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2009年08月 アーカイブ

2009年08月01日

手漉き和紙の里(17)~立ち上げた駿河柚野(ゆの)紙~

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旧柚野村役場と二階の柚野資料館

 静岡県(駿河国)富士郡芝川町。県の中東部、富士川沿岸の町で北西は天子岳(1330m)を境に山梨県、東は富士宮市、南は静岡市清水区に囲まれている。富士川の支流芝川などの河谷(かこく)部に集落があり、山地が80%を占めている。昭和31年(1956)、芝富村と内房村が合併して富原村となり、同32年柚野村と合併して芝川町となった。富士郡にはたった一つの町で、平成の大合併にも参加しないで現在に至っている。

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芝川の清流とポットポール(甌穴)

 歴史の面影は旧柚野村役場の二階にある柚野資料館にわずかながら残されている。この柚野を流れる芝川には、ポットポール(甌穴(おうけつ)という天然記念物で県指定文化財)という珍しいものが見られる。河床の所々に富士山の溶岩が露出し、その表面を小石が削って穴を掘り下げたものである。このような清流のある農村地帯には、手漉き和紙の里である雰囲気が感じられるのだが、それらしい様子も痕跡もない。その理由は駿河柚野和紙が新しい和紙の里だからである。
昭和3年(1928)の記録によると、たしかに柚野紙は存在している。柚野村と合併する前の芝富村や大宮町(現・富士宮市)で漉かれていた。その後何時頃かは定かでないが消えてしまった。しかし、昭和も後半になり駿河柚野紙を立ち上げ和紙の里を作った人がいた。余談であるがこの地域一帯には、大晦日(おおづまり)、蒲沢(かわさわ)、楠金(くすかね)、羽行(はぎょう)、月出島(みかづきじま)、月台(げんだい)、上村(わむら)、塩野(しょの)、稲子(いなこ)など難読地名の多いことも印象的である。

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富士山をバックにした柚野手漉和紙工房

●和紙の伝統を守る柚野紙  
内藤恒雄氏は東京出身で紙漉き農家とは無縁であった。大学卒業後、埼玉県小川、島根県八雲、岡山県倉敷で6年間手漉き和紙の技術を学び、昭和51年(1976)に富士山の見えるこの地を選んで和紙工房を開いた。入口に立つと後方には美しい富士山の全景が目に飛び込んでくる。柚野紙は原料に自家製の楮、三椏、雁皮のみを使用する。もちろんネリは黄蜀葵、水は富士山の雪解け水である地下水を汲み上げて使用する。昔ながらの製法でオリジナル和紙を漉いている。

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オリジナル製品

 漉いた紙は富士山の裾野で天日乾燥されるので、しっとりとした風合いと光沢を持ち落着いた味わいがある。市松模様の襖紙を使用した和室の雰囲気を想像していただくと良い。平成6年4月、天皇、皇后両陛下静岡県行幸、啓の折にこの柚野紙をお買い上げになっている。また、翌年の7月には皇后陛下より宮内庁を通じてお買い上げになっている。このように昭和も後半になってから、日本の伝統文化を継承しようと新しく手漉き和紙の里を開き、立ち上げた人もいる。


投稿者:菊地正浩

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2009年08月02日

『天地人』第31回「愛の花戦(はないくさ)」

「花戦」とは、いかにも朝鮮出兵を煙にまいたようななんともほのぼのとしたネーミングですが、これは実がなる、ならない、つまり子ができる、できないの別の意味合いもあったんでしょう。
 北政所が活けた「ヒメサユリ」を淀が越後から大量に取り寄せ、希少価値を台無しにしたというエピソードは『絵本太閤記』に出てくる佐々成政の逸話から採用したものでしょう。成政が北政所に珍花として献上したクロユリを、淀が知って白山で大量に採取し、無造作に活けたため、成政は北政所の怒りをかい切腹させられる。もっともこれ自体、かなりマユツバものですがね。しかし、なんとなく北政所が鶴松を殺したようなニュアンスが伝わってきて少々不気味でした。
 結局、秀吉の朝鮮出兵は愛児鶴松の死が発端になったような描かれ方になっていました。肥前名護屋へ淀が同行するというのも変な話。結局、「愛」を唱える兼続が朝鮮出兵を止めさせようとするが、三成は「国の礎を固める」などとおかしなこと云っているし、なんともちぐはくな展開でした。
 景勝・兼続主従は一年余り肥前名護屋に在陣し渡海することになりますが、秀吉の母大政所の死はスルーされてしまったようで、いつの間にか淀が懐妊しています。秀吉が名護屋在陣中にできたことにしたかったのでしょうか。今回は本当にホームドラマの戦国版『大奥』のノリでしたね。

 史跡紀行では、淀ゆかりの京都市伏見区の妙教寺と淀古城址石碑および東山区の養源院などが紹介されました。淀殿が住んだ淀城は京都競馬場の最寄駅である京阪淀駅の北西に残る淀城とは別の場所で、現在残る城跡よりさらに1キロ北にあったようです。妙教寺は2003年に訪問したことがあるのですが、このときは慌しく取材したため、淀古城址の石碑を撮り損ねてしまいました。養源院のほうは未訪ですので、写真はありません。今回は妙教寺山門と京阪淀駅のスタンプをUPします。

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2009年08月04日

北海道の動物たち(第3回オオワシとオジロワシ)

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オオワシ…タカ目タカ科ウミワシ属。全長90~100㎝で、翼開長200~250㎝、体重4~9㎏に達する。日本に生息するワシタカ類の中では最大で、天然記念物に指定されている。肩と尾羽が白く、大きくて黄色い口ばしが特徴。
オジロワシ…タカ目タカ科ウミワシ属。全長約80cm、翼開長約200㎝、オオワシよりもひと回り小さめ。オオワシと外見は似ているが尾羽だけが白いところが特徴で名前の由来でもある。

 冬の知床を旅していると時々彼らと出会う。木の上から私たちを睥睨していたり、流氷の上でカラスと餌の取り合いをしていたりと、様々な姿を見せてくれる。しかし写真を撮るとなるとなかなか難しい。まず個体数が少ない。エゾシカのように道端で待っていてくれるようなことにはならないからだ。そして遠くにいるから望遠レンズを付けていても小さくしか写らないし、また腕の未熟さゆえに飛んでいる姿を撮るのはほぼ不可能に近い。それでも羅臼港の岸壁にいたオオワシが羽ばたく一瞬を撮ることができたのは奇跡といってもいい。

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 彼らの個体数の減少もまた人間の愚かな行為のせいだ。ハンターが射殺したエゾシカを山野に放置するようになったことで、その死体をオオワシやオジロワシなどの猛禽類が餌とする。すると鉛の銃弾を一緒に食べてしまって鉛中毒を起こしてしまうのだ。北海道はエゾシカ猟に鉛弾の使用を禁止しているが、十分な効果は挙がっていないという。政府が保護増殖事業計画を進めていても、人間の意識が変わらなければ野生動物の保護は成功するものではないと思う。

第4回ゴマフアザラシ(8月11日)につづく

投稿者:渡邊恵美子
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2009年08月06日

2009ヨーロッパ鉄道旅日記6

ハーメルン

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 ドイツにはいくつもの街道がある。ここツェレの町があるエリカ街道を並行するようにして、グリム兄弟の童話にちなんだ「メルヘン街道」が通っている。グリム兄弟の生誕地ハーナウからブレーメンまで約650KMの街道である。ツェレ2日目は、童話『ハーメルンの笛吹男』の舞台ハーメルンを訪れる。ハノーバー経由で約1時間の鉄道旅だ。

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 訪れた日曜日は、旧市街の中心にある「結婚式の家」の前の広場で市民が披露する「ハーメルンの笛吹男」の劇が行われた。主演の笛吹男役は美しい女性で、鼠役の子どもたちを含め100人程の市民が熱演。周りを囲む各国の観光客に配慮して、物語の説明も国際的で、当然に日本語の説明もあり、親しみ深いひとときであった。1284年に実際に起きたと言われる、130人にもおよぶ子どもが笛吹き男と町から消えた「ハーメルンの災厄」を、後世に伝えるために創られたグリムの物語と知り、美しい町の悲劇に感慨無量で、路上に印された鼠の絵に従って帰途についた。

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つづく

投稿者:にわあつし
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2009年08月08日

手漉き和紙の里(18)~消える? 柳津(やないづ)和紙~

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JR只見線会津柳津駅とSL

●風光明媚な奥会津にある柳津 
 福島県河沼(かわぬま)郡柳津町は県西部に位置し、奥会津の会津坂下町(ばんげまち)の先にある。只見川と只見線(会津若松~小出)に沼田街道(新潟県柏崎に抜ける現R252)が並行している。会津坂下(ばんげ)と呼ぶが、会津坂本(さかもと)と呼ぶなど紛らわしい。柳津の町名は船の発着所に3本の大ヤナギがあったことからと言われる。昭和30年(1955)に柳津町と西山村が合併して誕生した。北部を只見川が山地を深く刻んで貫流し滝谷川に沿う。南部は那須火山帯に属する博士(はかせ)山(1482m)に連なる山間地で、典型的な豪雪寒冷地帯で耕地に乏しい。早くから沼田街道の宿場町として栄え、会津桐の産地としても有名であるが、手漉き和紙の里でもあった。只見川は柳津県立自然公園に指定され、その支流である銀山川、不動川、大柳川などの清流が手漉きの水に適していた。

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道の駅会津柳津観光物産センターと足湯とスタンプ

●消える? 柳津和紙 
 現在、柳津和紙の痕跡は見当らない。柳津町役場も近代的な建物になった。道の駅、会津柳津には観光物産センター清流苑が併設されている。取材によると、最近まで柳津和紙を販売していた。しかし、和紙を漉いていた人も亡くなり、後継者も別の仕事についており、定年後でないと和紙作りをしないという。やむなく和紙の販売を止め、いまでは何一つ無くなってしまった。このまま柳津和紙は消えてしまうのか? 

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 この柳津町には奇祭として知られる福満虚空蔵尊圓蔵寺がある。1月7日には七日堂裸祭りといって、褌一つの男たちが太い麻縄をよじ登って大鰐口をめざす。テレビで放映される勇壮な祭りは全国的に有名である。柳津温泉、西山温泉、只見川ライン下りなどの他、焼そばラーメンがテレビで紹介されて有名になった。今や奥会津の観光地として多くの観光客が訪れるようになったが、伝統文化の柳津和紙を忘れずに復活させて欲しいものである。

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投稿者:菊地正浩

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2009年08月09日

『天地人』第32回「世継ぎの運命(さだめ)」

時代は文禄2年(1593)、世継ぎの秀頼が生まれ、豊臣家に暗雲が立ちこめるところです。秀吉の養子として秀俊(上地雄輔)と秀次(眞島秀和)が登場。秀俊って最初誰だったっけとわかりませんでしたが、のちの小早川秀秋だったんですね。でも秀俊が養子に入ったのは天正13年(1585)で、まだこのときは数え12歳ですよ。いくら童顔(失礼!)の上地君でも12歳を演じさせるのはムリがありましょうに。
 で、秀俊が毛利家へ養子に出されそうになっているところ、毛利輝元から秀俊を上杉家への養子にともちかけられ、さすがの景勝・兼続主従も困惑した様子。もっともこんな話はドラマの創作で、実際は毛利家に送り込まれるところを叔父の小早川隆景が養子にもらい受けるんですね。兼続にはようやく嫡男の景明が誕生していますが、毛利輝元の嫡男秀就は文禄4年(1595)生まれだし、景勝の嫡男定勝に至っては慶長9年(1604)まで待たなくてはなりません。やれやれです。
 秀吉は関白秀次に「国を5つに分け、一つを秀頼にやってくれ」とか親馬鹿ぶりを発揮し、秀次が無視すると怒って伏見城を築城。朝鮮出兵に加え、伏見築城という諸大名たちへの負担に、家康が「ま~たれぃ、じぶのしょう」と三成を呼びとめて嫌味をいう。うーん、この灰汁の強いキャラはすばらしい。一方の三成と兼続は広間で寝そべって青春を語り合っています。なんて呑気な!
 兼続が春日山に帰国後、若狭屋の主人が湊で行き倒れになっている高貴な女性を助け、なんとそれが利休の娘お涼。映画『おろち』ですばらしい演技をみせた木村佳乃のストーカーぶりが活かされています。
 で、もってついに関白秀次には高野山への追放命令が出て、石田三成が鬼に変身するというところで次回に続きます。

 史跡紀行では京都市伏見区の伏見桃山陵や伏見城の石垣、御香宮神社、景勝橋などが紹介されました。なんとこの伏見区は7月28日に取材したばかり。しかし、なぜあのインチキ城の伏見城は取り上げなかったのでしょうか。伏見城は伏見桃山城キャッスルランドの施設として再建されたものですが、2003年の閉園後、城はかろうじて残されたものの、耐震強度などの関係で入城できなくなっています。それともまた別の機会に取り上げるのでしょうか? 今回は御香宮神社と境内にある伏見城石垣、JR桃山駅のスタンプをUPします。

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2009年08月11日

北海道の動物たち(第4回ゴマフアザラシ)

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ネコ目アシカ亜目アザラシ科。体長160~170㎝、体重70~130kg。「ゴマちゃん」として人気のある、北海道ではもっともよく見かけるアザラシ。名前のとおりゴマのように見える文様が特徴。冬になると流氷と共にやって来て、氷の上で出産・育児を行い、流氷が消滅すると北上していく個体が多いが、道東の風蓮湖や野付半島などに留まる個体もいる。

 私はアザラシが好きだ。三度の飯より好きかと聞かれると難しいが、アザラシマニアを自負し、毎年のようにアザラシに会うために北海道へ行っている。この5年間で会えなかったのは07年だけで、マニア内では“アザラシの聖地”と呼ぶ紋別市の「とっかりセンター」へは3回詣でている。とっかりとはアイヌ語でアザラシを意味し、ここにはゴマフアザラシの他、アゴヒゲアザラシ、ワモンアザラシ、クラカケアザラシがいる。漁網に掛かったり迷子になった仔アザラシを保護し、リハビリの後海へ還すという活動を行っている国内唯一のアザラシ専門保護施設だ。しかし全部が海へ還ることができる訳ではなく、自然復帰できない個体はここで展示・研究動物として暮らしている。

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 動物園や水族館で人気者のアザラシだが、漁師たちの間では厄介者とされている。彼らは餌となる魚を追いかけているうちに漁網を破ったり、魚を食い散らかすなどして害獣として扱われてしまうのだ。彼らには悪意などまったくなく、また彼らは漁網に引っ掛かってしまうと命を失うことにもなる。稚内市の抜海港では多くのゴマフアザラシが越冬し、近年それを見に来る観光客が増えている。観光資源でもあるゴマフアザラシだが、彼らと漁師たちの共存はなかなか難しいようだ。

第5回タンチョウ(8月18日)につづく

投稿者:渡邊恵美子
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2009年08月13日

手漉き和紙の里(19)~復活された海老根(えびね)和紙1~

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海老根手漉き和紙の集落

 郡山(こおりやま)は安積(あさか)と呼ばれていた。地名は古代安積郡の軍衙(ぐんが)(軍務を取扱う役所)があったことに由来するが、戦国期に入って郡山と呼ばれるようになった。大正13年(1924)、郡山町と小原田(こはらだ)村が合併して市制となる。昭和29年(1954)、富田村の一部、同30年、三春町と高瀬、巌江(いわえ)2村の一部と大槻町を編入。同40年、安積、日和田、富久山(ふくやま)、熱海(あたみ)、田村の5町、三穂田(みほだ)、逢瀬(おうせ)、片平(かたひら)、喜久田(きくた)、湖南(こなん)の5村を合併、中田、西田の2村を編入して現在に至る。
 この中田村海老根が手漉き和紙の里であった。ちなみに西田は三春人形、三春駒の発祥地である。250m前後の郡山盆地は更新世紀の湖成層(郡山層)堆積面が、離水後に開析されてできた台地面である。中心から東は阿武隈山地の丘陵、西は奥羽山脈の山地から猪苗代湖畔、北は安達太良山(1700m)におよぶ広さである。近世には奥州街道の宿駅、二本松藩の代官所が置かれ市場町としても栄えた。
 阿武隈川の支流、五百川(ごひゃくがわ)、藤田川、逢瀬川、笹原川によって対面原(たいめんはら)、広谷原(こうやはら)、庚担原(こうたんばら)、牛庭原(うしにわはら)などに分けられる大槻扇状地。東部は阿武隈川に沿って3㎞の谷底平野が延びる。大半が原野であったが、安積疏水(そすい)の完成で開拓が進み、現在の繁栄につながった。

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郡山市開成館と開拓史料

●郡山を語るとき、安積開拓を抜きには語れない
 松尾芭蕉の訪れた頃は、人口1000人余の宿場町に過ぎなかった。明治9年(1876)、明治天皇の東北行幸に随行した大久保利通などは、アメリカ視察の際に感じた西部開拓に思いをはせ、「安積開拓」の有望性を感じた。江戸時代よりの士族授産の開拓地として「安積開拓」を決定、国営事業として全国9藩から旧士族五百戸を入植させた。荒れた原野の開拓を、猪苗代湖の水を引くという当時誰もが思ってもみなかった疏水事業を考えたのである。不毛の大地が実りの大地に変貌した、現在の郡山市中心街である。この開拓に関する多くの史料は、安積開拓発祥の地「郡山市開成館」(入館210円/10~17時/月曜(祝日の場合は翌日)休/デ024-924-2157)として公開されている。

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見事な和紙のスタンドと観覧券

投稿者:菊地正浩

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2009年08月15日

手漉き和紙の里(19)~復活された海老根(えびね)和紙2~

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●安積歴史博物館
 旧士族が入植した桑野といわれるこの地区は教育水準も高く、明治22年(1889)に福島県立尋常小学校(現在の安積高校)が設立された。欧州の建築を模したルネッサンス式洋風建築を見て、村の人たちは桑野御殿ができたと驚き喜んだという。
 現在は国の重要文化財に指定され、安積歴史資料館として多くの貴重な資料が展示されている。ここから多くの学者、科学者や文化人が輩出されたが、教壇に立つ傍ら和紙についての著書を残した東野辺薫(本名野辺慎一/1902~62)は、二本松市に生まれ少年時代を上川崎村で過ごした。安積中学を卒業、早稲田大学を卒業して教壇に立ちながら、小説や戯曲を発表した。なかでも昭和18年(1943)に発表した「和紙」で芥川賞に輝いている。手漉き和紙の里上川崎で和紙作りを経験したが、貧しい村で厳しい寒さと戦いながら和紙作りに励む農民の姿を描いたものである。

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安積歴史博物館
入館300円/10~17時/月曜(祝日の場合は翌日)休/デ024-938-0078
http://www.asaka-kuwano.jp/hakubutukan/

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熊田七郎宅

●海老根和紙の里に保存会が活動
 阿武隈川を境に西は安積開拓で郡山市の中心地になり栄えた。東は取り残された山村と言っても過言ではない。阿武隈川の支流谷田川を越え、小野郡山線(県道65号)で小野小町生誕の地で知られる小野町へ向かう。その途中に中田町海老根という集落がある。三春滝桜で有名な三春の里が近い。集落は15~6軒で皆が熊田姓の農家である。会長の熊田七郎さんに取材する機会を得た。

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楮と楮を焚く竃

 この集落では冬の副業としていた。原料の楮は自生していたし、ネリの黄蜀葵も採れた。ここではネリと呼んでいた。肝心の水は谷田川や大滝根川の清流よりも、水質の良い地下水のほうが良く、井戸を掘って使っていた。水晒しのほか雪も降ったので夜外に出して晒した。熊田七郎さんが最後まで紙漉きを続けていたが、戦後を機にやめてしまった。10年ほど前に郡山市、中田町、地元公民館などから伝統ある海老根和紙の復活をと言われ、海老根伝統手漉和紙工房を作った。

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手漉き和紙工房と漉き場

 今では、あぶくま養護学校の児童が体験しに来たり、海老根小学校、中田小学校の子どもたちが体験学習をしたりする。もちろん、卒業証書は漉いた和紙である。また、学校の先生が中心となり、町起こしの祭りを計画、秋蛍というたくさんの行灯を作って灯す行事が賑わっている。当然、行灯には手漉きの和紙が貼られる。この和紙を漉く指導も行っている。このように海老根和紙は確実に復活している。後継者の育成もしているようで、これからも伝承されていくことであろう。

投稿者:菊地正浩

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2009年08月16日

『天地人』第33回「五人の兼続」

 とうとう知り合いのレキジョさんが恐れていました鬚面の兼続になってしまいましたね。ついでに三成も鬚面。イケメンというのは鬚があってはだめなんでしょうか。童顔ばかりですからどうしても鬚で老けさせることになってしまいます。でも、たしかに妻夫木兼続殿は宝塚の男装の麗人みたくなってしまうんですね。これはちょっと……。
 今回は関白秀次の切腹から始まり、三条河原で妻子の処刑。悪の三成本領発揮かと思えば、またもやあのうざい初音が出てきて「彼って突っ張っているけど本当はやさしい人なのよ」みたいなこと言い出します。たしかに三成が秀次を庇った話は『武功夜話』にもありますが、どうも前回とのギャップがぬぐえません。それにしても家康は悪ぶりが徹底していますね。秀次の切腹に対して三成の至らなさを責める家康。えらく的を得ている気もしますが、ここで無口な景勝が「主の責めを家臣に求めるのはご検討違いで姑息な手段」と言い放ちます。家康からイジメを受ける三成に対し、景勝が救いを求めた形で、これが関ヶ原の伏線となるのでしょう。
 で、もって今回のタイトル。まぁなんとなく分かっていましたが、兼続が分身の術を使うわけでもなく、景勝が吐いたセリフだったんですね。兼続が5人いれば……でもちょっと変だぞ! でもって三成独りが殿下の罪をかぶることを見かねた兼続が合議制を発案。これが世に言う豊臣五大老・五奉行の制度ですが、五大老に家康を加えることを発案したのは兼続で、しかも五奉行に加わることを辞退しています。これで結局、豊臣政権の崩壊を招いたんじゃないのかとツッコミが入るところですが、景勝が大老に列せられるのは小早川隆景の隠居後のことだったのでは?
 で、もって前田利家と兼続・三成が秀吉を説得。ここで鉄面皮の三成が泣いています。演技かと思えば本音だといっていましたね。でも、太閤殿下は子どもとの遊び過ぎが原因でとうとう斃れてしまいましたよ。子どもをあやすのは結構エネルギーいりますからね。

 史跡紀行では秀次ゆかりの滋賀県近江八幡市の八幡山城跡、秀次像などが紹介されました。な、なんと実はこの日、奇遇なことに近江八幡に降り立っているのです。2時間しか滞在できる時間がなかったので、近江八幡城へ行くことも検討していましたが、結局は歴史的に頻度が高い隣の安土へ行ってしまいました。安土は新快速が停車しないので、近江八幡で乗り換えたのです。近江八幡での滞在時間は14分。さすがに写真は撮れませんでしたが、この間にJRと近江鉄道の駅および観光案内所のスタンプをGETしましたので、今回はそのスタンプだけUPします。

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 そういえばミニ兼続を演じた加藤清史郎君。今度は兼続の子景明の子ども役で再登場決まりましたね。明らかに視聴率を意識していますが、天才子役に期待大です。
 
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2009年08月18日

北海道の動物たち(第5回タンチョウ)

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ツル目ツル科ツル属。全長130~140cm、翼開長220~230㎝、体重7~10kg。羽毛は全体に白く尾も白いが、長くて黒い風切羽に覆われているため、立っている時はこの羽が垂れて黒い尾羽のように見える。頭頂から後頭部は皮膚が裸出して赤く、これが「タンチョウ(丹頂)」の名前の由来。道東の湿地帯、主に釧路湿原に生息する特別天然記念物。アイヌ語ではサルルンカムイ(湿原の神)と呼ぶ。日本で見られる7種のツルのうち、唯一日本国内で繁殖する。

 江戸時代から明治時代にかけて乱獲され、一時は絶滅したとみられていたタンチョウ。1920年代に釧路湿原で再発見され、1940年代から保護の取り組みが本格化した。保護区域を設け、住民による給餌によって生息数は約1000羽まで回復した。しかしこれで安心できるというものではない。人間と野生動物の間で起きるトラブルは互いの生息区域が重なり干渉し合うからで、ここでも人間のエゴによる犠牲が絶えない。人家の周辺では電線にぶつかったり、車や列車との衝突、農薬や鉛などの重金属摂取による死亡など、タンチョウにとって決して住みやすい環境になったとはいえない。

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 冬期の餌の不足する間、鶴居村や釧路市の給餌場ではタンチョウに餌を与える。それを観光客が見に来ることで、冬の大きな観光資源となっている。動物園ではない場所で動物が見世物になっているようで、個人的にはあまり気分はよくない。それでもタンチョウに対する理解と見識が深まればいいのだが…
 タンチョウは湿原の神と呼ぶに相応しい優美で神々しい姿をしている。雪原で舞う姿も、青空を背景に群れて飛ぶ姿も被写体としてとても魅力的だ。写真撮影を趣味にしている人なら一度は冬の釧路湿原へ行くといい。天から舞い降りた神に会えるのだから。

第6回オオハクチョウ(8月25日)につづく

投稿者:渡邊恵美子
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2009年08月20日

2009ヨーロッパ鉄道旅日記7

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北の渡り鳥線
おもちゃ箱の様な町ツェレを後に、北欧の最初の訪問地コペンハーゲンに向かう。ツェレからハンブルグ乗り換えで約490キロの列車旅である。ハンブルグまでは通勤時間帯の区間急行に乗り込む。
 列車旅での一番大変な仕事がトランクの積み降ろしの作業だ。ヨーロッパでは長編成列車が多いので、必ずホーム案内板で車両停止位置を確認し、目的車両の停止位置で列車を待つ。列車到着と同時に、男性2人でそれぞれ車両のデッキ側とホーム側に分かれ、トランクの受渡しを効率よく行う。我鉄道旅の鉄則で、この作業から鉄道の旅が始まる。
 ハンブルグから乗車のドイツICEは、スタイルや車内の豪華さは最新ICE-3と同じだが、珍しい振り子式気動車ICE-TD形式で、200K/Mの速度を誇る。北ドイツからスカンジナビア半島までは、鳥のように島伝いに橋などで渡り継ぎながら進む「渡り鳥コース」である。1等車のドリンクサービスに喉を潤しながら移り行く車窓の風景を楽しむ。

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 ハンザ同盟の街リューベックを過ぎる頃、ただただ水平線いっぱいに広がる台地は、黄色い菜の花畑と緑の草原。そして、その合間に立ち並ぶいくつもの風力発電の風車が、北海やバルト海からの恵みの風を受けて力強く回っている。

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 鉄道・道路橋フェーマルン橋(963.4m)を渡るとやがて、在りし日の青函連絡船を想う、鉄道連絡船の中にICEは入って行く。約1時間、プッツガルデンとロービュを結ぶしばしの船旅は、フェーマルン海峡の景色を楽しみ、免税店を覗いたりの、変化に富んだくつろぎの時を過ごさせてくれる。連絡船から出たICE列車は、酪農の国デンマークの田園地帯を、コペンハーゲンをめざしてひた走る。

つづく

投稿者:にわあつし
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2009年08月22日

手漉き和紙の里(20)~見捨てられた石神(いしがみ)和紙~

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新田川から信田澤方面と深野方面

 福島県磐城国相馬郡石神村信田澤(しださわ)・深野は原町市(現・南相馬市)の奥に位置する。原町は阿武隈高地を発する太田川、新田川が東流し太平洋へ流れこむところである。地名は江戸時代に陸前街道(浜街道)の宿駅であった原ノ町からの由来で、相馬中村藩の陣屋も置かれていた。昭和29年(1954)、原町と高平、太田、大甕(おおみかみ)の3村が合併して市制となる。同31年、石神村を編入。2006年、原町市、鹿島市、小高市3市による平成の大合併で南相馬市となった。
 この地が手漉き和紙の里になったのは、天明の飢饉に農民の窮乏を救うため、加賀藩から土佐流の紙漉き職人を呼んだのが始まりとされる。明治33年(1900)には76戸を数え、同35年には紙漉き技術を伝える伝習所も設けられたほどである。恵まれた気候、風土により原料となる楮や黄蜀葵も、自家栽培し余力を二本松の上川崎へ売るほどであったと言われる。

●見捨てられた? 和紙
 この付近一帯は富岡まで完成した常磐自動車道を延長させる運動の線上に位置している。全国的にも有名な相馬野馬追祭をメインとして観光振興を進めている。そのためにも常磐自動車道の完成と周辺の整備、開発が必要なのであろう。平成8年には、低コストの水田農業大区画圃場整備事業が推進された。この事業により石神で45戸、47haが整備され村落の姿も一変した。もちろん、和紙の里信田澤・深野も変わり養蚕の姿も消えたのである。付近を流れる新田川の清流がなぜか虚しく感じる。

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南相馬市博物館と記念スタンプと観覧券

 和紙の里であったという痕跡を探すと、南相馬市博物館(入館300円/9時~16時45分/月曜〈祝日の場合は翌日〉休/デ0244-23-6421)にあった。学芸員に取材したところ、この博物館で手漉き和紙の体験が行われていたが、現在では道具類も収蔵庫に片付けてしまったとのことであった。今後、地元行政や関係者がバックアツプするなど、よほどのことがない限り、再び道具が出され和紙が再現されることはないであろう。

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旧石神村役場/整備事業された石神/二宮尊行宅址

 石神といえば、二宮尊徳(金次郎)の子・二宮尊行(そんこう)が住んでいたところで、二宮尊行宅址や墓もあり、歴史を感じるところである。誠に残念であり寂しい限りと言える。

●磐城無線電話局原町送信所跡
 明治政府は対米通信網確立の一つとしてこの地に送信所を設置した。当時の規模は、底面直径17.7m、尖端直径1.81m、高さ200mの鉄筋コンクリート造という堂々たるものであった。大正12年(1923)9月1日の関東大震災の際、災害状況をいち早くアメリカへ報道したことで全世界から注目を集めた施設であった。昭和57年(1982)、風化により惜しまれつつ撤去した。この歴史を残そうと地元の民間奉仕団体により、縮尺十分の一という「憶原町無線塔」が建設された。これでも見上げるほどの高さであるが、当時はこの十倍も高い塔であったと思うと恐ろしい高さと言える。

投稿者:菊地正浩

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2009年08月23日

『天地人』第34回「さらば、越後」

 高校野球で新潟県勢が決勝戦進出を決めた日に国替えとは何とも皮肉ですね。これで新潟県民は『天地人』観なくなってしまうのでしょうか? 長年の故郷・越後から会津への国替え。120万石の栄転でありますが、これには家臣の反発も相当あったようで、兼続の泉沢久秀などは寝込んで拒否しています。そこに兼続が「帰農して越後に残る者を集めてくれ」と久秀に言い出し、越後一揆の下地をつくります。ただ久秀は実際は荒砥城代になっていますから会津に行っていますけどね。
 越前から春日山に移封される堀秀治(かなやす慶行)も登場。兼続のためにさんざんとばっちりを受けた人です。年貢は無断で半分持って行ってしまうわ、本百姓は連れて行ってしまうわで、領国経営は困難を極めたのですが、秀治の家臣で兼続同様、天下の三陪臣(『名将言行録』)といわれた堀直政(監物)は出てきませんね。この人がドラマに出てくるとおもしろいのですが、兼続=正義ですから登場しないのでしょうか。
 越後を去るとき、お船は家族とかまくらをつくり、「もうかまくらをつくることはできない」と嘆いていますが、別に南国に国替えでもあるまいし、会津地方でもかまくらぐらいつくれると思いますが……。越後を去る者、残る者。仙桃院やお涼は越後に残り、兼続は雪をみて泣き出します。泣き虫は大人になっても変わっていませんね。でもひとつ気になったのは山に登って越後を眺めるシーン。あれって僕も行った直峰城(新潟県上越市)のような気がするのですが。あとはオープンニングにも出てきた山。あれは南魚沼市の八海山(1778m)だそうです。 八海山といえば地酒の銘柄にもありましたね。で、もって思い出のシーンで時間を稼ぎ次回に続きます。

 史跡紀行では新潟県魚沼市の目黒邸や鷹待山城、六十里越などが紹介されました。JR上越線の小出駅から会津若松に至る只見線のルートですね。残念ながら目黒邸などは未訪ですので、今回は最寄駅のJR越後須原駅のスタンプと雪の只見線(会津川口駅)の写真をUPします。

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2009年08月25日

北海道の動物たち(第6回オオハクチョウ)

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カモ目カモ科ハクチョウ属。
全長約140cm、翼長約60㎝、体重約10kg。全身白色で、上くちばしは黄色で下くちばしと足が黒い。繁殖地はユーラシア大陸北部で、越冬のために日本に飛来する。道東の濤沸湖、屈斜路湖などでよく見られる。
 冬期、オオハクチョウが飛来する屈斜路湖は白鳥の湖と化す。湖岸の砂を掘ると温泉が湧き出す「砂湯」周辺は湖が凍らない上、多くの観光客がパンの耳といった餌を与えてくれるので、彼らにとっては天国なのかもしれない。野生動物のわりにお気楽に見えるのもそのためなのか。それとも元来そういった生き物なのかわからないが、暢気に毛づくろいしている姿は自然の厳しさを感じさせない。

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 一方、濤沸湖のオオハクチョウたちは大変だ。屈斜路湖同様に餌を与えてくれる観光客が多いが、それ以上にライバルも多い。カモやカラスたちがおこぼれを狙っている…というよりも彼らの方がオオハクチョウたちよりも大きな顔をして幅を利かせている。せっかくオオハクチョウの若鳥に餌を投げてやっても、すぐに要領のいいカモに盗られてしまう。それなのに悔しそうな顔をすることもなく、次の餌を投げてもらえるのを待っている。「餌を投げるこっちの方が悔しいぞ!ちゃんとキャッチしろ!」と言いたくもなる。
 去年5月、北海道で見つかったオオハクチョウの死骸から強毒性の鳥インフルエンザウィルス「H5N1型」が検出されたというニュースを耳にした。極度に恐れる必要はないが、野生の動物と触れ合う際には適度な距離を保ち、必要以上な接触は控えるべきであると改めて自分に言い聞かせる事件だった。

第7回エゾナキウサギ(9月1日)につづく

投稿者:渡邊恵美子
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2009年08月27日

2009ヨーロッパ鉄道旅日記8

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コペンハーゲン

 アンデルセンの故郷デンマークは、世界に誇る福祉優先の国。残念ながら、到着したコペンハーゲンの中央駅の第一印象は、意外に雑然としていて、福祉国家にしては汚く感じる。ホテルのチェックインを済ませると、さっそく市内観光に出発だ。中央駅からS-TOG(国電)に乗り三つ目のオスタポート駅に移動。市内から近郊までを結んでいる国電は、自転車ごと乗車ができる。自転車も公共の乗り物として、専用道路も整備されているデンマーク。市内に120カ所程ある、乗り降り自由の無料レンタルスタンドの自転車を利用し、また自転車ごと国電で移動することにより幅広く行動ができる。通勤地獄には無縁の国電事情は羨ましい限りである。

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 我がツアーは基本的に徒歩観光。ヨーロッパには、東京や大阪みたいな巨大都市は少なく、旧市街を含め徒歩で観光スポットを巡ることができる。テレビシリーズの如くぶらり散歩で、現地の人々と同じ視線で街を楽しむことが、旅の醍醐味でもある。人魚姫の像を筆頭に、王室の居城アマリエンボー宮殿、昔の船着場であるニューハウン、ショッピング通りストロイエ、そして、遊園地であるチボリ公園まで総歩行6キロ、締めは、幼き頃にたくさんの夢を与えてくれたアンデルセンの像に感謝を想いを告げ、ホテルへの帰途につく。

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つづく

投稿者:にわあつし
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2009年08月29日

ワイ字しめ

 ここんとこ~、ネクタイ タイプとか、Y字型のネクレがいい感じ~?でもない~!?!
 一応シンプルだけど作ってみましたん~~~。

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月末~、自分の首を絞めすぎんと、適度にゆるゆるいきまっしょい~!って意味不明~~~、汗汗。

投稿者:ざつはち

 ビーズアクセサリーとは、ざつはちさんは器用ですね。旅先のみやげ物屋でも見かけた記憶があります。(村野鎮守)

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2009年08月30日

『天地人』第35回「家康の陰謀」

 げげっ! 越後(新潟県)を去る前回は視聴率ワースト更新の14.9%。やはり鬚面の兼続がレキジョさんたちにそっぽを向かれてしまったのでしょうか? それともトイレまで我慢して観ていた新潟県民たちの影響でしょうか? この先が思いやられます。
 秀吉と前田利家の二大武将が亡くなってしまう回でした。秀吉の臨終場面で三成の「三献茶」のネタですか。どうも芸がありませんね。
 家康の悪役ぶりが際立ちましたね。会議のうえで三成をいじめたり、秀頼が諸侯を集めさせた場面では上杉に対して「奸臣」呼ばわりし、これに対して兼続が反論します。しかも家康の挑発にのった三成が、家康暗殺を企て、ああ出ちゃったよ、うざい初音。なんと兼続のもとにかけつけ三成を止めるよう進言します。本能寺の変では光秀を暗殺しようとしたぐらいですから、いっそのことあなたが家康を暗殺したら? ここで島左近(若林豪)登場。おおっ『Gメン'75』の立花警部補懐かしい。って知っている人いるかな? 実際の家康暗殺は左近が企てたのですが、三成はこれを「卑怯」と止めてしまったのでは?
  結局、家康が遺言を無視して約定を破ったことで詰問使を派遣され挑発しているのも変。ここで家康は素直に謝罪していたほうが、悪ぶりが徹底できたはずなのに。あの野心家の伊達政宗さんは、すっかり家康の飼い犬になってしまったようですな。
 最後の利家の臨終シーンは、宇津井健さんの演技が見事でしたね。家康が見舞いにきたところ、病身で油断させ家康の首に短刀を突きつけ、「貴殿の命ここで奪うこともできる」と言って、息子の利長と兼続のいる前で家康に秀頼の後見を誓わせます。このシーン、『利家とまつ』で利家を演じた唐沢寿明の時もありましたが、利家がみせた最後の気概という点ではこちらに軍配があがりますね。

 史跡紀行では京都市東山区の阿弥陀ヶ峰と豊国神社などが紹介されました。こちらは未訪ですが、本日は大阪城の豊国神社のほうへ行ってきました。今回はスタンプはありませんが、京都の豊国神社は特派員が撮影したものがありますので、豊国廟と秀吉の墓をUPします。

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投稿者:管理人
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