手漉き和紙の里(7)~消えた鷲(とり)ノ子紙~1  by 菊地 正浩

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●水戸藩指定紙漉き場と風車の弥七、女房お新の墓
 茨城県常陸国(ひたちのくに)那珂(なか)郡嶐郷(りゅごう)村一帯(現・常陸大宮市)は、鷲ノ子和紙を漉く古い紙郷である。茨城県北部で西は栃木県に接し、八溝(やみぞ)山地の鷲ノ子山塊南東部にあり、大部分は2~300mの山に囲まれた山林である。那珂川と支流緒川の谷地平野に集落が点在する農山村である。合併の歴史を辿ってみると、昭和31年(1956)小瀬(おせ)、八里(やさと)、長倉(城址)、檜澤、の5村で緒川村、檜澤の一部と嶐郷村で美和村が誕生した。2004になり緒川村、美和村、大宮町、山方町、御前山(ごぜんやま)村の平成大合併により常陸大宮市となった。
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 江戸時代には水戸藩指定紙漉き場となり、水戸光圀は風車の弥七の進言により、城内の侍女たちを寒中に遣わして紙の尊さを知らしめるため見学させたという。当時の面影はなく、紙漉き場であったという碑(写真左)が建っている。テレビで御馴染みの『水戸黄門』で、家来の風車の弥七と女房お新の墓(写真冒頭2枚)、住居跡碑(写真中央)がある。墓地も立派で訪れる人も多い。本名を小八兵衛といい、忍びの技術に長けた盗賊で、捕まってから光圀に仕えたという。
 駐車場のところにある公衆トイレ(写真右)には、男女別の表示ではなく弥七とお新になっているのがおもしろい。此処で漉かれた和紙は水戸藩のほか江戸へと送られたが、紙街道(現・国道293号)は和紙の輸送と紙商人で賑わったという。明治時代には選挙用投票用紙に鷲ノ子紙が使用された。
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●何故、鷲ノ子紙なのか?
 昔は下野国と常陸国の国境、今は栃木県那須郡馬頭(ばとう)町(現・那珂川町)と茨城県那珂郡美和村(現・常陸大宮市)の県境にある、鷲子山(標高468m)。常陸風土記には大山と記されており、1200年以上も前から名を残している山である。山には樹齢千年を越す杉の大木をはじめ、いろいろな樹木が生い茂り、古来より霊峰と呼ばれている。
 山頂から眼下に北関東平野が一望でき、南は筑波山や晴れた日には富士山、西は日光連山や那須連峰、北は八溝山という展望である。昭和58年(1983)に「日本の自然百選」に選定されている。
「紙街道」と言われる道を通り、鷲子山への道は未開発のままであったが、昭和も後半になってから車で登れるようになった。だが、相変わらず曲がりくねった細い山道である。鷲ノ子地区も昔から辺鄙(へんぴ)な土地で、昔は石の道路標識に「はとうからすやまとりのこみち」と書かれ、見る人が「鳩烏山鳥」と読み、人が通るところではないと考えて引き返すという話が伝えられている。いまでは国道293号線に「馬頭・烏山・鷲子」となっている。
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 鷲子山には古くから人が住み、弥生式土器の出土や宝物が発見されている。鷲子山上(とりのこさんしょう)神社の創建は古く、大同2年(807)馬頭の大蔵坊宝珠(ほうしゅ)上人が諸国遍歴中、四国阿波国で紙漉きの神に出会ったと云われる。神様は天日鷲命(あめのひわしのみこと)で神社名も、鷲権現、鷲子権現、鷲子山神社などと呼ばれた。明治4年(1871)に現在の鷲子山上神社となったのである。天日鷲命は『古事記』『日本書紀』にも記されているが、まだ未開発であったこの地に産業振興の一つとして製紙殖産の神として迎えられたと言われる。水戸光圀も紙漉き振興のため参拝に訪れたという。
 また、名前のとおり鳥の神様で、フクロウ、キジ、ニワトリ、カラスなど多くの鳥が崇敬され大切にされてきた。神社のいたるところにフクロウがあり、日本一の大フクロウ(不苦労といい7mある)が開運福徳を招くといって参拝者も多い。つまりここの神様は紙の神様であり、この地一帯で漉かれた和紙を「鷲ノ子紙」と言ったのである。

5月7日につづく

( 2009年5月5日 寄稿 )