親鸞と恵信尼ゆかりの里は日本のへそ  by 菊地 正浩

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 新潟県上越市直江津の居(こ)多(た)ヶ浜。海水浴場、海浜公園、船見公園、佐渡汽船ターミナル、市立水族博物館、安寿と厨子王の供養塔、芭蕉の句碑などがある旅情豊かな海岸である。

 

 日本のへそとして知られ、往古から京の文化と蝦夷につながる東の文化と接する境界であった。越後は争乱の絶えない要衝の地で、源平の戦い、源義経の奥州逃避行、春日山城を拠点とした上杉謙信などが歴史に名を残している。

安寿と厨子王の供養塔 

 

芭蕉の句碑。元禄11年(1689)七夕の前夜直江津での作句

 「 文月や 六日も常の 夜には似ず 」

 

 < 親鸞と恵信尼の出会い >
 親鸞は美作国(岡山県)で、皇太后宮大進日野有範の長子として生まれた。比叡山に入り、浄土宗開祖の法然上人の弟子になった。

 承元元年(1207)、専修念仏の弾圧により流罪となり、法然は四国の讃岐、親鸞は越後へと追われた。海岸線から切り立った崖が続く上越地方。木浦(このうら)(現糸魚川能生(のう))から舟に乗って難所を避けながら、春先の穏やかな海岸(現在の海水浴場)に上陸した。

親鸞が上陸した居多ヶ浜

 

居多ヶ浜海水浴場に障害者トイレ

 

 僧籍を剥奪された親鸞は藤井善(よし)信(ざね)と名乗らされ、愚(ぐ)禿(とく)と自称して非僧非俗の生活に入った。この頃、恵信尼を妻として越後で通算7年間を過ごした。

  建暦元年(1211)、赦免されたが越後に留まり、2年後に家族を伴い旅立ち、常陸国稲田郷(茨城県笠間市)など関東への布教が始まった。その後、浄土真宗を開き京へと戻り、弘長2年(1262)90歳で大往生をとげた。

  妻の恵信尼は、寿永元年(1182)の生まれ、越後出身、京の九条家とのつながりなど諸説あって定かでない。国府の草庵で結婚生活を送り、6人の子宝に恵まれた。うち4人は現在の上越市板倉区周辺に住み、ゆかりの地名が現在でも残っているという。

  恵信尼は親鸞と行動をともにして京に上り、72歳の頃何人かの子供を伴い越後へ戻った。文永5年(1268)、87歳で没する。

恵信尼公廟所

 

恵信尼像

 

恵信尼会館

なぜ、上越市直江津が日本のへそ ??

 日本には「へそ」を名乗るところが複数あり、連絡協議会まであって兵庫県西脇市が会長を務めている。上越市が日本のへそという根拠は、最北端北海道稚内弁天島、最南端鹿児島県佐多町大輪島の中間点1021kmは栃木県佐野市田沼になる。

  日本のど真ん中、田沼を起点に、日本海側の上越市と太平洋側の千葉県銚子市を結ぶと、各々134kmとなる。日本列島の西側の中間が上越市である。

日本のへそ上越市直江津。後方は春日山城址方面

 

( 2012年10月3日寄稿 )