手漉き和紙の里(3)~修善寺紙(色好紙=伊呂与志紙)  by 菊地 正浩

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 静岡県伊豆市修善寺、旧伊豆国(いつのくに)(豆州)修善寺は伊豆半島北部狩野川中流域に位置し、地名は古刹修禅寺(源頼家が幽閉された寺)による。大同年間(平城朝806~810)に弘法大師(空海)が修禅寺を開いた。弘法大師は鉄、銅製の棒状仏具をもって温泉を発見、「独鈷(とっこ)の湯」といわれる河原の共同浴場として有名になった。付近一帯は修善寺温泉街として開けた。昭和31年(1956)下狩野村、34年(1959)北狩野村を編入、2004平成の大合併で土肥町、天城湯ヶ島町、中伊豆町と合併して伊豆市となる。室町時代から修善寺と呼ぶようになり、寺の名前とは異なるようになった。
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 温泉街を流れる桂川上流沿いに紙谷地区がある。「紙の谷」という地名のとおり紙漉きの里である(修善寺和紙発祥の碑があり、修善寺紙を再現する会が修善寺紙・紙谷和紙工房を開設して活動している)。
 室町中期の文安元年(1444後花園朝・足利義政)の出版物で現代の百科事典ともいえる「下学習」によると、修善寺紙は坂東豆州紙名也、色薄紅也とあるのが最古の確実な文献とされる。『平家物語』の流布本に修善寺紙の記述があるところから平安時代とする説もある。しかし、弘法大師(空海)が修禅寺を開いたことを考えると、この頃紙漉き技術が伝播されたと考えても不思議ではないと思う(筆者の考察)。
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 修善寺紙の「漉染め」は紅花と天然朱で色を出していたが、江戸中期には赤木(あかぎ)(リンボク)に変更して朱系が主流になった。和紙を使った代表的な古文書が伊豆修善寺郷土資料館に展示されている。「徳川家康壺形黒印状・慶長3年3月4日付」である。(伊豆市指定文化財)徳川家公方紙を漉かせるため、紙谷地区の三須文左衛門を紙漉きの頭と認め、原料である楮(こうぞ)、三椏(みつまた)(写真右)、雁皮(がんぴ)等のこの地における独占権を与えた。同時に紙漉きには立野(たつの)、修善寺地区に手伝いを命じて良いとしたお墨付きである。明治から大正時代には障子紙に使われた実用紙の立野半紙が有名であったが、いずれも洋紙に押されて廃れた。
 幕府は全国的に和紙生産を奨励したが、ここの資料館には和紙に描かれた、当地のお宝地図が古文書と共に保存、展示されている。
○安政の大洪水による修善寺村の流失田畑の絵圖(安政6年7月25日)
   年貢の減免願い用に添付された貴重な村絵図
○伊豆国全圖(寛政5年、伊勢、伊豆、駿河の三国で作成)
 伊能忠敬は沿岸を測量し伊豆半島全図を作成しているが、本図は主に内陸各地を表わし、しかも逆さ地図(南伊豆が上で通常の地図とは天地が逆に描かれている)で貴重なお宝。
○荒地調圖(慶應2年)
○豆州温泉案内(明治30年5月5日、東京市京橋区右田商店発行)
いずれも和紙を使用した歴史の証人「地圖」のお宝が展示されている。
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修善寺郷土資料館 静岡県伊豆市修善寺838-1
●伊豆箱根鉄道修善寺駅からバスで約8分、修善寺総合会館下車徒歩1分。入館300円。9~16時。木曜休。TEL0558-72-1934

( 2009年2月28日 寄稿 )