手漉き和紙の里(276)「江戸を支え消えた紙里・細川紙の飯能、名栗」  by 菊地 正浩

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< 世界無形文化遺産登録によせて >  

飯能市は明治、昭和、平成の大合併により今日を迎え、東京のベッドタウンとして東部の台地で宅地、工業地化が目立っている。

関東山地の北部をなす秩父山地に属し、金峰山周辺の2500mを超える地域を最高とし、甲武信岳2483m、雲取山2018m、三国山1828mなど2000m前後の山々が連なり、東流する高麗川と入間川、その支流によって解析され起伏も激しい。

天覧山(元羅漢山と言ったが明治16年、明治天皇が陸軍大演習を総監したのを記念して改名)で山地は終わり、飯能、寄居、児玉を結び、関東平野をほぼ南北に走る「八王子構造線」(500万年~200万年前の鮮新統堆積以前の断層線とされている)を境にして丘陵地に移る。

北西部山地を発源とする高麗川が北部を南東に流れ、南寄りには支流の成木川を右岸に合わせて東流する名栗川(入間川の上流部)がある。

中心の飯能市街は名栗川が秩父の山間から武蔵台地へ流れ出るあたりに形成された渓谷集落で、山間部から出される武蔵木曽といわれるスギ、ヒノキなど、いわゆる西川材の集散地として発展した。西川材とは江戸の西方の川で運ばれる木材の意といわれるが、幕末には青梅縞や太織絹の生産で賑わい、伝統工芸は織物、木材加工、家具などで六斎市が立った。

 

旧名栗村は中世の郷村名で、入り組んだ谷間の意などいろいろある。中世を通じて名栗谷を総称して名栗郷といわれていた。

与謝野晶子はラジウム鉱泉に入り「多摩川 北の名栗川に分かれる 名栗の渓谷は北へ入り山深く 渓は細いが女性的に優しく 清い水の流れが 四里に亘って屈曲している。」と書いている。

全面積の95%近くを林野が占め、北部山地を発源とする名栗川が右岸に支流の有間川を合わせ南東流する。

西川材は若筏に組まれ名栗川で運ばれた。名栗渓谷は吾妻峡とも呼ばれ子持岩、カブト岩などの奇岩が散在する。その他、正丸峠、伊豆が岳、多峰主山(とうのず)、宮沢湖、名栗湖、奥武蔵自然歩道など、究極の観光資源といわれる自然が多く、全域が奥武蔵県立自然公園に属し、森林文化都市としている。
 

○手漉き和紙~小川町よりも多く江戸の紙需要を支えていた~

江戸時代、小川町の「細川紙技術者協会」の保持する紙漉き技術は、飯能地方一円が生産地として大量に漉き出していた。

慶長2年(1597)の検地帳に、楮の記述はあるが資料はない。

正倉院文書、宝亀5年(774年)の圖書寮解に諸国未進并筆事があり、その中に「武蔵国紙四百八十帳、筆五十管」とあり、武蔵国とどこか判らないが、確実なのは正保年間(1644~1647)の武蔵田園簿より、紙舟役(紙を漉く舟にかけられた貢祖)の金額を現在の小川町域と飯能市域に分けて一覧表にすると、飯能町、唐竹村、日影村、苅生村、長田村、白子村、下吾野村、上吾野村とある。

集落の傍らに川が流れ、楮の栽培に適していた。当時、小川町が8村で10000文に対して、飯能市は旧8村で26873文と小川より生産されていたことを示している。

文化期を境に薪炭、木材が増え、衰退するが大正頃まで楮が栽培され小川町へ売りに行った。「かみや」の屋号が残っている。名栗村でも上名栗、下名栗村で農間稼ぎとして村をあげての副業に紙漉きを行なっていた。

年貢割付状(割符わっぷ)によると、紙売出(永八十文、紙舟役永八百八十六文)の年貢をかけられていた。万治3~60年ほどたった享保年間の明細帳に、桑、楮の栽培が主と記されている。文政11年の年貢名寄帳には油紙売出とも記されている。年貢は幕末までかけられていたから、紙漉きが続いていたことはあきらか。

名栗湖・有間ダム

 

名栗川とかつての紙里

 

( 2015年1月8日寄稿 )