手漉き和紙の里(4)~幻の湯倉・紙敷和紙  by 菊地 正浩

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 千葉県夷隅(いすみ)郡大多喜(おおたき)町は県南東部に位置し、房総丘陵の山間部である。南西には養老川、東部は夷隅川が流れる盆地状の沖積地である。山といっても300m級の山で(愛宕山は408m)比較的低い。余談になるが、地球温暖化が進み海面上昇で日本列島に海進があれば、真っ先に沈む県が千葉県なのである。町名は滝が多いことからという説があるとおり、近くの養老渓谷にはたくさんの滝がある。
 中世末期に武田氏が大多喜根古屋城を築いたのが始まりとされ、江戸時代の天正18年(1590)、本多忠勝が大多喜城を築城して10万石の城主となった。明治4年(1871)、大多喜県を設置したが、すぐに現在の千葉県となったのである。昭和29年(1954)、旧大多喜町と老川(おいかわ)、西畑(にしはた)、総元(ふさもと)、上爆(かみばく)の4村が合併した。
 この旧西畑村に大字湯倉(ゆぐら)と紙敷(かみしき)という集落があり、上総の国の手漉き和紙の里として知られていた。文献によれば上総の国には、夷隅郡西畑村湯倉と東葛飾郡小山村(現・松戸市)が和紙の里となっている。残念ながら現在では和紙の里の痕跡を見ることもできないのである。
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 筆者が訪れた永島郷土資料館(大多喜町の旧名主の家)は、残念ながら館主が病気療養中のために閉館、古文書等の確認や取材もできない。また、大多喜城博物館でも確認することができない。旧西畑村大字湯倉に在住の長老と大字紙敷の長老に話しを聞く機会に恵まれたが、昭和初期には紙漉(かみす)き道具一式もあって、小学校や農家で手漉き和紙を作ったということが判った。
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 地理的条件から考察すると、夷隅川の支流に西畑川という清流があって、扇状地と段丘のおりなす温暖な地形は、三椏(みつまた)や楮(こうぞ)が今でもたくさん植えられている。しかも和紙の原料として使用しないから背丈も高く、三椏の花が綺麗である。古くから当地でたくさん栽培されていたことが判る。明治24年(1891)、天然ガスが噴出してから地域一帯の様相も変化し、手漉き和紙の里は幻と消え去ってしまった。なぜか、大多喜城博物館近くの土産物店に飾られている和紙の凧が虚しいかぎりである。
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( 2009年3月25日 寄稿 )