手漉き和紙の里(KK)

 

〇世界無形文化遺産登録の小川町細川紙よりも多く江戸の紙需要を支えていた飯能・名栗。

 

江戸時代、小川町の「細川紙技術者協会」の保持する紙漉き技術は、飯能地方一円が生産地として大量に漉き出していた。慶長2年(1597)の検地帳に、楮の記述はあるが資料はない。正倉院文書、宝亀5年(774年)の圖書寮解に諸国未進并筆事があり、その中に「武蔵国紙四百八十帳、筆五十管」とあり、武蔵国のどこか判らない。確実なのは正保年間(1644~1647)の武蔵田園簿より、紙舟役(紙を漉く舟にかけられた貢祖)の金額を現在の小川町域と飯能市域に分けて一覧表にすると、飯能町、唐竹村、日影村、苅生村、長田村、白子村、下吾野村、上吾野村となる。

 

集落の傍らに川が流れ、楮の栽培に適していた。当時、小川町が8村で10000文に対して、飯能市は旧8村で26873文と小川より生産されていたことを示している。文化期を境に薪炭、木材が増え、衰退するが大正頃まで楮が栽培され小川町へ売りに行った。

 

歴史の面影として「かみや」の屋号が残っている。

 

名栗村でも上名栗、下名栗村で農間稼ぎとして村をあげての副業に紙漉きを行なっていた。年貢割付状(割符わっぷ)によると、紙売出(永八十文、紙舟役永八百八十六文)の年貢をかけられていた。万治3~60年ほどたった享保年間の明細帳に、桑、楮の栽培が主と記されている。文政11年の年貢名寄帳には油紙売出とも記されている。年貢は幕末までかけられていたから、紙漉きが続いていたことはあきらか。しかし、戦後、特に市制後は紙漉きに変わる西川材など林業や木工が中心となり紙漉きは絶えた。

 
 

〇飯能和紙復活の兆し?

 

埼玉県飯能市吾野は県西南部、飯能市北西部に位置。もと入間郡吾野村、1956年(昭和31年)飯能市に編入。正丸峠の玄関口で秩父街道吾野宿として発展、江戸への物資中継地であった。「足と腰の仏様」子ノ権現が有名である。

出迎える阿吽の仁王像

出迎える阿吽の仁王像

本堂

本堂

境内にある草履・下駄

境内にある草履・下駄

 

2015年8月16日~8月30日に秩父街道吾野宿で、展覧会―飯能の紙―が開催された。主催は吾野宿再生と吾野を語る会・飯能紙再生の会で、企画したのは一代漉きの滝澤徹也さんである。滝澤さんは小川町に住み修業、全国の一代漉きとも親交を持ち、東京あきる野市にある、乙津軍道紙復活にも関わった。清流高麗川の畔に漉き場を設け復活を図っている。大がかりではないが、二階建ての古民家で資料や楮和紙、見事なランプシェードなど数々の製品が展示されており、訪れる人を楽しませている。出展した漉き人は何れも一代漉きの浅岡 優策、加茂 孝子、藤波 佳子、柳井 嗣雄さんである。後援は飯能市、同教育委員会、同観光協会、飯能ケーブルテレビ㈱、㈱文化新聞社。

 

小川町・東秩父村が脚光を浴び、観光客数も1.5培と言われるが、飯能・名栗、日高、越生、都幾川、鳩山など同じ比企郡の市町村一帯がぴっかり千両といわれた程の和紙を江戸に送っていた。吾野宿で飯能紙が復活すれば、清流名栗川の畔、名栗にも復活させ西川材と飯能・名栗和紙による村おこしは、観光客誘致などにより消滅可能自治体を救う一助になるかもしれないし、ぜひそう願いたい。

秩父街道吾野宿の飯能紙展示場

秩父街道吾野宿の飯能紙展示場

秩父街道吾野宿の飯能紙展示場

秩父街道吾野宿の飯能紙展示場

楮和紙

楮和紙

ランプシェード

ランプシェード

ランプシェード

ランプシェード

名栗川沿いの旧名栗村紙里

名栗川沿いの旧名栗村紙里

かつての名栗和紙による凧

かつての名栗和紙による凧

 

 

( 2015年9月2日寄稿  )

 

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