『篤姫』第8回「お姫様教育」

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 旅じゃBLOGも菊地会員に助けられる形で、現在のところとりあえず3月2日までは連続して更新できます。新たに投稿される会員はUPが3月3日以降になることご了承ください。まあ1週間が過ぎるのは早いものですから、昨年は6月18日までモチベーションが保てたことが不思議なくらいです。結局、どこまで続けられるかは会員の皆様次第なんですが、関心のない方も多いようで……。
 
 本題に入ります。於一は斉彬不在のまま鶴丸城に入ったようですが、周囲の嘲りぶりがむごいようで、さすがの於一も翻弄されている様子です。またまた桐野先生の『膏肓記』を参考にさせていただきますが、大奥は江戸城だけのものと思っていたら、大名家や上級公家にもあったようです。「大奥=江戸城」の固定観念にとらわれないよう。
 時代背景的には嘉永6年(1853)のペリー来航ですが、篤姫がメインとはいえ、ペリーの久里浜上陸のエキストラがないのは不満。ちょうどこの時期にようやく大久保の謹慎がとけ、於一は小松家の姫お近を呼び寄せます。このときお近は於一のところへの届け物があればと、於一の母や肝付尚五郎のところにも寄っています。すばらしい性格ですな。ところでこのお近は、のちの小松帯脇となる肝付尚五郎の妻になるのですが、ドラマでは7歳年上の姉さん女房です。お近は史実では千賀といい、生年は不詳なのですが、兄の清猷が尚五郎より8歳年上なので、まあ7歳年上でも問題はないのですが、結婚するのが清猷が亡くなった安政2年(1855)なので、当時では27歳という珍しく晩婚になってしまいます。実際はもう少し尚五郎の年齢に近い気もしますが……。
 で、お近が持ってきた母の手紙となぜか渡される菊本が自害前に書いたという手紙。まあ、この手紙の内容からでも菊本の自害はムリがありますが、とにかく菊本の手紙を読んで変身する於一が不気味。一方、京都の近衛家から於一の養育係にもらい受けた幾島(松坂慶子)が鶴丸城に入り、さらなる教育が施される模様です。
 史跡紀行ではペリー来航の神奈川県横須賀市を紹介。ここはライターの古賀氏に取材してもらった箇所で、ペリー上陸記念碑や燈明堂、渡し舟などが出てきました。今回はペリー公園内の上陸記念碑とペリー像およびもうひとつのJR久里浜駅スタンプをUPします。この取材は慌しく月曜に出かけたため、ペリー記念館のスタンプは押せませんでした。残念。
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投稿者:管理人
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