軽井沢の夏、音のある世界③  by 伊本 俊二

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豪快でさわやかな雷

有島の描写した雷も、一世紀たつと多少はさま変わりしたようだ。窓から眺める矢ヶ崎山は標高1,184メートル、冬はスキー場のゲレンデに変わった。近年の雷は一天にわかにかき曇ってやって来ない。夕立を思わせる灰色の雲が広がり、森ではヒグラシゼミが「カナ、カナ、カナ」と雨の訪れを告げる。

続いて南の佐久地方から暗雲が忍び寄り、強い風が吹き出して、矢ヶ崎山に暗雲がかかると、雷様の登場である。時期によっては北の浅間山から、東の群馬県側から来る時もありそれが合流することもある。

矢ヶ崎山遠望
冬に備えて薪を積む別荘の納屋

サンダーボルト(落雷)攻撃の凄さや、しのつく豪雨は、百年前とは変わりなく、また暴れん坊の去った後の壮快さも同じである。

それだけに、頼りない音と光で、雨も降らさずに、通り過ぎて行く時は、期待したコンサートに裏切られた気分で消化不良になる。

 

音が恋しかったサハラ

一方、音のない世界に出会ったのはサハラ砂漠である。日本で想像するのは鳥取砂丘や、月の沙漠だが、サハラは褐色の大地。砂ではなく赤土の荒涼とした広がり、乾いて荒々しく、無表情に地の果てまで続くのである。

エジプトのピラミッドとスフィンクス

モロッコのアガディールから、数台のランドローバーに分乗して、外国人男女とサハラの旅に出た。

オアシスの小さな村に泊まった翌日、近くの小高い、これも赤土の岩山にラクダに乗って登った。外国人は頂上まで往復するというので、ひとりポツンと、途中の岩山に待つことにした。見渡す限り乾き切った褐色の荒野が地平線まで広がっている。ギラギラと太陽が照りつける。

時おり強い風が通り過ぎる。そう言えば、風の音以外に〝音〟がない。サハラは音のない世界だった。〝音〟が無性に恋しくなった。あれ程にうるさかった都会の雑音、クルマの音、自転車のベル、犬の声まで急に懐かしくなった。

二時間ほどして一行が戻ってきた。イギリス人の肩からかけた小さなレコーダーから、ラテンの歯切れよいリズムが流れてきた。大げさに、生きている喜びを感じた。

音楽とは、音を楽しむと書くが、音のある世界はなんと素晴らしいものであるか。サハラの大地が教えてくれた。

( 2013年10月9日 )