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菊地正浩2009 アーカイブ

2009年01月13日

初春の香りをお届けします。

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 今年の初詣は大変な人出だったと報道されました。不景気になると八百万の神に縋る民族「日本人」、皆さんは如何でしょう?
 是非はともかく年々参拝が増えているのが「靖国神社」です。初詣から始まり年間600万人以上の人が参拝するまでになりました。以前は遺族である年配者が中心でしたが、昨今は男女を問わず若者や外国人が多くなりました。

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 さて、対照的にひっそりとしているのが「千鳥が淵戦没者墓苑」です。ここには海外で戦死し、これまでの遺骨収集で帰国したものの、身元不明のため引き取り手のない、約35万柱が埋葬されております。もちろん、未だに海外で眠ったままの遺骨は100万柱を超えるのです。喧騒な都心にありながら、この静寂な墓苑には訪れる人も少なく、ひっそりとしたお正月を迎えております。そんな墓苑内では早くも春の訪れを感じさせるかのように、青空の下で紅梅が咲いています。その下には綺麗な春を告げる花も咲いております。

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 もうひとつ墓苑内にあるものをご紹介しましょう、「細石(さざれいし)」です。国家「君が代」にある細石です。小さな石が長い間に沢山集まり、固まってこのような大きな巌(いわお)となります。長野県の諏訪大社にも置いてあります。細石に興味のある方は一度参拝がてら見るのも良いでしょう。なお、献花の菊は一本100円です、どうぞよろしく。

投稿者:菊地正浩
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2009年01月20日

小諸城址「懐古園」と中棚荘の今昔1

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 長野県小諸市は古来浅間山南西麓の裾野一帯が牧場で、大室・小室の郷と呼ばれていた。千曲川の清流と共に、山水の風光に恵まれた詩情豊かな高原都市です。平安末期から鎌倉時代にかけて、『源平盛衰記』や『平家物語』にも登場する、小室太郎光兼(木曾義仲の武将)が館を築いたのが起こりとされます。後に室が訛って諸、小諸の郷になったとも言われます。時代を経て城としての役割を終え、明治13年(1881)に「懐古園」と呼ぶようになり、現在に至っています。
 この小諸を舞台に文豪「島崎藤村」が28歳から7年間、小諸義塾の教師としてこの地で過ごし活躍したのです。藤村の「千曲川旅情のうた」の一節を紹介します。

  小諸なる古城のほとり 雲白く遊子かなしむ~略~千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む

 この小諸なる古城が懐古園で、岸近き宿が中棚荘なのです。

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●懐古園の新旧パンフレット
 昔のパンフレットは島崎藤村の写真が使われています。この自分の写真入りパンフレットに、大正11年9月、田中君に呈すと、自筆のサインをして送ったものです。田中君とは「夜明け前」の原稿校正を頼んだ、田中宇一郎ではないかと思います(筆者の想像)。
 何故ならば夜明け前は大正の終りから昭和の初めにかけて、狂死した父の生涯を描いた大作と言われ、時期が符合します。もう一人の田中君とは、田中昭邦という人物ですが、君こそ遠音に響く、という藤村詩を作曲した人で時代的にも考え難いからです。いずれにしろ貴重なパンフレットで現在では使われておりません。

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 もう一つ、二色刷りの質素なパンフレット(中棚鉱泉旅館裏面)も貴重な一品です。懐古園(城址)の案内料(今のガイド)は一人につき100円、藤村記念舘、徴古舘の入舘料は大人各20円となっています。館が舘という字になっているのも時代を感じさせます。この価格から大正のものではなく戦後間もなくのものと考えられます。

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 現在では懐古園入園時に共通券500円を買うと全て入館できるようになっています。

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園内の紅葉と648mの四等三角点などを紹介します。

パート2(1月22日につづく)

投稿者:菊地正浩
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2009年01月22日

小諸城址「懐古園」と中棚荘の今昔2

●「岸近き宿」中棚荘の新旧パンフレット

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 昔は島崎藤村ゆかりの宿「中棚鑛泉旅館」となっています。一泊二食800~2500円、半泊朝食600円から、等と書かれています。

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 現在は、千曲川旅情、文学の温泉宿「中棚荘」です。一泊1万5000円(旧館は1万円ちょっとで風情もある)。

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 何よりのご馳走である温泉は、りんごがぷかぷか浮かんでいる展望風呂(10~4月)です。入ったついでに数えてみました、121個浮かんでいました。昔の人は誰が予想したでしょう。因みにりんごは高峰高原のりんご園で、売物にならないものらしいです。ということは、食べてもあまり美味しくないのでしょう。

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中棚荘への道と露天風呂

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紅葉に包まれた水明楼(左)と藤村ゆかりの水明楼から中棚荘を望む(右)

以上、小諸の歴史の一コマを紹介しました。紅葉も良いですが、これから春になると桜の名所でもあります。きっとすばらしいですよ。

中棚荘ホームページ http://www.komoro.co.jp/

おしまい

投稿者:菊地正浩
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2009年01月26日

袋田の滝

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 北は福島県、西は栃木県と接する茨城県大子町(だいごまち)。その中南部にあって奥久慈県立自然公園に属し、男体山(なんたいさん)集塊岩層を久慈川の支流である、滝川、大野川、水根川の水が浸食して形成した四段からなる滝である。高さ170m、幅73mは日本三名瀑(那智の滝高さ130m、幅9~13m、華厳の滝高さ97m、幅7m)の一つとされている。

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 別称を四度の滝といい、県指定名勝地。付近には水田の中に自噴した田毎(たごと)の湯と呼ばれる袋田温泉がある。四度の滝とは、観光案内などには四段に落下することから呼ばれているなどとしている。しかし、西行法師がここを訪れたとき、滝の美しさに魅せられ、「花紅葉よこたてにして山姫の 錦織りなす袋田の滝」という歌を詠み、春夏秋冬それぞれ四度訪ねてこそ、その美が満喫できると言ったことによるとされる。多くの文献から考察して、筆者もこの説をとりたい。地球温暖化の影響は名瀑の水量減少や、とくに冬季の氷結滝登りにも影響している。

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 昔は展望台やトンネルもなく、滝の近くまで行け、眼前に迫る氷壁をロッククライミングする姿を見ることができた。残念ながらこの時期氷結はしてないが、冬の美しい滝の姿が眺められる。2月頃には氷結するかも知れないということであるが、地球温暖化によってこのような自然現象が失われることがないようにしたいものである。

投稿者:菊地正浩
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2009年01月30日

手漉き和紙の里(1)~西の内紙1

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 茨城県の旧那珂郡山方町(やまがたまち)は旧常陸国北部にあり、古くから文化の開けた町で、山方遺跡や多くの歴史と伝統文化が息づいている。八溝(やみぞ)山地と久慈(くじ)山地に挟まれ、中央部を清流久慈川が縦断する水と緑と鮎の里である。
 町名は中世の山方氏の居城があったことに由来するといわれる。北部は河岸段丘でこんにゃく栽培や和牛飼育、南部は沖積低地で米とタバコ栽培が盛ん、近世は水戸藩領となった。関東と陸奥(むつ)国(大部分は現青森県と岩手県の一部)を結ぶ南郷(なんごう)街道の宿場町、また久慈川と那珂川を結ぶ水運の河岸町として栄えた。
 そのなかでも西野内地区は手漉き和紙の西の内紙の産地として有名である。

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 今でこそ水戸から福島県郡山までJR水郡線が通っているが、昔は南郷街道を往来する途中の田舎であった。昭和30年(1955)、諸富野(もろとの)、世喜(せき)、下小川、塩田の四村と合併。2004年、平成の大合併で大宮町、御前山村、美和村、緒川村と合併して常陸大宮市となる。

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常陸大宮市歴史民俗資料館山方館と辰之口分江全図の原本


常陸大宮市歴史民俗資料館山方館
●JR水郡線山方宿駅から徒歩3分。入館無料。9時~16時30分。 月曜、 祝祭日、毎月末休。Tel 0295-57-2616

パート2(明日につづく)

投稿者:菊地正浩
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2009年01月31日

手漉き和紙の里(1)~西の内紙2

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 山方町では伝統的な紙漉き技術を残すため、紙のさと和紙資料館を開設した。ここの技術は昭和46年(1971)、県の無形文化財に指定された。和紙は中世の佐竹氏時代から漉かれていたが、水戸光圀が紙の生産に力を入れ、領内に楮(こうぞ)、三椏(みつまた)を植えさせて奨励した。この和紙は水戸藩のみならず江戸表へも出荷され、御用紙、商人の帳面紙、所謂大福帳などとして好評を博し、やがて「西の内紙」として有名になった。水戸光圀が有名な大日本史編纂に用いたのがこの和紙である。
 西野内が和紙生産の中心になりえたのは、良質な原料の楮と久慈川支流の清流、加えて農閑期を利用し優れた漉き手が多かったことと、久慈川の水運にも恵まれたとされる。

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和紙資料館のネリ黄濁葵(左)と楮と黄濁葵を混ぜる(右)

 西野内紙の特徴は原料が楮皮とネリの黄濁葵(とろろあおい)だけで漉(す)かれ、他の三椏や雁皮(がんぴ)などは混入していないことで、強靭さと防虫に優れ、保存に適した紙である。戦時中は軍用にも供され、落下傘紙、風船爆弾にも使われた。現在ではわずかな製紙所の人々によって伝統が保たれている。

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紙のさと和紙資料館 茨城県常陸大宮市舟生90

●JR水郡線中舟生駅から徒歩5分。入館無料。9~17時。水曜休(8月は無休)。TEL0295-57-2252
すき絵体験は1000円(材料・郵送費込)で要予約。所要2時間程。

投稿者:菊地正浩
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2009年02月03日

手漉き和紙の里(2)~烏山和紙(栃木県特産無形文化財)

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 栃木県那須烏山(なすからすやま)市は旧下野国東端にあり、東側の八溝(やみぞ)山地から西側は喜連川(きつれがわ)丘陵が広がる。町名は烏が金の幣束(へいそく)(裂いた麻や畳んで切った紙を細長い木に挟んで垂らしたもので、尊敬語では御幣といって親祭用具の一つ)を落とした土地に、那須資重(すけしげ)の築城によることからの由来。那須一族の支配する烏山城3万石の城下町として栄えた。中央部を那珂川が流れ、左岸の開けた段丘に市街が広がり、武家屋敷跡も残る。大正11年(1922)に烏山線が開通し東北本線と接続したが、それまでは奥州街道の要衝としての宿場町でもあった。昭和29年(1954)、境、七合(ななごう)、向田(むかだ)の3村と合併、2005平成の大合併で南那須町と合併して那須烏山市となる。古来、山と清流のあるところに和紙は生まれるとされており、蛇姫様の城下町烏山に和紙が伝承されてきたのも、那須、八溝連峰と那珂川という清流に恵まれたからである。

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 下野国の和紙が登場するのは、奈良朝の天平宝字4年(760)のことで、「写経料紙を産出す」とあります。日本への紙漉き技術が伝播されてまだ間もない時代、後鳥羽上皇の建保年間(1213~18)に、那須十郎が越前(現・福井県)から紙漉き職人を招き、那須奉書を漉かせた。江戸時代には檀紙、十文字紙、程村(ほどむら)紙などの良紙を生む。

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 とくに烏山和紙を代表する程村紙は、世に厚紙の至宝とまで言われ、昭和45年に烏山町重要文化財に選択された。これを祈念して、烏山和紙会館が開設され伝統文化の保存に努めている。厚紙和紙の手漉き技術は、国の選択無形文化財になっている。強靭な厚紙和紙は450年の伝統日本一野外劇「山あげ祭り」の山に使われている。

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烏山和紙会館 那須烏山市中央2-6-8
●JR烏山線烏山駅から徒歩10分。入館無料。9時~17時30分。火曜休。TEL0287-82-2100 

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投稿者:菊地正浩
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2009年02月05日

450年の伝統 日本一の野外劇・山あげ祭り

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 山あげ祭り(国の重要無形民俗文化財指定)とは、全国でも類似を見ない絢爛豪華な野外歌舞伎です。今から450年前の永禄3年(1560)、下野国烏山に疫病が大流行した。烏山城主那須資胤(すけたね)が災厄を納めるため、八雲神社にお祀りし奉納余興に相撲や神楽などを行った。やがて「山あげ」という常磐津所作の野外歌舞伎を行うようになったのが始まりです。
 ちなみに全国の名立たる祭りをいくつか列挙してみましょう。飛騨の高山祭り、京都の葵祭り、諏訪の御柱、博多どんたく、秋田の竿灯祭、青森のねぶた、仙台の七夕祭り、富山の風の盆、長崎・唐津のおくんち、秩父の夜祭り、如何でしょうまだまだ沢山ありますが、どれも見たり聞いたりする有名な祭りです。先般の旅じゃで和紙のことを紹介しましたが、開国を迫った欧米人が日本人の暮らしを本国への報告書の中で、「木と竹と紙の生活」という表現で紹介しています。そうです、生活と神事、祭りは古来より日本独特の文化、しかも木と竹と紙の文化です。
 ここに紹介する「山あげ祭り」も大きな大きな凧を作るように竹を裂いて組み、烏山和紙を貼り山、水、花、木、里等々を描いたものを立ち上げるのです。しかも六町内が毎年順番に当番となり、前年より少しでも山を高くつくり上げようと競うのです。山が高ければ高いほど神様が降りやすいというものです。竹と和紙を使い描いた大きな山は、所作狂言(おどり)の野外舞台背景で、若衆の一糸乱れぬ息の合った行動で道路上に立上げられるのです。その山を背景に常磐津の三味線、笛、太鼓、歌にのって、選ばれた踊り娘達が美しい舞を披露、狂言芝居をも演じるという、日本一の野外劇であります。
 演じられる奉納余興には「将門」「吉野山」「蛇姫様」等で各々50分ほども演じます。年に一度町を「あげ」ての祭りは、全国各地から多くの観光客を呼び、最近では外国人観光客の姿も多くなりました。はからずも外国人が「木と竹と紙の生活」と日本を紹介しましたが、全国各地の祭りも木と竹と紙を抜きにしては語れません。とくに烏山和紙を生んだ烏山の山あげ祭りは代表的なものと言えましょう。

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 祭りは毎年7月の第3金、土、日の3日間ですが、普段は那須烏山市山あげ会館へ行くと、映像やミニチュアで見ることができ、三町の立派な神輿も展示されています。今年も7月に向け、町中が熱くなっていくことでしょう。

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山あげ会館 栃木県那須烏山市金井2-5-26
●JR烏山線烏山駅から徒歩5分。入館500円。9~16時。火曜休。TEL0287-84-1977

投稿者:菊地正浩
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2009年02月12日

トイレの守り神 明徳寺

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 修善寺から天城峠へ向う国道414号(下田街道)を走行すると、車窓からひんぱんに「トイレの神」「便所の神」という看板が目に飛び込んでくる。日本トイレ研究所のメンバーとしては、トイレの守り神と聞いては見過ごすわけにはいかない。注意深く案内板に従って狩野川沿いを行く。この付近は天城山に囲まれた谷あいの集落が、湯ヶ島温泉を中心に集まった温泉町である。修善寺温泉から月ヶ瀬温泉を通り湯ヶ島温泉の手前に嵯峨野温泉がある。そこが市山という集落である。嵯峨野温泉は大正末期の掘削で開けた温泉であるが、名称は付近の風景が京都の嵯峨野に似ているためといわれる。この市山にトイレの守り神「東司(便所)守護神、烏枢沙摩明王」が祀られている明徳寺がある。
 寺の由緒は室町時代、僧珠龍が当地に巡錫草庵を結び、その時の年号をとって明徳寺とした。応永29年(1422)卯月、古本尊聖観世音像の修理を記念して石段の上に槙を植えたが、今や樹齢約600年を誇るものである。元和元年(1615)僧聞国逸和和尚韮山真珠院より秋山忠益禅師を排請し開山となし曹洞宗に改宗今日に至る。

東司(便所)守護神、烏枢沙摩明王の由来
 元々はインドの火の神、密教に取り入れられ明王号を付された。不浄のものを浄化し清める徳を持つ神様で、仏教と同時に中国から伝来した。「下」のお世話にならないように、心を清浄になごやかに毎日の生活を過ごせるよう、多くの人が参詣に訪れる。便所に祀る札、身体につけるお守り、下着類を売っている。守護神は五百余年前より明王堂に安置お祀りされている。

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 以上ですが、観光地、山岳、災害時、の向上に協力している旅ジャーナリスト会議を代表して、トイレの守り神に参拝いたしました。


投稿者:菊地正浩
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2009年02月19日

伊豆爪木崎の水仙まつり1

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 伊豆半島南端、下田湾東方の須崎半島南端の岬端。白亜の爪木崎灯台に立つと、地球が円いと感じる眺望、伊豆七島をも目前にできる。周辺の海岸は海食崖となり、爪木島、田浦島などは岩礁を持ち、六角柱状節理を伴う安山岩が海食により露出する俵磯海岸は県の天然記念物。

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 黒潮に囲まれた爪木崎の池の段と呼ばれる草原一帯に、冬季は野生の水仙が咲き誇る、その数300万輪という景勝地である。

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 今年も新春の先陣を切るかのように水仙まつりで賑わった。白い絨毯を敷き詰めたように可憐な薄黄色の花は甘い香りを放ち、アロエの紅色をした花がほど良くマッチしている。負けじと黄色い菜の花が一面に咲く風景は、一足早い春を満喫できる。

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 前回訪れた時に気になったのが、海岸にある小さくて汚い公衆トイレ(写真左・中央)であったが、それがなんと綺麗な公衆トイレが新設(写真右)されている。観光地トイレの向上に取り組む筆者としては、誠に喜ばしい限りである。今後はメンテナンスにも充分気を配り、綺麗な観光地トイレとして維持してほしいものである。

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2月21日につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年02月21日

伊豆爪木崎の水仙まつり2

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●秘湯の宿 爪木崎 風(姉妹館は東京浅草にある助六の宿 貞千代)
 旅ジャーナリスト会議と縁が深い宿で、日本秘湯を守る会の宿でもある。風に泊まってのお勧めは、何といっても屋上にある展望露天風呂からの眺めである。眼下に見える白亜の爪木崎灯台、遠く海のかなたは伊豆七島、朝風呂は日の出、夕風呂は日の入りと両方が見られるすばらしい露天風呂である。

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『風』の夕食(左)と朝食(右)

 部屋の落ち着いた雰囲気と、朝夕の海の幸によるもてなしも良いが、もっとすばらしいものを紹介しよう。風のトイレは広さ、設備、メンテナンスとも観光地トイレとして一級品。トイレの良し悪しは宿の質を決める。興味をお持ちの方どうか一度屋上の露天風呂とトイレに入ってみては如何だろうか。

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問合せTEL0558-22-2777

秘湯の宿 爪木崎 風のホームページhttp://yadokaze.com/

追伸----昭和30年(1955)下田町が稲生沢(いのうざわ)、稲梓(いなづさ)、浜崎、朝日、白浜の5村と合併、46年に下田市となった。現在、南伊豆町、河津町、松崎町との合併をめぐり揺れている。
松崎の水門問題、稲取、河津、南伊豆などに絡む風力発電問題。旅ジャーナリストとしてもこの春合併の行方から目が離せない。

投稿者:菊地正浩
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2009年02月25日

春は光から養老渓谷・粟又の滝(養老の滝)とごりやくの湯

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 房総半島のど真ん中に位置する養老渓谷は、滝と温泉で古くから多くのフアンがいる。近年、いくつもの滝から発生する「マイナスイオン」が、人間の細胞を活性化させて、自然治癒力を高めると注目されている。ハイキングでマイナスイオンたっぷりの空気を吸い、温泉に入れば色々な効能が得られるというので人気を集めているのだ。

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 数ある滝の中でも渓谷の上流に、全長100mもあり房総一を誇る粟又の滝(養老の滝)がある。滝壺まで下りて流れに沿いながら滝巡りを楽しめる。新緑や紅葉も良いが、光り輝く早春の滝も実に綺麗である。

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 しばし、ハイキングを楽しむと気分も安らぎ、ごりやくがあったのかどうか「ごりやくの湯」にも入れる。別に欲しい物が手に入るわけでもない。物より貴重な感謝の気持が芽生えるという「ごりやく」があるのだそうである。

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 何かと話題のいすみ鉄道(大原~上総中野間)は、上総中野駅で小港鉄道と接続し、房総半島を横断しているが、その最初の駅が養老渓谷駅である。最近、「足湯」が新設され電車の待ち時間に利用する客が増えているらしい。新緑も待ち遠しいが、春は光とともにもうそこまで来ている。

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投稿者:菊地正浩
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2009年02月28日

手漉き和紙の里(3)~修善寺紙(色好紙=伊呂与志紙)

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 静岡県伊豆市修善寺、旧伊豆国(いつのくに)(豆州)修善寺は伊豆半島北部狩野川中流域に位置し、地名は古刹修禅寺(源頼家が幽閉された寺)による。大同年間(平城朝806~810)に弘法大師(空海)が修禅寺を開いた。弘法大師は鉄、銅製の棒状仏具をもって温泉を発見、「独鈷(とっこ)の湯」といわれる河原の共同浴場として有名になった。付近一帯は修善寺温泉街として開けた。昭和31年(1956)下狩野村、34年(1959)北狩野村を編入、2004平成の大合併で土肥町、天城湯ヶ島町、中伊豆町と合併して伊豆市となる。室町時代から修善寺と呼ぶようになり、寺の名前とは異なるようになった。

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 温泉街を流れる桂川上流沿いに紙谷地区がある。「紙の谷」という地名のとおり紙漉きの里である(修善寺和紙発祥の碑があり、修善寺紙を再現する会が修善寺紙・紙谷和紙工房を開設して活動している)。
 室町中期の文安元年(1444後花園朝・足利義政)の出版物で現代の百科事典ともいえる「下学習」によると、修善寺紙は坂東豆州紙名也、色薄紅也とあるのが最古の確実な文献とされる。『平家物語』の流布本に修善寺紙の記述があるところから平安時代とする説もある。しかし、弘法大師(空海)が修禅寺を開いたことを考えると、この頃紙漉き技術が伝播されたと考えても不思議ではないと思う(筆者の考察)。

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 修善寺紙の「漉染め」は紅花と天然朱で色を出していたが、江戸中期には赤木(あかぎ)(リンボク)に変更して朱系が主流になった。和紙を使った代表的な古文書が伊豆修善寺郷土資料館に展示されている。「徳川家康壺形黒印状・慶長3年3月4日付」である。(伊豆市指定文化財)徳川家公方紙を漉かせるため、紙谷地区の三須文左衛門を紙漉きの頭と認め、原料である楮(こうぞ)、三椏(みつまた)(写真右)、雁皮(がんぴ)等のこの地における独占権を与えた。同時に紙漉きには立野(たつの)、修善寺地区に手伝いを命じて良いとしたお墨付きである。明治から大正時代には障子紙に使われた実用紙の立野半紙が有名であったが、いずれも洋紙に押されて廃れた。
 幕府は全国的に和紙生産を奨励したが、ここの資料館には和紙に描かれた、当地のお宝地図が古文書と共に保存、展示されている。
○安政の大洪水による修善寺村の流失田畑の絵圖(安政6年7月25日)
   年貢の減免願い用に添付された貴重な村絵図
○伊豆国全圖(寛政5年、伊勢、伊豆、駿河の三国で作成)
 伊能忠敬は沿岸を測量し伊豆半島全図を作成しているが、本図は主に内陸各地を表わし、しかも逆さ地図(南伊豆が上で通常の地図とは天地が逆に描かれている)で貴重なお宝。
○荒地調圖(慶應2年)
○豆州温泉案内(明治30年5月5日、東京市京橋区右田商店発行)
いずれも和紙を使用した歴史の証人「地圖」のお宝が展示されている。

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修善寺郷土資料館 静岡県伊豆市修善寺838-1

●伊豆箱根鉄道修善寺駅からバスで約8分、修善寺総合会館下車徒歩1分。入館300円。9~16時。木曜休。TEL0558-72-1934

投稿者:菊地正浩
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2009年03月03日

緊急のお知らせ★わたらせ渓谷鐵道水沼温泉センター閉館

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 当ブログ2007年7月26日付でも紹介したが、一日フリーきっぷでお馴染みの、第3セクター・わたらせ渓谷鐵道(通称:わた渓)は、利根川の支流渡良瀬川の渓谷に沿って走る。群馬県桐生を起点に栃木県日光市となった銅山の町、足尾(間藤)を結ぶ。沿線には全長5242mの草木トンネルもあり、夏のトロッコ列車に乗り通過すると、天然クーラーそのもので涼しさは格別である。

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 春の新緑と桜、秋の紅葉が渓谷美を引き立たせ、変化に富んだ車窓が楽しめる。そんな渓谷美を求めて4月からのトロッコ列車にのるリピーターも多い。お目当ての一つに水沼駅で下車、駅舎と温泉が一体の日帰り施設、「かっぱ露天風呂」があった。一日フリーきっぷを呈示すると、入浴料500円が2割引となる。渡良瀬川の清流を眺めながら、かっぱ露天風呂で旅の疲れを癒すフアンも多い。

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 この水沼駅温泉センターは、国鉄の廃止路線から第3セクターに引き継いだ平成元年(1989)に水沼駅構内に温泉施設を併設。しかし、2006年度以降赤字に転落しており、昨年10月1日からは燃料高騰を理由に露天の「かっぱ風呂」の利用を休止。内風呂だけしか利用できなくなってしまった。同鐵道会社は経営から撤退する方針を固め、経営を引き継ぐ民間企業を探していた。しかし、引受先が見つからず、昨年12月29日から長期休館となり、20周年を迎える2009年の時点では稼働していない。何とも淋しい限りである。

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 わた渓自体も看板の一つを失い、閑散として先行きが思いやられる。現在、桐生市やわた渓で出しているパンフレット類には、かっぱ露天風呂が掲載されている。知らずに訪れる観光客も多かろう。影響は大きい。今後の動向から目が離せない。わた渓はどうなる? 何とか頑張って欲しいものである。


投稿者:菊地正浩
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2009年03月07日

~早春の彩りと香りをお届けします~「偕楽園の梅林」

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 水戸の梅まつり(2月20日~3月31日)は、113回の歴史を誇り今が見ごろとなっています。金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつと言われています。江戸時代末期(1842)に、徳川斉昭(最後の将軍慶喜の父)によって造られました。市街地に位置する都市公園としては、ニューヨークのセントラルパークに次ぐ世界第二位の広さを誇っています。

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 園内には約3000本、100品種、南側の田鶴鳴梅林には約1000本の梅が咲き誇り、早春の芳しい彩りと香りを放っています。同時に多くの史跡名勝見学も楽しめ、温かい梅そばも人気で連日賑わいを見せています。見ごろの梅を写真でお届けします。

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人気の温かい梅と紫蘇のそば(左)と梅に囲まれた綺麗なトイレ(右)


投稿者:菊地正浩
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2009年03月10日

たかが凧・されど凧

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安藤広重作「名所江戸百景」大判錦絵の霞かせき(左)と日比谷さくら田(右)

 江戸時代に開国を迫った欧米人は、日本の生活文化を「木と竹と紙」と評しました。昔は正月ともなると羽根突き、竹馬、面子、凧揚げが風物詩でした。我が国の凧揚げの歴史は古く、千年以上も前、平安時代以前に中国から伝わったとされます。この頃、すでに紙漉き技術が伝播されていたので、日本独特の和紙による凧が作られたとしても何ら不思議ではありません。
 当初は豊作を占ったり、吉凶判断をするためなど宗教色が強かったのですが、遠くからでも良く見えるので、戦争時に狼煙と同様連絡手段にも使われました。天下統一がなり戦のなくなった江戸時代になると、手漉き和紙の生産も奨励され、同時に浮世絵を中心とする日本独特の文化が開花し、その一つに凧があります。

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 凧は商人の屋号や主家の家紋を描いて揚げると宣伝効果は抜群でした。また、正月には子どもの遊びとして凧揚げが流行り、浮世絵や錦絵、商売繁盛の達磨や福助、子どもに受ける金太郎や桃太郎などの御伽噺物が描かれるようになりました。

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写真左から西の内紙の凧/烏山和紙の凧/小川和紙の凧

 今日では街中での凧揚げも難しくなりましたが、地方の広場や河原などで、大凧上げ祭り、喧嘩凧、連凧を競うなど、凧は日本の文化を継承しています。筆者は手漉き和紙の里を訪ねる旅をしながら、その土地柄の凧を興味深く見て歩きます。

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 ここに日本橋の凧の博物館を紹介し、しばし昔の記憶を蘇らしていただきたいと思います。筆者ならずとも読者の中にも昔、凧揚げ、羽根突き、竹馬、面子に夢中となった時代があったことと思います。

凧の博物館 東京都中央区日本橋1-12-10たいめいけん5階
入館200円。11~17時。日曜、祝日休。TEL03-3271-2465
凧の博物館ホームページ http://www.taimeiken.co.jp/tako/index_t.htm

投稿者:菊地正浩
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2009年03月14日

国歌(君が代)と国旗(日の丸)を知る旅

 君が代と日の丸のルーツ、意味を知らないで国旗に向かい歌っている日本人が多くなりました。オリンピックや国体などでも、若者は知っていて日の丸を見上げ歌うのでしょうか?
 今年、初詣の折、千鳥が淵戦没者墓苑にある細石(さざれいし)の巌を見てそんなことを思いました(1/13付旅じゃCom参照)。そこで、長野県諏訪大社(下社秋宮)にある細石の巌と日の丸の発祥地、鹿児島県の照国神社を紹介してお話いたします。

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●君が代---「君が代は千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」です。
写真のように小さな石が、長い間にたくさん集まり固まって大きな巌となり、さらに苔がむすほど、千年も万年も大君の長寿と治世が栄えますように、という意味をこめたお祝いの歌です。その原歌(もとうた)は古今和歌集巻七に賀歌として「わがきみは-----」とあります。平安中期頃に「わがきみは」が「きみがよは」に変わって広まり、中世・近世を通じ色々な所で使われました。明治新政府は、外交上からも国歌制定が必要となり、薩摩琵琶歌「蓬莱山」の中で歌われていた「君が代」を歌詞にしました。当初、英国人が作曲したが馴染まず、10年後宮内省の雅楽部によって今日の曲にされました。明治13年(1880)11月3日天長節(明治天皇誕生日、現文化の日)に宮中で初演奏されました。明治26年(1893)に祝祭日の奉唱歌として文部省より告示され、我が国の国歌として定着したのです。

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●日の丸---歴史は古く、赤い丸は万物に恵みをもたらす太陽を形どり、皇祖神天照大神を仰ぐ日本人が考え出した、シンプルなデザインと言えます。王朝時代の儀場に掲げられた「日章」の幡(ばん)に見られます。やがて源平以来、武士たちは扇面に日の丸を描きました。後醍醐天皇は「日月を金銀にて打付けたる錦の御旗」を官軍の旗印とし、戦国武将たちは日の出をかたどった日足紋を家紋とし、赤丸印を旗指物などに使いました。秀吉・家康の御朱印船には朱の丸が、江戸時代には将軍の御座船や御城米船にも掲げられ、幕府の旗印と考えられました。開国を迫り外国船が来航したり、諸大名も大型船を建造したりするようになりました。
 NHK大河ドラマ『篤姫』でお馴染みとなった薩摩の島津斉彬が、水戸の徳川斉昭と建議、安政元年(1854)7月、「白地に日の丸の幟(のぼり)」を日本の惣船印と定めて布告しました。発案にあたった島津斉彬は、「日の丸の旗は日本(ひのもと)を日本(にっぽん)といひ且つ日出づる国と唱(よ)ぶに相応し、又天照大神の岩戸を出でられしよりこの日本は開け始めし国なれば、夫等(それら)の故事をも考えて発案したものだ」と語っている。これにより日本の船も日の丸を国旗として掲げ航海するようになったのです。明治新政府も、明治3年(1870)1月27日に正式に公布、これを記念して1月27日を「国旗制定記念日」としました。今では、この日に国旗を掲揚する家もほとんど見られなくなりました。
 読者の皆さんも鹿児島へ旅をしたら西郷隆盛も結構ですが照国神社へ、長野県諏訪に旅したら御柱の祭りだけでなく、諏訪大社下社に立ち寄り、君が代、日の丸のルーツに触れてみては如何でしょう。

投稿者:菊地正浩
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2009年03月17日

大相撲よもやま話1

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昨年から大相撲に関する話題が世間を騒がせています。筆者は戦前、相撲の町両国で生まれ育ち、ファンの一人を自認しています。いくら時代とはいえ寂しいかぎりです。今回は大相撲界の立ち直りを願いつつ、筆者が幼少の頃より温めてきた歴史の一端を披露し、若い方々に参考としていただきたいと思います。

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大相撲発祥地1
 富岡八幡宮は江東区の東京メトロ門前仲町駅至近にあります(旅じゃCom2008.3.6参照)。筆者が子どもの頃は、通称深川の八幡様と言って、8月15日の深川祭りを楽しみにしたものです。深川祭りとは江戸三大祭(山王日枝神社6月15日、神田明神5月15日)の一つで、お神輿の見事さを見ようと全国から多くの観光客が押しかけます。この富岡八幡宮の境内が「江戸勧進相撲発祥の地」なのです。

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 境内には「横綱力士碑」(歴史資料の江東区指定文化財)が建立されています(写真左)。この碑は江戸時代最後の横綱、第十二代陣幕久五郎(写真中央)が中心となって、明治33年(1900)に建てられました。横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、初代の横綱明石志賀之助の名前から刻まれ、重さ約5500貫(約20t)もある堂々たる石碑です。
 相撲は古くから庶民に親しまれ、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に行われた)へと発展しました。大阪、京都、江戸で興行しましたが、幕府が初めて江戸での勧進相撲を始めたのは、貞享元年(1684)でこの富岡八幡宮の境内でした。その後、明和年間(1764~71)には春秋二場所のうち、一場所がここで開催され、享和元年(1801)までに本場所31回の興行が行われました。横綱だけでは可哀想と考えたのでしょうか? 昭和50年(1975)8月に「大関力士碑」(写真右)が建立されました。横綱になった大関と取り組みには入らなかった看板大関を除く、歴代の実力大関たちです。

パート2(明日)につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年03月18日

大相撲よもやま話2

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大相撲発祥地2
 両国回向院は現在の国技館とJR両国駅をはさんだところにあります(旅じゃCom2008.4.17参照)。境内には鼠小僧次郎吉の墓(写真左)や歴史ある墓碑があります。明和5年(1768)9月、この境内で初めて興行が行われました。もちろん青空興行です。天保4年(1833)10月からは掛小屋となり、相撲の定番所として年2度興行されるようになり賑わうようになりました。明治になってからも相撲は回向院境内で続けられ、明治17年(1884)には天覧相撲が行われ、相撲人気に加えて名力士が生まれるようになりました。明治42年(1909)になり、回向院境内の北に国技館が竣工し、天候に関係なく興行でき相撲の大衆化が一段と進みました。
 境内にある相撲関係石碑群「力塚」(写真右)は、昭和11年(1936)に歴代の相撲年寄慰霊のため建立されたものです。このとき、周囲に玉垣を巡らせ、大正5年(1916)に建てられた角力記(すもうき)と法界万霊塔もこのなかに移動されました。

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名所江戸百景に描かれた両国橋と現在の橋

 国技館は大正12年(1923)9月1日の関東大震災と昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲によって焼失しました。筆者は赤々と燃え盛り、窓という窓から炎を噴出す国技館を真横に眺めながら、回向院の境内を必死で走り抜け、両国橋を渡り逃げて助かりました。

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 焼けた国技館は戦後修復されてGHQに接収(写真上)されましたが、のちに日本大学へ払い下げられ、同大学の講堂(写真下)として使われました。現在はすっかり取り壊されて大きなマンションとなっております。大相撲の興行は、昭和29年(1954)9月に浅草橋の蔵前に蔵前国技館が建ち再開されました。昭和60年(1985)1月になり、現在の両国国技館が竣工しました。相撲自体は新国技館に移りましたが、回向院境内は相撲発祥の地の一つとして、また力塚を中心としたこの一画は相撲の歴史76年が刻まれ、相撲の町両国の姿を象徴しています。

パート3(明日)につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年03月19日

大相撲よもやま話3

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国技館の歴史1
 国技館は明治42年(1909)、回向院境内北側に誕生しました。同時に桟敷席などを仕切る御茶屋さんも回向院の参道両側に建ち並ぶようになりました。この回向院裏手で隅田川の辺に筆者の母親の家がありました。家の前から周辺は相撲部屋が多く、近所付き合いが多かったそうです。
 筆者が生まれた時には、家の前にある若松部屋からお祝いとして兜を頂きました。隅田川の花火になると朝から忙しく、ビールやスイカを冷やし、枝豆と冷麦を茹でて、屋上の物干しに席を作って招待しておりました。また、母親が娘時代には盆暮れになると、佃の渡しに乗り佃煮を買いに行かされたそうです。その中元・歳暮品を持って相撲部屋回りをしていたそうで、なぜ喜んでお使いをしたかと言うと、相撲部屋の女将さんたちは「ご苦労さん」と言ってお駄賃をくれたそうです。
 そんな国技館でしたが、大正12年(1923)9月1日、関東大震災で焼失したのです。ですから筆者の知っている国技館は再建された国技館(写真上)というわけです。母親はちょうど女学校時代だそうで、みな国技館の焼失を惜しんだそうです。
 さて、相撲の場所が始まると、筆者も子どもながら毎日のように相撲が見られました。本日の打ち止めから4~5番位の取り組み、すなわち三役の登場頃になると、木戸を開放していたようです。お馴染みの御茶屋さんのところへ行くと、「良く来たね」と言って中へ入れてくれるのです。関取が支度部屋から出て通路を通り土俵に行く、その通路で見られるのです。土俵の四隅には柱があって、その上には神社の屋根が飾られ、立派な男の千木が光っていました。柱は邪魔で現在のように屋根を吊るしたほうが相撲は見やすいですが、柱を相手にてっぽうの準備運動をする姿が見られないのは寂しいです。
 御茶屋さんでは桟敷客に酒やつまみ、料理にお土産を出しますが、料理には必ず厚焼き玉子が付いています。その玉子を焼いて四方を切り落とし綺麗な型にしますが、そのときに出る、切り取られた隅の部分を頂けたのです。これが何とも美味しい一品でした。

パート4(明日)につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年03月20日

大相撲よもやま話4

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国技館の歴史2

 国技館は相撲のない期間色々な興行をしていました。写真上の台湾大博覧会は昔の催しですが、筆者は木下大サーカスを見るのが楽しみでした。いつもの土俵がある場所が円形の広場となり、象や虎、ピエロの曲芸など、上を見上げると空中ブランコ。楽しみの少なかった時代ですから、今でもその光景は忘れられません。そんな思い出のある国技館は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼けました。

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 以後、GHQに接収(写真左)され、また日本大学の講堂(写真右)になり、現在はマンションとなってしまったのです。これらの経緯を筆者の母親はカメラに収めておりました。

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 昭和60年(1985)1月には現在の国技館が竣工しますが、工事中の姿と落成記念1月場所の様子もカメラに収めていました。櫓太鼓の脇には幟が立ち並び琴錦、貴ノ浪、貴闘力、安芸ノ島などの懐かしい名前も見られます。一目ひいきの関取を見ようと人々が群がっているのが判ります。この国技館も昨今修復の話がマスコミで報じられました。若・貴人気にも支えられた時代もあって、財団法人には剰余金があるようです。リニユーアルされた国技館もまた良いかもしれません。

パート5(明日)につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年03月21日

大相撲よもやま話5

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ちゃんこ料理って何?

 相撲部屋で若手力士、すなわち新弟子や付け人と言われるお相撲さんの玉子が作るちゃんこ鍋、今では、両国界隈もさることながら、名古屋、大阪、福岡などにもちゃんこ料理屋ができ、一般の人でも気軽に味わえる時代となりました。筆者も時々は両国にあるちゃんこ料理屋に行きますが、魚と野菜主体のちゃんこ料理が好きです。ちゃんこ料理といっても相撲部屋によって伝統と特徴があり、街中の料理屋でも様々です。ただ共通しているのは、おおむね「鍋料理」ということでしょう。5月のゴールデンウィークになると、両国にぎわい祭り(旅じゃCom2008.4.17付両国にぎわい祭り参照)では、歩行者天国となった大通りで各部屋のちゃんこが楽しめます。最近ではキムチ風とかカレー風などのちゃんこもあってバラエティに富んでいます。では、ちゃんこ料理とは一体どんな料理なのか?
 国技館に縁のあった祖父が話しをしてくれたことがあります。昔は回向院の境内で相撲協会の小屋掛から始まった相撲ですが、そこにある炊事場に働いていた人が大勢いたそうです。その多くは新潟県のほうから出稼ぎに来ていたようで、お相撲さんの食べるご飯を炊いたりしていたそうです。一口に飯炊きといっても米を研ぐ人、炊く人、薪を割る人、料理を作る人、野菜を洗う人、魚や肉を捌く人とそれはそれは大勢の人がいたそうです。何しろ、一つの相撲部屋だけでなく全体のお相撲さんに食べさせる量だから、想像をはるかに超えた量のようです。朝暗いうちから準備し、夜が明けるころには各部屋からお相撲さんがやって来て食べる。大方食べ終る頃を見計らって、働いている男たちの子どもらが「ちゃん、ちゃん」と言って来るのだそうです。
 「ちゃん」というのは昔から越後地方の方言で「お父さん」という意味なのだそうです。「ちゃん・ちゃん」と言っては来て、ご飯を食べて帰って行くのだそうです。だから、ここで働く男「ちゃん」が作る料理のことを言ったのです。そう、もうお判りでしょう、テレビで御馴染みのメロディ(しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん♪)で始まる『子連れ狼』の中で、大五郎が父親を「ちゃん」と呼んでいることに気がつくはずです。
 では、「こ」が余分ではないか? そんな疑問も出てきます。この頃多くのお相撲さんは東北地方の出身でした。このお相撲さん達は東北弁で話すと、言葉のおしまいに何でもかんでも「こ」をつけるのだそうです。魚っこ、肉こ、飯っこ、箸こ、下駄こ、べここ等々という具合だそうです。今でもそうだとは知りませんが、この時代の東北弁は「こ」がついたと言っていました。そこからここに出稼ぎに来ていた親父さんたちのことを「ちゃんこ」と呼び、ちゃんこの作る料理だから、ちゃんこ料理と呼ぶようになったそうです。ご飯や漬物の他には主に鍋物が主体だったことから「ちゃんこ鍋」となったようです。

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鍋料理のイメージ(上の店のものではありません)

 とどのつまり、「ちゃんこ鍋」とは親父さんの作る鍋料理のことで、別にこれといった特別な意味はなかったようです。筆者もそれを覚えていたので、ちゃんこ鍋にも色々なメニューがあることを納得していましたし、調理士の免許もいらず、若い新弟子がちゃんこを作ることも納得していました。こんな知識をもって「ちゃんこ鍋」を食べに行ってはいかがですか。

おしまい

投稿者:菊地正浩
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2009年03月25日

手漉き和紙の里(4)~幻の湯倉・紙敷和紙

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 千葉県夷隅(いすみ)郡大多喜(おおたき)町は県南東部に位置し、房総丘陵の山間部である。南西には養老川、東部は夷隅川が流れる盆地状の沖積地である。山といっても300m級の山で(愛宕山は408m)比較的低い。余談になるが、地球温暖化が進み海面上昇で日本列島に海進があれば、真っ先に沈む県が千葉県なのである。町名は滝が多いことからという説があるとおり、近くの養老渓谷にはたくさんの滝がある。
 中世末期に武田氏が大多喜根古屋城を築いたのが始まりとされ、江戸時代の天正18年(1590)、本多忠勝が大多喜城を築城して10万石の城主となった。明治4年(1871)、大多喜県を設置したが、すぐに現在の千葉県となったのである。昭和29年(1954)、旧大多喜町と老川(おいかわ)、西畑(にしはた)、総元(ふさもと)、上爆(かみばく)の4村が合併した。
 この旧西畑村に大字湯倉(ゆぐら)と紙敷(かみしき)という集落があり、上総の国の手漉き和紙の里として知られていた。文献によれば上総の国には、夷隅郡西畑村湯倉と東葛飾郡小山村(現・松戸市)が和紙の里となっている。残念ながら現在では和紙の里の痕跡を見ることもできないのである。

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 筆者が訪れた永島郷土資料館(大多喜町の旧名主の家)は、残念ながら館主が病気療養中のために閉館、古文書等の確認や取材もできない。また、大多喜城博物館でも確認することができない。旧西畑村大字湯倉に在住の長老と大字紙敷の長老に話しを聞く機会に恵まれたが、昭和初期には紙漉(かみす)き道具一式もあって、小学校や農家で手漉き和紙を作ったということが判った。

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 地理的条件から考察すると、夷隅川の支流に西畑川という清流があって、扇状地と段丘のおりなす温暖な地形は、三椏(みつまた)や楮(こうぞ)が今でもたくさん植えられている。しかも和紙の原料として使用しないから背丈も高く、三椏の花が綺麗である。古くから当地でたくさん栽培されていたことが判る。明治24年(1891)、天然ガスが噴出してから地域一帯の様相も変化し、手漉き和紙の里は幻と消え去ってしまった。なぜか、大多喜城博物館近くの土産物店に飾られている和紙の凧が虚しいかぎりである。

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投稿者:菊地正浩
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2009年03月28日

手漉き和紙の里(5)消えた小幡・秋畑紙

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 群馬県甘楽郡甘楽町は県南西部、烏川の支流鏑川中流域南岸にある町で、町名は古代からの群名をあてた。朝鮮半島からの渡来人が定住した土地で、「韓(から)」が語源と伝えられている。
 昭和30年(1955)、甘楽郡小幡町と秋畑村が合併。昭和34年(1959)に新屋村と福島町の一部を合併して甘楽町となった。中世(12~16世紀)から豪族小幡氏の勢力下で、南西部にある国峰城址はその名残りである。元和元年(1615)からは織田信長の次男信雄が小幡藩城主となり以後七代信富まで約150年統治した。今でも崇福寺の旧境内に織田家七代の墓がある。

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 小幡と秋畑は御荷鉾山地の山あい集落で、鏑川の支流雄川(おがわ)という清流に恵まれている。ここが手漉き和紙の里であった。楮と三椏を原料とし、ネリの黄蜀葵(とろろあおい)のことをオホレン、タモ、ネバシ等と呼んでいたという。文献によると美濃紙系である理由は、大字善慶寺加藤氏に嫁いできた人が、美濃国武儀郡上牧出身で美濃紙の紙漉き技法を心得ており伝播したという。

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かつての紙漉き民家

 現在、小幡も秋畑も和紙の痕跡は見られず、わずかに三椏や楮の植えられた畑地を目にする程度である。当時の道具や資料は歴史民俗資料館(旧甘楽社小幡組繭倉庫0274-74-5957月休館)に集められ展示されている。

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武家屋敷や中小路(写真左)と喰い違い郭(写真右)

 秋畑は蕎麦の里と言われる長閑な集落だが、小幡はさすがに城下町としての名残りが多く見られる。石垣で築かれた多くの武家屋敷をはじめとする文化遺産があり、町をあげての保存、整備、観光振興に取り組んでいる。富岡製糸場が世界遺産登録候補となっているが、旧甘楽社小幡組繭倉庫も絹産業遺産群のリストに加えられている。
 余談になるが、旧甘楽社は製糸業に携わり、例えば桐生市黒保根町水沼(わたらせ渓谷鉄道水沼駅至近)にある、旧水沼製糸場は旧甘楽社水沼組といって、多くの女工が働いていた(文献資料は隣接の歴史民俗資料館0277-96-3125/月曜休館)。

投稿者:菊地正浩
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2009年04月02日

地図記号(温泉マーク)の変遷・磯部温泉1

~温泉っ子必見~地図記号(温泉マーク)の変遷

 国土地理院が制定する2万5千分の1地形図の地図記号は、全部で161種類ある。なかでも温泉は湯つぼと湯けむりとし、湯けむりはS字曲線3本である。しかし、どこの地形図を見てもほとんどS字曲線ではなく、直線3本としか見えない。一体これはどういうことなのであろうか?

onsenmark.jpg    地形図は明治維新後に本格的な測量を導入して作られ始めた。筆者が調べる限り、地図記号は明治11年(1878)の測絵図譜、明治19年(1886)の測図記号発行によると思われる。明治22年(1889)になって温泉ではなく鉱泉で登場し、記号はS字曲線である。他におたまじゃくしのような湧泉、湯つぼに噴水が出ているような噴泉なども登場する。  明治27年(1894)、陸地測量部発行の伊豫国温泉郡という地図では、松山道後湯之町のところに楕円形の湯つぼの中から、湯けむりが3本まつ毛のように出ている描き方がされている。明治28年式地形図図式には帽子に3本毛が生えているようである。ちなみにこのときの郵便局は横書き封筒の裏側を記号としており、現在の○に〒字とは違う。他にも城郭・古城、神社、墓地なども現在とは大きく違う。(手書きの記号ご参照)明治後半から大正を経て昭和となり、さらに戦後は陸地測量部解体、地理調査所の発足となる。その間は鉱泉、鉱泉・温泉、温(鉱)泉、温泉と表示も変化、記号も湯けむりがS字曲線、Z字曲線、直線などと変化し、現在はS字曲線に落ち着いた。
 なぜ、湯けむりが直線で描かれるようになってしまったのか? それは地形図の製図方法が、ペン製図からスクライブ法に変わり、曲線が描きにくくなったからと云われる。その後、コンピューター化が進み描きやすくなったので、明治の頃に描いた温泉らしいS字曲線に戻したのである。平成14年(2002)の浦和・岩槻にS字曲線が登場するが、その他ではめったに見ることができない。だが良く探せばあるものである、平成19年(2007)1月発行の与那国島である。立派なS字曲線で温泉・鉱泉となっているが、地形図の中を探してもそのマークは見つからない、与那国島には温泉が無いのか? 残念。その他の地形図を見る限りどう見ても直線3本である。要するに、国土地理院の地形図の改定作業が進まない限り、S字曲線にならないのである。民間の地図やその他の出版物では、温泉マークはS字曲線が常識である。

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我が国最古の温泉記号
 群馬県立博物館所蔵の「万治四年(1661)辛丑二月二十六日絵図記」(わが国最古の温泉記号の描かれた村絵図)がある。この絵図に基づいて群馬県安中市磯部温泉の湯元に記念碑がある。無料の足湯に入りながら見られるのだが、筆者には湯けむりがS字曲線や直線でもなく、長いZ字曲線に見える。となればZ字曲線に落ち着けば良かったのではないだろうか。
 温泉が良ければ地図記号などどうでも良いなどとお叱りを受けそうであるが、古地図研究をする立場からすれば、一言変遷を記述することで、温泉フアンに知って欲しいと思うのである。
 余談だが、S字とZ字どちらが妥当なのか。あくまでも筆者の推測であるが、手書きの時代に右利きはS字、左利きはZ字を描いたのであろう。理由は料理屋に行くと割り箸が置いてある。決まって半分ほどの袋に入っている。その切り端はほとんどが右側である。めったにないが良く観察していると左側の時がある。調べると何のことはない、作った人が左利きだからで極めて単純なことである。これと同じだと考えるのは如何なものか、S字とZ字の違いが判る方のご教授を賜りたい。

4月4日につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年04月04日

地図記号(温泉マーク)の変遷・磯部温泉2

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舌切雀の磯部温泉
 我が国最古の温泉記号のある磯部温泉は、群馬県西部の安中市南西部で、利根川の支流である碓氷(うすい)川中流部南岸にある。昭和30年(1955)、安中、原市、磯部、板鼻の4町と東横野、岩野谷、秋間、後閑(ごかん)の4村が合併。2006年3月、平成の大合併で松井田町とも合併した。
 もともと安中藩板倉氏3万石の城下町として栄えたが、明治11年(1878)、碓氷製糸社が創業、県の蚕糸業の一翼を担うようになった。加えて、鉄道も開通して磯部駅ができると、温泉地付近に別荘もできて賑わったが、やがて軽井沢に繁栄を奪われるようになった。そもそも磯部とは海部(あまべ)と同じく、もとは航海や漁業をする民で奈良時代の豪族、地名もこの名前からとったと言われる。本拠地は伊勢、志摩の沿岸と言われ、和名抄には三河、美濃、信濃、但馬、上野、越前の各国に磯部の郷名が見られる。安曇の海部が西日本の漁民から出発し東海、信濃に勢力を伸ばしたのに対して、磯部は隠岐、但馬を西限に近畿、中部内陸、越後、上野、下総へ進出したと言われる。
 筆者が現在把握している範囲において、「磯部」の地名はこの磯部温泉の他、北は福島県から南は三重県、兵庫県の範囲で17カ所がある。

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舌切雀の由来
 昔話、民話の一つで原型は宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)の腰折雀(雀恩を報ゆる事)と云われ、室町時代末期の成立とされる。内容は動物報恩説話、物羨み話の一つと言われ、モンゴルや朝鮮半島にも同様の話があるという。内容は雀が糊を舐めてしまったと怒った婆が雀の舌を切ってしまった。可哀想に思った爺が雀の宿を訪ね詫びると、雀が土産に葛篭(つづら)をくれた。爺は小さくて軽い葛篭のほうを選び家に帰って開けると、中からたくさんの宝物が出てきた。それを見た婆は羨んで雀の宿を訪ね、大きな思い葛篭を貰って帰り開けてみると、中から蛇や百足などの怪物が出たという話である。
 その雀の宿とされるのが磯部温泉湯元の隣にある『雀のお宿・磯部館』である。碓氷川のせせらぎと風、木と竹と和紙の文化が今も残る温泉に入ると舌切雀の昔話に思いが及んでいくのである。

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おしまい

投稿者:菊地正浩
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2009年04月09日

小さな日本のパナマ運河

「小名木川の扇橋閘門(こうもん)(ロックゲート)」

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●小名木川(江戸時代は小奈木川)という運河
 隅田川の清洲橋付近、芭蕉庵史跡と旧中川の中川大橋付近を結ぶ小名木川は、下町の東西を流れている。隅田川~中川~江戸川を結ぶ江戸舟運の名残りの一つである。幕府は浦安の塩を運ぶために造ったが、その後、年貢米、味噌、醤油、木材、石材等々の生活資材物資を、江戸府内に運ぶための重要な運河となった。隅田川に出た船は幕府が造った日本橋川に入り、河岸の倉庫へと向かった。

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 この小名木川には幾筋もの人工の堀川が流れている。横十間川(写真左)は代表的な堀川で、小名木川と交差する江東区猿江2、扇橋3、北砂1、大島1の場所は、4地区の接点で何処の町へも渡れるように十字形になっている。クローバー橋(写真右)と言われ、川に架かる橋としては車の通行ができない人道橋である。

●扇橋閘門(ロックゲート)
 隅田川の水位が高く、小名木川のほうが低い。これは東側ほど地盤沈下が大きくなったからで、江戸時代にはなかった現象である。そこで水位を調整して船の航行をさせるため、日本版パナマ運河を造ることになった。工事は5年3カ月をかけ、昭和52年(1977)に完成された。ここよりさらに東、荒川と旧中川の水面の高さも、最大3.2m差があり、荒川ロックゲートで調節して船を通している。長さ55m、幅12mの大きな船も通れる。しかし、小名木川の扇橋閘門は大きな船は制限され、例えば幅8m以下の船しか通行できない。

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前扉(隅田川側)は閉まって赤信号(写真左)/開けられて青信号となった(写真右)

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閘門の後扉(中川側)(写真左)/閘門の後扉を開けているところ(写真右)

 船を通すには閘門を開閉して水位を調整する。二つの水門の間に船を入れる閘室があり、船が入ると水門を閉じ、出ていく側の水位と同じにしてから水門を開けて船を出す仕組みである。この方法の大きいものが太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河である。江戸時代の隅田川、中川口、小名木橋の五本松を見比べると、地盤沈下や公害の無い時代が懐かしい。

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川岸にあった五本松(写真左)/小名木橋の五本松跡(大正時代にセメント工場の公害で枯れ、復元された)(写真中央)/芭蕉が詠んだ句碑跡地(写真右)

投稿者:菊地正浩
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2009年04月14日

皇居周辺の桜は日本一だ!

 今年、皇居周辺の桜は3月下旬の一時的な冷え込みにより、満開になるのが昨年に比べて10日ほど遅れた。待ちかねたようにファンがどっと押し寄せ、いつもながらの光景が繰り広げられた。筆者は何処よりも皇居周辺の桜を愛し、靖国神社と千鳥が淵戦没者墓苑の参拝を兼ね花見を楽しむ。これが年中行事の一つなのである。以下、今年の桜をご紹介するのでどうか見てください。

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四谷駅前の四谷見附跡(御門)を起点に外堀公園の桜。延々と市ヶ谷見附(御門)までの遊歩道にはたくさんの見事な桜が続く。桜の木の下には夜の宴に備え、すでに陣取りが終わっている。

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靖国神社境内。毎年気象庁が「開花宣言」を行うための桜である。4月3日夜、薪能が開催されるため、傍らに建つ能楽堂が開けられている。この桜も最近では老朽化のため、開花が千鳥が淵よりも2~3日早まっているらしい。そのために新しい若木を選定しているらしい。

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田安御門、武道館の桜、毎年各大学の入学式で賑わう。今年は法政大学で父兄共々ごった返していた。

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北の丸公園の桜と花(写真左)/竹橋御門のしだれ桜(写真右)

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(上6点)千鳥が淵でボートに乗っての観桜。水面スレスレに伸びた枝振りや靖国神社の一番鳥居が見える。

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半蔵濠から春霞の中、遠く国会議事堂を望む(写真左)/二の丸庭園の桜(写真右)

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北桔橋門を渡り本丸跡傍の桜、少し散った路上の花びらが綺麗。

投稿者:菊地正浩
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2009年04月21日

世界遺産登録をめざす富岡製糸場1

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●富岡市誕生の歴史
 いま群馬県富岡市周辺が熱い。平成19年(2007)に世界遺産国内暫定リストに搭載されてから、訪れる観光客も多く、官民あげての観光振興に力を入れている。富岡市とは県西部、利根川の支流鏑(かぶら)川流域に位置し、地名は江戸時代初期に始まり比較的新しい。明治22年(1889)、富岡、七日市(なのかいち)、曽木の三郷が合併して富岡町となる。昭和29年(1954)、富岡町、一ノ宮町、小野、黒岩、高瀬、額部(ぬかべ)の四村が合併して富岡市となる。昭和30年(1955)吉田村、昭和34年(1959)福島町の一部、昭和35年(1960)丹生(にう)村を編入、2006年平成の大合併で妙義町と合併して現在に至り、数奇な合併の歴史を辿った。
 慶長16年(1611)、徳川幕府が中仙道脇位置に新町建設を計画、宮崎村(現・富岡市)の住民を小幡藩瀬下郷へ移住させ富岡郷をつくったのが始まりである。富岡郷は砥沢(とざわ)村(現・南牧(なんもく)村)で産出される幕府御用達の砥石(といし)や廻米(かいまい)の下仁田(しもにた)(姫)街道における輸送基地とした。中央に位置する七日市には七日市藩(加賀前田藩の支藩1万石)の陣屋跡(現・富岡高校)が残っている。

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樋の造り方で屋根が曲がって見える目の錯覚

●製糸都市への道
 この富岡市に明治5年(1872)、我が国最初の官営模範工場、富岡製糸場が建設されてから製糸都市へと変貌していった。この富岡製糸場を中心に絹産業遺産群(10か所)を、世界遺産に登録させようと運動している。何故、富岡を中心に絹産業が発展したのか? 地理的には南部に御荷鉾(みかほ)山地、西端部には大桁山、北部は標高2~300mの丘陵性山地などに囲まれている。中央部を鏑川が東へ流れ、左岸の高田川との合流点西方で、両川に挟まれた段丘面に主邑の富岡市街が形成されている。
 市域一帯は和銅4年(711)に建てられた多胡(たご)碑に見える「甘楽(かんら)郡」の地がある。甘楽は韓(から)で、この地に移り住んだ高い農業技術と文化を持った韓(現朝鮮半島)からの帰化人を中心に開拓が進められた。隣の下仁田町で韓の古銭がたくさん発見されたことや、一ノ宮の本宿郷土遺跡からは、古墳時代~平安時代の大集落跡が発見されたことなどからも伺い知ることができる。もともと群馬県でもこの一帯は蚕糸業が盛んであり、藤岡市の高山社や小幡・上野(こうずけ)地区などの養蚕農家が組織した、甘楽社小幡組や黒保根村(現・桐生市)の甘楽社水沼組などが代表格である。京都の西陣に対して東の西陣と言われた桐生絹産業を支えていた。即ち、桑の木栽培に適した段丘と、清流があり地理・地形的にも適地である。溯れば、楮や三椏の栽培にも適し、清流があることは、手漉き和紙の里でもあった。小幡・秋畑紙、桐生紙などは代表的な和紙であった。しかし、明治維新後の養蚕振興により和紙の里は姿を消すことになったのである。

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4月23日につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年04月23日

世界遺産登録をめざす富岡製糸場2

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ワインを飲んでいたブリューナ邸

●富岡製糸場の歴史
 ペリー来航、開国、安政の五カ国条約締結、貿易開始、生糸の輸出という流れは、各地の蚕糸場から日本のシルクロードを経て横浜に運ばれ、輸出が盛んになった。明治新政府は殖産興業の一つとして製糸業に力を入れ、生糸の輸出による外貨獲得に乗り出した。そして、我が国の模範となる官営の製糸場建設に取りかかった。軍需、産業、文化などあらゆる分野で欧米に追いつけ、追い越せと外国人指導者を招き技術導入を図るが、製糸技術についてはフランス人、ポール・ブリューナを招いた。ブリューナは候補地選定のため各地を回った。東京への至便さと、工場の立地条件を考えて富岡に白羽の矢を立てたのである。
 主な理由は、①もともと養蚕地を抱えており原料の繭(まゆ)が確保しやすい、②広大な工場建設地に地元の同意が得られる、③製糸に欠かせない清流(鏑川)があり、東京への舟運ともなった、④燃料の石炭は近くの高崎、吉井で採炭できる、⑤建設に必要な資材、材木は妙義山の大木杉、石材は甘楽の連石山、レンガの目地(めじ)は下仁田の石灰と揃えられる。などであつた。
 明治4年(1871)、ブリューナはいったんフランスへ帰国、製糸機械を購入し技師、女工13名を伴い帰国した。翌年、建造物は完成したが、工女募集に際しては、ブリューナが毎夜赤ワインを飲む姿を見て、若い娘の血を飲んでいるという噂により、思うように採用ができなかった。国は全国の町長、村長、士族の娘を率先して応募に当らせ、下は10歳から20歳以上、556名を採用、当時の労働時間では初の8時間労働を採用、給料も破格の待遇とした。それまでは、細井和喜蔵の著書「女工哀史」に書かれているとおりの実態であつたが、それに比べれば様変わりの待遇であった。その表れは、「女工」とは呼ばず「工女」と呼ばれた。しかし、これらの待遇は採算がとれず赤字であったが、国営だからこそできたことである。
 このような努力の甲斐あって、明治5年(1872)10月、明治政府の生糸輸出振興策模範工場、我が国初の官営機械製糸場は操業を開始したのである。その後、明治26年、三井製糸に払下げ、同35年、原合名会社へ譲度、昭和13年(1938)、片倉工業㈱へ譲度されてから同62年工場閉鎖まで続けられた。平成16年(2004)、国の文化財指定となったことを受け、翌17年、富岡市が買収を計画、その敷地はなんと、55391㎡の広さである。同時に片倉工業から富岡市へ建造物が寄贈された。平成18年(2006)、敷地が無事富岡市に譲度されたので、国重要文化財の指定を受けた。このような経過を辿り、世界遺産国内暫定リスト搭載を迎えたのである。

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レンガはフランス積み倉庫(写真左)/レンガはイギリス積み油倉庫(写真右)

daientotsu.jpg 大煙突

●富岡製糸場の見どころ
 日本の赤レンガ番付表で東の横綱に位置されている。建築方法は木骨レンガ造り、積み方はフランス積みと一部油倉庫はイギリス積み。木骨は妙義山の杉の大木、レンガは甘楽で焼いたもので土のみによる。土台石は甘楽町連石山の牛伏砂岩(ちなみに甘楽町小幡の城下町は見事な石垣による武家屋敷などが残っているが、石垣などは連石山の石と鏑川の支流雄川(おがわ)の石である)。大煙突は高さ37.37m(これまで37.5mとされてきたが先般国土地理院による測量で修正、原因不明、筆者は地盤沈下と推定)。我が国初の避雷針。など見どころが多い。これらは、多くの観光ボランティアである解説員が、自作の資料とアイデアで親切に説明してくれる。

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製糸場の機械群(写真左)/乾燥庫(写真右)

 なんと云っても圧巻は内部の製糸機械であり、今でも同型は碓氷製糸場で稼動している。筆者はグループではなく、ほとんど独占的に長い時間説明を受けたが、付き合ってくれた人は、小幡出身の学校の先生で、定年後ボランティア活動をしている解説員岩井隼人さんであった。ここに紹介し深謝したいと思う。

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 その他、旧甘楽社小幡組倉庫(歴史民俗資料館)、碓氷峠鉄道施設、赤岩地区養蚕農家群、養蚕栃窪風穴、荒船風穴、薄根の大クワ、冨沢家住宅、高山社発祥の地、旧上野(こうずけ)鉄道関連施設、絹産業遺産群(リスト搭載)も含め、百聞は一見にしかず、である。

おしまい

投稿者:菊地正浩
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2009年04月27日

手漉き和紙の里(6)~桐生和紙~

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●桐生城下町
 文治2年(1186)、藤原秀郷(ひでさと)の後裔といわれる桐生小太郎綱元が住みついたのが始まり。観応元年(1350)、桐生国綱が市外の北郊梅田の里、柄杓山(標高361m)に城を築いた。通称、城山と呼ばれ今も山頂付近や山腹に馬回り、掘割などの遺構を残している。桐生田沼線という街道を行くと、城の入口には日枝神社がある。桐生国綱が神木として献じた楠の大木が生い茂っている。クスノキ科の常緑高木で南国から渡来、関東以南の暖地に生え、高さ20mにも達するもので普通は群生しない。しかし、ここの楠は4本の大木が並んで立っており珍しいとされている。昭和33年(1958)、群馬県の天然記念物に指定された。城は室町時代末期まで桐生氏の本拠であった。永禄の頃(1558~70)には、越後の上杉謙信について小田原の北条氏と戦う。上杉謙信も桐生氏を重要していたという。天正18年(1590)、小田原城が落城し徳川家康によって廃城されたのである。

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●和紙の里・梅田
 桐生市の北端、根本山を水源とする桐生川は、桐生湖・桐生ダムを経て渡良瀬川へと流れる。その綺麗な流れと水質は、川のほとりの其処、此処に小屋掛けをして、楮(こうぞ)を洗い、叩き、手漉く、和紙の里であった。漉かれた和紙は桐生城御用達のほか、享保から天明にかけて桐生商人、書上(かきあげ)文左衛門により「桐生紙」として江戸に送られたという。

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 今では当時を偲ぶことができないが、桐生紙の伝統を受け継ぎ、未晒(みざらし)で黄ばみと張りのある和紙を作り続けている和紙工房がたった1軒ある。桐生湖をさらに上流へと進むと、梅田5丁目という里で星野増太郎氏一家が和紙工房をやっている。桐生紙の伝統技法を守り、漉き方だけでなく漉き模様や透かし模様などにも取り組んでいる。作られた和紙は大切に箱に納められ保管されている。この和紙を求めて訪れる人だけに直売している。

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 知る人ぞ知るで、星野氏は「桐生市指定重要無形民俗文化財技術保持者」なのである。漉かれた和紙は、書画や文化芸術に多く使われるが、学校の卒業証書にも使用されている。和紙工房には楮(写真右)、三椏(みつまた)が栽培されている。また、昔は桐生川の清流を使っていたが、近年は不純物も多く、水量も減少してきたので、山の湧水をパイプを引いて使っている。楮や三椏を洗ったり、黄蜀葵(とろろあおい)をつけたり、手漉きの水として使うが、飲料水にも良い。一杯飲ませていただいたが、軟水で癖もなく滑らかでとても美味しい水である。家族に後継者もいて伝統を守りながら頑張っている。ぜひ桐生和紙を守っていって欲しいと願う。

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●名物桐生うどん
 この地域は寒いので稲作にはあまり適さない。小麦と蕎麦を作る農家が多い。そのうえ良質な水があるために「うどんやそば」が美味しい。それは「桐生うどん」として評判を呼んでいる。桐生市街でもよいが、この梅田の里で味わう「うどん」は格別である。桐生湖畔、旧道のところに『椿茶屋』という店がある。店内には和紙で作られた凧などの作品が飾られて雰囲気を出している。
 庭には和紙の原料となる三椏が植えられている。三椏は春に花をつけるが、普通は白い蕾から黄色い花を咲かす。しかし、ここにはやがて赤い花を咲かせる三椏が植えられていた。さすが和紙の里だけはあると思う。「うどん」のほうも本物である。ここを訪れた人は会員となり、リピーターも多い。それだけの価値はある。水は何にでも命なのである。

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白い蕾の三椏(写真左)と黄色の花をつける三椏(写真右)


投稿者:菊地正浩
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2009年05月01日

東の西陣・桐生織物

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●桐生市の足跡
 群馬県桐生市、地名は桐の木が繁茂していたことにちなむと言う。大正10年(1921)に市制。昭和8年(1933)境野(さかいの)村、同12年広沢村、同29年梅田、相生(あいおい)2村と川内村の一部、同34年栃木県足利郡菱(ひし)村編入、2005・6平成の大合併で新里村、黒保根村を合併して今日に至る。市街は渡良瀬川と支流の桐生川の間を南北に長く広がっている。南北朝時代(14世紀)の武士、桐生国綱(くにつな)が築城し城下町として発展した。16世紀になり桐生新町を建設し、絹織物、絹市場の町として栄え、我が国の織物産業史を代表する一つの町となる。江戸中期の元文3年(1738)に京都の西陣から染色、紗綾(さや)織技術が導入されてから大きく発展した。もちろん、周辺には桑の木栽培、養蚕、製糸の地帯を抱えていたことと、染色、洗浄に必要な水が桐生川であったことも欠かせない。江戸後期の最盛期には「西に西陣、東に桐生」とまで言われるようになった。白縮緬(ちりめん)、御召(おめし)、銘仙(めいせん)、帯地(おびじ)、刺繍物(ししゅうもの)などが有名である。一帯はノコギリ屋根で有名な織物工場のほか、製糸、染色、機織、倉庫などの近代建築物や織物産業関連施設が今なお多く残る。また、古代からの遺跡も多くあり見所のある産業遺産観光地である。なぜ産業遺産? 戦後の繊維不況は絹織物から機械工業都市に変わっていき、案外知られていないのがパチンコ産業である。大手メーカーが多く集まり、全国一のパチンコ都市とも言われている。

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●桐生地域のノコギリ屋根の特徴
 桐生のノコギリ屋根工場は、一つひとつが個性的で魅力的な建築物である。近代化建築の産物であり、桐生には染織業の建築物に多く使用され、現存する数は全国で最も多いと言われる。織っている生地の具合を見たり、織り上がった生地を点検したりするにも、北窓からの自然光が最適で、晴天、曇天に拘わらず光に影がなく一定しているからである。芸術家のアトリエなどで北窓が多いのもうなづける。

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●森秀織物参考館「紫(ゆかり)」
 この「紫」で桐生織物産業史が学べる。前述のノコギリ屋根の建物はもちろん、登録有形文化財指定の建物もある。明治から昭和にかけて使用された織機や道具、染色、古器具類や資料約1200点を展示している。

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 織物工程を一堂に展示しており、桐生の織物、染色などに関する学習の場である。単に見学するだけでなく専従の講師が教えてくれる。筆者が訪問した時も、市内の小学生が先生と父兄に引率されて体験学習をしていた。実際に織機に座り、絹の縦糸、横糸を操り布地にしていく体験をし、子どもたちは大いに感心し驚き喜んでいた。

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 売店では絹織物の製品も数多く並べられ、着物や帯という高価なものから小物まである。筆者もちょっと奮発して、車のキーホルダー(写真右)を買ったが、とても綺麗で気に入って使っている。

●森秀織物参考館「紫(ゆかり)」
群馬県桐生市東4-2-24/JR両毛線桐生駅から徒歩20分
入館700円/10~16時/月曜休/0277-45-3111 

投稿者:菊地正浩
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2009年05月05日

手漉き和紙の里(7)~消えた鷲(とり)ノ子紙~1

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●水戸藩指定紙漉き場と風車の弥七、女房お新の墓
 茨城県常陸国(ひたちのくに)那珂(なか)郡嶐郷(りゅごう)村一帯(現・常陸大宮市)は、鷲ノ子和紙を漉く古い紙郷である。茨城県北部で西は栃木県に接し、八溝(やみぞ)山地の鷲ノ子山塊南東部にあり、大部分は2~300mの山に囲まれた山林である。那珂川と支流緒川の谷地平野に集落が点在する農山村である。合併の歴史を辿ってみると、昭和31年(1956)小瀬(おせ)、八里(やさと)、長倉(城址)、檜澤、の5村で緒川村、檜澤の一部と嶐郷村で美和村が誕生した。2004になり緒川村、美和村、大宮町、山方町、御前山(ごぜんやま)村の平成大合併により常陸大宮市となった。

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 江戸時代には水戸藩指定紙漉き場となり、水戸光圀は風車の弥七の進言により、城内の侍女たちを寒中に遣わして紙の尊さを知らしめるため見学させたという。当時の面影はなく、紙漉き場であったという碑(写真左)が建っている。テレビで御馴染みの『水戸黄門』で、家来の風車の弥七と女房お新の墓(写真冒頭2枚)、住居跡碑(写真中央)がある。墓地も立派で訪れる人も多い。本名を小八兵衛といい、忍びの技術に長けた盗賊で、捕まってから光圀に仕えたという。
 駐車場のところにある公衆トイレ(写真右)には、男女別の表示ではなく弥七とお新になっているのがおもしろい。此処で漉かれた和紙は水戸藩のほか江戸へと送られたが、紙街道(現・国道293号)は和紙の輸送と紙商人で賑わったという。明治時代には選挙用投票用紙に鷲ノ子紙が使用された。

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●何故、鷲ノ子紙なのか?
 昔は下野国と常陸国の国境、今は栃木県那須郡馬頭(ばとう)町(現・那珂川町)と茨城県那珂郡美和村(現・常陸大宮市)の県境にある、鷲子山(標高468m)。常陸風土記には大山と記されており、1200年以上も前から名を残している山である。山には樹齢千年を越す杉の大木をはじめ、いろいろな樹木が生い茂り、古来より霊峰と呼ばれている。
 山頂から眼下に北関東平野が一望でき、南は筑波山や晴れた日には富士山、西は日光連山や那須連峰、北は八溝山という展望である。昭和58年(1983)に「日本の自然百選」に選定されている。
「紙街道」と言われる道を通り、鷲子山への道は未開発のままであったが、昭和も後半になってから車で登れるようになった。だが、相変わらず曲がりくねった細い山道である。鷲ノ子地区も昔から辺鄙(へんぴ)な土地で、昔は石の道路標識に「はとうからすやまとりのこみち」と書かれ、見る人が「鳩烏山鳥」と読み、人が通るところではないと考えて引き返すという話が伝えられている。いまでは国道293号線に「馬頭・烏山・鷲子」となっている。

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 鷲子山には古くから人が住み、弥生式土器の出土や宝物が発見されている。鷲子山上(とりのこさんしょう)神社の創建は古く、大同2年(807)馬頭の大蔵坊宝珠(ほうしゅ)上人が諸国遍歴中、四国阿波国で紙漉きの神に出会ったと云われる。神様は天日鷲命(あめのひわしのみこと)で神社名も、鷲権現、鷲子権現、鷲子山神社などと呼ばれた。明治4年(1871)に現在の鷲子山上神社となったのである。天日鷲命は『古事記』『日本書紀』にも記されているが、まだ未開発であったこの地に産業振興の一つとして製紙殖産の神として迎えられたと言われる。水戸光圀も紙漉き振興のため参拝に訪れたという。
 また、名前のとおり鳥の神様で、フクロウ、キジ、ニワトリ、カラスなど多くの鳥が崇敬され大切にされてきた。神社のいたるところにフクロウがあり、日本一の大フクロウ(不苦労といい7mある)が開運福徳を招くといって参拝者も多い。つまりここの神様は紙の神様であり、この地一帯で漉かれた和紙を「鷲ノ子紙」と言ったのである。

5月7日につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年05月07日

手漉き和紙の里(7)~消えた鷲(とり)ノ子紙~2

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●観光振興を図る茨城県常陸大宮市・栃木県那珂川町

 平成の大合併によりそれぞれが大きな町となった。水戸から郡山へはJR水郡線と国道118号線。国道293号線は太平洋から常陸太田市を通り那珂町から宇都宮方面へと貫いている。かつての手漉き和紙の里もほとんどが姿を消し、新しい観光産業を生んでいる。

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 JR水郡線の常陸大宮駅から郡山方面へ一つ目に玉川村駅(写真左)がある。「関東の駅百選」に選ばれた田舎の駅である。さらにここから国道293号を北西に行くと緒川村役場(現・緒川支所)の水準点がある。東京湾の平均水準を0として、千代田区永田町にある日本水準原点標庫が24.4140mと定められている。この緒川支所の水準点は80.505mと表示されているので、久慈川の支流に囲まれた低い土地かと思うと、まあまあ標高の高いことがわかる。

hokutoseiteisyoku1000yen.jpg 道の駅みわの北斗星定食1000円

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 和紙の里美和村まで行くと、道の駅みわ「北斗星」ができた。ここは星が綺麗に見える地域なので、天井に星空が描かれているトイレ「満天トイレ」がある。観光地トイレとしては満点のランクに入るであろう。

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 県境にある鷲子山上神社を通り過ぎると栃木県に入り、那珂町の馬頭である。馬頭とは水戸光圀が馬頭観音を訪れつけたとされる。奈良時代には砂金産地で「ゆりがねの里」と言われた。馬頭郷土資料館や広重美術館なども整備されている。道の駅ばとうには那珂川町観光センターも設置されている。

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 だが何といっても馬頭温泉郷の存在であろう。温泉宿が15~6軒ほどあるが、町営の「ゆりがねの湯」が良い。「ゆりがね」とは砂金のことで、砂金の含まれた土砂を水洗いしながら、ゆり動かすことから生まれた。眼下に那珂川の清流が一望でき、泉質も良い。町営だから入浴600円と手頃だが、70歳以上は半額としている。この馬頭を抜けると、小川、喜連川、那須と温泉郷が続いている。

●那珂川町馬頭郷土資料館
栃木県那須郡那珂川町馬頭116-5/JR烏山線烏山駅からバス、馬頭町役場前下車徒歩4分
入館無料/9~17時/祝祭日、月曜、第3日曜休/0287-92-1103

●馬頭温泉郷「ゆりがねの湯」
栃木県那須郡那珂川町小口1671-1
10~21時/月曜(祝日の場合は翌日)休/0287-92-3023

おしまい

投稿者:菊地正浩
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2009年05月14日

手漉き和紙の里(8)~再現なるか彦間紙~

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飛駒の根古屋森林公園と梅林

●飛駒村(ひこまむら)とは彦間川(ひこまがわ)からの地名
 栃木県下野国(しもつけのくに)安蘇(あそ)郡飛駒村(現・栃木県佐野市)は、県南西部で群馬県と接し渡良瀬川の支流彦間川が流れている。ちなみに桐生田沼線(R66)を走ると桐生川ダムのある梅田湖に抜け桐生和紙の里に出る。明治22年(1889)、田沼(低湿地のためにつけられた地名といわれる)など8村が合体して田沼町となる。昭和29年(1954)、三好、野上の2村、同31年に飛駒と新合の2村を編入。2005・2平成の大合併で佐野市、田沼町、葛生(くずう)町が合併し今日に至っている。町域の大部分は足尾銅山のある足尾山地で、根本山(標高1199m)をはじめ1000m級の山々を背にし、旗川、秋山川、彦間川などが渡良瀬川へと注ぐ。飛駒村とは彦間川からきた地名である。
 原料の楮は山野や畦に自生し、また畑でも栽培した。ネリの黄蜀葵(とろろあおい)のことを古くからオホレンと呼んでいた。飛駒産の生紙(きがみ)は「飛駒八寸」と言われ有名であった。八寸とは障子の桟(さん)の寸法で障子紙や大福帳として使われた。色は多少黒いが丈夫で長持ちすると評判であった。大正4年(1915)に新しい製法を取り入れ、八寸から襖紙や唐傘紙の大判を漉くようになった。また、桐生地方の絹流通手形紙としても使われ、市札の彦間紙として重要な役目を果たした。この頃の漉き家は24~5戸もあったという。しかし、戦後は洋紙に押され、昭和43年(1968)に惜しまれつつ歴史の幕を閉じたのである。

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飛駒和紙会館と飛駒名物天大根そば850円

 平成4年(1992)にまちづくりの一環として、飛駒和紙保存会が結成され、和紙作り伝承の活動を開始した。平成8年(1996)に飛駒の根古屋森林公園内に飛駒和紙会館を建設した。現在、休日には手漉き和紙の体験教室が行われている。しかし、今のところ彦間川から名付けられた彦間紙を漉く家はなく、残念ながら消えてしまったのである。今後は保存会の彦間紙復活の活動を期待するのみである。


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●唐沢山城址(唐沢山神社)
 唐沢山(標高230m)城は約1000年も前に、「むかで退治」の伝説や天慶の乱で平将門を討伐した藤原秀郷(ひでさと)が築城した。その後、後裔の佐野房綱が小田原征伐で豊臣秀吉に味方をして所領安堵となった。慶長7年(1602)、房綱の養子信吉の時代に幕府の命により春日岡城(現・城山公園)に移り、廃城となったのである。城は宇都宮、新田山、厩橋(うまやばし)、川越、忍、太田とともに関東七堅城と言われた。

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 明治16年(1883)、一族、旧臣などで秀郷公の遺徳をしのび、本丸跡に神社を創建し今日に至ったのである。神社のある本丸跡(写真左)には苔むす石垣が当時のまま残されている。その他、二の丸、三の丸、馬場、大炊井(写真中央)、枡形城門跡(写真右)など多くの古跡、旧跡が見られる。

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●安蘇の河原
 彦間川と並行して流れる秋山川、唐沢山への入口に架かる唐沢橋のたもと、ここが万葉集に出てくるところである。万葉集(巻14)にある「下毛野(しもつけの)安蘇の河原よ石踏まず、空ゆと来ぬ汝(な)が心告(の)れ」と刻まれた歌碑がある。阿蘇の河原とはこの秋山川の河原のことである。我が国最古の歌集である万葉集、まだ仮名がない時代で原歌は漢字の音を使っている。「私はこの河原の石踏んだのも気づかないほどに夢中で空を飛ぶように急いで貴女に逢いに来たのです、ぜひ貴女の気持を聞かせてください」と若者が娘に求愛している歌である。現代版ラブレターと比べては如何でしょう。

manyosyukahi.jpg 万葉集の歌碑


投稿者:菊地正浩
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2009年05月19日

手漉き和紙の里(9)~消えた海底(うぞこ)染色紙・障子紙~

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 相模国愛甲郡高峰村大字角田・同海底(現・神奈川県愛甲郡愛川町)は、海底障子紙と言われたほどの和紙の里であった。神奈川県中央北部に位置し、西には丹沢山塊が連なり町の中央は宮ヶ瀬湖から中津川が流れる。この中津川流域を中心に丹沢山地の東に広がる扇状地である。地名は中津川の別名、鮎川に由来するといわれる。昭和30年(1955)、愛川町と高峰村が合併、同31年中津村を編入した。
 奥の中津渓谷は景勝地であったが、宮ヶ瀬ダム完成(1996)により水没してしまった。西部の半原(はんばる)地区では養蚕が盛んで、絹糸の産地としては全国の80%を占めていた。ミシン糸の産地で「糸の町・半原」として知られる。さて、和紙の里であるが、現在の愛川町役場がある角田を中心とした地域で、中津川に角田大橋が架けられている。橋の下に拡がる地域に上海底、下海底という所があり、川沿いの集落が手漉き和紙の里であった。

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赤・白の三椏

 現在はその面影もないが、わずかに楮(こうぞ)や三椏(みつまた)が自生している。ネリに使う黄蜀葵(とろろあおい)のことを「ネ」と呼んでいたらしい。

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取壊される郷土資料館

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愛川繊維会館(レインボープラザ)と手漉き和紙の体験コーナー

 愛川町郷土資料館が半原小学校脇にあり、和紙に関する器具資料が展示されていたが、老朽化したのでふれあいの村へ新築移転のため閉館してしまった。歴史を感じさせる建物だけに惜しい気もするが、新設された資料館には色々な歴史遺産が展示されるという。また、半原神社の至近に愛川繊維会館(レインボープラザ046-281-0356)があり、養蚕、撚糸、染色に関する展示のほか、和紙の体験コーナーも設けられている。このように生産こそ行われていないが、海底和紙の伝統を守って行こうと活動している。

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塩川の滝

 話は少しそれるが、この地域には難読地名が多い。海底(うぞこ)、八菅(はすげ)、半原(はんばる)、三増(みませ)、馬渡(まわたり)、などであるが、三増峠は武田信玄と北條氏康が大合戦したところとしても知られる。八菅神社はかって八菅山の山岳信仰の聖地であり、山伏が集う修験道場で毎年3月には火渡り神事が行われて有名である。背後の山は仏果山(748m)、経ヶ岳(633m)などといった山がある。塩川の滝や鉱泉旅館も多いところである。

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丹沢山塊の鉱泉、飯山温泉郷、美登利園


投稿者:菊地正浩
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緊急NEWS!
紀行作家の伊佐九三四郎会員25日(月)午前1~2時、NHKラジオ第一放送に出演します。
〔列島インタビュー〕タイトルは『幻の人車鉄道』です。
深夜便ですが、ぜひお聴き逃しのなきよう。

2009年05月26日

佐野市と出流原(いずるはら)湧水1

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 佐野市は栃木県南西部、渡良瀬川の北岸に位置し、市域の大部分は秋山川、旗川の谷が開けたところに形成されている。ここの歴史は古く、『万葉集』の中で詠われた「安蘇(あそ)の河原」とは秋山川の河原である。江戸時代は日光例弊使(れいへいし)街道の宿場町、市場町として栄え天明宿と呼ばれていた。古くから佐野綿縮(ちぢみ)(写真上)の産地として有名であるが、近年は色々な織物を生産している。最近でこそ佐野ラーメンで知れわたっているが、近世では足尾銅山の鉱毒事件で有名となった。昭和18年(1943)佐野、犬伏(いぬぶし)、堀米の3町、植野、界(さかい)、旗川の3村が合併。同30年吾妻村、赤見町を編入、2005・2平成の大合併で田沼町、葛生(くずう)町を合併して今日に至った。

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●歴史がいっぱいの佐野市郷土博物館
 回廊の白い列柱が印象的でモダンなデザインの建物は、日本建築学会賞を受賞した。出流原遺跡や八幡山古墳から出土した考古資料、中世の天明鋳物、宿場風景、村絵図、古文書、綿縮などの産業、足尾鉱毒事件で活躍した田中正造の特別展示室など見どころの多い博物館である。

佐野市郷土博物館
JR・東武佐野駅から徒歩20分/入館無料(ただし企画展開催中は210円)/9~17時/月曜(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日、毎月末日休館/0283-22-5111

http://www.city.sano.lg.jp/city-museum/index.htm

5月28日につづく

投稿者:菊地正浩
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2009年05月28日

佐野市と出流原(いずるはら)湧水2

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●出流原弁天池湧水と赤見温泉
 池は県指定天然記念物で「名水百選」指定である。古生層の石灰岩を溶解してできた洞穴から湧出する清水によって作られる。年間を通じて一日2400㎥、水温は16度に保たれている。

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 磯山の山腹には鮮やかな赤色の弁財天、ふもとには数千尾の錦鯉が泳ぐ澄み切った弁天池。この池から湧出した水は養魚場、公園などに利用している。佐野市が直接管理をし、清掃などは観光協会が主体となって行っている。

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 湧水を利用した赤見温泉郷はリピーターも多い。昔は近くにいると水の湧く音で話し声も聞こえないほどであったという。石灰岩を溶解した癖のない水は、単純冷鉱泉の湯でさらっとして気持ちが良い。

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 また、飲料水にも適しており、ペットボトルに入れて持ち帰る人も多い。湧水を利用した食品も多いが、なかでも豆腐と湯葉が抜群である。もちろん日本酒やワインなどは当然である。

おしまい

投稿者:菊地正浩
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2009年06月04日

奇石博物館で見つけたウンとトイレットペーパー

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 静岡県富士宮市の東に富士山スカイラインが通る。標高2400mの新五合目まで行ける山岳ドライブコースである。その入口にあたるところに、天母山(あんもさん)(514m)、天母台がある。付近には桜の花見処、富士山さくらの園、天母山公園や天母の湯(写真上)など観光スポットも多い。

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左からティラノサウルスの足跡、アンモナイト、石琴(中は黒くて硬い石でナイフにもなる)

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左から巨大な針葉樹の化石(2億年前の木)、ブラジルの巨大水晶、黄鉄鉱

 なかでも、奇石博物館は一見したいところである。手に持つとクニャクニャ曲がる石や金属製の音色が出る石琴、たくさんの水晶類、化石類など世界の石が豊富に展示されている。ところが、ここには珍しいものがまだあった。

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 まず、草食恐竜の糞化石である。見るだけでなく手で触ってよい。恐竜のウンチを触ればウン(運)が付くというのである。大人から子どもまでみな喜んで触っている。もちろん、筆者とて例外ではない。

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 もう一つ、おみやげ品にトイレットペーパーが置かれている。ただのトイレットペーパーではない。地球誕生46億年の歴史をイラストにして、46mのトイレットペーパーに印刷してある。1億年前を1mに、人類誕生は500万年前だから、わずか5㎝という具合である。全体を70㎝に印刷して繰り返し、一巻きにしてある。日本トイレ研究所の会員としては見逃すことのできない一品である。当然のことながら買い求めた(3個入り600円)。
 果たして使う日が来るのであろうか? ウン(運)も付くのであろうか? これからのお楽しみ。

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 奇石博物館 静岡県富士宮市山宮3670
 入館700円/9~17時/水曜(祝日の場合は翌日)休、ただし7月20日~8月31日は無休/0544-58-3830

http://www.kiseki-jp.com/index.html

投稿者:菊地正浩

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緊急NEWS!
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2009年06月17日

手漉き和紙の里(10)~白糸村の三椏紙(みつまたし)~

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芝川へ流れる清流

 静岡県(駿河国)富士宮市白糸村は富士山頂から急斜面で南下、しだいに緩傾斜状となる平原で富士山の西南麓に位置し、北東部、北西部は山梨県に接している。北部郊外は広々とした高原地帯で日本有数の酪農地帯でもある。
 富士宮は古くから駿河国一宮である富士山本宮浅間(せんげん)大社の門前町として栄えた。浅間大社は全国約1300社あるうちの総本宮で、ここからの富士登山コースが表口登山道となる。中央を閏井(うるい)川が北から南へと流れ、かつては駿河国と甲斐国を結ぶ交通の要衝として栄えた。富士山の雪解け水は溶岩流の地下水となって湧出する。

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 白糸の滝は幅約200m、落差20mあり滝の幅は日本最大と言われる(昭和25年、観光百選滝の部一位になった名爆)。また、富士山3776m、最低は35mという標高差は、我が国最大の標高差を誇る地でもある。

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 昭和17年(1942)、大宮町と富丘村が合併、同30年富士根村と合併。同33年(1958)、上井出、白糸、上野、北山の四村を編入して現在の富士宮市となる。白糸の滝がある旧白糸村こそが三椏紙の里である。現在は和紙を漉く痕跡もないが、白糸の滝壺の傍らに、三椏栽培記念碑が建てられ、周りにはわずかな三椏が花をつけているのが印象的である。

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 最近は白糸の滝だけでなく、音止(おとどめ)の滝(写真左)や曽我兄弟仇討ちに関する遺跡である曽我兄弟の隠れ岩(写真中央)や工藤祐経の墓(写真右)などを利用して、観光振興を図っている。三椏も再現しようと栽培を始め、手漉き和紙をする人も出てきたそうである。歴史ある我が国紙幣の三椏栽培地の復活を見たいものである。

投稿者:菊地正浩

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2009年06月23日

手漉き和紙の里(11)~日中(にっちゅう)和紙・川口判の痕跡なし~

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かつては清流で手漉き和紙の里があった押切川沿い(左)と平成の大合併により喜多方市となり熱塩加納村が閉村となった記念碑

 福島県岩代国耶麻郡熱塩村(やまぐんあつしおむら)日中(現・喜多方市日中)は山形県境に位置し、東・西・北の三方を山に囲まれ、南は会津盆地に向かって開けている。冬は積雪1~2mにもなる豪雪地帯、耕地に恵まれず米の獲れない寒村で、春夏は養蚕、秋は炭焼、冬には紙漉きをしていた。
 かつては押切川と野辺沢川を挟み、日中と新村(しんそん)地区に別れていた手漉き和紙の里であった。昭和29年(1954)に熱塩、加納と朝倉村の一部が合併して熱塩加納村(あつしおかのうむら)となった。平成18年(2006)、喜多方市、熱塩加納村、塩川町、山都町(やまとまち)、高柳村が合併し現在の喜多方市となった。

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旧国鉄日中線の熱塩駅舎(左)と日中線で活躍した機関車と客車

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日中ひざわ湖とダム(左)とダムから日中地区と日中温泉を望む

 近年、旧国鉄日中線廃止、会津街道(米沢街道、現121号線)の改良・拡幅工事やトンネル工事、一級河川の改修、国営日中ダム工事等々が行われた。その結果、日中ダムの完成、日中ひざわ湖の登場は付近一帯の環境を激変することとなった。空海の加持によって開湯したとされる歴史ある熱塩温泉郷もさることながら、飯豊(いいで)、吾妻連峰を仰ぐ秘湯で知られた会津日中温泉も存亡の危機を迎えた。

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日中の秘湯を守った記念碑(左)と足湯

 当時の旅館ゆもとやの女将が秘湯を守ろうと奮闘し現在の宿として引き継がれた。それを称える記念碑が建てられている。源泉100%掛け流しの檜露天風呂などで、日本秘湯を守る温泉宿として訪れる人を癒している。もちろん、日帰り入浴も可能(700円)。

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 現在、喜多方と言えばラーメンや蔵の里として有名になり訪れる観光客も多いが、熱塩温泉、日中温泉を訪れ会津街道で米沢への観光ルートにもなり発展している。しかし、ここが手漉き和紙の里として栄えた名残りはなく、清流であった押切川も日中ダムの放流する水量調整を受ける川となってしまった。和紙の里であったという痕跡は、喜多方市街にある「喜多方市郷土資料館」(写真上)にわずかながら残されている。


投稿者:菊地正浩

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2009年07月02日

手漉き和紙の里(12)~陸奥紙(みちのくし)・上川崎和紙~

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阿武隈川の清流と和紙の里

 福島県岩代国安達郡安達町(あだちまち)上川崎村(現・二本松市)は千年の歴史を伝承する和紙の里である。西部は安達太良(あだたら)連峰の裾野にあたる丘陵部で、東に向って低くなっていき阿武隈川に至る。この東端が上川崎和紙発祥地で、ここから小澤、下川崎、沼袋各村へと広まり、二本松藩の用紙を献納していった。

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智恵子大橋から和紙の里を望む

 文献によると後冷泉(ごれいぜい)天皇の御宇(ぎょう)(康平年中1058)、漉き場は本村川之端栗船渡し場の畔で、冬に安達太良おろしと呼ばれる強い風の吹く時に行われたと言われる。冬は川が最も澄んで、楮も虫がつかないからである。この渡し場は平成4年まで渡し舟で利用されていたが、現在は公園となり東和と安達を結ぶ智恵子大橋が架けられた。

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二本松市歴史資料館 記念スタンプとチケット

 昭和30年(1955)油井(ゆい)、上川崎、渋川の3村、同32年松川町の一部を編入、同35年に安達町が誕生した。2005平成の大合併で二本松市、安達町、岩代町、東和町が合併して現在に至る。安達町の中心である二本柳地区は奥州街道の宿場町で交通の要衝地。昔は安達牧の名で知られ、馬に関する地名が多く残っている(陣馬、鍛冶屋など)。

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手漉き和紙の農家と製品

●上川崎紙のルーツ陸奥紙とはどういう紙だったのか?
万葉集七、陸奥安達郡にあだちの真弓(まゆみ)。古今和歌集に安達真弓と出てくる。
色々な説があるが、檀紙(だんし)であったという説が有力である。檀紙とは、壇(まゆみ)の樹皮で作られた上質紙である。壇は「真弓」とも書き、古来より弓を作る材料である。安達太良山周辺には真弓が多く自生し、楮の栽培も多く行われ阿武隈川の清流とが陸奥紙との深い関係を築いたと言われる。
 明治7年(1874)には、山口県、高知県に次いで磐前(いわさき)県は全国第三位の生産量を誇っていた。明治9年(1876)になり、磐前県は福島県と若松県(会津)の3県が合併して現在の福島県の姿になった。

●「あだたら」と「あだち」
 安達太良山(1700m)はあだたら、安達町はあだち、と山と町名で呼び方が異なる。何故か、町名は古代の荘園にちなんだものと言われる。また、安達の出身である高村智恵子(旧長沼智恵子、高村光太郎と結婚)の里でもある。「智恵子抄」で有名な光太郎の作品には、「阿多多羅山」という万葉集から引用したとされる題名がつけられている。とにかく山の名前と地名の呼び方を変えていることには変わりがない。

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智恵子の生家 記念スタンプ

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智恵子記念館

 安達には智恵子の生家である米屋であり清酒旅霞の家と、智恵子記念館に展示されている数々の作品を拝観するため訪れる観光客が多い。(0243-22-6151水休み400円)

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●二本松市和紙伝承館(0243-61-3200)
 これまで上川崎の集落には手漉き和紙の伝統を守るため、安斉由一氏をはじめ技術を伝承する人々が頑張ってきた。しかし、多くは高齢となり後継者も儘ならず対策を迫られた。平成13年(2001)、道の駅「安達智恵子の里」がオープンするのに伴い、安達町和紙伝承館を開設した。伝承館では上川崎の伝統を引き継いでいこうと、紙漉き体験コーナーや数々の展示品、和紙製品の販売などを行っている。二本松市への観光で道の駅に立寄った人々を楽しませるとともに、紙漉き和紙の伝統を継承していこうとしている。

投稿者:菊地正浩

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2009年07月09日

手漉き和紙の里(13)~遠野(とおの)和紙~

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入遠野川の清流

 福島県磐城国石城郡上遠野村(かどおのむら)深山田(みやまだ)(現いわき市)は、常磐の山里に古くから伝わる和紙の里である。いわき市は昭和41年(1966)、平(たいら)、磐城(いわき)、常磐(じょうばん)、内郷(うちごう)と四倉(よつくら)、遠野、小川、久之浜の5市4町、好間(よしま)、三和(みわ)、田人(たびと)、川前(かわまえ)、大久(おおひさ)の5村が大合併した全国でも珍しいケースである。夏井川、藤原川、鮫川など総計21流の各支流をあわせて太平洋へと流れ込む。日本一長い海岸線(約80㎞)と日本最大級の面積を誇る広域都市である。

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遠野和紙の紙漉き場

 そのなかで北西に位置する遠野地区は、鮫川の支流、根本川、入遠野川、上遠野川などの清流に恵まれ、山に囲まれた長閑な地域である。早くから安達郡川崎村(現・二本松市)より大判の障子紙を漉く技術が伝えられた。原料の楮や三椏を栽培し、黄蜀葵(とろろあおい)をニレと呼んでいた。秋の彼岸から翌年の八十八夜までの副業とし、その数250軒にもおよんだという手漉き和紙の里として知られた。現在ではほとんどが高齢化と後継者がいないため、廃業してしまった。

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遠野和紙の紙漉き場と紙製品

●いわき市遠野オートキャンプ場での和紙伝承

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市営の入遠野オートキャンプ場 キャンプ場の三椏

 いわき市では入遠野に市営の遠野オートキャンプ場を開設した。入遠野川の畔でオートキャンプのできる施設を作り、宿泊設備やバーベキューなどの設備が充実している。紙漉き体験のほか、野鍛冶、つる細工、干し柿作りなど色々な体験イベントを企画している。和紙については、古くから地元で和紙作りを続けている人の技術を学びながら、遠野和紙の伝統を守っていこうとするものである。

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深山田の紙漉き農家 見事な赤い花の三椏

 原料の楮は栽培して使用するが、周囲には見事な三椏が沢山植えられて綺麗な花をつけている。深山田地区にある紙漉き農家を訪れたが、それは見事な三椏の山である。今を盛りと花をつけているが、なかでも赤い花をつける三椏が印象的であり、これほど多くの三椏を見たのは初めてである。

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壊れてしまった釜 深山田の見事な三椏栽培

 このお宅のご主人は、入遠野のキャンプ場へも出張して技法を教え、体験をさせている。何分にも高齢となり思うように活動できなくなったとのことである。漉き場を見せてもらったが、歴史を感じさせるものがある。現在、釜が壊れてしまったが、困ったことに修理をする職人がいない。他の道具は手作りでできるが、釜だけは専門の職人が必要であり、ここにも伝統産業を守る職人不足であることを痛感させられた。

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カッパ伝説の鉱泉宿中根の湯

 この入遠野川沿いはイワナ、ヤマメ、鮎の渓流釣りとしても人気があり、6~7月下旬ともなれば源氏ホタルが光を放つ豊かな清流である。中根の湯という和紙の里に相応しい鉱泉宿もあり、訪れる観光客を癒してくれる。これからも永く和紙の里を伝承していってもらいたいと思う。

投稿者:菊地正浩

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2009年07月14日

手漉き和紙の里(14)~信州松崎紙~

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高瀬川と北アルプス 旧千国街道(塩の道)入口

 大町市松崎は長野県北西部、松本盆地北端に位置する高瀬川と鹿島川の扇状地で、北アルプスの眺望は抜群、西部は飛騨山脈の山岳地帯である。市名は、千国街道(糸魚川街道、塩の道)の宿場町中心地で、本町と中町の総称を大町と呼んだ。古くから塩の道として、また大町温泉郷や黒部渓谷の入口としても栄えてきた。

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青木湖畔の桜と北アルプス 佐野坂中央分水界からの北アルプス

 昭和29年(1954)大町と平、常盤、社(やしろ)の3村が合併。2006年平成の大合併で八坂村と美麻(みあさ)村を加え、県下最大の市となった。中世鎌倉時代の仁科(にしな)氏の館跡などがあり、仁科の里とも呼ばれる。木崎湖、中綱(なかつな)湖、青木湖は仁科3湖と云われ断層湖である。青木湖北岸の佐野坂は、内陸型(雨の少ない)と裏日本型(北陸の多雨型)気候の境目で、佐野坂峠は中央分水界である。 

●二つの松崎紙
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和紙の里松崎からの北アルプス 漉き場風景

 松崎紙の歴史は古く、長久3年(1042)に仁科神明宮のお札紙を作ったのが始まりとされる。その後、農家の冬季副業として手漉き和紙が発達した。原料は主に楮で、ネリは黄蜀葵(とろろあおい)であるが、南部を流れる高瀬川の清流と、高い紙漉き技術によっての和紙は全国的に知られるようになった。しかし、松崎紙には二つの系統があったことはあまり知られていない。一つは北アルプスを発源とする高瀬川の清流で漉いた和紙。もう一つは東山低山帯、仁科3湖と鹿島川などを支流とする農具川の清流で漉いた和紙である。

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漉き場風景と製品

 なぜ、同じ松崎なのに違った和紙となるのか? 高瀬川は北アルプスの雪解け水で和紙を漉くのにこの上ない清流である。農具川とて同じではないか、と思うのであるが、農具川の方は鉄分の含有量が多いため、漉いた紙が黒っぽくなるのである。だから農具川の和紙は一工夫も二工夫もしなければならなかったのである。

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漉き場風景と製品 天日干し

 現在、高瀬川系松崎紙は残念ながら絶えてしまった。しかし、農具川系和紙は更に工夫を凝らし、信州松崎和紙として伝統を守っている。ここでの和紙作りは他所にはない苦労もある。冬季は極寒のため水が凍る、しかし黄蜀葵は腐り難いという利点もある。風の無い穏やかな春の日差しを受け、天日干しされる和紙の風景は何とも云えない長閑さがある。

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信州松崎和紙工業

 幸い紙漉き技術の後継者も育ち、親子で伝統を守り、信州松崎和紙工業㈲を経営している。ここで漉かれた和紙は様々な工夫を凝らし、製品化され大町市周辺のみならず全国に出荷されている。もちろん白い障子紙や帳簿用紙のようなものではない。伝承された伝統の技法に独特の特殊処理を施し、色々な木の葉を漉き込んで持ち味を出している。どうか将来にわたって日本の伝統産業を守り、伝承していって欲しいと思う。

投稿者:菊地正浩

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2009年07月18日

手漉き和紙の里(15)~絶えた大聖寺(だいしょうじ)藩の紙屋谷和紙~

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山中温泉ホテル大黒屋と温泉

 石川県加賀国江沼郡河南(かわみなみ)村長谷田(はせだ)、中田(なかだ)、上原(うわばら)、塚谷(つかたに)(現・加賀市山中温泉郷の玄関口)は、紙漉きが副業として盛んになった江戸時代中頃には、紙屋四ヵ村とも紙屋谷とも呼ばれたほどの手漉き和紙の里であった。現在でも紙屋谷、紙屋用水などと名称は残るが、区画整理された上原、塚谷の台地を加美谷(かみや)台と変えて地名としている。

 紙屋谷の地形は山中町の北西部に位置し、大聖寺川中流域に広がる山代温泉と山中温泉の間にある。紙屋谷の歴史は古く、縄文、弥生、古墳時代の史跡も多い。奈良時代の天平(てんぴょう)12年(740)越前国江沼郡山背郷計帳に、戸籍、戸別、人頭税に関する台帳が残されている。昭和30年(1955)山中町と河南、西谷、東谷奥の3村が合併。2005年加賀市と合併して今日に至っている。

●紙屋谷和紙 

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大聖寺川の清流

 農閑期の副業として、女子は紙漉き、男子は藁仕事をしたが、とくに紙漉き、養蚕はこの地の大きな副業であった。「大聖寺藩年譜草稿」弘化3年(1846)によると、延宝4年丙寅(1676)四代将軍家綱の頃、「中田村五郎兵衛、二俣村(金沢市)へ足軽小頭栗村茂右衛門を添えて紙漉き習に被遣、是より追々広る」とある。金沢の二俣村(二俣紙の里)で紙漉き技術を習得して、紙屋四カ村の村民に教えた。この地区は山中谷と呼ばれていたが、紙漉きが盛んになると紙屋谷と呼ぶようになった。

 文献によると当時長谷田45戸233人、中田14戸73人、上原33戸123人、塚谷26戸170人、計118戸509人もが従事していた。大聖寺藩時代の「江沼志稿」によると、御前延紙(のし)、藩札、帳紙、傘紙、茶紙、鳥子紙、塵紙などの多種類が漉かれていた。もちろん山中漆器の包装紙も例外ではない。原料は楮で、この地では木コウズと呼び、自生のものは質が悪いので畑で栽培した。ネリには黄蜀葵(とろろあおい)、水は大聖寺川の清流である。大聖寺藩のみならず加賀藩でも藩札に使われるほどの和紙の里であった。

●紙屋谷和紙の影を山中温泉郷に見る 

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山中温泉ホテル大黒屋の温泉 加賀市山中温泉支所

 山中温泉は天平年間(729~749)に僧行基によって発見された。松尾芭蕉も長逗留し有馬温泉に匹敵すると云い、「山中や 菊はたおらじ 湯のにほい」の名句を残した。山中節でも有名な北陸の名湯として栄えてきた。正徳5年(1715)の古地図には、湯街の家屋敷47戸、享和3年(1803)では170戸、安政年間(1854~60)の温泉絵図では500戸ほどに発展している。旧役場である山中温泉支所で取材したところ、かつては歴史民族資料館のような設備もあったが、残念ながら現在はなくなったとのことである。

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芭蕉の館

 至近にある芭蕉の館を訪ねると、奥の細道と伝統工芸や古文書などに触れることができる。和紙に記された数々の古文書や芭蕉に関する文献に混じり、山中温泉古図(天保年間)や加州山中温泉風景(文久3年版木刷)といったお宝古地図が見られる。それは見事な木版による絵図で、この地で漉かれた和紙を使用したに違いあるまい。この芭蕉の館は展示物の良さもさることながら、施設管理、メンテナンスも行き届き塵一つ目にすることはない。とくにトイレの清潔さとメンテナンスは観光地トイレとしても一級品であろう。

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ギャラリー耀の和紙 芭蕉も訪れた黒谷橋

 もう一つ、ギャラリー耀(よう)に寄ってみた。今よみがえる加賀山中、加美谷の里和紙というふれこみで、小さなギャラリーが営まれている。和紙の里復活と再現を夢みる店主の気持が痛いほど良くわかる。しかし、紙漉きまでには至らず、売られている和紙類は越前和紙などである。諦めずにいつか紙屋谷和紙再現の夢を果たしてもらいたい。清流大聖寺川には芭蕉も訪ねた黒谷橋が架かり、そこから眺める奇岩層列と静寂な風景は、かつて和紙の里であったという痕跡すら感じさせない。

投稿者:菊地正浩

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2009年07月25日

手漉き和紙の里(16)~紙祖神(しそじん)川上御前を祀る岡太(おかもと)神社と越前和紙~

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越前かわだの湧水 式年大祭のポスター

 福井県越前国今立郡岡本村(旧今立町、現・越前市大滝町)は、県中部武生(たけふ)盆地南東部の山沿いの町である。旧町名は古代以来の郡名であった。昭和30年(1955)に粟田部(あわたべ)町と南中山村が合併して粟田部町となった。あわたべは男大迹皇子(おおとのおうじ)(26代継体天皇)の名に由来している。昭和31年(1956)粟田部町が今立町と改称し、その翌日に岡本村を編入した。南部地域は紙漉きの里五箇(新在家、定友、不老、岩本という集落)があり、それぞれに神社がある。町の中には5本の川が流れ合流し九頭竜(くずりゅう)川となって日本海へ流れる。 

●紙祖神岡太神社と大瀧神社(国の重要文化財)

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川上御前像 上宮奥の院から眼下に見える越前和紙の里

 1500年前頃、南部の五箇村を流れる岡本川の上流より美しい姫が現れて、貧農の村人達に紙漉きを教えたという伝説がある。1500年前といえばこの越前から出た継体天皇の時代である。村人達は「川上御前」と呼び、岡太神社に祀ったのである。二つの神社は権現山(標高565m)の頂にある上宮奥の院と麓にある下宮からなっている。下宮から上宮までは細くて急な山道(標高321m)を30分ほど登らなくてはならない。その奥は大瀧城跡である。式年大祭にはお下りといって、神輿を担いでご神体を迎えに行く。最終日にはお上りといって神輿を担いで登り還御する。筆者一人で登るのも喘ぎ喘ぎであるのに、神輿を担いで狭い山道を登り下りする大祭の行事も大変なものである。

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上宮奥の院 右端が川上御前を祀っている 上宮奥の院三殿 中央が本殿・排殿

 今年は39回目の式年大祭の年にあたり、古来より途絶えることなく継承されてきた。古式のままに継承されて1290年目の大祭になる(県の無形民俗文化財に指定)。大祭では紙祖神川上御前に扮する娘が、里の川上に出て衣を竿頭(かんとう)にかけ、紙漉きを伝授する様を演ずるという「紙能舞」が行なわれる。子どもたちは紙漉き唄を歌いながら紙神楽を演ずる。町をあげて紙漉き神事一色となるのである。大瀧神社は推古天皇時代(559~638)、大伴連大瀧(おおともむらじおおたき)の勧請(かんじょう)に始まり、養老3年(719)にここを訪れた泰澄大師によって、川上御前を守護神に、国常立尊(くにたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を主神とする社を創建し、大瀧児権現(ちごごんげん)と称した別当寺大瀧寺を建立した。中世、児権現は織田信長によって灰燼に帰したが、丹羽長秀によって復興された。

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下宮の岡太神社・大瀧神社

 明治になって神仏分離令により大瀧神社と改称した。大正12年(1923)、大蔵省印刷局抄紙部(紙幣を作る所)に川上御前の分霊が奉祀された。ここに、紙業の総鎮守として全国に名を轟かせることとなったのである。正倉院の古文書にも、西暦730年の年号を記した越前和紙が残されている。

●歴史と美を支える越前和紙

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越前和紙の里 和紙の学習セット

 武家社会となった頃には、保存性が高く滑らかな「越前鳥の子紙」が公用紙となった。
室町時代になると、武家、公家ともに公用紙として「越前奉書」を使うようになった。このようにして朝廷、幕府、諸大名の御用紙に使われていったが、耐久性も高く高級浮世絵用紙として使われるようになり、色鮮やかな江戸文化を支えることになる。明治になると、紙幣や証書などにも使われるようになった。

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紙の文化博物館

 越前和紙は芸術家一人ひとりの注文によって、色々な用途の紙が漉かれる。横山大観などの日本画はもちろん、平山郁夫による「大唐西域壁画」はシルクロードを描いた、縦2.7m、横3.7mという大きなものである。大判に漉かれた越前和紙に描かれて薬師寺に奉納されている。原料は楮、三椏、雁皮を使うが、美術小間紙、美術用紙、生活用紙、創作工芸品用紙など用途に応じた手漉きを行っている。染色も墨流し、漉き込み、漉き出し、落し掛けなど様々な技術を駆使している。今や越前和紙は日本を代表する伝統文化として世界に冠たる地位を築き、訪れる人は後を絶たない。

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卯立の工芸館と三椏の植込み 工芸館内部

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パピルス館と体験コーナー

●伝統工芸の集積地、越前匠(たくみ)街道

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越前漆器伝統産業会館

 福井県の丹南地域(鯖江市、越前市、南越前市、越前町、池田町)は、越前漆器、越前和紙、越前打刃物、越前焼という伝統工芸の伝承地である。因みに越前焼は日本六古窯(越前焼、備前焼、常滑焼、丹波焼、信楽焼、瀬戸焼)の一つにあげられている。これらの一帯を越前匠街道といい、先人の技に触れる旅として観光振興に力を入れている。

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越前そばの里

 もちろん、若狭湾の海の幸、内陸部の山の幸は食材として豊富であるが、何といっても「そばの里」であろう。越前の温泉に浸かり、手打ちの越前そばを匠たちが作った越前打刃物で調理、越前焼と越前漆器と越前和紙によって飾られた膳、越前酒を漆盃で飲めばこれ以上の贅沢はないであろう。このように恵まれた環境のもとで伝統を守っている手漉き和紙の里は他に類を見ないといえよう。

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越前かわだ温泉の里

投稿者:菊地正浩

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2009年08月01日

手漉き和紙の里(17)~立ち上げた駿河柚野(ゆの)紙~

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旧柚野村役場と二階の柚野資料館

 静岡県(駿河国)富士郡芝川町。県の中東部、富士川沿岸の町で北西は天子岳(1330m)を境に山梨県、東は富士宮市、南は静岡市清水区に囲まれている。富士川の支流芝川などの河谷(かこく)部に集落があり、山地が80%を占めている。昭和31年(1956)、芝富村と内房村が合併して富原村となり、同32年柚野村と合併して芝川町となった。富士郡にはたった一つの町で、平成の大合併にも参加しないで現在に至っている。

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芝川の清流とポットポール(甌穴)

 歴史の面影は旧柚野村役場の二階にある柚野資料館にわずかながら残されている。この柚野を流れる芝川には、ポットポール(甌穴(おうけつ)という天然記念物で県指定文化財)という珍しいものが見られる。河床の所々に富士山の溶岩が露出し、その表面を小石が削って穴を掘り下げたものである。このような清流のある農村地帯には、手漉き和紙の里である雰囲気が感じられるのだが、それらしい様子も痕跡もない。その理由は駿河柚野和紙が新しい和紙の里だからである。
昭和3年(1928)の記録によると、たしかに柚野紙は存在している。柚野村と合併する前の芝富村や大宮町(現・富士宮市)で漉かれていた。その後何時頃かは定かでないが消えてしまった。しかし、昭和も後半になり駿河柚野紙を立ち上げ和紙の里を作った人がいた。余談であるがこの地域一帯には、大晦日(おおづまり)、蒲沢(かわさわ)、楠金(くすかね)、羽行(はぎょう)、月出島(みかづきじま)、月台(げんだい)、上村(わむら)、塩野(しょの)、稲子(いなこ)など難読地名の多いことも印象的である。

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富士山をバックにした柚野手漉和紙工房

●和紙の伝統を守る柚野紙  
内藤恒雄氏は東京出身で紙漉き農家とは無縁であった。大学卒業後、埼玉県小川、島根県八雲、岡山県倉敷で6年間手漉き和紙の技術を学び、昭和51年(1976)に富士山の見えるこの地を選んで和紙工房を開いた。入口に立つと後方には美しい富士山の全景が目に飛び込んでくる。柚野紙は原料に自家製の楮、三椏、雁皮のみを使用する。もちろんネリは黄蜀葵、水は富士山の雪解け水である地下水を汲み上げて使用する。昔ながらの製法でオリジナル和紙を漉いている。

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オリジナル製品

 漉いた紙は富士山の裾野で天日乾燥されるので、しっとりとした風合いと光沢を持ち落着いた味わいがある。市松模様の襖紙を使用した和室の雰囲気を想像していただくと良い。平成6年4月、天皇、皇后両陛下静岡県行幸、啓の折にこの柚野紙をお買い上げになっている。また、翌年の7月には皇后陛下より宮内庁を通じてお買い上げになっている。このように昭和も後半になってから、日本の伝統文化を継承しようと新しく手漉き和紙の里を開き、立ち上げた人もいる。


投稿者:菊地正浩

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2009年08月08日

手漉き和紙の里(18)~消える? 柳津(やないづ)和紙~

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JR只見線会津柳津駅とSL

●風光明媚な奥会津にある柳津 
 福島県河沼(かわぬま)郡柳津町は県西部に位置し、奥会津の会津坂下町(ばんげまち)の先にある。只見川と只見線(会津若松~小出)に沼田街道(新潟県柏崎に抜ける現R252)が並行している。会津坂下(ばんげ)と呼ぶが、会津坂本(さかもと)と呼ぶなど紛らわしい。柳津の町名は船の発着所に3本の大ヤナギがあったことからと言われる。昭和30年(1955)に柳津町と西山村が合併して誕生した。北部を只見川が山地を深く刻んで貫流し滝谷川に沿う。南部は那須火山帯に属する博士(はかせ)山(1482m)に連なる山間地で、典型的な豪雪寒冷地帯で耕地に乏しい。早くから沼田街道の宿場町として栄え、会津桐の産地としても有名であるが、手漉き和紙の里でもあった。只見川は柳津県立自然公園に指定され、その支流である銀山川、不動川、大柳川などの清流が手漉きの水に適していた。

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道の駅会津柳津観光物産センターと足湯とスタンプ

●消える? 柳津和紙 
 現在、柳津和紙の痕跡は見当らない。柳津町役場も近代的な建物になった。道の駅、会津柳津には観光物産センター清流苑が併設されている。取材によると、最近まで柳津和紙を販売していた。しかし、和紙を漉いていた人も亡くなり、後継者も別の仕事についており、定年後でないと和紙作りをしないという。やむなく和紙の販売を止め、いまでは何一つ無くなってしまった。このまま柳津和紙は消えてしまうのか? 

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 この柳津町には奇祭として知られる福満虚空蔵尊圓蔵寺がある。1月7日には七日堂裸祭りといって、褌一つの男たちが太い麻縄をよじ登って大鰐口をめざす。テレビで放映される勇壮な祭りは全国的に有名である。柳津温泉、西山温泉、只見川ライン下りなどの他、焼そばラーメンがテレビで紹介されて有名になった。今や奥会津の観光地として多くの観光客が訪れるようになったが、伝統文化の柳津和紙を忘れずに復活させて欲しいものである。

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投稿者:菊地正浩

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2009年08月13日

手漉き和紙の里(19)~復活された海老根(えびね)和紙1~

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海老根手漉き和紙の集落

 郡山(こおりやま)は安積(あさか)と呼ばれていた。地名は古代安積郡の軍衙(ぐんが)(軍務を取扱う役所)があったことに由来するが、戦国期に入って郡山と呼ばれるようになった。大正13年(1924)、郡山町と小原田(こはらだ)村が合併して市制となる。昭和29年(1954)、富田村の一部、同30年、三春町と高瀬、巌江(いわえ)2村の一部と大槻町を編入。同40年、安積、日和田、富久山(ふくやま)、熱海(あたみ)、田村の5町、三穂田(みほだ)、逢瀬(おうせ)、片平(かたひら)、喜久田(きくた)、湖南(こなん)の5村を合併、中田、西田の2村を編入して現在に至る。
 この中田村海老根が手漉き和紙の里であった。ちなみに西田は三春人形、三春駒の発祥地である。250m前後の郡山盆地は更新世紀の湖成層(郡山層)堆積面が、離水後に開析されてできた台地面である。中心から東は阿武隈山地の丘陵、西は奥羽山脈の山地から猪苗代湖畔、北は安達太良山(1700m)におよぶ広さである。近世には奥州街道の宿駅、二本松藩の代官所が置かれ市場町としても栄えた。
 阿武隈川の支流、五百川(ごひゃくがわ)、藤田川、逢瀬川、笹原川によって対面原(たいめんはら)、広谷原(こうやはら)、庚担原(こうたんばら)、牛庭原(うしにわはら)などに分けられる大槻扇状地。東部は阿武隈川に沿って3㎞の谷底平野が延びる。大半が原野であったが、安積疏水(そすい)の完成で開拓が進み、現在の繁栄につながった。

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郡山市開成館と開拓史料

●郡山を語るとき、安積開拓を抜きには語れない
 松尾芭蕉の訪れた頃は、人口1000人余の宿場町に過ぎなかった。明治9年(1876)、明治天皇の東北行幸に随行した大久保利通などは、アメリカ視察の際に感じた西部開拓に思いをはせ、「安積開拓」の有望性を感じた。江戸時代よりの士族授産の開拓地として「安積開拓」を決定、国営事業として全国9藩から旧士族五百戸を入植させた。荒れた原野の開拓を、猪苗代湖の水を引くという当時誰もが思ってもみなかった疏水事業を考えたのである。不毛の大地が実りの大地に変貌した、現在の郡山市中心街である。この開拓に関する多くの史料は、安積開拓発祥の地「郡山市開成館」(入館210円/10~17時/月曜(祝日の場合は翌日)休/デ024-924-2157)として公開されている。

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見事な和紙のスタンドと観覧券

投稿者:菊地正浩

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2009年08月15日

手漉き和紙の里(19)~復活された海老根(えびね)和紙2~

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●安積歴史博物館
 旧士族が入植した桑野といわれるこの地区は教育水準も高く、明治22年(1889)に福島県立尋常小学校(現在の安積高校)が設立された。欧州の建築を模したルネッサンス式洋風建築を見て、村の人たちは桑野御殿ができたと驚き喜んだという。
 現在は国の重要文化財に指定され、安積歴史資料館として多くの貴重な資料が展示されている。ここから多くの学者、科学者や文化人が輩出されたが、教壇に立つ傍ら和紙についての著書を残した東野辺薫(本名野辺慎一/1902~62)は、二本松市に生まれ少年時代を上川崎村で過ごした。安積中学を卒業、早稲田大学を卒業して教壇に立ちながら、小説や戯曲を発表した。なかでも昭和18年(1943)に発表した「和紙」で芥川賞に輝いている。手漉き和紙の里上川崎で和紙作りを経験したが、貧しい村で厳しい寒さと戦いながら和紙作りに励む農民の姿を描いたものである。

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安積歴史博物館
入館300円/10~17時/月曜(祝日の場合は翌日)休/デ024-938-0078
http://www.asaka-kuwano.jp/hakubutukan/

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熊田七郎宅

●海老根和紙の里に保存会が活動
 阿武隈川を境に西は安積開拓で郡山市の中心地になり栄えた。東は取り残された山村と言っても過言ではない。阿武隈川の支流谷田川を越え、小野郡山線(県道65号)で小野小町生誕の地で知られる小野町へ向かう。その途中に中田町海老根という集落がある。三春滝桜で有名な三春の里が近い。集落は15~6軒で皆が熊田姓の農家である。会長の熊田七郎さんに取材する機会を得た。

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楮と楮を焚く竃

 この集落では冬の副業としていた。原料の楮は自生していたし、ネリの黄蜀葵も採れた。ここではネリと呼んでいた。肝心の水は谷田川や大滝根川の清流よりも、水質の良い地下水のほうが良く、井戸を掘って使っていた。水晒しのほか雪も降ったので夜外に出して晒した。熊田七郎さんが最後まで紙漉きを続けていたが、戦後を機にやめてしまった。10年ほど前に郡山市、中田町、地元公民館などから伝統ある海老根和紙の復活をと言われ、海老根伝統手漉和紙工房を作った。

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手漉き和紙工房と漉き場

 今では、あぶくま養護学校の児童が体験しに来たり、海老根小学校、中田小学校の子どもたちが体験学習をしたりする。もちろん、卒業証書は漉いた和紙である。また、学校の先生が中心となり、町起こしの祭りを計画、秋蛍というたくさんの行灯を作って灯す行事が賑わっている。当然、行灯には手漉きの和紙が貼られる。この和紙を漉く指導も行っている。このように海老根和紙は確実に復活している。後継者の育成もしているようで、これからも伝承されていくことであろう。

投稿者:菊地正浩

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2009年08月22日

手漉き和紙の里(20)~見捨てられた石神(いしがみ)和紙~

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新田川から信田澤方面と深野方面

 福島県磐城国相馬郡石神村信田澤(しださわ)・深野は原町市(現・南相馬市)の奥に位置する。原町は阿武隈高地を発する太田川、新田川が東流し太平洋へ流れこむところである。地名は江戸時代に陸前街道(浜街道)の宿駅であった原ノ町からの由来で、相馬中村藩の陣屋も置かれていた。昭和29年(1954)、原町と高平、太田、大甕(おおみかみ)の3村が合併して市制となる。同31年、石神村を編入。2006年、原町市、鹿島市、小高市3市による平成の大合併で南相馬市となった。
 この地が手漉き和紙の里になったのは、天明の飢饉に農民の窮乏を救うため、加賀藩から土佐流の紙漉き職人を呼んだのが始まりとされる。明治33年(1900)には76戸を数え、同35年には紙漉き技術を伝える伝習所も設けられたほどである。恵まれた気候、風土により原料となる楮や黄蜀葵も、自家栽培し余力を二本松の上川崎へ売るほどであったと言われる。

●見捨てられた? 和紙
 この付近一帯は富岡まで完成した常磐自動車道を延長させる運動の線上に位置している。全国的にも有名な相馬野馬追祭をメインとして観光振興を進めている。そのためにも常磐自動車道の完成と周辺の整備、開発が必要なのであろう。平成8年には、低コストの水田農業大区画圃場整備事業が推進された。この事業により石神で45戸、47haが整備され村落の姿も一変した。もちろん、和紙の里信田澤・深野も変わり養蚕の姿も消えたのである。付近を流れる新田川の清流がなぜか虚しく感じる。

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南相馬市博物館と記念スタンプと観覧券

 和紙の里であったという痕跡を探すと、南相馬市博物館(入館300円/9時~16時45分/月曜〈祝日の場合は翌日〉休/デ0244-23-6421)にあった。学芸員に取材したところ、この博物館で手漉き和紙の体験が行われていたが、現在では道具類も収蔵庫に片付けてしまったとのことであった。今後、地元行政や関係者がバックアツプするなど、よほどのことがない限り、再び道具が出され和紙が再現されることはないであろう。

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旧石神村役場/整備事業された石神/二宮尊行宅址

 石神といえば、二宮尊徳(金次郎)の子・二宮尊行(そんこう)が住んでいたところで、二宮尊行宅址や墓もあり、歴史を感じるところである。誠に残念であり寂しい限りと言える。

●磐城無線電話局原町送信所跡
 明治政府は対米通信網確立の一つとしてこの地に送信所を設置した。当時の規模は、底面直径17.7m、尖端直径1.81m、高さ200mの鉄筋コンクリート造という堂々たるものであった。大正12年(1923)9月1日の関東大震災の際、災害状況をいち早くアメリカへ報道したことで全世界から注目を集めた施設であった。昭和57年(1982)、風化により惜しまれつつ撤去した。この歴史を残そうと地元の民間奉仕団体により、縮尺十分の一という「憶原町無線塔」が建設された。これでも見上げるほどの高さであるが、当時はこの十倍も高い塔であったと思うと恐ろしい高さと言える。

投稿者:菊地正浩

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