日本ほっつき歩き

和歌山県・新宮市を訪ねて(2日目)by 有田 慎二

※1日目は2月25日投稿

遠いからなかなか行けない歴史のまちで、寺町、スイーツ、城跡をめぐる

朝一で「神倉神社」と「天の磐盾(ゴトビキ岩)」を拝む

1泊2日の新宮ツアー。2日目は朝一番に「神倉神社」へ。

じつはここも初めてではない。

以前、熊野速玉(くまのはやたま)大社を訪ねた際、ついでに足を運んではいる。が、このときは時間がなかったので石段は登らず、残念無念と言いつつ引き返した。そのときから、いつかは「神倉神社」の頂上へ、と思っていた。

いわば念願の地であった。まあ、そこまでいうと大げさだけど。

 

それから数年を経た今、改めて「神倉神社」の急峻な石段を見上げる。

念願叶ってここへ来たというのに、「う~む」と、ため息が漏れた。登れないと残念がるくせに、いざ、登っていいとなると尻込みするとは、我ながら身勝手だとは思うが、無理もない。

なぜなら、近頃めっきり歳のせいで脚に自信がないから。いやはや、歳はとりたくないものですな。

 

石段の脇には参拝者用の杖が置かれていた。

そうか、杖を使えば少しは楽か、と思ってふと前を見ると、ご高齢の女性のガイドさんがヒョイヒョイ、と涼しい顔で軽やかに登っていくではないか。後で聞いたらこの方、御年七十も後半だそうですよ。

そんなお歳を召されたご婦人が平気で登っておられるのに、アラフィフの若僧(笑)が臆してはならぬ。覚悟を決めて、杖を使わず、石段に足をかけた。

 

神倉神社の頂上へと続く石段。この上に「天の磐盾(ゴトビキ岩)」がある

 

新宮市の南に聳え立ち、市内のどこからでも山姿を拝める権現山(通称・神倉山)。

その頂上付近、高さ100m近い断崖絶壁のほぼ頂きに位置する「神倉神社」は、熊野大神が熊野三山として祀られる前に最初に降臨された聖地である。

つまり、熊野信仰の中心とされる熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社の三社よりもさらに歴史が古いわけで、これは大変なことですぜ。その起源を辿れば、恐らく人間がこの地に住み始めた頃まで遡らねばならないだろう。

宗教はおろか文字さえなかった時代からアニミズム(自然崇拝)により信仰されたと想像される巨石が石段の頂上に鎮座していて、これを地元の人は「ゴトビキ岩」と呼んでいる。

いわば自然崇拝の象徴的存在で、なおかつ熊野大神降臨の地でもある「神倉神社」は、日本全国でも指折りの、もしかしたら日本一かもしれないパワースーポットなのである。

 

ちなみに「ゴトビキ岩」のゴトビキとは、ひきがえるという意の方言だそう。姿が似ているからでしょうね。

しかし、だ。

親しみを込めてそう呼ぶのはわかるけど、ひきがえる岩じゃ、有り難みが薄れるよねえ。神の岩なんだから、もっと重めかしい名の方がいいんじゃないの、と思ったら、境内に「神武天皇紀 到熊野神邑 且登天磐盾」と彫られた石碑が。

古事記や日本書紀にも記述がある、神武天皇が東征の際に登った「天の磐盾」がこの岩だとされているのだ。

すごい。すごいけどもったいない。

 

なので不肖私、僭越ながらご提案させていただきたい。

今後、ゴトビキ岩という言葉は、あくまで地元での通称というか愛称に留めて、観光情報など対外的にはすべて「天の磐盾」という言葉を使用することを。

そうすると、もしかしたら「天の岩戸」とか、「天の逆鉾」などと並び称され、もっと有名になると思うが、いかがだろうか?

新宮及び和歌山県の観光関係の皆様、余計なお世話かと存じますが、ご検討賜りたし。

 

神武天皇の石碑。古事記や日本書紀にも記された地である

 

見下ろせば足がすくみそうな石段の急斜面

 

そんなことを想いながら、かの源頼朝が寄進したという538段の石段を一歩一歩、無理せず自分のペースで登っていけば、思いのほか息も上がらず、膝もガクガクせず、多少汗ばんだ程度で頂上へ到達できた。

寒い時期で、朝一番だからよかったんでしょうな。

 

そうして仰ぎ見たゴトビキ岩、もとい、「天の磐盾」は、たしかに神々しくみえた。

過去、大門坂から熊野古道を歩き、那智の滝を仰ぎ見たときと同様の感動があった。

自分の足で歩いて辿り着く、というのが大事なのだろう、と思う。

そこから見渡す新宮の街と、その先に広がる太平洋の大海原も朝日を浴びて輝いていた。

 

下りの石段は、上り以上に要注意だ。転げ落ちたら大惨事。

だけど、毎年2月6日に行われる火祭り(正式には「熊野御燈祭」)の際は、松明を掲げた男たちが群れをなしてこの石段を駆け下りるのだ。

信じられぬ。いつかその祭りもこの目で見てみたいものだ。

ちなみにこの火祭りには基本的に誰でも参加可能(ただし女性は不可)だそうですよ。我こそはと思う方はぜひ。

 

神倉神社の社と「天の磐盾」(ゴトビキ岩)

 

神倉神社の頂上から新宮市街と太平洋を望む

 

「熊野速玉大社」正式参拝と神宝館見学

神倉神社の次は「熊野速玉大社」へ。かれこれ3、4回目の訪問になるだろうか。

最初に神倉神社、すなわち山の頂へ降臨した熊野大神が平地へと移り、いや、お遷りになり、新たにお宮を建てて祭ったのが「熊野速玉大社」である。

新しいお宮をつくったから、この地を「新宮」という。

つまり、新宮という地名の由来が、この「熊野速玉大社」なんですねえ。ご存知でした? 私は今回初めて知りました。

 

さらに、今回初めての体験が2つあった。1つ目は、正式参拝。普通にお賽銭箱の前で拝むだけではなくて、拝殿に昇り、神官に祝詞をあげてもらい、(何というのか知らないけど)なにやらシャンシャンとやって、1人ずつ玉ぐしを奉納して、最後にお神酒をいただく。

このツアーの特権で、いい体験をさせてもらった。祝詞には「旅ジャーナリスト会議」という名称もしっかり読み上げていただいた。

だから何があるわけではないけど。何かしらのご利益を期待して。

 

熊野速玉神社の拝殿。この中で正式参拝した

 

今回初体験の2つ目は、神宝館の見学。それまではいつも時間がなくて入れなかったからね。

入口には武蔵坊弁慶の木像が。これも見ものの1つといっていい。

中に入れば、さすがの歴史を物語る貴重な品々がずらり。

国宝の神宝類や文化財級の調度品、刀剣、装束類から当時の文化や暮らしを偲ぶ資料、そして江戸時代に大人気を博した富くじなどもあって大変興味深い。

来れてよかった。

 

熊野速玉神社の神宝館の前にある弁慶像

 

境内には樹齢千年を誇る国の天然記念物・梛の大樹もある。

平重盛の手植えと伝えられ、その葉は魔除けになると聞いたので、前回来たときに葉っぱを拾って財布に入れた。

そのまま数年入れっぱなしだったので、今回はその葉を捨てて、いや、お返しして、新しい葉を拾おうと思っていたら、ガイドさんがちゃんとお守りのように包んだ新しい葉を用意してくれていた。

あら、うれしや。ありがとうございます。

 

この梛の大樹の葉については個人的な後日談がある。

信じられないかもしれないが、新宮から帰京してすぐ、思わぬ臨時収入があった。

さらに、2月に入るとにわかに仕事が忙しくなってきた(ツアーは1月半ば)。

ここ数年は仕事が減ってライター稼業の収入だけでは食っていけず、転職も考えていたほどだが、これはもしや梛の葉のご利益かもしれぬ。

もしこのまま順調に仕事が増え、ライター稼業を続けていけるようであれば、「熊野速玉大社」へはもう一度行って、梛の大樹にお礼参りをしなきゃ、と密かに思っている。

 

熊野速玉大社境内にある梛の大樹。国指定天然記念物

 

「熊野速玉大社」のすぐ近くにある「川原家横丁」にも触れておきたい。

江戸時代から昭和の初めまで、熊野川河口近くの権現川原には、川原家(かわらや)と呼ばれる家が数百軒も立ち並んでいたそうな。

この家は釘を1本も使わず、簡単に組み立て・解体ができるようになっていて、熊野川に氾濫の恐れがあると家を解体して避難所に運び、水が引くと再び元の場所に戻して組み立てたという。

 

そして面白いのは、この移動可能な家々で形成された街並みが、新宮市内でも随一の繁華街として賑わっていた、ということ。

こういうケースは全国でも珍しいのではなかろうか。

権現川原は、熊野川を船で下ってくる参拝者にとっては参道の入口にあたるわけだから、ある程度の賑わいは理解できるが、どうやらそれ以外にもさまざまな要因が重なって、いつ流されてもおかしくない川原にたいそうな繁華街が出現したらしい。

つまり、新宮独特の歴史や文化、地形から生まれた、新宮ならではの街がかつて川原に存在していた、というわけで、その川原家の街並みを再現したのが「川原家横丁」なのである。

したがって、現在は土産物屋や喫茶店などが入っている家の造りは、ほぼ当時のまま、釘を1本も使わずに建てたというから、建築に興味ある方はぜひ御足労を。

休日には熊野比丘尼による「絵解き」などのイベントもここで開催されている。

 

川原家横丁。奥に「絵解き」などが行われるステージがある

 

熊野速玉大社と川原家横丁の次は、お待ちかねの昼食だ、と思ったらその前に、何やら普通の民家に連れて行かれた。

え~っと、どなたかのお知り合いの家ですか?

いやいや、なんとここは「天の川」という和菓子屋さんですと。こりゃ、知らないと絶対にわかんねえなあ。

銘菓「天の川」は、大納言かんという、普通とはちょっと違った羊羹で、美味しかった。

 

ちなみに新宮は、江戸時代の九代目新宮藩主・水野忠央が和菓子が好物で、菓子の製造を奨励していたといい、今でもレベルの高い銘菓が揃っている。

じつは今回のツアーもいくつかあるテーマの1つが“スイーツめぐり”で、「天の川」の他にも、熊野参詣道代表銘菓・鈴焼の「香梅堂」や、熊野銘菓・木の国なぎ本舗「枡月」を訪ねた。

が、その1店1店についての詳細は別の機会にして、ここでは割愛する。

お菓子よりももっと他に紹介したいものがたくさんあるので。お菓子が好きな人は、「新宮市内 お菓子銘店めぐり」というマップもあるので、それを片手に市内を食べ歩いていただきたい。

 

この建物が和菓子屋だとはお釈迦様でも気がつくまい

 

昼食は、「ILE DE FRANCE(イル・ド・フランス)」という老舗フレンチレストランへ。

いつオープンしたのか聞くと、奥さんが「忘れちゃった」と、笑っちゃうほど長きに渡って地元で愛され続け、今なお「ここは美味しいですよ。自信を持っておすすめします」とガイドさんも太鼓判を押す名店である。

 

なるほど、料理はたしかに美味しかった。

そして、こんな田舎で(失礼!)、こんなお洒落なコースが出てくるとは、と感心した。

新宮市内の飲食店はレベルが高い、という話はこの稿の前半で述べたが、同店もまた、新宮の飲食レベル向上に大きく寄与している店の1つであることは間違いないだろう。

 

しかし、正直に申し上げると、全体的に美味しかったことは覚えているが、料理1品1品についてはあまり覚えていない。

なぜなら、この店にはご主人が自ら製作した新宮城の模型があり、それをもとにご主人が熱く語るお城の話がやたら面白かったから。

すいません、ご主人。

料理よりもお城談義の方が印象に残ってます。

 

新宮城とは、1633年、紀州藩新宮領を統治した水野氏により、熊野川の河口近くに完成したお城だが、明治の廃城令を受け、建物はすべて取り壊されて現在は石垣しか残ってない。

それをここのご主人は、設計図などの資料が何もない中、あれこれ創意工夫により、新宮城の今は亡き天守閣を復元した模型を完成させたのだ。

構想十数年、製作約4年をかけた力作である。

ちなみにここのお店「イル・ド・フランス」は復元した新宮城の正門に位置するという。

 

そんなご主人がお城の模型を使って解説する新宮城のお話。

とくに石垣がお好きなようで、石の積み方が時代によって違うだとか、石垣に刻印や石割のクサビ跡がある、といった話を延々と聞かされ、いや、拝聴したおかげで、その後で実際に行った城跡を大変興味深く見ることができた。

石垣しか残っていないが、その石垣を面白いと感じさせるのだからたいしたものだ。

皆さんも新宮城址を見るなら、その前に「イル・ド・フランス」へ寄って、お城の模型で城の全容を前もって学習して、美味しいフレンチを食べながらご主人のお城談義を聞いて、それから新宮城址へ行くことをおすすめしたい。

「イル・ド・フランス」のご主人と、新宮城の模型。(店内暗くて写りが悪くてすいません)

 

「イル・ド・フランス」のコースの前菜。おっシャレ~!

 

というわけで、いざ、新宮城跡へ。

このお城の代々城主だった水野家は、新宮藩主とも称されるが、じつは「新宮藩」が正式に認められたのは明治初年のことで、江戸時代はずっと紀州藩の領地であった。

とはいえ、八代将軍吉宗を輩出した紀州徳川家の付家老を務めた水野家の勢力は著しく、水野家の居城だった新宮城も表向きの石高は三万五千石とされているが、実際は十万石に匹敵する規模があったという。

 

そうした水野家の隆盛を支えた財源が、熊野三山貸付と富くじ(熊野速玉大社の神宝館にありましたね)、そして良質な「新宮炭」だった。

最盛期には江戸へ年間10万俵も送られ、江戸の炭相場を左右したともいわれる新宮炭は、新宮城下に建てられた炭納屋にいったん集められた。

その炭納屋の跡や、熊野川から直接物資を運び上げた水ノ手を、かつて本丸があった場所から見下ろせば、この城が地の利をうまく活かした素晴らしい城であったことがわかる。

建物がなくても石垣がほぼ残っているので、もし現存していれば、いかに大きく立派なお城であったか、想像できるのだ。いや、ほんと、石垣だけでもこんなに面白いとは思わなかった。

「イル・ド・フランス」のご主人のおかげであるが、城跡内の見どころを細かく解説した散策マップもあるので、それも参照しながら石垣の1つ1つをじっくり見て回ってほしい。

 

そんな城址内の見どころの中には、「日本一短いケーブルカー」の軌道跡や、「川上不白の顕彰碑」「丹鶴姫の碑」なども。

ツアー1日目に初めて知った江戸表千家不白流の粗・川上不白の名がここでも出てきたのは、不白の生まれた家が水野家の家臣だったことから。

碑には不白が好んで使ったという「清風生蓬莱」の文字が刻まれている。

丹鶴姫は、源頼朝・義経兄弟の叔母にあたる、新宮が生んだ女傑。丹鶴姫の弟が、新宮十郎行家だ。この名も昨日行った本廣寺にあったけど、覚えていますか?

 

新宮城が築かれた山には、丹鶴姫が建立し、晩年を過ごしたという東仙寺があったことから、新宮城には「丹鶴城」との別名がある。

さらに、太平洋を一望できることから、「沖見城」とも称されていたという。色んな名前があるお城ですなあ。

 

せっかく新宮城に来たのであれば、新宮藩主・水野家について、とくに九代目・水野忠央(ただなか)のことは詳しく知っておくべきだ。

と、偉そうに言いながら、私も今回初めて知ったんだけどね。

それにしても初めて知ることが多い。それだけ新宮という地が奥深いということだろう。

 

水野忠央は、幕末、大老・井伊直弼と組み、紀州藩主だった慶福を推し立て、十四代将軍・家茂を誕生させた功労者である。

将軍家茂を実現するため忠央は、妹を大奥に送り込むなど、積極的な大奥工作を仕掛けた。また、良質で知られる新宮炭を幕閣要路に付け届けとして配り、「炭屋」と陰口を叩かれたりもした。

吉田松陰はそんな忠央を「肝にして才あり、一代の豪なり」と評している。もし井伊直弼が桜田門外で暗殺されなかったら、忠央は歴史の表舞台に躍り出て、後世にその名がもっと広く知られていたであろう。

 

一方で忠央は、時代を先取りした開明藩主でもあった。

蕃書翻訳所で西欧の原書を翻訳させ、様式宝寿や造船・操船術などの研究を奨励した。津田出を所長とした蘭学所の主宰も忠央である。

さらに、忠央は国学の文献収集にも熱心だった。

国学者の山田常典に命じて丹鶴城所蔵の数万巻の書物を編集・刊行し、弘化四年(1847年)から6年かけて刊行した171巻の「丹鶴叢書」は、水戸藩の「大日本史」、塙保己一の「群書類従」と並んで江戸時代の三大名著とされ、熊野速玉大社の神宝館に保存されているという。

しまった、神宝館へ入る前に知っておくべきだった。後の祭りである。

 

それはともかく、そんな忠央の存在が、新宮の地に文化の種を蒔いたことは容易に想像がつく。

その種は、大量の新宮炭を江戸へ運んだ藩船が帰路持ち帰る江戸の風を肥やしに独自の成長を遂げる。

現代に入り、新宮から多くの文化人が輩出された理由もそれだろう。

 

今回ここへ来るまで、新宮といえば速玉大社、というぐらいのイメージしかなかった。

しかし、新宮城址を見て、水野忠央という人物の存在を知ることで、新宮という街の見方が鮮やかに変わった。

古来より続く熊野信仰だけではない。中世でも近世でもドラマチックな歴史に彩られ、独自の文化が息づき、現代まで脈々と続く濃密な時間が流れている。

それが新宮という街である。

 

水野忠央は、井伊直弼の死後、幕府から隠居慎みの処分を受け、領地の新宮で隠遁した。江戸から新宮へ向かう旅の途中、「武蔵野を 君立ちいなば 山鳥や うかれ鳥の声のみやせん」という歌を詠んでいる。

勝手な解釈だが、江戸を離れ、騒ぐ者たちの声しか聞こえないことを寂しく思う気持ちの中でも、江戸を武蔵野と呼んだことに矜持を感じるのは私だけだろうか。

 

新宮城跡または丹鶴城公園の入口

 

時代ごとに積み方が異なる。魅力は石垣にあり

 

石垣が残っているだけでも国指定史跡

 

新宮城跡を後にして、いや~、今回のツアーは結構内容が濃かったなあ、と思っていたら、まだ終わりではなかった。

次に向かったのは「阿須賀神社」。蓬莱山を神体とし、その南側に鎮座している。

ん?蓬莱山?と聞いてピンときた人もいるだろう。

そう、秦の始皇帝の命により不老長寿の霊薬を探し求めて日本へ来たとされる徐福が目指した山こそ、蓬莱山である。そのまんまの名前の山があることに驚く。

 

後でも触れるが、新宮には徐福の墓がある。秦徐福上陸の地記念碑もある。

徐福伝説というのは新宮だけはなく、日本各地にいくつか徐福ゆかりの地と主張する地域があるが、お墓があって、上陸記念碑があり、極めつけのように蓬莱山という名の山がある新宮は、徐福伝説の本命の地といえるのではないだろうか。

 

その蓬莱山では、昭和34年の伊勢湾台風で倒れた木の根元から「御正体(懸仏)」がされ、県指定文化財として「阿須賀神社」境内にある歴史民俗資料館で展示されている。

境内では弥生から古墳時代の遺跡や祭祀遺物も発見されており、古代より蓬莱山に対する信仰があったと考えられている。

まあ、神倉神社と同じようなもんでしょう。

「阿須賀神社」の創立は幾度かの火災で古記録が消失したため不明だが、「熊野山略記」には、速玉権現以前の神で、河口の守護神、権現に首座を譲った補佐神・後見役と記されているそうな。

だからやっぱり、神倉神社と同様、速玉大社より古いわけで、大変なものがまた1つ現れた。

恐らく、神倉神社が山の神、阿須賀神社は海の神、だったんでしょうな。

 

歴史民俗資料館では、蓬莱山出土御正体の他にも新宮城の発掘調査や木材に関する古文書、農耕具や捕鯨具といった民俗文化財など、貴重な資料の数々を見ることができる。

加えて、今回特別に水野家伝来資料も拝観させていただいた。新宮の歴史はまだまだ奥が深い。

 

阿須賀神社。背後に聳えるのが蓬莱山

 

蓬莱山出土御正体の一部。よくわからないが多分、貴重な写真

 

旅の終わりは、「徐福公園」でほっと一息。

前述した徐福の墓を中心に極彩色豊かな中国風楼門を配した整備を行い、平成6年にオープンした公園で、お墓だけでなく、徐福像と不老の池、徐福顕彰碑、由緒板、七塚の碑、絶海と太祖の詩碑などがあって、なかなかの充実ぶり。

ちなみに徐福の墓や七塚は、速玉大社神宝館所属の「神本著色新宮本社末社附新宮末社図」という、寛永年間(1624~44)頃の作とされる絵にも描かれており、近年でっち上げたものではないことは確かだ。

とはいえ、徐福が本当に新宮へ来たかどうか、その真偽についてはもはや決着はつかないだろう。むしろつかなくていいのだ。

大事なのは歴史の浪漫だから。

 

ここへ来たら、徐福が求めた霊薬とされる「天台烏薬」のお茶で一服を。

寿命が延びたかな?

敷地内の売店では「天台烏薬」を使ったさまざまな商品やお土産も売っている。

徐福伝説を信じる人や浪漫を感じる人は一度訪ねてみてはいかが。

 

最後に、終日同行してくれたガイドさん(御年七十ウン歳で神倉神社の石段を苦もなく登ったお方です)の言葉を借りて締めくくりたい。

 

「新宮には山があって、海があって、川もあって、豊かな自然に恵まれた、とても暮らしやすい場所です。そんな風土に育まれた歴史や文化には、大変深い深~い魅力がありますが、それは1日2日ぐらいじゃわかりませんから、ぜひまた来てください。来るたびに新たな魅力を発見できますから」

 

はい、それはもう、よくわかりました。ちなみにこの方、新宮の生まれではなく、他から移住してきたそうですよ。

他から来た人でも一度住んでみれば好きで好きでたまらなくなる。

それが新宮という街なんですねえ。私も新宮に移住したくなりました。

といったところでおしまい。ダラダラと冗長な原稿を最後まで読んでいただきありがとうございました。