甦れ!童謡の郷 広野原(福島県)  by  菊地 正浩

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     今は山中 今は浜 今は鉄橋 渡るぞと

思うまもなく トンネルの 

やみを通って 広野原

                                                    -文部省唱歌「汽車」1‐

 明治・大正・昭和にわたる懐かしい尋常小学校唱歌「汽車」、その舞台は福島県双葉郡広野町である。現在いわき市の北隣に位置する火力発電所のある町だ。
 
 歴史も古く縄文、弥生、古墳群などがある。大化2年(646)陸奥国が置かれ、養老2年(718)石城国が分割されて誕生した。浜街道には10駅家が置かれ、広野も宿駅として栄えた。まもなく石城国は廃され、弘仁2年(811)に駅家も廃止された。

 平安末期の頃、平氏の流れを汲む岩城氏が勢力をのばしたが、関ヶ原後、天領となり小名浜代官支配を繰り返した。天保の飢饉には、領民を救済した名代官島田帯刀の功徳碑が村民によって建立された。

 昭和46年、火力発電所の誘致が決定。同55年、運転開始により電源地帯の一翼を担って町は変貌した。

 

< 東日本大震災と福島原発事故 >

 いわき七浜の海岸線は約80kmにも及び、一つの市が有する海岸線としては日本一の長さを誇る。勿来の関から小名浜・四倉を経て塩屋崎灯台(美空ひばりの歌碑・みだれ髪がある)を抜けると久ノ浜である。

 久ノ浜は波立薬師でも知られ、美しい海岸に昇る元旦の日の出は、毎年多くのフアンが訪れる。写真家にも知られるスポットで、カレンダーやJRのポスターにも掲載されている。

 JR常磐線に乗り、久ノ浜―広野間の景観を作詞したものが「汽車」と伝えられている。作詞、大和田建樹、作曲、大和田愛羅によるもので、この作詞地を記念して広野駅ホームに記念碑が建立された。久ノ浜からトンネルのやみを通ると広野原(広野駅)である。

JR常磐線広野駅
ホームにある「汽車」の記念碑

 車窓からは右手が広野原で、奥には松の防風林が続き太平洋の眺望が開けている。だが、大津波は広野原を荒野に変え、まばらな松林になってしまった。

 

前方が松林、その先は太平洋。ここで折り返し運転

 常磐自動車道、JR常磐線も四倉までであったが、ようやく広野IC、広野駅まで開通した。しかし、広野駅や町には人影を探すのにも苦労する。

常磐自動車道広野IC通行止、先は警戒区

 かつての賑わいを取り戻すには、福島原発事故が解決して富岡・相馬・仙台へと行けるまで待たねばならない。
広野町自体、下水道浄化センターの復活は来年春である。つまり、トイレの使用も苦労しているのだ。取材で訪れた広野町図書室では熱心に応対してくれた。そして浄化センターの工事現場でも丁寧に説明していただいた。感謝の気持と対照的に津波被害の写真を載せたくないのが残念である。

 いつの日か歴史の事実として日の目を見る日が来ることを願っている。

 

( 2012年6月15日 寄稿 )