手漉き和紙の里(34)~乙津(おつ)軍道紙(ぐんどうがみ)~  by  菊地 正浩

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東京都あきる野市乙津(おつ)(武蔵国多摩郡乙津村)は奥多摩に近い都の西部にある。養沢(ようざわ)川、秋川の合流点、深い渓谷に沿った山村。明治22年(1889)五日市村と小中野村が合併して五日市町誕生。大正7年明治村と三ツ里村、昭和30年増(ます)戸(こ)、戸倉、小宮の3村を編入した。一方秋川市は、昭和30年(1955)東秋留(あきる)、多西、西秋留の3村が合併し秋多町が誕生。同46年八王子市と一部境界変更、同47年市制施行時に秋川市となった。

 

この五日市町と秋川市が、平成7年に合併してあきる野市が誕生した。市名は中世の秋留郷にちなんだと言われる。五日市地区は山林が地区面積の80%を占め、西境沿いには馬頭刈山(まずかりやま)(884m)を頂点に関東山地の山々が分布する。秋川地区も観光地秋川渓谷があり、あきる野市は渓谷集落として発展してきた。乙津村の軍道という地名の由来は、当て字で崩土(くえど)がなまってグンドウと呼ばれるようになった説とされる。「五日市町郷土館発行の五日市町の古道と地名」大和国乙訓郡から来た源兼信から9代の孫、伊賀守政忠が当地に移住して乙津氏と称したとされる。乙津氏は戦国期に小田原北条氏の配下となり、江戸期には名主を務めた。しかし、比較的新しく江戸幕末期の呼び名とされている。新編武蔵武文によると、乙津氏が甲武国境の備えに当たっていたことが伺える。江戸期は多摩郡小宮領乙津村、戸倉村の枝郷であった。はじめは天領、宝暦から武蔵久喜藩米津氏の知行地。

五日市郷土館
五日市郷土館
館内に展示されている軍道紙の道具一式
館内に展示されている軍道紙の道具一式
秋川渓谷の温泉「瀬音の湯」
秋川渓谷の温泉「瀬音の湯」

 

● 歴史ある乙津軍道紙
軍道紙の由来には複数説がある。まず中世期に大幡(現八王子市西寺方町)で紙漉きが行なわれ大幡紙が起こった。大幡紙は一名「端切らず」と呼ばれ、後に軍道、落合を中心に漉かれる軍道紙として引き継がれた。恩方(おんがた)と川口の接点に当る大幡は山麓地帯で、湧水と清流淺川に恵まれている。比較的温暖な地理、地形は楮の生産と天日干しにも適している。武蔵国守護代大石氏や後北條氏の拠点である案下(あんげ)城、八王子城のほか宝生寺以下の寺社も多く、紙の需要が多かった。大幡紙の傘下にあった九ヶ村(養沢、乙津、戸倉、小中野、深沢、高尾、三内、伊奈、網代)の集落が、手漉き和紙の里として知られていた。文献にも舟役が課せられていたことが記されているが、江戸時代中期になると大半の農家が紙漉きを止め、舟役免除嘆願書を提出している。和紙よりも収入の良い養蚕に切り替えたからである。

 

この中にあって養沢川と秋川の落ち合う乙津村だけが軍道紙として伝承を続けて来たのである。また、徳川と豊臣が戦った大阪夏の陣で、負けた豊臣の落武者が乙津村軍道に来て紙漉き技術を伝えた。奥多摩を発源とする清流秋川とその支流養沢川の落ち合う里(落合)の乙津村で、主に先陣の旗指物の大旗に使用する紙を漉いた。江戸中期には山沿いの村々でも紙漉きが広がり、漉き舟に対して舟税が課せられるほどになった。いずれの説が有力かは定かではないが、大幡紙は消えて軍道紙は残った。軍道は武蔵国小川とも近く小川和紙との交流や縁組なども行なわれたという。(現在、飯能紙再生に携わる一代漉き滝澤徹也氏も交流のため訪れる) 原料は楮、ネリは黄蜀葵を使い、水晒しによる手法は小川和紙と同じである。

清流秋川落合付近
清流秋川落合付近
養沢川と乙津村集落 ニジマス釣りは2kmに及ぶ
養沢川と乙津村集落 ニジマス釣りは2kmに及ぶ
乙津郵便局と軍道バス停
乙津郵便局と軍道バス停

● 東京都指定無形文化財「乙津軍道紙」保存はされるか?
天保7年(1836)の五日市村絵図では約80戸、文久3年(1863)2月の武蔵国多摩郡五日市村絵図では約90戸の農家を確認できる。明治13年乙津村の戸数125戸、内軍道紙36戸と記録されている。戦後になると順次廃業し4~5軒になり、最後の生産者高野源吾氏が家業をたたんだのは昭和39年という。

 

高野氏は大正14年生で東京都指定無形文化財に指定されていたが、なにぶん高齢のため残念ながら今年、2015年(平成27年)2月に他界された。昭和62年になり、五日市町では伝統を守ろうと乙津の地に「ふるさと工房五日市軍道紙の家」を建設、和紙漉き体験場を設けて高野氏を指導者として招き伝承に努めてきた。現在、「あきる野ふるさと工房」となり、軍道紙保存会がその技術を伝承し、紙漉き体験、和紙づくり、和紙染めなどを行い多くの人が訪れる。観光振興のほか小学校の卒業証書に使用するなどしているが、技術指導者の高齢化、体験者の減少など色々な問題から苦戦している。

 

伝統ある乙津軍道紙を消すことの無いよう願ってやまない。

 

( 2015年11月30日投稿 )