手漉き和紙の里(15)~絶えた大聖寺(だいしょうじ)藩の紙屋谷和紙~  by 菊地 正浩

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山中温泉ホテル大黒屋と温泉
 石川県加賀国江沼郡河南(かわみなみ)村長谷田(はせだ)、中田(なかだ)、上原(うわばら)、塚谷(つかたに)(現・加賀市山中温泉郷の玄関口)は、紙漉きが副業として盛んになった江戸時代中頃には、紙屋四ヵ村とも紙屋谷とも呼ばれたほどの手漉き和紙の里であった。現在でも紙屋谷、紙屋用水などと名称は残るが、区画整理された上原、塚谷の台地を加美谷(かみや)台と変えて地名としている。
 紙屋谷の地形は山中町の北西部に位置し、大聖寺川中流域に広がる山代温泉と山中温泉の間にある。紙屋谷の歴史は古く、縄文、弥生、古墳時代の史跡も多い。奈良時代の天平(てんぴょう)12年(740)越前国江沼郡山背郷計帳に、戸籍、戸別、人頭税に関する台帳が残されている。昭和30年(1955)山中町と河南、西谷、東谷奥の3村が合併。2005年加賀市と合併して今日に至っている。
●紙屋谷和紙 
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大聖寺川の清流
 農閑期の副業として、女子は紙漉き、男子は藁仕事をしたが、とくに紙漉き、養蚕はこの地の大きな副業であった。「大聖寺藩年譜草稿」弘化3年(1846)によると、延宝4年丙寅(1676)四代将軍家綱の頃、「中田村五郎兵衛、二俣村(金沢市)へ足軽小頭栗村茂右衛門を添えて紙漉き習に被遣、是より追々広る」とある。金沢の二俣村(二俣紙の里)で紙漉き技術を習得して、紙屋四カ村の村民に教えた。この地区は山中谷と呼ばれていたが、紙漉きが盛んになると紙屋谷と呼ぶようになった。
 文献によると当時長谷田45戸233人、中田14戸73人、上原33戸123人、塚谷26戸170人、計118戸509人もが従事していた。大聖寺藩時代の「江沼志稿」によると、御前延紙(のし)、藩札、帳紙、傘紙、茶紙、鳥子紙、塵紙などの多種類が漉かれていた。もちろん山中漆器の包装紙も例外ではない。原料は楮で、この地では木コウズと呼び、自生のものは質が悪いので畑で栽培した。ネリには黄蜀葵(とろろあおい)、水は大聖寺川の清流である。大聖寺藩のみならず加賀藩でも藩札に使われるほどの和紙の里であった。
●紙屋谷和紙の影を山中温泉郷に見る 
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山中温泉ホテル大黒屋の温泉 加賀市山中温泉支所
 山中温泉は天平年間(729~749)に僧行基によって発見された。松尾芭蕉も長逗留し有馬温泉に匹敵すると云い、「山中や 菊はたおらじ 湯のにほい」の名句を残した。山中節でも有名な北陸の名湯として栄えてきた。正徳5年(1715)の古地図には、湯街の家屋敷47戸、享和3年(1803)では170戸、安政年間(1854~60)の温泉絵図では500戸ほどに発展している。旧役場である山中温泉支所で取材したところ、かつては歴史民族資料館のような設備もあったが、残念ながら現在はなくなったとのことである。
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芭蕉の館
 至近にある芭蕉の館を訪ねると、奥の細道と伝統工芸や古文書などに触れることができる。和紙に記された数々の古文書や芭蕉に関する文献に混じり、山中温泉古図(天保年間)や加州山中温泉風景(文久3年版木刷)といったお宝古地図が見られる。それは見事な木版による絵図で、この地で漉かれた和紙を使用したに違いあるまい。この芭蕉の館は展示物の良さもさることながら、施設管理、メンテナンスも行き届き塵一つ目にすることはない。とくにトイレの清潔さとメンテナンスは観光地トイレとしても一級品であろう。
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ギャラリー耀の和紙 芭蕉も訪れた黒谷橋
 もう一つ、ギャラリー耀(よう)に寄ってみた。今よみがえる加賀山中、加美谷の里和紙というふれこみで、小さなギャラリーが営まれている。和紙の里復活と再現を夢みる店主の気持が痛いほど良くわかる。しかし、紙漉きまでには至らず、売られている和紙類は越前和紙などである。諦めずにいつか紙屋谷和紙再現の夢を果たしてもらいたい。清流大聖寺川には芭蕉も訪ねた黒谷橋が架かり、そこから眺める奇岩層列と静寂な風景は、かつて和紙の里であったという痕跡すら感じさせない。

( 2009年7月18日 )