手漉き和紙の里(20)~見捨てられた石神(いしがみ)和紙~  by 菊地 正浩

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新田川から信田澤方面と深野方面
 福島県磐城国相馬郡石神村信田澤(しださわ)・深野は原町市(現・南相馬市)の奥に位置する。原町は阿武隈高地を発する太田川、新田川が東流し太平洋へ流れこむところである。地名は江戸時代に陸前街道(浜街道)の宿駅であった原ノ町からの由来で、相馬中村藩の陣屋も置かれていた。昭和29年(1954)、原町と高平、太田、大甕(おおみかみ)の3村が合併して市制となる。同31年、石神村を編入。2006年、原町市、鹿島市、小高市3市による平成の大合併で南相馬市となった。
 この地が手漉き和紙の里になったのは、天明の飢饉に農民の窮乏を救うため、加賀藩から土佐流の紙漉き職人を呼んだのが始まりとされる。明治33年(1900)には76戸を数え、同35年には紙漉き技術を伝える伝習所も設けられたほどである。恵まれた気候、風土により原料となる楮や黄蜀葵も、自家栽培し余力を二本松の上川崎へ売るほどであったと言われる。
●見捨てられた? 和紙
 この付近一帯は富岡まで完成した常磐自動車道を延長させる運動の線上に位置している。全国的にも有名な相馬野馬追祭をメインとして観光振興を進めている。そのためにも常磐自動車道の完成と周辺の整備、開発が必要なのであろう。平成8年には、低コストの水田農業大区画圃場整備事業が推進された。この事業により石神で45戸、47haが整備され村落の姿も一変した。もちろん、和紙の里信田澤・深野も変わり養蚕の姿も消えたのである。付近を流れる新田川の清流がなぜか虚しく感じる。
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南相馬市博物館と記念スタンプと観覧券
 和紙の里であったという痕跡を探すと、南相馬市博物館(入館300円/9時~16時45分/月曜〈祝日の場合は翌日〉休/デ0244-23-6421)にあった。学芸員に取材したところ、この博物館で手漉き和紙の体験が行われていたが、現在では道具類も収蔵庫に片付けてしまったとのことであった。今後、地元行政や関係者がバックアツプするなど、よほどのことがない限り、再び道具が出され和紙が再現されることはないであろう。
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旧石神村役場/整備事業された石神/二宮尊行宅址
 石神といえば、二宮尊徳(金次郎)の子・二宮尊行(そんこう)が住んでいたところで、二宮尊行宅址や墓もあり、歴史を感じるところである。誠に残念であり寂しい限りと言える。
●磐城無線電話局原町送信所跡
 明治政府は対米通信網確立の一つとしてこの地に送信所を設置した。当時の規模は、底面直径17.7m、尖端直径1.81m、高さ200mの鉄筋コンクリート造という堂々たるものであった。大正12年(1923)9月1日の関東大震災の際、災害状況をいち早くアメリカへ報道したことで全世界から注目を集めた施設であった。昭和57年(1982)、風化により惜しまれつつ撤去した。この歴史を残そうと地元の民間奉仕団体により、縮尺十分の一という「憶原町無線塔」が建設された。これでも見上げるほどの高さであるが、当時はこの十倍も高い塔であったと思うと恐ろしい高さと言える。

( 2009年8月22日 寄稿 )