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 16日の帰国後も慌しくて、すぐに録画を観ることもできず、18日になってかろうじてUPします。それでも今回は「直江状」という見せ場があったため、視聴率は21.4%と、かなり高い数値を出したようです。
 時は慶長5年(1600)3月、兼続は神指城の普請に急ぎ、これが春日山城の堀秀治に讒言されて、家康から上杉のもとに詰問状が届きます。嗚呼、やはり兼続とともに「天下の三陪臣」と呼ばれた堀直政(監物)は出てきませんでしたね。この人にスポットをあてるとおもしろかったのに。
 で、もって兼続が家康へ返書をしたためのが、世にいう「直江状」。この名文がたちまちベストセラーとなり、毛利・福島・小早川・伊達などの諸大名や淀殿・秀頼母子、三成にも読まれています。いいですね夢の印税生活って。しかし、あんなに出回ったということは当時はコピー機がないのですから、一生懸命書き写して出回ったのでしょうかね。この頃には活版印刷が日本に入ってきていますけど。
 家康が怒って会津攻めの軍を起こし、兼続は白河の革籠原で待ちうけ、誘引して家康軍に打撃を与えようとします。このときの妄想シーンが楽しいですね。一方の上方ではようやく大谷吉継が登場。しかし、差別を意識してしまったか出番はほんの少し。ここで吉継が三成をたしなめるシーンがあってもよさそうなのに。しかもドラマでは三成に「なぜ大将に立たぬ」と問い、三成が「わしには人望がない」と答えていますが、実際は吉継が「お前には人望がないから毛利を大将に立てろ」といったはず。人望というより20万足らずの石高の三成に諸大名が従わないというのは真相でしょう。また三成を善玉に描くあまり、人質として大坂入城を拒んだ細川ガラシャの自害などは端折られましたね。
 三成挙兵後、家康は単細胞の福島正則を騙し、結局、上杉とは戦わずに下野小山(栃木県小山市)で、踵(きびす)を返して西へ転進します。兼続はここぞとばかり追撃を主張しますが、景勝は「追い討ちをかけるのは義に背く」というフェアプレイを説き、追撃しません。しかも景勝が「わしを切ってからにせよ」といい、兼続は刀まで抜きますが、結局は景勝に従うことになります。でも、ここで景勝が家康と対決しなかったのが、減封とはいえ上杉家を存続させることができたのですから、敗軍の将としては正解だったのかもしれませんね。
 史跡紀行では福島県会津若松市の神指城跡や白河市の白河関跡、小峰城跡、革籠原防塁跡などが紹介されました。白河関や革籠原などは未訪ですが、白河小峰城は2007年10月に訪問しましたので、今回は白河小峰城と城のスタンプをUPします。
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投稿者:管理人
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