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菊地正浩 アーカイブ

2007年05月02日

会員からの著書新刊1

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『「地圖」が語る日本の歴史』(暁印書館)
~大東亜戦争終結前後の測量・地図史秘話~  菊地 正浩著
ISBN978-4-87015-160-4 定価1890円(税込)

『地圖』に込められた、敗戦日本復興への想い。敗戦時の混乱の中にあって祖国日本の復興を念願し、生命を賭して貴重な地図原版と組織を護り抜いた、若き大本営情報参謀の実録。東京大空襲で奇跡的に助かり、父君はルソン島で戦死した著者が文字通り参謀の足跡を辿るとともに、秘蔵の史・資料を駆使して万感の思いで綴った、大東亜戦争終結前後の歴史的『地圖』秘話(元国土地理院長 金窪敏知)
   
我が国の近代地図史については、歩測による測量と天体観測により、日本の地図を作った「百万歩の男、伊能忠敬」抜きにしては語れない。
しかし、明治維新後は欧米の技術を導入して、日本の地図は勿論、大東亜共栄圏構想に基づき、支那・満州・朝鮮・東南アジア等々の外邦図を沢山作った、大日本帝国参謀本部陸地測量部を抜きにしては語れない。所謂、近代地図史の幕開けである。
 この陸地測量部の組織と測量・地図技術と地図原版(銅版)を、敗戦時の混乱の中にあって、祖国日本の復興を念願し生命を賭して護り抜いた若き大本営情報参謀がいた。
 この男の終戦時正式な肩書きは「大本営陸軍参謀、情報第二部、陸地測量部担当少佐、渡辺 正」である。
 陸地測量部を解体、内務省地理調査所への看板架け替えという離れ業によって、戦後GHQ(連合国軍総司令部)の接収から救ったのである。
 その時歴史を動かしたこれら一連の出来事がなければ、我が国の測量・地図技術は20年遅れたであろうと言われている。当然、現国土地理院も異なった歴史を辿ったことであろう。
 この陸地測量部から地理調査所を経て、国土地理院誕生までの数奇な運命を、戦後60年余秘匿されてきた史・資料を公開して、取材と現地調査により万感の想いで綴った実録である。
 第一は、昭和20年8月9日から10日にかけて開かれた御前会議において、天皇陛下のご聖断により戦争終結となる。この時から陸地測量部の組織存続と、明治以来営々と築いてきた測量・地図技術を、我が国復興のため遺そうと奔走した秘話である。
 それは、8月15日正午の玉音放送を挟み、わずか2週間の8月31日には陸地測量部を解体、9月1日に内務省地理調査所へと看板を架け替えてしまうというドラマである。
 第二は、9月23日から27日までの秘話である。
 GHQのマッカ-サ-司令官は、8月31日に厚木飛行場に到着して横浜入りするや直ちに指令を出した。「地図は全ての基本だ、それを確保せよ!」「松本地区に参謀本部の資産が色々とある。その中でも陸地測量部を点検・接収する」という内容であった。
 そして「視察団に随行する将校を一人だけ出すように」と要求があつた。この時渡辺参謀に白羽の矢が立ったのである。
 9月23日、日比谷のGHQ本部を出発した。フォ-ドの黒いセダンを先頭に、ジ-プ4台、計5台の車列であった。
 一行は9月27日に帰京するが、この間の出来事こそ日本の地図史で、その時歴史は動いたの一瞬に遭遇する。まさに渡辺参謀の苦渋と緊張の5日間の実録である。
 この時、地形図の原版(銅版)が救われたからこそ、戦後すかさず地理調査所(現国土地理院)が地形図等を発行し、我が国の復興に役立てたのである。
 筆者は旅ジャ-ナリストとして、戦後60余年経った昨年、同じ季節、同じ時間にあわせて、出来るだけ同じ行程を辿り、当時の渡辺参謀の心境を追体験した。
 以下、地図の統制時代の秘話を含め、主な目次を紹介する。続きを読むへ。

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出版社 暁印書館 http://akatsuki.site-up.com
〒112-0002東京都文京区小石川1-13-2
TEL03-3814-0853 FAX03-3814-0854
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投稿者:菊地正浩
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2007年07月24日

世界遺産登録をめざす銅山遺跡「蘇るか足尾銅山」1

本日より菊地正浩会員のレポートを3回に分けて連載します。

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 銅(どう)と言わず(あかがね)と言う、わたらせ渓谷鐡道に乗り、絹織物の街桐生を出てから、緑の渓谷と清流を友にしながら上流まで行くと銅の町がある。今この足尾銅山遺跡の町が熱くなろうとしている。

はじめに
平成18年(2006)3月20日、旧足尾町は合併し栃木県日光市足尾町としてスタートした。相前後して黒保根村が群馬県桐生市に、東村と大間々町がみどり市となった。すなわち行政が2県3市にまたがり、観光に依存する、わたらせ渓谷鐡道にも少なからぬ影響を及ぼすことになった。そもそも鉄道もさることながら銅山街道(あかがねかいどう)(現・国道122線)も、足尾銅山の鉱石を江戸・東京へと運ぶために開かれ、沿線も発展してきたのである。銅山遺跡を産業観光資源として生かし、世界遺産登録をめざそうとする足尾町、同時にわたらせ渓谷鐡道の存続を願う沿線住民の動きを追ってみたいと思う。

日本の鉱業と鉱害問題
日本列島は環太平洋火山地帯に位置し、火山や温泉と多くの金属鉱床が存在する。佐渡金山、石見銀山、生野銀山、足尾銅山、別子銅山等が開発され、一時期ジパング(Zipangu=黄金の意味でJapanの語源となった)と呼ばれるほど、金・銀・銅の輸出国であった。当然のことながら鉱毒、塵肺、森林破壊、河川被害等の鉱害問題が顕在化していった。

日本の近代化と公害問題
明治維新になってほとんど国有化されていた金属鉱山や炭鉱等が民間に払い下げられた。なかでも銅は国家なりとされ、生糸と並ぶ主要な輸出産業で、足尾、別子、小坂、日立は四大銅山といわれたが、一方で四大鉱毒事件を発生させた。足尾鉱毒事件と別子、小坂、日立煙害事件であり、当然大きな社会問題となった。とりわけ、日本の「公害の原点」と称される足尾鉱毒事件は、最大の鉱毒事件で、政府の対策にも拘わらず煙害による禿山が残された。この事件は、性格には産業排水によるものとは言えないが、日本の公害の原点と言われ、明治初期から中期にかけての水質汚染例といわれる。

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足尾銅山と鉱毒事件
足尾銅山は江戸時代(1810)に発見され、徳川幕府によって開発された。明治10年(1877)古河鉱業(株)(現古河機械金属(株))の所有となって再開発され、一時期国内はもとより東洋一と言われた銅山であった。この足尾町を上流として利根川に合流するのが渡良瀬川である。足尾銅山の採鉱廃棄物は附近の谷間や斜面等に放置されていたが、幾度かの洪水により流出、下流の各地域で農漁業と人の健康に被害を与えたという事件である。最初の被害は明治11年(1878)秋の洪水で、鮒、鰻等が死んで浮き上がり、河川に浸かった農民達の足の指又がただれるというものであった。以降数回の洪水を経て北関東一円に拡がり、なかでも栃木・茨城両県の被害が甚大で、農作物は枯死、魚類の捕獲禁止、妊婦の流産が続出したという。明治27年(1894)から明治31年(1898)、栃木・茨城両県の出生率は、全国平均比一割以上低く、死亡率は約1.6倍に達した。その他、銅精錬過程での亜硫酸ガスの放出と燃料用等に森林が伐採されたこと等で、附近の山々は禿山となり渡良瀬川源流の美しい松木渓谷は、日本のグランドキャニオンと言われるほど、緑のない岩山と化してしまったのである。

パート2につづく。

投稿者:菊地正浩
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2007年07月25日

世界遺産登録をめざす銅山遺跡「蘇るか足尾銅山」2

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復興に向けて
被害民は地元選出の田中正造代議士を中心に、鉱山の創業停止を求めたが聞き入れられず、明治33年(1900)、請願のため東京に向った約3,000人が警官隊や憲兵と衝突した事件や明治34年(1901)、田中代議士による明治天皇への直訴事件は有名である。このように足尾銅山は公害問題の原点として世に知られているが、日本の近代化に果たした貢献も大きなものがある。大正5年(1916)には、人口がピーク3万8千人を数え、宇都宮市に次ぐ繁栄をみせた。
銅山は昭和48年(1973)に閉山されたが、現在旧坑道の一部が銅山観光用の見学ルートとして残されており、トロッコ列車に乗って実際の坑道に入り、楽しみながら当時の状況を学ぶことができる。禿山となった松木渓谷のほうも砂防ダムの建設、治山、治水、植林事業等復興に向けての努力が今も続けられている。

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世界遺産への登録をめざして
石見銀山が近代化遺産として世界遺産登録された話題は耳新しい。足尾の近くでも群馬県富岡製糸場が名乗りをあげている。足尾町では3年前に地域住民が「全町地域博物館化構想」の、まちづくり策定委員会を立上げ、足尾銅山一帯を産業観光資源と位置づけ運動を開始した。しかし、所有の古河機械金属㈱は古河グループ発祥の地でありながら、積極的な関与はしなかったという。一方、数年前から民間主体で足尾銅山の歴史に前向きに取り組むグループが活動、その先駆けとなった「NPO法人足尾歴史館」(館長長井一雄 通洞駅から徒歩5分。入館料300円。月曜休館。足尾銅山の歴史が貴重な写真や史料から学べる、足尾で生れ育ったというスタッフがボランティアで館内を案内説明してくれる)や平成18年10月に発足した「足尾銅山の世界遺産登録を考える会」等、活動の輪が広がってきた。
これらの動きに古河機械金属㈱も前向きな姿勢を示し、世界遺産登録運動に一定の理解を示すこととなった。地域住民の熱意に応えることと、事業継続を両立させるという課題も少なくない。しかし、古河の姿勢が一歩前進したことは地道な地域住民の活動といえよう。全町地域博物館化構想を進める課題は山積で前途は容易ではない。

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だが、観光資源は豊富である。足尾銅山観光、足尾歴史館、足尾砂防ダム、銅親水公園、足尾環境学習センター、日本のグランドキャニオン松木渓谷、足尾銅山精錬所跡、日本で初期時の道路鉄橋古河橋(写真)、間藤水力発電所跡、鉱山長屋、加えて渡良瀬川沿線の自然観光資源、特別天然記念物日本カモシカ、温泉等々である。定番の観光旅行に飽きた方、一度は訪ねて産業遺産、環境、歴史、社会問題を考える旅をしてほしいし、それだけの価値を持っている所であるといえよう。

パート3につづく。

投稿者:菊地正浩
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2007年07月26日

世界遺産登録をめざす銅山遺跡「蘇るか足尾銅山」3

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わたらせ渓谷鐡道(通称わた渓)の存続を願って
足尾銅山を考えるとき交通アクセスを抜きには考えにくい。日光市からはバス路線とマイカーであるが、何といっても桐生市からの鉄道か銅山街道(現国道122号線)を利用したバス路線とマイカーである。問題のわたらせ渓谷鐡道について考えてみよう。群馬県桐生市桐生駅から栃木県日光市間藤駅を結ぶ44.1km全線非電化、単線でワンマン運転の気動車が17駅を結ぶ。足尾銅山から産出される鉱石輸送のため、明治44年(1911)に開業、国鉄、JRの時代を経て第三セクターとしての現在に至っている。そんな歴史を背負って銅山街道と清流を友に谷筋をさかのぼって走る。とくに初夏の新緑と秋の紅葉が渓谷美を引き立たせる。しかし、足尾から終点の間藤に近づくにつれて、足尾鉱毒公害の面影や禿山の続く異観に歴史の重さを肌で感じるようになる。このわたらせ渓谷鐡道については、旅ジャーナリスト会議のメンバーが執筆した『新・全国フリーきっぷガイド'07~'08』(人文社刊行)の中で見どころなどを含めて紹介しているのでご一読願いたい。しかし、ガイドブックは別にして、実情は問題点も多くこのままでは先行きの存続が危ういのではないかと思う。

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存続に向けて沿線地域住民の動き
平成18年10月23日危機感を持った沿線では「わたらせ渓谷鐡道市民協議会」を設立した。群馬・栃木両県、沿線市の行政関係者、わた渓経営陣、地域住民有志が集まり「市民、行政、鉄道事業者三者の役割を明らかにするとともに、わた渓を支える市民の輪の拡大とネットワーク化に努める」と定め、市民サイドからわた渓を生かした地域づくりに取り組むことを宣言したのである。地域毎に行われた取り組みを挙げてみると、わた渓の利用促進、自然を生かした駅周辺や地域の整備・保全、ゴミ・缶拾いと清掃、花苗・苗木植え、草とり・線路の土手整備、トロッコ列車に手を振ろう、足尾駅祭りの実行、イルミネーション点灯事業、わた渓存続署名運動等に取り組み地域住民が鉄道を残したいと立ち上がった。
しかし、実情は問題点も多くそう簡単ではないように感じられるのは筆者だけであろうか?鉄道の存続だけではない、沿線観光について本気で観光振興に取り組んでいるのであろうか。車やバス利用の観光をも含めた総合的な振興策が求められよう。例えば、駅の温泉がキャッチフレーズの水沼温泉センター(写真左)、神戸駅ホームに停車している列車レストラン清流(写真右)、トロッコ列車に乗り見学できる銅山観光等それなりの施設はあるが、食事となると決して二度とは利用しないであろう。「コンビニのおにぎりや弁当のほうがマシ」と思われることのないよう、勉強と工夫が必要であろう。

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おわりに
既述のとおり世界遺産登録をめざし、全町博物館化構想に取り組む、まちづくり策定委員会並びにNPO法人足尾歴史館等やボランティア、一方、わたらせ渓谷鐡道存続を願う、わたらせ渓谷鐡道市民協議会の活動、各々が動き出している。だが、足尾は日光市、わた渓は桐生市側の感は否めない。すでに栃木県と日光市の観光ガイド関係パンフには足尾の銅山観光が組み込まれPRされている。この現実を踏まえて冷静に考えてみよう。
そもそも足尾銅山の発展とともに、銅山街道ができ、わた渓ができ、沿線が発展してきたことはまぎれもない事実である。いわば桐生から足尾までの沿線観光は一体なのではないかと思う。日光市の足尾として世界遺産に登録され発展したとして、わた渓沿線は取り残されても良いとは考えにくい。ならば、いまこそ栃木・群馬県、日光市・桐生市・みどり市の2県3市の行政と地域住民・団体が協調して広域観光振興を推進していくべきであろう。合併による行政際間の風通しを良くした取り組みが、この沿線発展とわたらせ渓谷鉄道存続、そして足尾世界遺産登録への夢を実現させていくのではないだろうか。いや実現させてもらいたいし、鉄道も存続してもらいたいし、何度でも訪れるリピーターにもなりたいと思っている。
こう思えるのは筆者の老婆心からなのか? いや、旅ジャーナリストの立場からも今後の動向を注視していかなければならないと思うのである。おしまい

投稿者:菊地正浩
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2007年10月15日

北アルプス白馬山麓にミニSLが走る1

2カ月ぶりに菊地正浩会員から投稿いただきました。2回に分けてUPします。

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白馬村にニュ-スポット誕生
 信州白馬村八方尾根スキ-場のふもと、和田野の森の一角に、本格的なミニ鉄道とHO(ハーフオ-)ゲ-ジの壮大なパノラマが楽しめる、白馬ミニトレインパ-クが誕生した。

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 平成19年10月6日、大自然が息づく4000坪の敷地に、わずか6棟のコテ-ジとレストラン、浴場が点在する贅沢な宿「ログコテ-ジ・エポック」で、ミニ鉄道のオ-プンを記念して「第一回白馬ミニ鉄道フェスティバル」が行われた。
 長野県、白馬村、白馬村観光局、長野電鉄などが後援、初日にはフアンや子ども連れの家族が多数訪れ、680名がミニ蒸気機関車や新幹線に乗って楽しんだ。

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 このイベントには、信州ミニ鉄道倶楽部の会員たちが多数参加、自慢のSLなどを持ち込んで走らせ競い合った。ミニトレインパ-クはエポックのオ-ナ-、大谷真由巳の父齋藤建夫氏が私財を投じて作ったもので、総延長350mの常設デュアル線路、5mの鉄道橋やミニ鉄道が20台待機できるトラバ-サ、車輌を修理する機関区を完備した。また、自らもO、Sボ-ルドウインモ-ガルパワ-(大西部開拓時代、アメリカ大地を疾走した機関車で、特徴は前に突き出したカウャッチャ-、黒煙を吹き上げる大きなダイアモンドスタック型の煙突、特徴的な大きなヘッドライトで西部劇に登場する当時の機関車)と安全性を誇る最新の7.5インチ蒸気機関車(車体縮尺1/8、大人20人を乗車した車輌を牽引可能)、5.0ンチ電気機関車(車体縮尺1/8、4)は、森林鉄道で木材搬送用に活躍した初期型電気機関車「テキ100」、という3台を所有。これらの車輌基地専用ハウスを建設するなどの懲りようである。来年の第二回フェスティバル開催までには、総延長700mにまで増設、将来は1㎞走行という日本屈指のミニ鉄道施設をめざすとしている。

パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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2007年10月16日

北アルプス白馬山麓にミニSLが走る2

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 同時に開館した鉄道模型館「HOゲ-ジハウス」は八角形のモダンな建物で、山、川、駅都市や田園風景まで作り込まれ、総延長211m、全7路線のパノラマである。新幹線や蒸気機関車など全17車輌あり、「コイン運転」が楽しめたり、自由に速さを調節しながら運転可能な「貸切ル-ム」もある。ファン自身が所有している自慢のHOゲ-ジ車輌を持ってきて走らせる「持ち込み運転」も可能にしている。鉄道模型が配置してあるテ-ブル下のトンネルを潜れば、パノラマの中心からも楽しむことができるという国内でも珍しいレイアウトとなっている。
 スキ-、登山ハイキング、パラグライダ-、ラフティング、釣、花、温泉、蕎麦など長期滞在型観光にはこと欠かない白馬村であるが、子ども連れはもちろん、ミニ鉄道フアン、鉄ちゃん&鉄子の注目を集めそうなニュ-スポットとなろう。エポックのオ-ナ-シェフ大谷敏彦氏は永年第一ホテルで修業し、白馬の地元食材を生かした料理に腕を振るっている。コテ-ジは6棟、いずれもログハウスだが、中は和風、テキサス風などと趣向を凝らし設備も万全である。自慢の貸風呂棟めぐみの湯は、浴槽に天然石と桧を使用した四角風呂と、天然まごめ石の丸風呂、和洋2つある。白馬山麓から湧き出るミネラル豊富な地下水に炭酸ガスを溶け込ませた炭酸温水が楽しめ、スキ-で冷えた体や登山ハイキング、アウトドアスポ-ツでの疲れを癒してくれる、白馬の温泉とはまた別な味わいがある。

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 長野冬季オリンピック以降白馬村も観光客の減少を余儀なくされているが、このような新しい視点に立った観光スポットができることは歓迎されよう。今後とも長野県も白馬村でも観光振興のため後援していくとのことであるが、何分にも一晩に70㎝~1mも降るという豪雪地帯である。冬場の対策も含め関係各方面の知恵と協力も必要であろう。
 来年の「第二回白馬ミニ鉄道フェスティバル」が盛大に開催されるよう、旅ジャ-ナリストとしても関心を持ち見守っていく必要があると思う。
おしまい

ログコテ-ジ エポック 白馬ミニトレインパ-ク 
〒399-9301
長野県北安曇郡白馬村八方4617-1
TEL0261-72-8233
www.epoch-hakuba.com

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2007年10月30日

「鉄道博物館」THE RAILWAY MUSEUM

御料車や蒸気機関車など36両の実物車両
集められた鉄道アイテムはなんと58万点!

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 鉄道の日(10月14日)にオープン、JR大宮駅から埼玉新都市交通ニュ-シャトルで一つ目の、鉄道博物館駅(旧大成駅)で下車して改札を出るともうそこが入口である。旧「交通博物館」から移設した、D51が出迎えてくれる。

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 館内は「エントランス」「コレクション」「ラ-ニング」「パ-ク」という5ゾ-ンと「ノ-スウイング」から構成されており、エントランスゾ-ンとノ-スウイングの間を「ミニシャトル」がアクセスしてくれて人気の一つとなっている。車両の展示だけでなく、日本の鉄道歴史年表、数々のコレクション、鉄道の原理や仕組み、シュミレ-ション体験など訪れる者を飽きさせない。

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 日本最大のHOゲ-ジ模型鉄道ジオラマは、解説付きでゆったりと見られるナレ-ション付である。総延長1400mにおよぶ線路を、山手線、埼京線などの在来線から、寝台特急カシオペア、SL、伊豆急踊り子号、新幹線のぞみ、こまち等々が駅のホ-ムを次々に発車していく。朝の始発、昼間から夕景、夜景の走りと一日の移り変わりが楽しめる。

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 疲れたら小休止、昔懐かしいレストラン「日本食堂」がある。メニュ-も思いでのカレ-、ハヤシライス、カツサンドなどで売り切れてしまうことがしばしばらしい。ミュ-ジアムショップに立ち寄れば、肩のぶつかるほどの盛況で、ミニチュアや様々なグッズが処狭しと陳列されている。鉄ちゃん、鉄子ならずとも大人も子どもも一日中楽しめる博物館である。
「Teppa倶楽部」(てっぱクラブ)という会員組織づくりも進められており、年間フリ-パスやその他の特典を設けている。新しい鉄ちゃん、鉄子の誕生をみるであろう。

DATA  開館10~18時
      休館火曜日・年末年始(除特別開館日)
      入館料 大人1000円 小中高生500円 小児200円
          団体・障害者割引制度有
      問合せ TEL 048-651-0088
          http;//www.railway-museum.jp/

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2007年11月12日

東伊豆町(稲取)の風力発電1

富士箱根伊豆国立公園内の観光地、東伊豆町で、クリーンな新エネルギー導入か、自然環境、植生、生態系の維持、騒音・低周波公害から守れるか。行政と事業者VS風車問題を考える住民の会が、是か非かで揺れている。

観光地におけるウインドファーム(風車牧場)の是非を問う
 10月16日(火)、旅ジャーナリスト会議有志メンバーは実情を調査するため稲取に行き、現地視察と取材を行った。結果、筆者は観光立国を宣言した我が国が、貴重な観光資源を失うことになりかねない、即ち、自然景観・植生・生態系等の連鎖的崩壊かつ、観光に携わる地域住民の人的被害を勘案すれば、東伊豆町でのウインドファーム(風車牧場)は似合わないと思う。以下、いくつかの問題を提起して考察しその是非を問いたい。

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地形図でウィンドファーム建設予定地を見る。○印は浅間山、天目山、三筋山、大峰山(国土地理院発行:5万分の1) 

○東伊豆町とは
 静岡県賀茂郡東伊豆町、伊豆半島の東岸、相模湾に臨む町。北は伊東市に接し、昭和34年(1959)5月3日、稲取町と城東(きとう)村が合併、現在人口1万4745人。眼前に大島が望める漁業の町で、伊豆半島最大の漁港といわれた稲取港をはじめ、大川、北川(ほっかわ)、白田(しらだ)の各港があって、半島随一の漁獲量を誇る。後背地は天城山へと連なる山岳地帯で、ミカン、山菜、ワサビ等の名産地として知られる。
 もともと豊かな資源に恵まれた土地であったが、大川、北川、熱川、片瀬、白田、稲取の各地に温泉が湧出、昭和36年(1961)には伊豆急行が開通し、レジャーブームに乗って新興温泉町へと変貌していった。明治19年(1886)大日本帝国陸地測量部発行の地形図、昭和22年(1947)内務省地理調査所発行の地形図、いずれを見てもこの地域での温泉地図記号の表記されている所は、片瀬のみ1カ所である。国土地理院発行の最新の地形図を見ると十数カ所におよび、いかに戦後になって温泉観光地へと変貌してきたかが判る。海岸線一帯は磯釣、船釣、山岳地帯は狩猟やミカン、オレンジ、イチゴ、山菜、ワサビ、熱川バナナ園、ワニ園、ゴルフ場と観光資源も揃い別荘地も点在している。
 江戸時代には伊豆の各地で採石が行われ、稲取などからも江戸、大坂城修復用の石が運ばれた。白田では江戸中期から硫黄を採掘、公害訴訟も起こった。隣接には河津桜で有名な河津温泉郷から天城路へと続き、東伊豆町はこれらの玄関口ともなっている。

misujiyama1.jpg三筋山

○東伊豆町における風力発電計画とは
 既設の浅間(せんげん)山(516m)3基、19年度完成をめざし建設中の通称天目山(箒木〈ほうき〉山1023mの手前天目地区約5~600m)10基、風況調査を実施し補助金採択がされた三筋(みすじ)山(821m)と大峰(おおみね)山(491m)に25基。計画通り完成すれば合計38基、高さ100mの巨大風車が伊豆半島の観光地に出現することになる。我が国の国立公園内観光地に、これほどのウインドファーム(風車牧場)は他に類例を見ない。当然のことながら色々な影響が考えられよう。この建設の是非をめぐって行政・事業者側と風車問題を考える住民の会が対立し揺れているのである。

パート2につづく
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2007年11月13日

東伊豆町(稲取)の風力発電2

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○建設地域の環境と現況
 富士箱根国立公園内の観光地で、箱根仙石原をはるかに凌ぐ大草原には、県文化財指定の細野湿原が拡がる。背後には天城高原をひかえ、眼前には伊豆七島の眺望が広がる一大パノラマの絶景地である。標高821mの三筋山はパラグライダーの聖地とも言われる。細野湿原には兎や鼠などが棲息している。この湿原をめぐり動植物の生態系が維持されており、例えば我が国の保護鳥、オオタカが各地から飛来して兎や鼠を獲りながら、ある程度の集団に集結すると台湾へと飛び立って行く基地にもなっているという。
 三筋山から下方へはスコリア層(岩滓〈がんさい〉といって玄武岩質の黒っぽい色をした軽石)があって、雨水を浸透させ長い時間をかけて地表に湧出させるという熊口水源を有し、麓の住民は永年にわたりこの良水を利用生活している。また、水源を守るために植林などをして手厚く保護してきた。こうした微妙な自然のバランス上に細野湿原はあり、永年、人・動物・植生に好影響を与えてきたのである。実際にこの水を飲むとまろやかで美味しいし、コーヒーを沸かすと一味も二味も違った。また、東伊豆町だけではなく、分水嶺である三筋山の尾根、反対側は河津町であり、河津温泉郷や天城の観光地でも他人事とは言えない地域なのである。

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画像提供:EyesPic

○巨大風車建設により考えられる影響
 自然環境破壊、とくにこの地域の観光資源に大きな影響を与えることは必然であろう。尾根が削られ、森林が伐採されて6m幅の道路が新設されるし、スコリア層の熊口水源や樹木の伐採、草原の破壊などは動植物に与える影響は大きいと考えられる。分水嶺である三筋山に巨大風車を林立させれば、単に自然景観を壊すのみならず自然のバランスを崩し、水源・湿原を枯れさせて洪水の危険すら予想される。当然兎や鼠も棲息できまい。ということはオオタカも集結して台湾へと飛び立って行けなくなる。植生、生態系の維持ができなくなると予想されるのである。また、着工中の天目山にいたっては、天城高原万二郎岳の山続きでシヲヌタの池・モリアオガエルの生息地として有名な場所の近くでもある。人体への影響も当然発生する。人家や別荘地も近くて予想される騒音のほか低周波の被害が考えられる。
 これまでにも、全国各地で建設された風車による人体への被害は、公害訴訟として争われているところもある。単なる騒音だけでなく、頭痛や耳鳴り不眠などの健康被害が報告されている。水源が汚染されたり、枯渇したりするようなことになれば、日常生活にも影響が出るし、自然環境・景観の破壊は地元のみならず、伊豆半島全体の観光に影響をおよぼさないとは言い切れまい。巨大建造物である風車は耐用年数が17年とも試算されている。17年が長いか短いか、20年後くらいには巨大なゴミとして誰が、何時、何処の負担で撤去するのか、放置されていることはないであろうか、いまだ明確にはなっていないようである。そして一度破壊された自然環境と景観は、撤去したとしても復元できないことは明白である。

パート3につづく
投稿者:菊地正浩
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2007年11月14日

東伊豆町(稲取)の風力発電3

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○まとめ
 伊豆半島に限らず観光地への風力発電、とくに多数林立するウインドファーム(風車牧場)建設は慎重であって欲しい。すでに南伊豆町にも1基設置されているが、景勝地石廊崎にも計画されているという。南アルプスの眺望できる長野県伊那市では、市長の勇断により反対を表明された。このたびの伊豆半島ではどうしたのであろうか。町長自らが建設を推進しているという。地元の人が反対するのは当然のこととして、静岡県観光協会、東伊豆町、北川、熱川、片瀬、稲取温泉観光協会、自然保護や野鳥関係などはどのように考えているのであろうか。また、行政・事業者・地元住民は勿論、経済産業省(資源エネルギー庁)、観光の国土交通省、自然保護や騒音の環境省、公害問題の厚生労働省などや産業界など各界有識者、学識経験者によるシンポジウムを開催して、目に見える是非論の展開をするべきではなかろうか。そのうえでの建設推進・反対論と言えるのではないだろうか。
 旅ジャーナリストからすれば観光資源を護り、観光振興を図る立場にある。ましてや我が国は観光立国を宣言して、2010年には外国人観光客1000万人招致を国策としている。このため観光庁の新設まで検討しているという。今や流れは、持てる自然観光資源をいかに護っていくか、各地では世界遺産登録をめざしている時代である。クリーンな新エネルギー推進という錦の御旗を掲げ、観光振興に反し伊豆の宝を未来に残すことができなくなる恐れがあるので、筆者としては反対の立場をとらざるを得ないであろう。独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(通称NEDO)は新エネルギー導入促進事業2007により、いろいろな導入の手伝いをしている。もとより筆者とてなんでも反対するわけではない。地球温暖化対策に基く新エネルギー風力発電の意味するところは充分承知している。その上でなおかつ国立公園伊豆半島でよいのですか、と是非を問いたいのである。オオタカよこれからも東伊豆に集結し、台湾に飛び続けろ。こう願うのは筆者だけであろうか。
おしまい

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波崎ウィンドファーム(株) 平成16年3月竣工 12基 高さ:64.5m プロペラ直径62m ドイツ製
茨城県神栖9基・波崎20基・千葉県銚子29基。犬吠埼を中心に、利根川をはさんで約60基のウィンドファームは日本一の規模を誇る。
写真左は波崎、写真中央は銚子港、写真右は九十九里屏風ヶ浦の景勝地

コラム  風力発電について
 1990年代から地球温暖化問題に伴って各国で風力発電の導入が盛んになった。ドイツ、スペイン、アメリカ、インド、デンマークなどを中心に6000万kwを超えている。いまや世界の風力発電設備は原発60基分にも相当するといわれている。クリーンエネルギーに対する意識とヨーロッパという地理的条件にもより、導入が盛んであったが自然環境保護や騒音などの人的公害を重視して、現在の設置基準は厳しく制限されたものとなっている。日本でも、1990年代後半から急速に増え、2006年6月現在での設備要領は120万kwを超え、ジャンボジェット機の翼幅と同程度の直径60mを超える巨大風車が、1000基以上も回っていることになる。風車にも種類があるが、大型発電用には水平軸のプロペラ型である。このような風車を風の強い場所に集中的に設置することからウインドファーム(風車牧場)と呼ばれる。導入以来全国各地でいろいろ問題も発生していることは事実である。我が国は山岳丘陵地が多く、陸上での風車設置の適地が限られているので、今後は3万㎞を超えるといわれる長い海岸線の沿岸を利用して、洋上風力発電を展開することが予想されている(日本国際地図学会シンポジウムより)。

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2007年11月15日

中仙道武州蕨(わらび)宿「宿場まつり」1

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24年前蕨宿中仙道の活性化を目的に始まった「宿場まつり」は、年々盛大になり今年は約10万人の人出で賑わった。同時に中仙道六十九次宿場の「宿場会議」も開催され、記念として荒川では往時を偲び木造船による「戸田の渡し」を復活、訪れた観光客の人気を得た。

○はじめに
 蕨市とは、埼玉県南部に位置し荒川左岸の沖積低地。市名の由来は平安時代の初め、第51代平城(へいぜい)天皇の孫で六歌仙の一人、伊勢物語の主人公と言われた在原業平(ありわらのなりひら)が武蔵野に来たとき、日も暮れて道に迷った際、立ち上る白い煙に人家を見つけて泊めてもらった。寒さ凌ぎに一晩中稲藁の火で暖をとってくれたと言う。未だ里の名がないところから、これからは「藁火の里」とせよと名付けたと言う。
時代を経て室町時代の中頃、渋川義鏡が関東に下向し城主となったが、藁火城では城に火の字がつくのは良くないと考えた。そこで先祖の地、上毛渋川郷蕨山の地名と、この附近一帯に生える「さわらび」から「蕨城」と名付けたとされる。
わらび、ぜんまい、左巻きと言って春の山菜として知られる。平地ではあるが小高く日当りの良いところに群生し、古代からわらび粉等にしても食して来た。古くはアイヌ民族の長が帯びている短刀の柄に、わらびの紋様がほどこされており、この短刀を「わらび手刀」と称している。

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 昭和34年(1959)4月1日、蕨町が単独で市制施行した。我が国で面積がもっとも小さく、現在の人口約7万人は人口密度日本一としても知られている。毎年1月に全国で行われる成人式は成年式として蕨が始めた発祥地であり、現在でも成年式としている。また、地図上では長野県伊那市と同緯度の、北緯35度49分であることは知る人ぞ知るである。地勢は平坦で江戸時代には中仙道第二の宿場町となり、本陣2、脇本陣1、旅籠23が整えられ、旅人で賑わう一方、物資の集散地として栄えた。江戸後期の文政8年(1825)塚越村の高橋新五郎が高橋機という織機を考案、木綿織物の生産を広め、昭和35年(1960)錦織物の双子縞が開発されてから。昭和初期まで織物の町として発展した。現在でも8月の七夕まつりは「機まつり」と称しており、近郊からも見物客で賑わう。

パート2につづく
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2007年11月16日

中仙道武州蕨(わらび)宿「宿場まつり」2

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●盛大になる宿場まつり
 11月3日文化の日、往時の名残が見られる旧中仙道では恒例となった「中仙道武州蕨宿宿場まつり」が盛大に行われた。地元や近郊の見物客約10万人とも言われる人々でごった返した。年々趣向を凝らしてきたが、今年は第21回中仙道宿場会議蕨宿大会も同時開催され、132年ぶりに木造船「戸田の渡し」も復活し好評を博した。
「戸田の渡し」とは、江戸時代荒川には防衛上橋は架けられず、人も馬も木造船を利用し渡っていた。明治8年(1875)5月になって戸田橋ができてから、戸田の渡しはなくなった。今回、中仙道宿場会議の蕨宿開催を記念して、木曾街道六十九次に描かれている蕨宿の錦絵「戸田の渡し」を再現したのである。その他本陣跡と歴史民俗資料館を中心とした各会場では、色々なイベントが花を添えた。蕨南町太鼓の会、須賀町鼓笛隊、南小学校・第二中学校吹奏楽部、ミス宿場小町、織姫道中パレ-ド、サンバパレ-ド、子どもたちによる中仙道六十九次パレ-ド等々盛りだくさんのイベント、アトラクション満載の1日を楽しんだ。

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●おわりに
 来年は25回記念になり、地元の実行委員会を中心に色々なアイデアで盛り上げてくれるであろう。かくいう筆者も蕨ロ-タリ-クラブという奉仕団体の一員として安心・安全まちづくり防犯パトロ-ルのミニパトカ-と警察の白バイにも協力してもらい、子どもたちに乗ってもらい、ポラロイドカメラで記念撮影、その場で写真をプレゼントして大変喜ばれた。一方姉妹提携の群馬県片品村からは産地の農産物などを持ち込み即売、その他の団体でも様々なバザ-やフリ-マ-ケットで好評だった。
 だが、課題も感じられる。旧中仙道という狭い道路で歩行者天国を実施しての行事であるが、まつりとなると相も変らぬたこ焼き、焼きそばなど定番の屋台が所狭しと出店し興を副いでいる。往時を偲ぶ折角の「中仙道蕨宿宿場まつり」が、どこのまつりにでもある屋台がはびこっては先行きが思いやられる。今のうちに対策を立てこれぞ「宿場まつり」だといわれるようなものにしないと、リピ-タ-が減少し衰退していかないであろうか。このような危惧を抱くのは筆者一人であろうか?

おしまい
投稿者:菊地正浩
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2007年11月26日

観光地トイレの向上について1

毎年11月10日はトイレの日である。(いいトイレ)トイレのない人は世界で26億人いるという。今年インドで開催されたワールド・トイレ大会では45カ国が参加、国際社会のテーマとして2015年までに、トイレのない人半減の13億人を目標とした。我が国では11月9日、第23回全国トイレシンポジウムが開催されたが、そのなかから観光地トイレの整備について考察してみる。

●はじめに
 平成18年12月13日、観光立国推進基本法(昭和38年の観光基本法を前面改正)が与野党一致で成立、今年1月1日より施行された。その目的や基本理念はさておき、我が国は平成19年6月29日の閣議決定を受けて観光立国を宣言した。策定された観光立国推進基本計画における基本的な目標は平成22年(2010)までに、
一、外国人旅行客を733万人から1000万人(現在世界一位はフランスの7600万人で日本は32位)。
二、日本人の海外への旅行者1753万人を2000万人。
三、国内における観光旅行消費額24.4兆円を30兆円。
四、日本人国内旅行宿泊数年間2.77泊を4泊。
五、我が国における国際会議開催168件(平成17年)を252件(平成23年)
 とした。この動きを受けて国土交通省、環境省、総務省等国の機関に加え各地方自治体が中心となって、観光振興策に乗り出した。また、新たに観光庁を創設することも検討されている。
 日本トイレ協会ではこれまでに、公共・公衆トイレ、学校トイレ、災害時トイレ等とともに、早くから観光地トイレ、山岳トイレの向上をテーマに取り組んできた。今回、観光立国宣言で観光振興の盛り上がり機運を受け、あらためて観光地トイレの向上について、シンポジウムで活発な議論が交わされた。そこで、このテーマについて旅ジャーナリストの立場から、その内容の一部を紹介するとともに、私見を混ぜ提言し関係者の忌憚のないご意見を拝聴したいと思う。

●これからの観光地トイレ
 観光地のイメージはトイレの良し悪しによって左右されると言っても過言ではない。観光地における適切なトイレの整備と管理は観光地としての必然的な課題といえ、単に排泄という問題に限らず、今や地球温暖化や節水対策、衛生問題などへの配慮が必要で、かつユニバーサルデザインやバリアフリー、メンテナンスへの配慮について欠くことは許されない状況になっている。これまでの観光地は「観光資源として何があるか」が叫ばれてきたが、これからは「観光地として何ができるか」ということの、情報提供が必要であり、観光コースとしての活動の中で最も重要な補完施設がトイレであることは論を待たない。安心・安全な観光拠点の整備を図る第一歩としても、最近の好事例を紹介しながら考察してみたい。

パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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2007年11月27日

観光地トイレの向上について2

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●都市型観光地トイレの起爆剤となるか--情報の町秋葉原に有料トイレ「オアシス@akiba」誕生(全国より350件応募の中から区内在勤女性が命名)
 東京都千代田区は皇居を中心として、東京駅、有楽町周辺から日比谷公園、国会議事堂、靖国神社、神保町古書街、近年著しく変貌した秋葉原などを抱える典型的な都市型観光地といえる。千代田区内には30カ所にのぼる公衆トイレがあるが、メンテナンスやランニングコスト、それにもまして破壊などによる汚れ、破損が絶えず「暗い・臭い・汚い・怖い・壊れている」の5Kそのものである。千代田区まちづくり推進部では、首都東京の顔としてのイメージアップを図るため抜本的な見直しをして、平成15年に調査を開始「公衆トイレに関する検討協議会」を設置、提言を受けてモデル有料トイレの設置に踏み切った。平成18年12月16日オープン。美しいユニバーサルデザインの先端を行くトイレ、もちろん障害者、子供、乳児、オストメイト、着替え、化粧と万全な設備を整えている。また、無料のインターネット検索ができるパソコンを設置、文字通り情報の発信地秋葉原の駅前に相応しい憩いの場である。スタッフが常駐し安心・安全・綺麗を売物に公衆トイレのイメージを一新、隣りには喫煙スペースも備えている。利用料一人一回100円(小学生以下・身障者無料)、7時~22時とし年中無休。この約1年間の利用者数は7万5000人、1日当たり約200人だが、最近の利用者数は倍増している。筆者の取材時もテレビ取材の時で放映後の反響もあって増えているらしい。

●今後の展開
 千代田区の分析では概ね好評を得ているとしながらも、意見として「利用料100円の価値はある」「とても綺麗」「着替える時に便利」「支払にスイカが使えて便利」などといった肯定的な意見が多い一方、「公衆トイレが何故有料なのだ」「用を足すのに100円は高すぎる」「税金の無駄」「喫煙コーナーはいらない」等の否定的な意見もある。しかし、着実に常連が増えてきており、定着しつつあると考えている。ただ男女別利用者の問題、即ち男8割、女2割をどう考えるか、やはり女性はトイレはタダが良いと思っているのであろうか、今後の推移を見守りたい。

●有料トイレへのアレルギー
 我が国ではトイレは「タダ」という意識が定着している。もつとも江戸時代から戦後しばらくの間、農作物の肥やしにするため便所の汲み取りは、金を払い引き取っていた時代があったほどである。チップ制は当り前のヨーロッパとは異なる。千代田区内にしても公共施設、JRや地下鉄、オフィスビル、大手デパートや商業施設等トイレはタダで利用でき、しかも綺麗で快適なトイレがほとんどである。果して都市型観光地、この千代田区に限らず東京をはじめ札幌、仙台、名古屋、京都、大阪、福岡などに波及できるか? トイレはタダという我が国で果たして定着するだろうか? 今後の動向が注目される。

パート3につづく
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2007年11月28日

観光地トイレの向上について3

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●他地区のトイレ状況
 都市型観光地で外国人観光客の多い典型的な例を紹介しよう。「浅草」である。ご承知のように仲見世から浅草寺にいたるまでのトイレ事情は、外国人ならずとも観光客泣かせと言わざるを得ない。案内板やパンフレットにトイレの位置は表示されている。でも、あればいいというものではない。設備といえば到底外国人観光客の満足のいくものではない。
 旅ジャーナリスト会議のメンバーで通訳ガイドをしているSさんの話では、仲見世を観光中トイレに入っても、あわてて飛び出してくる。そして近くのホテルへ駆け込み用を足すのだそうである。日本トイレ協会でも観光地トイレの調査を行った際、筆者も実際に浅草を調査してみたが、これでは当然だと思った。観光立国宣言、外国人観光客1000万人誘致どころではない。ほかに「上野」なども同じような状況と言える。

●国立公園での有料チップ制の現状
 我が国の国立公園は29か所208万6790ha、国土面積の5.52%ある。最近は世界自然遺産登録をめざすところが増加している。世界自然遺産というのは観光振興の観点はない。むしろ尚一層の保護の徹底が必要とされる。しかし、この趣旨が理解されずに我が国では観光振興の道具にされているという。そして世界遺産ブームとなり多くの観光客が大量かつ、季節によっては大変な混雑でピーク時対策に追われている。これは本来避けるべき事態なのである。このような意見は当然のことながら環境省や国土交通省にもある。
 一方、観光立国宣言により観光振興、観光客誘致を推進する国土交通省の観光関係部局や経済産業省などとは意見を異にする。また、国定公園56カ所、都道府県立自然公園309カ所ともなると、地方自治体の管轄となる。今年は自然公園法制定50周年、国立公園法制定から76年目を迎えており、富士山をはじめとする山岳、国立公園でのトイレ対策は喫緊の課題と言えよう。

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上高地の有料トイレ

●上高地、尾瀬にみる有料チップ制の成功例
 山岳トイレ補助金(山岳環境等浄化、安全対策緊急事業費補助)により、環境保全型トイレを整備した山小屋においては、トイレのチップ制導入や有料化を実施している。公衆トイレについては、チップ制導入箇所は少なく、成功例は上高地と尾瀬であり、それ以外は概ね赤字となっている。上高地はバスの駐車場側(マイカーは乗り入れ禁止)にある公衆トイレで、スタッフが協力金を徴収している。協力依頼金は一人一回100円。この一カ所の協力金で公園内の各所のトイレ管理、メンテナンスに充当しているのである。
 しかし、マイカー乗り入れ禁止により70万人の観光客が35万人と半減、収入も半減した。尾瀬でも60万人から33万人に半減しているという。さらにチップは硬貨であるため、集金する銀行員が背負って下山するなどの問題も抱えている。多くの観光客は「トイレはタダ」という観念を持ちつつも、上高地や尾瀬のようなところでは環境保護意識の高まりからか、チップ制は定着しているものと思われる。いずれにしろ受益者負担と行政サービスの配分について多くの課題を抱えているのである。

パート4につづく
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2007年11月29日

観光地トイレの向上について4

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秩父鉄道三峰口駅前の無料トイレ

●その他の観光地トイレ
 都市よりもローカルになればなるほどトイレを探すことが大変になる。自然観光地になればなるほどトイレの整備が進んでいないし、ピーク時対策、男女比対策も進んでいない。もちろん、和式のトイレが多く、車椅子用のトイレもない。施設管理者は利用者がどのようにトイレを使っているか把握しているのだろうか? 手の力だけで便器に乗り移れない人もいるのである。ひと昔前と格段に身長、体重も増え体格が良くなったことも考慮しているのであろうか。サービス産業としての宿泊施設で寝床とトイレは完璧でなくてはならない。だから今までの既成概念を取り除き、物事の基準を自分に置かず、関係者の意識の統一化を図ることが重要である。
 観光振興策について聞かれることがある。筆者は必ず「トイレ」のことを提案する。そのくらい満足な観光地は少ないと言える。行政も観光協会や観光関係の方々も、皆一様に頷くがそれから先一歩も進んだためしがないといっても過言でない。観光客誘致策として不可欠な一つにトイレ問題が重要ことは判るが、対策は進まないのは何故か、筆者はトイレは行政のやることと思っているところが多いことを指摘しておきたい。トイレはタダ、しかも鉄道や行政がやってくれるものと勘違いしている観光地の人たちが多い。観光振興策の一環としてトイレ問題に地域ぐるみで取り組んでいるところもある。いくつかの好事例を紹介してみたい。

京都東山観光マップ
 大規模な観光地のトイレ対策として、観光トイレマップを作成して提供している。この取り組みの趣旨に賛同する会員から協力金を集め、観光リーフレットなどのほか、地域で統一されたトイレ利用可能を示す表示を行う点や、民間協力による事例である。
千葉県銚子市トイレマップ
「どなたでもご自由に」をキャッチフレーズとして、トイレの所在地リストと場所を表示した地図を置いて配布している。ホテル、スタンド、お寺、ラーメン、寿司、市場、観光施設等々で参加54カ所にのぼる。
福島県会津若松市
 アネッサクラブ(商店街の姉さま)。地元商店街が一体となって取り組んでいる「4つのどうぞ」①お茶をどうぞ、②お荷物をどうぞ、③椅子をどうぞ、④トイレをどうぞ、である。トイレについては個人商店も含め既存施設の活用を図りサービスしている。
宮城県気仙沼市
 1995年第14回全国トイレシンポジウム開催市。早くから行政と地域住民一体となった取り組み。市役所職員、商店主、会社員、主婦などのボランティアにより公衆トイレの清掃、メンテナンスを行っている。
群馬県
 ぐんまビジタートイレ認証制度(認証マーク)。①清潔、②安心・安全、③誰でもみつけやすい、④誰でも使いやすい、⑤まちにあったものを。県内約600カ所の公衆・公共トイレを調査し、平成18年度末で約100カ所を認定した。
富山県
 富山県快適トイレ推進プラン。「いつでも、どこでも、だれでも、安心して、快適に」利用できる。「環境に配慮した」トイレの推進。富山県トイレマップの作成。「環日本海トイレフォーラム」の活動。「トイレガイドマップ」の作成。
新潟県
 観光客へのトイレをどうぞというメッセージ。「まちなか、みちなか、どこでもトイレ事業」
熊本県
 「商店街がUD事業でトイレの提供」中心市街地6商店街がトイレを無料で提供。(私たちはお手伝いします)トイレが使えますシールを店頭に掲示。

パート5につづく
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2007年11月30日

観光地トイレの向上について5

●長野県伊那市に注目
 平成18年3月、伊那市、高遠町、長谷村が合併して新しい伊那市が誕生した。同時に中央アルプスの山腹を貫いて権兵衛トンネルが開通した。これによりJR中央線、飯田線、中央高速道、長野自動車道、甲州街道、三州街道、中山道を利用した広域観光エリアが形成された。中央アルプス、南アルプスに抱かれた、伊那路が新しい観光地として脚光を浴びようとしている。さらに飯田市、伊那市、富士見町、大鹿村は南アルプスの世界自然遺産登録をめざし、すでに協議会も設置して推進を図っている。
 恵まれた自然環境を生かしながら、産業と観光振興を図る取り組みが行われているが、観光資源としては充分過ぎるくらい持っていると言っても過言でない。あとは観光立国の一翼を担うアイデア、仕かけ、取り組みなどが期待される。その一環として筆者は昨年「観光地トイレの整備と充実」に関する提案を行った。関係者も関心を持って前向きに検討している。幸い地元には立派なモデルケースがある。
「かんてんぱぱガーデン」のトイレである。南アルプスの景観を眺めてのヘルシーで美味しいかんてん料理も良いが、このガーデンのトイレはユニバーサルデザイン、メンテナンス、数ともに申し分ないと思う。きっとリピーターも多いことであろう。春には高遠城址公園の桜が有名で、多くの観光客で賑わうがトイレ対策もさぞ苦労していることであろう。今後、伊那市が南アルプスの世界自然遺産登録をめざす上からも、総合的な観光地トイレの向上にどう取り組んでいくか注目していきたい。

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長野県伊那市、中央構造線分杭峠の磁場ゼロ地、浄化槽式有料エコトイレ

●観光地トイレの今後と対策
 前述のごとく観光地といっても東京のような都市型や上高地・尾瀬といった国立公園型では大きく異なる。なかでも、国立公園や自然遺産地域での維持管理やコスト負担のあり方が大きな課題となっている。このため有料チップ制や指定管理者精度の導入等が模索されている。また、地球温暖化やCO2削減は、トイレの分野においても処理レベルの維持を図りつつ、省エネ化や節水化が進められている。
 世界では今や6㍑便器は当たり前の時代であるが、日本では依然として10~13㍑便器を使用している。1回に流す水の量が世界に比べて倍であり、いくら水の豊富な日本だといっても、世界からは無駄遣いと言われている。「受益者負担の原則」がある一方、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」第五条には、「清潔の保持は市町村固有の業務」が定められている。今こそ、誰がどのようにして負担すべきなのかが問われている。

●観光地トイレの印象は観光地全体の印象に影響する
 いわゆる「暗い、臭い、汚い、怖い、壊れている」の5Kが印象の悪いトイレであり、かつ外国人観光客ならずとも、近年は洋式、水洗、乙姫と広さが求められている。観光地トイレに関するアンケート調査によっても、①清潔、②メンテナンスが良い、③ユニバーサルデザイン対応済。であり、悪いトイレは①不潔・臭気、②便器の数が少ない、ピーク時対策がとられてない、③メンテナンスが悪い(トイレットペーパーが無いなど)である。印象の良いトイレにするためには設置者の悩みもある。①メンテナンス②落書き、いたずら、破壊、③利用者マナー、④維持費の財源、などがあげられる。

パート6につづく
投稿者:菊地正浩
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2007年12月01日

観光地トイレの向上について6

●解決策は
一、 これまで述べてきたように観光客誘致には地域ぐるみの取り組みが必要であり、行政や観光施設、業者などだけが携われば良いというものではない。事例で紹介したように、地元商店街や市民団体、ボランテアなどによる協力体制が必要で、これに取り組んでいる観光地のトイレは良い印象を受けている。
二、落書防止や破壊防止等に安心・安全街づくりとして地域ぐるみで取り組んでいる。
三、ピーク時対策や男女比対策にも取り組んでいる。
四、様々なトイレのタイプ(処理方法)にも積極的に取り組んでいる。例えば、浄化槽方式、浄化循環式、コンポスト処理(バイオトイレ)、焼却式、土壌処理、汲み取り、また災害時トイレで活躍する仮設トイレなどである。
五、重要な財源であるが現在のところ我が国では、環境省、国土交通省、経済産業省、財務省、総務省それぞれが縦割りで、各々トイレの重要性は認識しつつもその域を出てはいない。大幅な予算化にはほど遠い。
 したがって各々の観光地で好事例を参考にしながらも、地域にあった方法を知恵を出しあわなければ解決しないし、トイレの向上は図れない。自分たちの問題として資金を出したり、スポンサーを得るか、有料チップ制を導入するか、商店や個人までもトイレを提供するか(改装や増設資金の補助を行政に働きかける)、広告トイレの導入を図る、また山岳地では登山客に排泄物を持ち帰って貰う、等々である。

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靖国神社のトイレ(狭い和式で高齢になった遺族会には気の毒)

●おわりに
 観光地でのトイレ問題がクローズアップされた原点は、19世紀末、エッフェル塔の完成にあわせたパリ万博と言われる。フランスは国の威信をかけてトイレの改善を図り、世界に先駆けて下水道処理を行った。我が国でも1970年の大阪万博、その後の沖縄、つくば、大阪花博、愛知万博と続き多くの外国人観光客受け入れを機に、ユニバーサルデザイン化とメンテナンスの向上が図られてきた。この流れは都市型観光地を中心としてトイレの改善が急ピッチで進み、世界でも有数のトイレ先進国となっている。
 背景には日本人の綺麗好きもさることながら、電力事情、豊富な水資源、良質なトイレットペーパー、メーカーによる設備の研究開発、などがあげられる。一方で地方の観光地トイレの問題は、観光立国を宣言し、2010年に外国人観光客1000万人誘致や、国内では団塊の世代による旅行の増加見込みに対して、やや立ち遅れていることは否めない。早急に観光地トイレの充実を図るべき時にきていると思われる。
 地方から東京への修学旅行といえば、本郷、上野界隈の旅館であったが、今の子どもたちは洋式で水洗、乙姫でなければ用を足せないから、ディズニーランド周辺のホテルや設備の整ったホテルに宿泊するのだという。逆に本郷の旅館では多少の改善をして、低料金と日本の風情を求める外国人観光客に人気があるという。いずれにしても観光立国宣言は観光地トイレの整備抜きには考え難い。時間も限られている、早急に官民一体となった取り組みが期待されるところである。

おしまい
投稿者:菊地正浩
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2007年12月03日

「はんなり」Hannari Geisha Modern

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京都の歴史と文化の象徴、花街。伝統文化の継承に魂を注ぐ芸妓と舞妓、これを支える多くの人々。「おもてなしの心」と美の世界を追求する日本の伝統文化が、ハリウッドから日本へ逆輸入され反響を呼んでいる。

●「はんなり」とは
京都で華やかさを表わす「はななり」という言葉から「はんなり」というタイトルにしたという。およそ1200年前に、都が「京都」に置かれた。以来様々な文化を創造し、今なお多くの伝統文化が世界に発信されている。昔、北野天満宮(京都市上京区、祭神は菅原道真)へ参詣に訪れた人々を、お茶で「おもてなし」したことから始まったとされる。お茶屋は、やがて酒席のおもてなしへと変わり、花街が形成されていった。京都の花街とは、先斗町(ぽんとちょう)、祇園東(ぎおんひがし)、祇園甲部(ぎおんこうぶ)、宮川町(みやがわちょう)、上七軒(かみしちけん)、島原(しまばら)の6カ所にあり、今も昔ながらの街並みや文化が息づいている。この花街のシンボル的存在が、芸妓と舞妓さんたちなのである。職人達の匠の技で作られた、着物、帯、扇子、小物類等々、最高級の伝統工芸品で身を包み、約300年以上経った今でも、日夜修業を積み重ね、美しい舞等の伝統芸能や作法、言葉づかいを「心の美」として演じ発信している。

●「はんなり」の意味するところ
 我が国は観光立国を宣言、2010年には外国人観光客1000万人招致を目標としている。緑豊かな自然観光資源と、数多くの歴史と伝統文化を発信し、広く世界からの観光客招致をめざすことにしたのである。その意味でも京都の歴史と文化は、我が国の観光資源として貴重なものと言えよう。なかでも、花街文化は春の都おどりをはじめ、四季を通しての景観と華やかさがあり、外国人観光客ならずとも、日本人でも一度は触れてみたい世界といえよう。これまでも多くの人達が取材すべくカメラを持ち込もうとして来たが、「一見のお客さんお断り」と同様、やんわりとその扉を閉められてきた。これまで「フジヤマ・ゲイシャ」に関するマスコミ報道や映画はかなりあったが、決して本当の姿が描写され紹介されていたわけではない。花街としてはむしろ沈黙を守ってきたのである。
 先頃話題を呼んだ中国人女優による「さゆり」などは、典型的な誤った芸妓像といえよう。今回の製作者であり監督曰く「本物の芸妓、舞妓は常に芸事に精進し、はっと息をのむほどに美しく、まさに生きる芸術である。日本女性独特の凛とした中に、薫る、思いやりある優しい心遣い、その美しさを支える伝統芸能や伝統工芸の匠の技が一体となっている」、と語っている。この「はんなり」こそ芸妓・舞妓の美の世界を追及する貴重なドキュメンタリーと言えるであろう。2006年9月に行われたジェトロ主催のシャパン・パビリオンでの出展で絶賛され、2008年春から全米で上映されることになった。これに先だち11月23日六本木ヒルズ49で上映記念イベント、特別試写会が行われた。これから順次全国各地で紹介されていく。全米で上映のあかつきには、大きな反響を呼ぶことであろう。

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●製作者・監督のプロフィール
 曾原三友起、サクラプロダクションUSA代表で今回プロデュ-サ-、監督、脚本の三役をこなす。ロサンゼルス在住、SAG米国俳優組合に所属。宮崎県都城市出身、幼少の頃よりバレエ、ダンスを学びミュ-ジカル俳優をめざしていたが、18歳の時に膝の怪我で断念。日本のイベント会社、局アナウンサ-、FM、DJなど経験、1999年に渡米。現在、制作プロダクション及び劇団を主宰しながらハリウッド映画制作現場などに於いて、日本文化のアドバイス、コ-ディネ-ト、映画やイベント、舞台のプロデュ-ス、脚本、演出などを手掛け、二児の母でもあるス-パ-ウ-マン。今回、ハリウッドの日本人女性監督として、日本に帰り自らが芸妓を体験、その強い熱意についに花街も動かされた。そして、京都の全花街が協力するという世界初の快挙を成し遂げ、この貴重なドキュメンタリ-映画は作られたのである。そして、見る者に感動を与え、伝統文化継承に一石を投じることとなろう。

日本での上映  12月2日(日)~14日(金)
        渋谷アップリンクX(03-6825-5503)
        当日券1500円 学生1200円 シニア1000円
        前売り1200円 和服での来場者当日券1000円
        他、京都シネマ、宮崎キネマ、都城ウエルネス交流プラザ他
        問合せ http://www.hannari.info

投稿者:菊地正浩
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2008年02月11日

水上バスで東京散歩1

~隅田川から東京ベイエリアへ~

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江戸の昔、武蔵の国から下総の国へと渡ったことから名付けられた両国橋。忠臣蔵の赤穂浪士たちが、深川の吉良邸から芝高輪の泉岳寺へ行くのに渡った永代橋。下町の歴史と文化が薫る隅田川を水上バスで潜り、お台場海浜公園を巡るゆらり旅である。

●はじめに
 昔は「綺麗な川」を意味するアイヌ語のアラペツとか、あばれ川とか呼ばれていたが、この荒川も現在の隅田川の位置を流れていた。たび重なる洪水により大規模な治水工事が行われ、昭和5年(1930)に荒川放水路が完成し、これまでの荒川本川を「隅田川」と呼び、荒川放水路を「荒川」と呼ぶようになった。戦後、隅田川の流域では市街化が進み、路面舗装、建築物の乱立によって遊水や保水能力も低下、大雨時には水が急激に流入するようになった。また、近年は地下水の汲み上げで地盤も沈下、隅田川より低い土地が沿川に広がっており、海面上昇とも相俟って水害の危険性が心配されている。

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●浅草~お台場海浜公園クル-ジング
 (財)東京都公園協会の東京水辺ライン、両国・お台場クル-ズでフィ-ルド学習が楽しめる。地球温暖化による海面上昇を実感したり、ひと味違った超近代的に変貌している東京を眺められる。昨年12月、「聞いて、見て、分かる、面白い」というタイトルでテクニカルツア-が行われた。低地を水から守る、橋梁の想い、洪水、高潮、地盤沈下、防潮堤や水門の整備等々を学習するものである。テキスト代込みで大人1500円であるが、満員という人気であった。それだけ関心が高いということであろう。今回の水上バスは両国国技館前を出発し、お台場海浜公園で折り返し、両国へ戻ってからはさらに浅草の桜橋まで行って帰る。この間約2時間30分、大人2000円というゆらり旅である。

パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年02月12日

水上バスで東京散歩2

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●両国橋を潜り次々と由緒ある橋を潜る
 両国国技館前の発着場をゆったりと出発するとすぐに両国橋を潜る。近年は観光客を乗せた屋形船や東京湾での釣り船が人気を呼んできたが、満潮時になると海面上昇の影響で橋を潜れなくなってきた。船底に水を注入し船を沈めるという対策を取っている。また、川の両岸に造った遊歩道にも水が上がってくるようになった。水上バスは近代的なデザインで船型も低く快適な乗り心地である。

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 続いて、新大橋(上段左)、清洲橋(上段中央)、隅田川大橋(上段右)と潜り、永代橋(下段2点)にやってくる。赤穂浪士たちが渡った時は木の橋であり水面はかなり下であったはずである。今は鉄骨とコンクリ-トでしかも船上のデッキで飛び跳ねると手が届きそうである。やがて越中島に到着する。観光客だけでなく日常の足として利用している人もいる。

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 次に比較的新しい中央大橋(左)を潜ると佃大橋(右)に来る。橋の無かった昔は佃煮を買い求める人が渡し舟を利用していたが、現在は車で簡単に来られるようになった。船上から見る佃島は昔の面影がまだ少し残っているようである。

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パート3につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年02月13日

水上バスで東京散歩3

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●霊岸島の水位観測所跡
 越中島、佃島の対岸に昔は「霊岸島」といい、東京湾の水位観測所があった。現在は逆三角形のモニュメントがある。明治6年(1873)に我が国の陸地の高さを測量するために設置されたものである。明治6年6月から12年12月まで東京湾の潮位を測り、その平均海面を0mとして決めたのである。この0mを基準として明治24年(1891)5月、東京都千代田区永田町1-1憲政記念館構内に日本水準原点を設置、ここを標高24・5000mと決め、我が国の陸地の高さを決める原点にした。大正12年(1923)の関東大震災後は三浦半島油壺験潮場に移転、同時に内陸部の不動と思われる地点からの、直接(一等)水準測量の平均値を検討した結果86㎜の修正が行われ、24・4140mと定められた。この日本水準原点を中心として全国の主な国道や主要地方道に沿って、一等水準点が約2km間隔、2万2000カ所に設置されている。このように霊岸島水位観測所跡は、我が国の陸地の高さを決めた草分け的な場所なのである。

●勝鬨橋~浜離宮恩賜庭園
 水上バスは次の発着場、明石町・聖路加ガ-デン前に到着する。眼前には高層の聖路加病院やマンションが建ち並び、再開発により超近代的な都市に変貌した東京の姿がある。よく見ると、もうすぐ東京湾に出ようとするこの辺りにも遊歩道、公園、トイレなども整備されている。子どもを連れた人の散歩、ジョギング姿などが水辺利用の楽しさを映し出しているが、満潮時には水が上がるのであろうか、遊歩道にはくっきりと水の跡が見てとれる。

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 発着場を出発してすぐに勝鬨橋を潜る。ここも船上のデッキで飛び跳ねると手の届くような高さになってしまったし、交通量も多くなったので船のために橋を開けなくなってしまった。だから低い船しか通行できなくなったのである。

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 移転が決まっている築地魚市場(写真左)を横目に見ながら、浜離宮恩賜庭園発着場へと来る。浜離宮恩賜庭園は防潮堤で護られているので、水門(写真中央)を潜らなければならない。水上バス一隻がギリギリ通行できる水門で、この日現在の「水深4.1m」(写真右)と電光掲示板に表示が出ている。水上バスはしきりに警笛を鳴らし、ゆっくりとした速度で水門を通り発着場に向う。水門の中では他の水上バスが出るために待機している。入るも出るも一隻ずつしか通れない水門なのである。浜離宮恩賜庭園ではそんな船の光景を眺めたり、散策を楽しむ人たちが手を振ったりしている。

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パート4につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年02月14日

水上バスで東京散歩4

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●レインボ-ブリッジ
 お台場海浜公園までのクル-ジングで最後に潜るのがレインボ-ブリッジである。船上のデッキから上を見上げると違った風景が見られる。もちろんほとんどの船は潜れるが、クイ-ンエリザベス号やタイタニック号は潜れない高さになっている。なんでも羽田空港発着の飛行機に支障のないように高さ制限されたのだそうである。そういえばしきりに飛行機の飛ぶ姿が見られる。

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●お台場海浜公園発着場
 1時間が過ぎて東京湾に出てきた。竹芝桟橋に停泊している船や行き交う大型船、通って来た後の超近代的に変貌した東京の景色を眺めしばしくつろぐ。幕末にペリ-が来航し開国を迫られたとき、幕府が砲台を造った跡のお台場を傍に見る。そしてゆっくりと発着場に向かう。

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 正面にはフジテレビの本社ビルが迫ってくる。発着場にはすでにたくさんの人が折り返し出発する水上バスの到着を待っている。外国人観光客の姿も多く国際色豊かで、東京湾のクル-ジングを楽しむのであろう。到着すると乗客全員が下船、水上バスは点検と清掃のためしばらく停泊し乗客を待つのである。

パート5につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年02月15日

水上バスで東京散歩5

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●再び両国をめざし東京湾から隅田川へ
 来た航路を戻り、逆の方向から眺める景色も違った趣がある。林立する高層ビルやマンションに混じって遠く東京タワ-の姿も見え隠れする。来た時には目にしなかった物も見えて楽しい。夜のクル-ジングは夜景もすばらしくカップルに人気があるという。

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 両国に戻ってからは蔵前橋(上段左)、厩橋(上段中央)、駒形橋(上段右)、吾妻橋(下段左)、言問橋(下段右)と潜る。沿岸には隅田川公園があり桜並木が1kmにわたり植えられ、春には花見客で賑わう。浅草では屋形船や釣り船が沿岸に横づけされており、観光シ-ズンを待ちかねているようだ。水上バスはまもなく終点桜橋に到着、休む間もなく両国へと折り返して戻った。

●変貌する隅田川沿岸都市
 下町の文化と歴史が薫る隅田川沿岸であるが、ますます近代化の波が押し寄せている。平成23年度(2011)には業平橋、押上地区に、デジタル放送用アンテナを付け、450mの高さに展望台を備えた、約610mの新タワ-が完成する。国内外から世代を超えて多くの人々が訪れる国際観光都市に変貌することであろう。カナダ・トロントにある553mのCNタワ-をはるかに凌ぐ世界一の新タワ-と共に、超近代化した下町文化の薫る隅田川沿岸地域、まちがいなく東京の賑わいが隅田川に架かる多くの橋々を渡り東へ展開していくであろう。かつて江戸時代に両国橋を渡り、武蔵の国から下総の国へと人・物・金の流れを創ったようにである。

パート6につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年02月16日

水上バスで東京散歩6

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●災害は忘れた頃やってくる
 東京深川の木場に州﨑神社がある。この神社の境内に波除碑・津波警告の碑があることは今の人にあまり知られていない。5代将軍綱吉の生母桂昌院の守り神として建立され、弥生(3月)の潮時には海岸で蛤がとれた絶景地だったという。
 寛政3年(1791)9月4日、深川の州﨑一帯に襲来した高潮によって附近の家屋がことごとく流され、多数の死者、行方不明者が出た。火事と喧嘩は江戸の華と言われ、明暦の振袖火事(1657年)に代表されるごとく、大火は定期的に発生、その対策には色々と手がうたれていた。しかし、海からの高潮、津波対策は手薄であった。
 幕府はこの災害を重視して、州﨑弁天社から西のあたり一帯の東西285間(約518m)、南北30余間(約54m)、総坪数5467余坪(18000㎡)を買い上げ空地とし、これより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(州﨑神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てた。寛政6年(1794)に完成した石碑は、砂岩で脆く関東大震災と東京大空襲での損傷が著しいが現存している。現在この附近は開発され何事もなかったかのようにビルやマンションも建っている。しかし、地球温暖化による東京湾の海面上昇が進み、満潮時の台風による高潮、大地震による津波の襲来による被害で、折角の波除碑による教訓が生かされなかったというようなことにならないよう祈りたい。

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●おわりに
 今回のクル-ジングでも明らかなように、隅田川、東京湾沿岸、旧江戸下町が変貌し熱くなろうとしている。ちなみに、東京23区の総面積は621.4k㎡(平成16年)であるが、干潮面以下の低地124.3k㎡(20%)、満潮面以下の低地31.5k㎡(5.1%)、満潮面以上ではあるが高潮危険地254.6k㎡(41%)、合計410.4k㎡(66%)であり、実にこの大半が東京湾岸、隅田川東部地区だということを忘れてはならない。昭和22年(1947)のカスリン台風、昭和24年(1949)のキティ台風、昭和33年(1958)の狩野川台風による浸水被害を忘れてはいけない。2010年には外国人観光客1千万人誘致をめざす。今秋には観光庁も新設される。世界の観光地日本、その玄関口の東京、隅田川、東京湾岸、下町が賑やかになっていく。災害は忘れた頃やってくるという、万全を期した防災対策と普段の備え、関心を怠ってはならない。

おしまい
投稿者:菊地正浩
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2008年02月25日

三浦半島油壺湾1

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浸食谷の沈水による狭い湾内は油を流したように波穏やかである。ヨットハーバーとして有名だが、国土交通省国土地理院の験潮場が設置され、毎日水位測定が行われている。日本水準原点に送るデータや、地球温暖化による海面上昇、地震予知等に資する重要なところなのである。

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●京浜急行とバスを乗り継ぐゆったり旅
 旅ジャーナリスト会議の会員である、(有)ブルボンクリエイション小出文彦氏が企画・制作し、会員の多くが執筆と写真協力した、『新・全国フリーきっぷガイド‘07~‘08』(人文社発行)の中から、京浜急行電鉄(鈴木龍生記)のガイドを参考にしよう。京急品川駅で「三浦半島1DAYきっぷ」(1900円)を購入、特快で三崎口駅まで約1時間余のゆったり旅である。乗車して走り出すとすぐに気がつく。なぜか車内がゆったりしており、騒音も振動も感じない。
 鈴木氏によれば、「明治32年(1899)日本で3番目、関東では最初の電車として、生まれた時から標準軌1435mのレールで走り続けており、軌間で考えると新幹線などは孫みたいなもの」と評している。そのとおりの実感でスピードこそ違うが、新幹線のぞみの気分といってもよい。1DAYフリーきっぷの特典をあらためて見てみると、京急バスは金沢文庫以南で全線乗り放題のほか、優待割引となる施設が色々とある。三浦半島のチラシを見ながら、あれこれ計画を練るのも旅の楽しさである。

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●三崎口駅から京急バスで油壺へ
 終点三崎口駅前からは各方面へのバス路線が多くある。電車から降りた観光客の多くは、城ヶ島や三崎港へのバス停に並ぶ。やはり城ヶ島の景色と日帰り温泉、そしてお目当ては三崎魚市場のマグロなのであろう。それに比べ油壺へのバス停は心なしか寂しい。バスは約20分間隔で運行されており、結構便利である。フリーきっぷを見せるだけで何処でも乗降できるのも便利である。バスは三崎口駅前を出発すると、15分位で終点の油壺に到着する。暖冬なのであろうか1月だというのに、菜の花や梅の花が咲き、畑では農作業をする姿も見られる。沿道には所々マグロの料理が食べられるお店の看板が目について途中下車したくなる。
 終点油壺のバス停(写真右)は、何と立派な公衆トイレの建物の真ん前である。観光地トイレの充実は筆者の取り組んでいるテーマの一つであり、このような光景を見ると心なしか嬉しいものである。しかし、折り返しバスの発車場所前には、昔の駄菓子やのような古いおみやげ屋が2軒並んでおり、それぞれにおばあさんがいるだけである。店を覘いても、どうも売れそうにないみやげ物で、なんとも侘しい光景である。

パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年02月26日

三浦半島油壺湾2

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●国土交通省国土地理院油壺験潮場
 バス停から約100mほどのところに験潮場入口という標識が立っている。足元の危険な階段状の狭い道を下りて行くと、ほどなく一等水準点(写真右)に突き当たる。ここは、全国に設置されている基準水準点83点の一つで№.26である。昭和5年(1930)に設置され、標石上面が東京湾平均海水面からの高さ(標高)を表わしている。その高さは16m6905となっている。

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 さらに下っていくと海となり、そこに験潮場が設置されている。北緯35度9分37秒、東経139度36分56秒に位置し、明治27年(1894)7月から観測が開始された。験潮場は2棟あって奥にあるレンガ造りのほうが最初の験潮場(写真左)、手前が新しい験潮場(写真右)である。古い験潮場には「建設省国土地理院油壺験潮場」という古びた木の看板が掲げられている。
 現在は手前の新しい建物が使われており、館内には海面の上がり下がりを自動的に、精密に記録する験潮儀が設置されている。この記録は高さの基準を決めたり、土地の変動や地震予知のために非常に大切な資料になる。我が国は明治政府が国土の測量を始めたとき、東京湾の霊岸島験潮場のデータを使用していたが、関東大震災後は油壺験潮場のデータを基準としている。
 毎日水位観測を行い、東京都千代田区永田町1―1憲政記念館構内にある、日本水準原点の基準値に使用されている。当初は25mであったが、関東大震災による地盤沈下と潮位の変化により86㎜修正されて、24m4140となり現在に至っている。この基準により全国の標高が定められ、富士山は現在の3776mとされているのである。また、毎日のデータは海岸昇降検知センターにも送られ、気象庁や海上保安庁、全国の自治体による験潮データと併せまとめられている。最近の地球温暖化による海面上昇や地震予知などに不可欠な資料となっているのだ。

rockhopper-penguin.jpg ●京急油壺マリンパーク  験潮場からさらに100mほど足を延ばすと小網崎の先端にマリンパークがある。1DAYフリーきっぷを提示すると、入園料大人1700円が1000円になる。ここは昔、三浦氏の本拠、新井城があったが、三浦道寸(義同〈よしあつ〉)のとき、永正15年(1518)北條早雲によって滅ぼされた。この城跡に油壺マリンパークという海のレジャーランドがある。360度ぐるりとドーナツ型の大回遊水槽には、全長3mのサメ「シロワニ」が遊泳していたり、色々な魚の餌付けが見られる。大海洋劇場ファンタジアムでは、イルカ、アシカショーやキタイワトビペンギンなどが身近に見られる。しかし、油壺の特徴的な物といえば、「海洋深層水」であろう。このマリンパークでは海洋深層水を利用した世界初の展示施設「海洋深層水館D・S wonder」が見どころである。

パート3につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年02月27日

三浦半島油壺湾3

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●21世紀の水「海洋深層水」
 近年、様々な分野から「海洋深層水」が注目されている。これは、大陸棚より沖合いで光合成に必要な太陽光が届かない、水深200m以上のところにある海水である。極海の海域で冷えて比重が重くなった海水・ブルームが、海底に沈みこみ長い年月をかけて、一度も大気に触れず何世紀もかけて地球を回っていると言われる。低音で細菌がなく生物に必要なミネラル等を豊富に含んでいる。飲料水、食料品、医療、健康、水産業、エネルギー等々多方面での利用が期待されている。油壺の取水設備では、三浦沖約5㎞、水深330mから取水した海洋深層水は原水、ミネラル水、塩水、淡水、ミネラル塩水の5種類に分けられる。このような施設は試行も含めて全国に約30カ所あるが、ここは相模湾で陸地より至近の海底から取水できるという利点がある。

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海洋深層水露天風呂効用書と名物マグロ丼1200円

●海洋深層水の利用例
 京急油壺マリンパークに隣接して、海洋深層水の取水施設がある。その隣りのホテル京急油壺観潮荘では、海洋深層水の露天風呂があり、日帰り入浴もできる。1DAYフリーきっぷを提示すると、入浴料1000円が2割引となる。この露天風呂の特徴は、海風を吸入する「空気浴」、太陽の光を浴びる「日光浴」と海洋深層水による「海水浴」を同時に行える。この温浴はタランソラピー(海洋療法)としても優れているといわれ、アトピー性皮膚炎などに効用があるとされる。色々な入浴方法が楽しめるが、実際にちょっと舐めてみると正しく塩味である。その他、海洋深層水を利用した飲料水や健康食品、日本酒、焼酎、水産加工品、お菓子類等々お土産品も豊富である。21世紀健康志向の高まるなか、海洋深層水の利用が注目されるであろう。海に囲まれた島国の日本だからこその研究開発であり、大いに期待したいと思う。

●おわりに
 旅ジャーナリスト会議では、旅と地球温暖化というテーマに取り組んでいる。海面上昇による色々な出来事も報告されているが、今回、水位観測をしている油壺験潮場を訪ねたところ、思わぬ副産物を得た。海洋深層水である。これからも、海面上昇について注目していくとともに、海洋深層水の行く末にも関心を高めて行きたいと思う。

おしまい
投稿者:菊地正浩
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2008年02月28日

河津桜と早春の爪木崎1

春を待ちかねていた多くの人が河津桜を観賞して、ひと足早く春を肌で感じようと訪れる。旅ジャーナリスト会議でも2月17日(日)~18日(月)に、森田代表他6名の会員が河津桜と爪木崎の水仙と秘湯を訪ねる研修旅行を実施した。

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●河津町(かわづちょう)
 緑と清流と温泉、面積101k㎡、人口9千人足らずの町が、年に一度町をあげて取り組む河津まつり。伊豆半島の東海岸に位置し、大部分が天城山系の山林である。町の中央を天城峠を発源とする河津川が流れ、わずかに下流部分のみが平地である。河津川の流域は上流に河津七滝や大滝、七滝温泉、中流には湯ヶ島、下流には峰、河津浜、今井浜温泉があって河津温泉郷を形成している。河口付近には砂浜が広がり海水浴で賑わう。山、渓谷、温泉、海と観光資源にはこと欠かない河津町。年に一度、まつり実行委員会のもと、役場、観光協会、商工会賛助店、河津桜まつり賛助会員や町民あげての熱い1カ月におよぶイベントが繰り広げられる。

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●河津桜
特徴は開花時期が早く、2月上旬から3月上旬まで約1カ月にわたって咲くことである。花が大きくピンク色で、緋寒桜と早咲きの大島桜が自然交配したものと考えられているが、昭和50年(1975)4月、河津町の木として指定された。伊豆急河津駅より1.3㎞上流には、河津桜の原木が凛として咲き誇っている。原木の地は民家の庭先で駐車場も無いため、近くの河津町役場が駐車場やトイレも提供して、ボランティアが活躍している。

●河津桜原木物語(原木前の看板から引用)
「昭和30年頃の2月のある日、この家の主であった飯田勝美氏が河津川沿いで(豊泉橋上流の田中地区側)、冬の枯れ雑草の中で芽吹いていた1m位に育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えた事が始まりでした。約10年後の昭和41年1月下旬、やっと花が咲き始めました。同年4月、主の勝美氏は花が咲くのを見届けて永眠しました。その後きれいに咲く桜を見て譲って欲しいという話もありましたが、思い出の桜のため手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ親しまれていました。その後の調査で新種の桜とわかり昭和49年には河津で生れた桜であることから「河津桜」と命名され昭和50年4月に河津の木に指定されました」(飯田ひでさん談)
原木の大きさ 木高約10m 樹幅約10m 幹間約115㎝

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 原木を観賞しての帰り道、ふと商店の店先に置いてある鉢植えが何ともいえない不思議なものであった。仏手柑(ぶしゅかん)という種類の柑だそうである。

●町をあげてのイベント
 花見は昼間も楽しいが夜桜もまた格別の感がある。まつりの期間中は河津駅前会場と峰温泉、それに約10㎞も離れた河津七滝ループ橋下まで、あちらこちらで夜桜ライトアップが楽しめる。足湯のサービス処、甘酒や火鉢で暖をとるサービス、伊豆踊り子と記念撮影、スタンプウォーク等々盛りだくさんである。

パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年02月29日

河津桜と早春の爪木崎2

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●爪木崎
 河津温泉郷も魅力ではあるが、雑踏と喧騒を逃れて少々足を延ばし爪木崎を訪れた。今年は寒い日が多かったせいか、水仙まつりとアロエまつりが終ったというのに、まだまだ見てくれと言わんばかりに咲いている。

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 池の段とよばれる草原一帯に、冬は水仙。アロエ、夏にはハマユウが咲き誇る。

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 海岸は海食崖で爪木島、田浦島の岩礁が見事な姿をしている。六角柱状節理を伴う安山岩が、海食で露出する俵磯海岸は県の天然記念物となっている。須崎遊歩道での散策、先端に行けば爪木崎灯台に出て、伊豆七島の眺望がすばらしい。海水浴や磯遊びも楽しめ、須崎御用邸がこの地にあるのも納得できる。

●秘湯の宿「風」
 伊豆急下田駅から爪木崎行バスで約15分、下田・爪木崎公園、須崎御用邸に隣接し海水浴、森林浴、加えて温泉と豊富な海の幸が味わえる。館内にはペリー開国当時を思い起こさせる、西欧アンティークや骨董が飾られたりして、和洋とりまぜての癒しの空間となっている。

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 この「風」こそ、日本の秘湯を守る会の宿であり、屋上にある露天風呂からの眺望は、寝姿山に沈む夕日、伊豆七島と海から昇る眩いばかりの日の出、まさに秘湯の名に相応しい露天風呂である。この「風」は、江戸情緒を楽しむ宿、江戸の遊びを楽しむ宿として知られる、浅草の助六の宿「貞千代」が経営しており、永年の経験と地元の豊富な食材を使っての料理と地酒がなおいっそう心に残る。

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パート3につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月01日

河津桜と早春の爪木崎3

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●下田港・ペリーロード
 下田は幕末開港の歴史探訪や黒船下田港内めぐりによる湾内からの眺望も趣がある。華やかさはないものの、町おこしのひとつとしてペリーロードの散策が静かなブームにもなっている。

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 日露和親条約が結ばれた長楽寺、日米下田条約が結ばれた了仙寺(写真左)(境内裏手には古墳跡(写真右)がある)辺りから用水路の両側に沿って、ペリー上陸記念碑のある港まで続く。ここは幕末当時の下田の花街跡。ミニ倉敷のように情緒溢れている。町おこしの一環として用水路を綺麗にしたり、趣のある品揃えの店、ちょっと入ってみたくなるような飲食店などゆったりとした散策が楽しめる。

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●むすび
 今回、河津桜まつり取材と秘湯の宿爪木崎「風」に泊まり、早春の南伊豆の旅を味わった。今年のNHK大河ドラマ『篤姫』は、これからペリー来航による幕末の開港、開国の場面を迎える。下田開港博物館に立寄り、さらに知識を高めることで一層興味が湧くであろう。伊豆急下田駅からは特急踊り子号で帰京の途に着く。ホームには無事帰るように祈る石造の「カエル像」が見送ってくれる。

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おしまい
投稿者:菊地正浩
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2008年03月05日

「向う両国」門前仲町の魅力1

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江東区西部、深川との境を首都高速5号線が通り、永代通りと清澄通りが交差し、その下を地下鉄営団半蔵門線と都営大江戸線が走る。近代化されはしたが今なお江戸下町の名残を止める。地下鉄を降りて地上に出ると、深川不動堂や富岡八幡宮に参詣する人、参道の両側に並ぶ店で土産品を買う人、名物深川蒸篭めしに行列をつくる人、一年を通して終日賑わいを見せる、それが東京の下町門前仲町の魅力である。

●いわれ
 承応2年(1653)四代将軍家綱の時、永代寺地所に門前町屋を開き、永代寺門前仲町と称したのが町名の起源とされる。8月15日を中心に行われる「深川八幡祭り」、10月初旬越中島橋そばの臨海公園で催される「深川の力持」、大横川ほとりの黒船橋公園で公開される「木場の角乗り」は有名である。

●隅田川への架橋
 明暦の大火「振袖火事」によって多数の犠牲者を出したことを反省し、幕府は大川(隅田川)に橋を増設することとなった。それまでは江戸城を守るという軍事上の見地から、千住大橋の一か所しか架かっていなかった。最初に現在の両国橋より下流20~50m付近に大橋を架けた。その後、元禄6年(1693)に新大橋が架けられると、それまでの大橋を改め武蔵国と下総国、両国を往来することから何時しか江戸っ子が「両国橋」と名付けたという。元禄11年(1698)には永代橋、安永3年(1774)に吾妻橋(当初は大川橋と呼んだ)が完成し、以降順次隅田川への架橋がなされていったのである。
 ちなみに両国橋だけでも5回焼け落ち、大水により2回流失、破損による改修は十数回にのぼる。明治8年(1875)にやっと新しい木橋が完成するも、明治30年(1897)に夏の川開きで大勢の人の重みにより、両側の欄干が落ち数十人が死傷した。明治37年(1904)に鉄橋となるも、大正12年(1923)の関東大震災により改修、昭和7年(1932)やっと現在の姿になったが、昭和20年(1945)3月には東京大空襲にもあっている。

●江戸下町とは
 橋が架けられると橋番という係を置き、広場を造った。人が来るから必然的に店や見せ物小屋ができたのである。武蔵国側では広小路という繁華街ができて、江戸の気取った人たちで賑わった。一方、下総側の東両国を「向う両国」と呼んで、少々見下していたのである。しかし、向う両国のほうがざっくばらんな江戸下町の人情溢れる人たちで賑わったという。粋な築地、浜町河岸の芸者と人情味ある深川、辰巳芸者に代表されていたようである。日本橋を出て広小路の繁華街を抜けて両国橋を渡ると大相撲発祥の地「回向院(えこういん)」があった。それから紀伊国屋文左衛門の屋敷(現在の清澄庭園)を抜けると門前仲町に行けた。永代橋が架かると、日本橋からまっすぐに門前仲町に行けるようになった。『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士も吉良邸討入り後、この永代橋を渡り、江戸城の近くを通り三田から芝高輪の泉岳寺へと歩いて行ったのである。

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パート2につづく
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2008年03月06日

「向う両国」門前仲町の魅力2

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●富岡八幡宮
 徳川幕府が開かれた当時、深川一帯は江戸湾内に点在する砂州の集まりであった。いたるところ葭葦が茂り、住む人も少なく漁業する人が主で集落程度でしかなかった。その一角に永代島と呼ばれる小さな島があり、その一帯を菅原道真公の後裔といわれる長盛法印が埋め立てて、社地を氏子の居住地とし、寛永4年(1627)八幡宮を創設したとされる。この開拓地が現在の八幡宮境内、深川公園、富岡町、門前仲町に該当、6万508坪という広大な社有地であったといわれる。その後、真言宗大栄山永代寺を建立、長盛法印自ら初代住職となった。明治維新となってから神仏分離令により、永代寺は廃止させられ、現在跡地は深川公園となっている。およそ千年前の利根川は向島辺りで東京湾へと流れていたが、治水工事により銚子のほうへと流れを改修、従って隅田川はずっと後に出現したのである。
 隅田川の出現により同じ氏子地域である深川と日本橋、京橋の一角を分断することになってしまった。深川側となった永代島にある八幡宮なので、昔は「永代八幡宮」とも言われた。この永代島八幡宮(富岡八幡宮)と永代寺に、江戸の人々が参詣するようになると、大名、小名の下屋敷や豪商の別邸などが建ち賑わうようになった。そして、門前町が発生し江戸文化の華が開くこととなる。辰巳芸者に代表されるごとく辰巳情緒、下町情緒なるものが醸成されていったのである。

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●門前町
 江戸湾の魚貝を獲って細々と暮らす漁師町であった小さな永代島が、深川という広い地域に展開されていき、門前町が発生した。隅田川に注ぐ支流や堀川という水利の便は木場となり、佐賀町の倉庫地帯となり、やがて下町の工業生産地帯を形成していった。現在、東京でも比較的純朴な下町情緒溢れる土地柄で、その沿革を辿ると八幡宮との歴史的結びつきによるものであることがよく理解できる。この一帯の人々は富岡八幡宮を尊敬し、祭礼を愛好し伝統を守り続けている。


パート3につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月07日

「向う両国」門前仲町の魅力3

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●富岡八幡宮の祭礼(深川八幡祭り)
 毎年8月15日を中心に行われ、江戸三大祭りの一つに数えられている。他の二つは山王日枝神社と神田明神で「神輿の深川、山車の神田、だだっ広いが山王様」と言われ、それぞれ百か町村以上の氏子町内を有していた。寺社奉行直轄免許の祭礼で「天下祭」と呼ばれていた。なかでも八幡宮の祭礼は下町風の勇み肌祭礼として、勇壮な神輿振りで庶民に人気があった。当初は御船祭であったが、元禄時代深川に屋敷のあった紀伊国屋文左衛門が、金銭に糸目を付けず総金張りの大神輿を奉納したことから神輿祭りになったという。しかし、大正12年(1923)の関東大震災で惜しくも焼失してしまった。
 粋で神輿好きな深川っ子の悲願は、平成3年5月にようやく成就、台輪幅1.5m、屋根の最大幅2.9m、高さ4mを越え総重量は約4.5トンに達するものである。大きさ重さともに日本一を誇り、装飾には多くのダイヤ、ルビ-、24Kの純金がふんだんに使われるという真に見事なものである。奉納の儀式は目を見張るものであったが全国にも報道された。まさに江戸下町っ子の心意気そのものであろう。
 3年に一度行われる「本祭り」には氏子各町から大神輿ばかり五十数基が列を組んで約2㎞も練り歩く。沿道には7~80万とも言われる見物客で埋まる。神輿の担ぎ手に水を浴びせることから別名「水掛祭り」とも言われ、昔からの伝統を守り江戸の粋を伝える唯一の祭りとなっている。

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●深川不動堂
 元禄時代に江戸町人を中心に不動尊信仰が広まった。成田山新勝寺は信徒数も増え、寺格も上り本山へと発展していった。この過程で成田山のご本尊、不動明王を江戸で参拝出来ないものかと考えるようになった。元禄16年(1703)4月に初めて江戸に於ける出張ご開帳が実現した。“お犬様”で知られる五代将軍綱吉の母桂昌院が、成田山の不動明王を江戸で参拝したいと言って実現した。桂昌院は深川の木場にある州﨑神社(境内には波除碑・津波警告の碑がある)の守り神にもなっている。成田山を出発した総勢約300人の行列は、ご本尊共々一週間かけて到着、2カ月にわたる江戸ご開帳は大変な人気であった。
 このご開帳場所となったのが永代寺境内で、深川不動堂の起こりとされる。明治になり神仏分離令によって永代寺は廃寺となり、明治2年(1869)現在の地に深川不動堂が認められた。同14年に本堂が完成したが、関東大震災と東京大空襲と二度も焼失した。幸いにもご本尊は焼失を免れた。昭和26年(1951)、千葉県印旛沼の龍腹寺を移築して現在の本堂とした。江東区最古の本造建築で老朽化が著しく、平成3年大改修をした。平成14年、300年記念事業として内佛殿を建立、東都随一の不動霊場として幅広い信仰を集めている。

パート4につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月08日

「向う両国」門前仲町の魅力4

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●百万歩の男「伊能忠敬」
 我が国の地図史は伊能忠敬(1745~1818)抜きには語れない。延享2年(1745)、上総国九十九里浜のほぼ中央、小関村の名主の家で誕生した。名を「三次郎」といい、幼少より読み書き、算盤などの基礎教育を受け書物を好んだ。17歳で佐原の酒造元伊能家へ入婿、商才を発揮して財を成した。当時、地球が円いことは判っていたが、大きさ、距離は判っていなかったので、地球を測ることを考えていたという。49歳で息子に家督を譲って江戸に出て、天文学者高橋至時(よしとき)の門下となり測量術の習得に励んだのである。

●江戸黒江町の隠宅
 伊能忠敬は江戸の住まいを黒江町、現在の門前仲町一丁目に構えた。19歳も年下の高橋至時の弟子となり、暦学、天文学を学ぶ傍ら、門前仲町の隠宅を中心に深川、浅草辺りまで歩測して地図を作成したという。伊能は訓練の結果一町を158歩で歩いた。一町は60間、1間は6尺、1尺は30.30cmとすれば、歩測の一歩は69.03cmとされる。寛政12年(1800)4月19日、幕府の命を受け全国測量に出発する。早朝に富岡八幡宮に参拝してから蝦夷地に旅立ったといわれる。伊能は17年の歳月をかけ全国を測量した。この時、日頃訓練した歩測に加え、間縄と天体観測を駆使して測量していった。この間10回の旅立ちであったが、その都度富岡八幡宮に参拝し無事を祈ったのである。

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●伊能忠敬の銅像
 平成13年1月20日、富岡八幡宮参道入口大鳥居前に銅像が建てられた。大きな黒御影石に刻まれた日本地図を背景に、杖先方位盤を手に測量へと旅立つ姿である。銅像の隣りには、国土地理院による新地球座標系の国家基準点(三等三角点)が設置され、まさに近代日本地図の祖、伊能忠敬に相応しいものと言えよう。多くの参詣者、観光客が名物深川めし(あさりのせいろむし)、甘酒屋を訪れるが、この銅像も必ず目に触れ、後世に永く語り継がれていくことであろう。                                      
●むすび
 隅田川への架橋は順次行われ、近年はレインボ-ブリッジも出現した。かつて永代島から深川へ深川へと埋め立てられ拡大されていった「向う両国」であるが、今や超近代的な都市に変貌しつつある。平成23年度(2011)には業平橋、押上地区に、デジタル放送用アンテナを付け、450mの高さに展望台を備えた、約610mの新タワ-が出現する。「向う両国」、下町などと言われ見下されていたようなことは、武蔵国側にお返ししたい気持であろう。忘れてならないのは、あくまでも埋め立て地である。地球温暖化による東京湾海面上昇は何時災害をもたらすか判らない。木場の州﨑神社境内にある「波除碑・津波警告碑」を決して忘れてはならないと思う。

おしまい
投稿者:菊地正浩
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2008年03月17日

和紙の里探訪1

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日本の伝統美「小川和紙:細川紙」
我が国独特の技術と上品で素朴、強靭な和紙。経巻、書道、文庫、工芸紙をはじめ色々な紙が漉かれ広い分野で使われてきた。我が国の歴史と文化そのものであろう。埼玉県比企丘陵一帯に1300年の歴史が息づく「細川紙」を漉く和紙の里がある。

●紙の伝播
 後漢の時代(105年)に蔡倫(さいりん)が麻から紙を作った。紙漉きの始まりである。それまでの木簡、竹簡、ヨーロッパではパピルスの葉、羊皮紙などにかわる画期的な発明であった。蔡倫の発明した紙漉き技術は、シルクロードを経てすぐ伝播すると思うであろうが、歴代の皇帝達は決して外部には漏らさなかったようである。もっともそれだけ紙は貴重品であったという何よりの証拠である。ヨ-ロッパへの伝播は、751年、唐と西の大帝国アッパース朝が、中央アジアのタラス(カザフスタンとキルギスの上辺)で戦争をした。結果はアッパース朝の大勝に終わり、捕虜となった唐人のなかに紙漉き職人がいたのである。791年にこの職人はバクダッドに送られた。紙漉き技術はやがてアラブ全域、ヨ-ロッパ、アメリカへと伝播していった。中国製紙法の西方伝播はシルクロ-ド史上特筆される事件であった。ちなみにイギリス、アメリカへの伝播は発明以来実に約1000年の歳月を要しており、この間、パピルスの葉、羊皮紙などの時代が続いたのであった。

●日本への伝播
 推古18年(610)に高麗人の僧侶、曇徴(どんちょう)によってもたらされたと言われる。これより先607年に第一回遣隋使として小野妹子などが派遣された。また、隋が滅んだあと引き続き行われた遣唐使のなかには真言宗開祖の空海(弘法大師)、天台宗開祖の最澄もいたので、色々な技術とともに経巻に纏わることゆえ紙漉き技術を持ち帰ったとして何ら不思議ではない。
 大化改新(645)で孝徳天皇が詔を発したなかに、「よろしく国々のさかいを観、或は図し持ち来たって示したてまつれ」(『日本書紀』)とある。我が国で最初の地図の作成命令とされる。もちろん紙がなければできない話であろう。天平10年(738)諸国に命じて、「国郡図」を作成させている(『続日本紀』)。
 さらに、平安中期になると源氏物語前編のなか、鈴虫では「唐の紙はもろくて、朝夕の御手ならしにもいかがとて、紙屋(かんや)人を召して-----------心ことに清らに-------」とある。朝夕におけるトイレの紙のことである。この頃の紙はもろかったので、日本独特の和紙が生まれていく。もっともトイレの紙を使えるのは相当身分の高い者であり、江戸時代でも庶民は竹箆を使用していたくらい紙は貴重品であった。やがて日本の和紙は中国へと逆輸出されていくことになる。

パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月18日

和紙の里探訪2

●武蔵国(武州)和紙の里~東秩父村・小川町~
 東秩父村は外秩父山地の北東部。昭和31年(1956)8月1日、槻川村と大河原村が合併、村の8割が山林である。和紙製造は奈良時代より続いており、約1300年の歴史と伝統を有し小川和紙の発祥地とされている。当時の面影を今に伝える和紙の里として、手漉き和紙の見学や紙漉き体験ができる。小川町は昭和30年(1955)2月、旧小川町、八和田村、竹沢村、大河村が合併。翌年、寄居町と一部境界変更して今日に至っている。南西部は800m前後の山々が盛り上り、北東部は100~200mの丘陵地である。南部は槻川、左岸に支流の兜川が流れ合流点が町の中心地である。穴八幡古墳、行人塚古墳群などがあり歴史は古い。774年「正倉院文書」の図書寮解や、924年延喜式などの文献に紙を奉じた記録が残されている。紙漉きが産業として栄えるようになり、江戸元禄期の文化、文政時代には江戸から最も近い紙の産地として発展していった。
 現在、東秩父村と小川町では、手漉き和紙業者12名が「細川紙」の技術保持者として伝来の家業に励んでいる。機械漉き業者4社と併せ、伝統的な和紙生産に加え、後継者育成、日本文化の伝統を担う産地として取り組んでいる。

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江戸末期の細川紙紙漉き家屋

●小川和紙:細川紙
 小川和紙を代表するものに「細川紙」がある。古くは武蔵紙とも呼ばれ、小川付近に移住してきた高麗人の技術がもたらしたとも言われている。宝亀5年(774)光仁天皇の頃、図書寮解「諸国未進紙並筆事」の条に、「武蔵紙四百八十帖、筆五十管」と記録されており、この地の和紙が献上されていたことを物語っている。その後の経過を表わす文献は見当たらないが、東秩父村、小川町で約1300年もの間漉かれ作られ続けている良質の和紙である。原料には楮100%を使用した未晒し紙で、独特の技術によって上品、素朴で丈夫な紙である。この地を代表する細川紙は、淡黄色の明るい紙色と光沢を持ち、地合の締まった、毛羽立ちが生じにくく強靭で存在感のあることが特徴と言われ、多くの愛好家に親しまれている。

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 由来については確たる文献など見当たらない。紀伊の高野山麓にある紙漉き村、細川村で漉かれていた奉書紙が、徳川幕府の初め武蔵国小川に移されたとも言われる。江戸の紙問屋からは一番近い唯一の紙漉き生産地であり、小川和紙の一種として「細川紙」を珍重したと言われる。その純粋性と強靭さは昔のままの姿で漉き続けられており、全国的にも類例が少ないことから、昭和53年(1978)3月、国の重要無形文化財に指定された。

パート3につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月19日

和紙の里探訪3

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●和紙の原料
 古くから和紙の原料は、(こうぞ〈写真左〉、桑科の落葉低木で3m位に成長。主に西日本の山地に自生、四国、高知産が多い。当地では埼玉、茨城、群馬産を使用。コウゾ・カウゾ・カンズ・カウソなどと呼ばれたがカミソ、紙麻の音便とも言われる)、三椏(みつまた〈写真右〉、沈丁花科の落葉低木で2m位に成長。紙幣の用紙として使われる)、雁皮(がんび、沈丁花科)の靭皮繊維を中心に使われ各々特徴がある。このほか麻、桑、竹、パルプなども用いられる。ネリには黄蜀葵(トロロアオイ、アオイ科の一年草で根を使用)。ネリは美しく均等な厚さの紙を漉くために不可欠なもので、国内では茨城県産が多い、四国の土佐産が根太く粘りも強いとされている。美男かづら、ノリウツギ、ニベなども使うが、紙がやや赤くなったりしてトロロアオイにはおよばない。

genryonokouzo.jpg 原料の楮

●紙漉きに向く土地柄
 紙漉きにあった土地の条件を備えていなければならない。もちろん原料の楮やネリの黄蜀葵などが入手可能なことは言うまでもない。また、楮や黄蜀葵の栽培、育成が難しいので、農作業の知識も必要となる。重要なのは清流、綺麗な水がなければ和紙は漉けないし、太陽の陽が当たらないと乾燥させることができない。
 東秩父村、小川町は秩父山系の麓の小川盆地で、町の南側を槻川が流れており、支流の兜川など豊かな清流に恵まれていたことが、小川の手漉き和紙を育んだといって良かろう。紙漉きは農家の副業(冬)として作られ、12~3月までは寒漉きといって最も良い時期とされる。夏場は原料が傷みやすく、黄蜀葵の働きが悪いからであるが、何といっても農作業の繁忙期であることも否めない。現在、槻川は水量も減少してしまい、古の清流ではなくなり、残念ながら井戸水を使用するようになってしまった。

パート4につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月20日

和紙の里探訪4

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●高麗(こま)神社と高麗郷
 はるか二千年以上の古に、東アジアでいち早く国家を形成したとされる高句麗。隣国などの猛攻にも耐え、多くの文化、芸術を残して消えていった国。その国より渡来した王族、高麗王若光を祀る高麗神社。そこは武蔵国、高麗川の清流と緑豊かな土地であった。霊亀2年(716)5月16日、女帝の元正天皇のとき新設された高麗郡の中心地であった(『続日本紀』)。
 現在、高麗郡建部から1300年に当たる平成28年(2016)に向けて、色々と町興しの企画がされている。高麗王若光は東国の七国に住む高句麗人1799名の人々と共に移住し、高い技術でこの地を開拓、紙漉き技術も伝播したと言われる。このとき朝廷からは従五位下の位を与えられ、その後王の位を授かって大和朝廷の官人として仕えたのである。その遺徳を偲び作られた霊廟が高麗神社の始まりである。明治29年(1896)入間郡への併合により高麗郡の名は消えたが、高麗神社、高麗川、高麗峠、高麗本郷、西武秩父線高麗駅、JR八高線高麗川駅などゆかりの名前が残る高麗郷は健在である。高麗郷とは明治元年(1868)の郡制によると、現在の日高市、鶴ヶ島市の全域と飯能市、入間市、狭山市、川越市の一部にまたがる広大な地であった。

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●高麗神社をとりまく史跡と自然
 高麗神社の創建にあたった高麗氏は、平安末期から明治に至るまで34代にわたり修験者であった。現在の宮司は高麗家59代である。この神社には歴史を綴る宝物、文化財が数多く残されており、なかでも高麗家住宅は国指定重要文化財となっている。境内は穏やかで清浄なる神域で、豊かな緑の中季節ごとに花が咲き、訪れる人を魅了してやまない。政界や文化人など多くの名士が訪れ、参拝記念に手植えをした樹木を見ると歴史の重みを感じる。

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●高麗にも「雷門」がある
 雷門といえば浅草の浅草寺にある門にかけられている大提灯を思うであろう。しかし、高麗神社の至近にある、聖天院の門にも、なんと雷門と同じような大提灯がぶら下がっている。この聖天院は高麗王若光の霊廟がある。高麗神社と並び訪れて参拝、見学する人が絶えない。時を越えて古の遠い高句麗に想いをはせることができる。

パート5につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月21日

和紙の里探訪5

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●おわりに
 一口に和紙といっても種類はたくさんある。紙漉き技術が中国で発明され遣隋使、遣唐使や高麗人の僧侶、曇徴によって我が国に伝播されたが、日本人の英知と器用さは、さまざまな原料を使い、さまざまな用途に合う日本独特の和紙を作るようになった。やがて、多くの絵師や書家、美術家、芸術家、工芸家などの手により、見事な書、絵画、地図、工芸品、美術品、襖、屏風、扇子、伝統工芸品、絵画などの形となり、たくさんの文化・芸術を生んできた。

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 今日、博物館、美術館、民族・歴史資料館などで目に触れるものの多くが、和紙の発達なくしては考えられなかったことである。もちろん都が京都・奈良にあった時代のことゆえ、紙漉き技術は近畿、四国、中部地方を中心に発達、徐々に北上していった。しかし、武蔵国が都から遠いにも拘わらず、比較的早く伝播したのは高麗人たちのおかげかもしれない。近年は書くことよりも印刷やコピ-などに頼り、和紙を使って書いたりして直接触れることが少なくなったが、日本の伝統美「和紙」も忘れてはならないと思う。

おしまい

今回の主な施設とアクセス

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東秩父村 和紙の里
電車=JR八高線・東武東上線小川駅からバス20分
クルマ=関越自動車道嵐山・小川ICから15分
入場無料/9~17時(体験は15時まで)/毎週月曜(祝日の場合は翌日)休/問合せ0493-82-1468
http://www.washinosato.co.jp/

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埼玉伝統工芸会館
電車=JR八高線・東武東上線小川駅から徒歩10分
クルマ=関越自動車道嵐山・小川ICから10分
入場大人300円/小中学生150円/9時30分~17時/毎週(祝日の場合は翌日)休/問合せ049-372-1220
http://saitamacraft.com/

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高麗神社
電車=西武池袋線高麗駅から徒歩40分あるいはタクシー5分、JR八高線高麗川駅から徒歩20分
クルマ=関越自動車道鶴ヶ島ICから20分
問合せ042-989-1403
http://www4.ocn.ne.jp/~fkoma/

投稿者:菊地正浩
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2008年03月31日

皇居東御苑散策と花だより1

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道路元標のある江戸日本橋から永代通りを皇居へ向うと、大手濠と桔梗濠に突き当たる。橋を渡ると江戸城正門の大手御門である。古の栄華を偲ばせる見事な石垣と渡櫓、同心番所、百人番所、大番所などが続く。そこには都心の喧騒を忘れさせる緑豊かな空間があり、綺麗に咲く花々や数多くの樹林、植物が出迎えてくれる。

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●大手御門と渡櫓
 大手門とは城の正門である。かつて江戸城の正門であった証しが数多く残されている。門内に入ると大手門渡櫓に圧倒される。明暦の大火(1657年)で焼失し再建されたものの、昭和20年(1945)4月、米軍の空襲でまた焼失した。現在のものは昭和43年(1968)に再建された櫓である。当時の櫓の屋根に飾られていた「鯱」が、歴史の証人として鎮座ましましている。

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●見事な三色梅と各番所
 大手門最初の番所が同心番所(写真左上)である。近くに咲く黄・白・紅の見事な三色の梅に目を奪われる。番所とは警備の詰所で、現在残っているのは、この同心番所と百人番所(写真左下)、大番所(写真右下)の三カ所である。城の奥へ行くほど、位の上の役人が詰めることになっていた。最初の同心番所は、登城する大名の供の監視に当たったとされる。次が百人番所で、本丸と二の丸を通じる要所なので、大手三之門の前に設けられていた。鉄砲百人組といわれ、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組で構成され、同心100人ずつが昼夜交代で警備していた。しんがりが大番所で、前の坂を上ると本丸の入口、中雀門(ちゅうじゃくもん)がある。ここは、位の高い与力・同心が警備した。

パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年04月01日

皇居東御苑散策と花だより2

shinamansaku.jpg ●大番所前に咲く見事なシナマンサク  シナマンサクはマンサク科の落葉低木で、山地に自生し3m位となる。早春、黄色い線形の四弁花を開き、楕円形の蒴果(さくか)を結ぶ。茶花(ちゃばな)として栽培、花季が早いのに珍重される。葉は止血剤となる。成長したシナマンサクの見事な開花姿である。
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●本丸にある三椏(みつまた)
 本丸正門に進んでくると視界がパッと開ける。かって、本丸、大奥、天守閣のあったところで、現在は芝生でボランティアの清掃奉仕によって手入れも行き届いている。その入口の傍らに三椏が咲いている。中国原産で漢名を黄瑞香といい、繊維植物として日本暖地に栽培された。ジンチョウゲ科の落葉低木で、2~3m位に成長し枝は三つに分かれる。樹皮は和紙の原料となり、我が国の紙幣に使われている。皇居にも紙幣の原料、三椏が見事な花をつけていたのである。


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●天守閣の代用として使われた「富士見櫓」
「櫓」とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19櫓が建っていた。今では、伏見櫓、桜田二重櫓、富士見櫓の3つが残っている。中でも富士見櫓は唯一の三重櫓である。明暦の大火(1657年)で焼失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めた。もちろんその名のとおり富士山も眺められたのである。明治に入ってから我が国の測量を行うにあたり、一等三角点の第一点とし、以降測量に必要な三角点標石を全国に設置していった。

パート3につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年04月02日

皇居東御苑散策と花だより3

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●松之大廊下跡碑と寒桜
 元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩と吉良上野介義央の刃傷事件があったところ。後に赤穂浪士が討入りし『忠臣蔵』として有名になった。廊下に沿った襖間に、松と千鳥が描かれていたのが名前の由来。江戸城の中でも2番目に長い畳敷の立派な廊下であったという。今は松林に変わり見事な寒桜が咲く名所の一つである。

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●石室(いしむろ)
 抜け穴とか金蔵とか諸説がある。ここは、大奥の御納戸脇であった場所柄からすると、非常時の際に大奥用の調度品などを納めたところらしい。伊豆半島産の安山岩を運んで来て作った。

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●天守台
最初の天守閣は慶長12年(1607)、二代将軍秀忠のとき完成した。その後、大修築をして寛永15年(1638)、三代将軍家光のとき、国内で最大の天守閣として完成した。19年後、明暦の大火で飛び火により全焼してしまい、以降再建されなかった。天守台に上ると四方の眺めがすばらしく訪れる人が絶えない。

パート4につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年04月03日

皇居東御苑散策と花だより4

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●桃華楽堂
 昭和41年(1966)、香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂である。八角形の建物、屋根はテッセンの花弁を模っている。八つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日、月、星、松竹梅、楽の音などをイメ-ジした図柄が、陶片で描かれている。香淳皇后のお印「桃」にちなんで命名された。

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●北桔橋門(きたはねばしもん)
皇居東御苑内の一般公開はここまでである。乾門、西桔梗御門、蓮池御門を渡って宮殿の方へは行けない。だから北桔橋御門を通り、桔橋を渡り竹橋御門のほうへ出てみる。桔橋とは、跳ね橋、撥ね橋、刎橋のことであり、城門などで普段不必要な時は綱で吊り上げておき、必要に応じて下ろす橋である。ここから眺める平川濠は美しい。

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●竹橋御門と紅梅、ハクモクレン
 旧江戸城内曲輪15門の一つで、天正18年(1590)、徳川家康が江戸入国の頃、「竹を編みて渡されしよりの名なり」と、その由来が伝えられているが、他にも諸説がある。いづれも定かではない。御門を通る道は、桜田門外の変により一時閉鎖されたが、明治3年(1870)、再開通して今の通称、代官町通りへと変遷する。現在のア-チ型竹橋は、大正15年(1926)、帝都復興事業で架設され、平成5年3月改修、白、黒、桜のみかげ石の橋となった。

パート5につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年04月04日

皇居東御苑散策と花だより5

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●平川橋、平川御門と見事な紅白の梅
 平川濠と大手濠を挟んで平川橋が架かっている。橋を渡ると三の丸を守っている平川御門である。平川御門から反対側を見ると、その先は御三卿の一家である一ツ橋殿の屋敷があったところで、日本橋川のほうには一ツ橋が架かっている。平川御門の中に入ると、見事な紅白の梅がたくさん咲き誇っている。石垣と梅がマッチしていてなかなか見応えがある。

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 散策も終了に近づくと、皇居正門石橋旧飾電燈に出会う。今ではめったに見られない代物である。やがて大手御門に到着し東御苑を一周したことになる。入った時とは反対に門内から永代通りを望む景色は高層ビルの建ち並ぶ超近代的な江戸である。この景色を見たならば、徳川家康はさぞ驚くことであろう。

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『天璋院篤姫と幕末を旅する』(一水社)より抜粋(作成:久芳勝也)

●むすび
 我が国を代表するシンボル的な公園は、皇居の宮殿を中心にして、皇居東御苑、北の丸公園、12の濠によって皇居を取り巻いている外周地区がある。総面積115ヘクタ-ルといわれ、このうち濠の水面部は37ヘクタ-ルといわれる。濠とは、敵の進入を防ぐため、城の周囲を堀って、水をたたえたところである。今回は春の花便りとして東御苑を紹介したが、北の丸公園や12の濠に架かる橋と御門、即ち、内堀と外堀一周も見どころがたくさんあって興味が尽きない。また、昔の江戸城から考えると浅草見附や四谷見附、喰い違い道路など歴史の証人はいくらでもある。次の機会に譲ることとしたい。 

おしまい
投稿者:菊地正浩
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2008年04月07日

千鳥ケ淵の桜は天下一品

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 3月29日(土)、早くも皇居周辺の桜が満開となった。内濠である千鳥ケ淵は「千鳥」の形をしていることから名付けられたという。昔は半蔵濠と一体であったが、明治33年(1900)に道路建設によって埋め立てられ、二つに分けられた。天下一品(筆者の主観)の桜は、靖国神社前の田安門(門内は武道館で北の丸公園)から始まる。千鳥ケ淵を挟んで見事な枝振りの桜が満開となった景観は、濠の水、白鳥や鴨、堤塘(土手)に咲く花々、花見のボ-ト、それら一体のコントラストがすばらしい。花見客は千鳥ケ淵戦没者墓苑のある公園側からも繰り出してくる。早朝より夜桜見物まで終日賑わう、その数12万人。今年も皇居周辺は春爛漫となった。

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写真左から半蔵門付近・桜田門・最高裁判所前

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投稿者:菊地正浩
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2008年04月16日

5月3・4日は両国にぎわい祭り1

「両国にぎわい祭り」5月3日(土)・4日(日)11~16時

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墨田区では地元両国をはじめ各町会、商店会のほか、江戸東京博物館、日本相撲協会その他多くの団体と協力して、一昨年より「にぎわい祭り」を開催してきた。ネ-ミングよろしく回を重ねるにつれ、「にぎわい」を増してきた。実行委員会では、今年も大いに盛り上げようと準備をしている。ここにパンフレットを掲載して祭りの概要を紹介したい。

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●食・遊・学が楽しめる
 JR両国駅を降りると、もうそこが会場である。歩行者天国となる国技館通りのメイン会場と、両国国技館、江戸東京博物館、回向院の各会場では、「食・遊・学」というテ-マで盛りだくさんのイベントが企画されている。両国をおなかいっぱい召し上がれ! というキャッチフレ-ズのとおり、メイン会場では各相撲部屋が自慢のちゃんこ料理を競演する。「一杯500円で売り切れ御免」であり、毎年お目当てのちゃんこを味わおうと行列ができる。お相撲さんの作る多量のちゃんこも、あっという間に売り切れてしまう人気である。
 食もいいがさすがは相撲の町だけのことはある。各会場にも大相撲に関係する行事がいっぱい、普段見ることのできない稽古風景、やぐら太鼓、相撲甚句等々、家族連れやカップルでも一日中楽しめる。

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 食・遊のあとは学といこう。江戸東京博物館(写真左)では江戸時代や明治・大正・昭和の戦前時代にタイムスリップした気分を味わえる。至近のところには東京都復興記念館があって、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を安置している慰霊堂(写真右)があり、資料の保存、展示をしている。さらに、「両国ぶらり散歩ツア-」に参加して歴史散策するのも良い。明日以降、筆者のおすすめポイントを2~3紹介しよう。

パート2につづく

投稿者:菊地正浩
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2008年04月17日

5月3・4日は両国にぎわい祭り2

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●回向院
 明暦3年(1657)、振袖火事といわれる江戸の大火が発生した。下町一帯は勿論、江戸城天守閣まで類焼するという凄まじさで、死者10万8千人といわれている。この状況を視察した将軍家綱の叔父が、将軍に進言して本所に50間四方の土地を与え回向院を建立した。犠牲者のほとんどが身元不明の武士、町民であったが、回向院では石碑を建て、身分や宗派の差別なく弔った。初代の住職には、徳川家菩提寺である芝の増上寺から幕府の命を受けて就いた。後に寺の境内で、慰霊の勧進相撲が興行されたが、これが我が国の大相撲発祥となったのである。因みに、旧両国国技館は回向院の隣地にあった。

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 境内には、海難供養碑(ロシアへ漂流した大黒屋の船、船型の碑)、江戸文化の担い手達の墓碑(浄瑠璃の竹本義太夫等の他、三味線の皮となる猫や犬の供養)、猫の報恩伝説(魚屋利兵衛と商家のとら猫)、義賊・ねずみ小僧次郎吉の墓(写真左)相撲力塚(10代から76年間の相撲塚)(写真右)などが見られる。祭りの当日には本堂で、大本山増上寺雅楽会による雅楽の演奏が行われたり、江戸太神楽、投扇興などのほか法話も聞ける。普段では見聞できない行事なので、毎年大勢の人が訪れ本堂はいっぱいで入り切れなくなってしまう。

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●吉良邸跡(回向院の裏手)
 墨田区両国3丁目、旧本所松坂町に、なまこ壁に囲まれた吉良邸跡がある。赤穂浪士47士が討入りしたところで、『忠臣蔵』として有名になった場所である。見事に仇討ちをして、その首を洗ったとされる井戸(写真下左)が残っている。吉良上野介追慕碑(写真下中央)吉良家の忠臣20士の碑(写真下右)もあり、今も訪れ供養する人は絶えない。現在、都の指定旧跡となっている。

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パート3につづく

投稿者:菊地正浩
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2008年04月18日

5月3・4日は両国にぎわい祭り3

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●両国花火資料館(回向院の並び両国橋方面)
 両国隅田川といえば、夏の風物詩「花火」であろう。享保18年(1733)、両国川開きとして始められた花火が、納涼花火大会の発祥である。大輪の華の歴史を今に伝える資料館には、花火の現物や打ち上げの筒、江戸情緒、火の芸術、花火師の心意気などを感じることができる。

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その他、相撲部屋の声が聞こえる両国界隈ぶらり散歩マップ(JR東日本、駅からマップ)を参考にしてはいかが。

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問い合わせ●両国にぎわい祭り実行委員会事務局(江戸東京博物館内)03-3626-9974

http://ryogoku.weblogs.jp/sanpo/files/nigiwai_200805.pdf

おしまい

投稿者:菊地正浩
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2008年04月23日

重要文化財「日本銀行本店(旧館本館)」1

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 明治中期の西洋式建物で、赤坂離宮(現在の迎賓館・紀州徳川家跡、明治42年〈1909〉片山東熊の設計で竣工)とともに、我が国の二大傑作と言われる。明治29年(1896)、5年半の歳月をかけて完成。設計者は東京駅や旧両国国技館も手掛けた辰野金吾で、ベルギ-中央銀行を見本にルネッサンス様式を取り入れたネオバロック建築。関東大震災、東京大空襲にもめげず、110余年経過した今でも日本橋のシンボルとして、昔の面影と美しさを保っている。とくに大正12年(1923)9月1日の関東大震災では、独特の耐震建築で倒壊しなかったものの、翌2日になって、堅牢な石造りをもってしても周辺の延焼の火の手により、3階の明り取りの窓から炎が侵入してしまった。行員による必死の消火活動で、3階は全焼したが1、2階は一部だけにとどまった。震災時こそだから中央銀行の使命を果たそうと、翌3日定刻より少し遅れたものの開店、震災に伴う混乱回避のため、金融などの緊急対策を打ち出していった。その後、東京大空襲にもめげず歴史の証人として美しい姿を保ち続けている。

matsukatamasayashi.jpg 松方正義(1835~1924)

●日本銀行の創立
 明治維新は徳川幕府260年余にわたる封建制度を解体した。富国強兵、殖産振興を目標としつつ、新政府が着手したのは貨幣制度の改革で、明治4年(1871)5月には、早くも新貨条例を公布した。問題山積のなか、財政上の必要から太政官札以下数種の不換政府紙幣を発行した。結果、自ら貨幣制度の基礎を危うくし、ついに明治10年(1877)2月、西南戦争勃発を機に矛盾が露呈した。戦費調達のため、27百万円の不換政府紙幣、15百万円の不換国立銀行紙幣を乱発したため、銀紙の値開きが著しくなった。米価は2倍、貿易収支赤字、正貨流出、金利高騰、投機熱などインフレ-ションの展開となってしまった。このインフレ-ション対策には不換紙幣の整理が必至であつた。明治14年(1881)10月、松方正義の大蔵卿就任により着手され、明治15年(1882)6月、不換紙幣整理方策の中核として、日本銀行が創立された。

パート2につづく

投稿者:菊地正浩
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2008年04月24日

重要文化財「日本銀行本店(旧館本館)」2

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●創業と初代総裁
 日本銀行条例が制定され、同年10月10日に営業を開始した。場所は東京日本橋区北新堀町21番地、旧北海道開拓使出張所の建物を店舗とした。隅田川の永代橋、そこに注ぐ日本橋川の豊海橋のところ(写真左)に位置していた。初代総裁は吉原重俊(鹿児島藩士の子で松方の郷党の後輩)で、38歳という壮年で就任、43歳の若き現職のまま病に倒れ、惜しまれて逝去した。明治16年(1883)4月28日の開業式当日、周辺道路両側は数千の提灯が掲げられ、永代橋にも電燈がとりつけられた。
 会場内は幔幕、提灯、万国旗、草花などで飾られ、陸海軍による吹奏、まるで鹿鳴館を思わせるようであった。式典や晩餐会には松方大蔵卿、吉原総裁をはじめ、皇族、大臣、参議、外国公使など内外名士による参列者数千、夜の12時まで繰り広げられた。夜空を飾る幾百幾千の提灯やランプと電燈、隅田川での仕掛花火は日本橋っ子の度肝を抜いたといわれる。現在この地には、記念碑(写真右)が建てられて当時を偲んでひそかにたたずんでいる。(参考文献『日本銀行八十年史』)

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●本店移転
 明治29年(1896)3月22日、3代目川田総裁のとき、日本橋区本町常盤橋前に移転した。移転地には、金融経済の中心地として日本橋が選ばれ、なかでも江戸時代の金座跡地に決定した。金座とは、金貨の鋳造、鑑定、発行所で、江戸のほか駿府、佐渡、京都の4カ所にあった。各金座は江戸中期までに廃止または縮小されていたが、江戸座も明治2年(1869)、造幣局の設置で廃止された。ちなみに、日本橋を渡ると銀座で、銀貨の鋳造、発行所があった。現在は銀座という地名だけが残っているが、この金座、銀座辺りは金融、経済の中心地であり、両替商が軒を連ね貨幣に縁の深い土地である。三越の前身、越後屋呉服店、三井住友銀行の前身、三井両替店などは代表的といえる。

tokiwabashikarakkyuhonkan.jpg 常盤橋から見る旧本館

●重要文化財 旧本館
「にほん銀行」か、「にっぽん銀行」か、結論はどちらも正しい。しかし、日本銀行の人たちは皆、「にっぽん銀行」と言う。定かではないが、初代総裁吉原重俊が薩摩出身で、威勢がよく、「にっぽん銀行」と呼んでいたということらしい。いずれにしろ江戸時代の流行語に「いよ! にっぽんいち」という掛け声がある。芝居や歌舞伎でも聞かれるし、現在ではスポ-ツの応援で、「にっぽんチャチャチャ」などという声援が聞かれる。あらためて、堂々たる旧本館の建物を見てみよう。さすが、「にっぽんいち」だけのことはある。建築様式については冒頭記述したとおりである。

パート3につづく

投稿者:菊地正浩
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2008年04月25日

重要文化財「日本銀行本店(旧館本館)」3

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写真左から中庭へと入る西口通用門・中庭内部・中庭から見た館内

umanomizunomiba.jpg ●中庭

 正門を中に入る。当時は馬車の時代であった。その名残が今も残っている。馬の水飲み場であり、馬を繋いでいた場所である。我が国中央銀行としての歴史とともに歩んできた、中庭にある馬の水飲み場で貴重な遺跡である。

kaheimuseum1.jpg kaheimuseum3.jpg kaheimuseumstamp.jpg

●貨幣博物館
 貨幣の誕生は、永らく和同開珎とされてきた。平成20年(2008)は、和銅元年(708)から1300年になる。しかし、平成10年(1998)に、奈良、飛鳥池遺構の発掘調査で「富本銭」が、和同開珎より古い7世紀後半に鋳造されていたことが判り、貨幣史は大きく変わった。古代から現代に至るまでの貨幣史について、日本銀行金融研究所では、昭和57年(1982)、日本銀行創立100周年記念事業として、旧本館前に貨幣博物館をオ-プンした。古来、貨幣類や江戸時代の貨幣、藩札、利札、日本を中心に東アジアの貨幣、在日米軍軍票等々、およそお金に纏わる大コレクションが公開されている。貨幣誕生とその変遷について、最新の研究成果を踏まえ、多彩な資料に触れられ飽きることがない。
●入館無料/9時30分~16時30分/月曜日、祝日(ただし土・日曜と重なる場合は開館)休

http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm

●おわりに
 3月末で第30代日本銀行総裁が任期切れとなり、しばし空席となった。日本銀行創立以来、前代見門の出来事である。昨今のねじれ国会の影響によるものであるが、ようやく白川総裁が就任することとなった。日本銀行の歴史で後世の語り草となるであろう。そんなことには関係なく今日も旧本館は凛として建っている。日本銀行総裁の話題でマスコミが賑わった機会を捉え、重要文化財の旧本館とその歴史の一端を紹介したものである。

おしまい

投稿者:菊地正浩
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