っている 上宮奥の院三殿 中央が本殿・排殿

 今年は39回目の式年大祭の年にあたり、古来より途絶えることなく継承されてきた。古式のままに継承されて1290年目の大祭になる(県の無形民俗文化財に指定)。大祭では紙祖神川上御前に扮する娘が、里の川上に出て衣を竿頭(かんとう)にかけ、紙漉きを伝授する様を演ずるという「紙能舞」が行なわれる。子どもたちは紙漉き唄を歌いながら紙神楽を演ずる。町をあげて紙漉き神事一色となるのである。大瀧神社は推古天皇時代(559~638)、大伴連大瀧(おおともむらじおおたき)の勧請(かんじょう)に始まり、養老3年(719)にここを訪れた泰澄大師によって、川上御前を守護神に、国常立尊(くにたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を主神とする社を創建し、大瀧児権現(ちごごんげん)と称した別当寺大瀧寺を建立した。中世、児権現は織田信長によって灰燼に帰したが、丹羽長秀によって復興された。

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下宮の岡太神社・大瀧神社

 明治になって神仏分離令により大瀧神社と改称した。大正12年(1923)、大蔵省印刷局抄紙部(紙幣を作る所)に川上御前の分霊が奉祀された。ここに、紙業の総鎮守として全国に名を轟かせることとなったのである。正倉院の古文書にも、西暦730年の年号を記した越前和紙が残されている。

●歴史と美を支える越前和紙

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越前和紙の里 和紙の学習セット

 武家社会となった頃には、保存性が高く滑らかな「越前鳥の子紙」が公用紙となった。
室町時代になると、武家、公家ともに公用紙として「越前奉書」を使うようになった。このようにして朝廷、幕府、諸大名の御用紙に使われていったが、耐久性も高く高級浮世絵用紙として使われるようになり、色鮮やかな江戸文化を支えることになる。明治になると、紙幣や証書などにも使われるようになった。

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紙の文化博物館

 越前和紙は芸術家一人ひとりの注文によって、色々な用途の紙が漉かれる。横山大観などの日本画はもちろん、平山郁夫による「大唐西域壁画」はシルクロードを描いた、縦2.7m、横3.7mという大きなものである。大判に漉かれた越前和紙に描かれて薬師寺に奉納されている。原料は楮、三椏、雁皮を使うが、美術小間紙、美術用紙、生活用紙、創作工芸品用紙など用途に応じた手漉きを行っている。染色も墨流し、漉き込み、漉き出し、落し掛けなど様々な技術を駆使している。今や越前和紙は日本を代表する伝統文化として世界に冠たる地位を築き、訪れる人は後を絶たない。

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卯立の工芸館と三椏の植込み 工芸館内部

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パピルス館と体験コーナー

●伝統工芸の集積地、越前匠(たくみ)街道

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越前漆器伝統産業会館

 福井県の丹南地域(鯖江市、越前市、南越前市、越前町、池田町)は、越前漆器、越前和紙、越前打刃物、越前焼という伝統工芸の伝承地である。因みに越前焼は日本六古窯(越前焼、備前焼、常滑焼、丹波焼、信楽焼、瀬戸焼)の一つにあげられている。これらの一帯を越前匠街道といい、先人の技に触れる旅として観光振興に力を入れている。

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越前そばの里

 もちろん、若狭湾の海の幸、内陸部の山の幸は食材として豊富であるが、何といっても「そばの里」であろう。越前の温泉に浸かり、手打ちの越前そばを匠たちが作った越前打刃物で調理、越前焼と越前漆器と越前和紙によって飾られた膳、越前酒を漆盃で飲めばこれ以上の贅沢はないであろう。このように恵まれた環境のもとで伝統を守っている手漉き和紙の里は他に類を見ないといえよう。

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越前かわだ温泉の里

投稿者:菊地正浩

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2009年07月26日

『天地人』第30回「女たちの上洛」

 ずいぶん×4遅くなりました。30日になってようやく録画を観ることができました。
 今回は千利休の自害と景勝正室の菊姫が人質として上洛する話でしたね。まず千利休の切腹については諸説あって結論をみないのですが、大徳寺の木像の話は出てこず、政へたてつく者への見せしめとしてされています。利休が詫びを入れれば助かったかもしれないというのも事実ですが、利休は「頭を下げれば利休の茶は穢れる」と拒絶し、自害の道を歩みます。利休の自害は聚楽屋敷内で行われ、秀吉の命を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだそうです。ドラマでは石田三成が豊臣政権を磐石なものにするために利休を見せしめとしたことになっていますが、ここに家康の謀略説を交えればもう少し深い展開になったのではないでしょうか。
 そして本題の「女たちの上洛」ですが、菊姫の上洛は文禄4年(1595)のことで4年も早い設定になっています。この頃、お船に次女誕生。ドラマでは梅になっていますが、史料では名がなく、早世してしまうようです。一方の菊姫は景勝が愛していないと思い上洛を拒否し続けます。景勝と菊姫の間に子がいなかったのは事実ですが、子がいないから夫婦仲が悪いというのは早計というもの。実際の菊姫は質素倹約を奨励した賢夫人として敬愛されていたようです。菊姫の意図を知ったお船も菊姫に同伴して上洛することを決意というところで次回に続きます。

 史跡紀行では京都市上京区の聚楽第跡が紹介されました。聚楽第自体は豊臣秀次事件によって徹底的に破壊されたため、現存する史料も少ないのですが、西本願寺の飛雲閣は聚楽第から移築されたといわれます。聚楽第跡は未訪ですので写真がありません。西本願寺の写真は阿弥陀堂しかありませんので、今回は西本願寺の阿弥陀堂と飛雲閣のスタンプをUPします。

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投稿者:管理人
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2009年07月28日

北海道の動物たち(第2回エゾシカ)

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 偶蹄目ニホンジカ科ニホンジカの亜種。ニホンジカより大きく、雄は体長90~190cm・体重50~130kg、雌は体長90~150cm・体重25~80kgに達する。北海道全域に住んでいるが、道央から道東にかけての森で多く見かける。特に知床や阿寒では道路や線路にまで現われ、車とぶつかったり列車を止めるなど日常茶飯事な出来事でもある。

 なんとも愛らしい容貌であり、少しお間抜けなところが可愛いエゾシカ。冬の道東を旅すると、人間に出会う数よりもエゾシカに出会う数の方が多い。蝦夷地に天敵であるエゾオオカミがいた頃は自然に数が調整されていたのだが、人間によってエゾオオカミが駆除されてしまってからは数が増えすぎて害獣となっている。現在では捕獲した個体の肉を食用に加工している。エゾシカの肉の入ったカレーを食べたことがあるが、意外にも臭みはなく美味しいものだった。

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 天敵がいなくなり、また温暖化によって雪が少なくなると餓死する個体が減る。そうやってエゾシカは爆発的に数が増えてしまった。知床ウトロでは住宅地の中をエゾシカが平気で歩き回っていて、車と衝突することが多いという。おまけに大きな雄ジカと軽乗用車では車の方が大破して、運転手が死亡するということもあるらしい。実際にウトロへ行った時に大きなエゾシカが町中をうろうろしている姿を何度も見た。別に彼らは人間の住んでいる場所が気に入っていてうろついているのではないし、人間とトラブルを起こしたいのでもない。ただ生活圏が重なってしまっているだけなのだ。人間だってあんな可愛い生き物を好き好んで獲って食おうとしているのではない。数を減らさないと増え続けてしまうからだ。
 北海道に限らず全国でシカが増えたことで生態系のバランスが崩れてしまっている。そのためオオカミの再導入を図り、天敵による捕食で数を減らそうという声が上がっているらしい。かつて人間はオオカミを恐れ徹底的に駆除してしまった。しかし人間が必要以上にオオカミへ接触せず、正しい知識を持ち、野生動物に対して畏敬の念を持つことができればオオカミともエゾシカともうまく共存できるのではないだろうか。

第3回オオワシとオジロワシ(8月4日)につづく

投稿者:渡邊恵美子
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2009年07月30日

2009ヨーロッパ鉄道旅日記5

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ツェレへ

 エリカ街道とは、大変ロマンチックな名前の道である。ハンブルグ近郊に多く咲く紫色の「エリカの花」の名を付けたこの街道は、ハンブルグを起点にしてハノーバーまでつづく。その街道の途中にツェレの町がある。滞在する二日間、鉄道駅からは1キロ程離れた、木骨組みの家が並ぶ旧市街に宿をとる。

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 1200年代に建てられた元リューネブルグ公爵の居城を頭にして、端から端に歩いても10分足らずの4、5本の石畳の通りに、約480軒の木骨組みの家が連なる。カラフルな色の家々は、2階以上が外側に張り出た家が多く、1階の面積が税金の対象になるため、居住部分を2階以上に求めたという、町の歴史がうかがえる。

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 イギリス王家と伝統的つながりがあり、第2次世界大戦で爆撃からは逃れたという歴史ある町は、美しい姿をそのままに、観光地っぽくなく、活気に溢れている。朝の6時はもう日も昇り明るいのだが、まだ町は寝静まっていて人の気配がほとんどない。シャッター音を響せながら、歴史の刻まれた一軒一軒の家屋を眺め歩いていると、細い路地から立派な髭面の老人が出てきた。
「グーテンモルゲン、美しい町ですね!」
 おもむろに声をかける。老人は自慢笑顔で話してきた。
「この町はドイツでナンバーワンじゃよ」
 老人のベリーグッドの声が、わが視界に拡がる家並みに、拍車をかけていた。

つづく

投稿者:にわあつし
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