「地域の宝」を全国の料理人が崇拝  by 野﨑 光生

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☆料理の神様
 
 高椅神社(たかはしじんじゃ)は、全国の料理人から崇拝されるちょっと珍しい神社である。JR宇都宮線小山駅(栃木県小山市)から北東に約12キロの田園地帯に、欅の大木に囲まれて鎮座する。この神社の秋季例大祭において29年ぶりに包丁式が奉納され、県内外からの多くに人たちでにぎわった。そして華やかな式典の影には、それを支える地域住民の姿があった。

秋晴れのもと、秋季例大祭が行われた
秋晴れのもと、秋季例大祭が行われた

☆なぜ料理の神様に?
 
 そもそもなぜこの神社が料理人の信仰の対象となったのか。その理由は古代までさかのぼる。景行天皇がこの地に訪れた際に、料理人として同行していた磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)が、高齢のためここにとどまることになった。そして時代は下り684年に磐鹿六雁命が合祀され、高椅神社の神様としてまつられたため、料理の神様として信仰されることになったのだ。
 
 高椅神社はこの地にとどまらず、岐阜県には下呂温泉の飛騨高椅神社など4つの分社があり、信仰は全国に広がっている。そして、栃木県と岐阜県で相互訪問するなど、交流も続いているのだ。

 
 

☆包丁式に魅了
 
 さて、冒頭に述べた包丁式であるが、これは魚をさばき神前に供えるという儀式である。10月3日の土曜日に境内の神楽殿において、地元をはじめ県内外の多くの観衆が見守る中で執り行なわれた。
 
 古式ゆかしい装束を身にまとった調理人が、供えられた鯛に直接手を触れないようにと、包丁と箸を巧みに操りながらさばいていく。その姿は調理というよりは、まさに厳かな儀式そのものである。調理人のパフォーマンスとも言うべき所作に見とれていると、いつの間にか鯛は姿を変え、本殿に奉納されると包丁式は無事に終了した。

古式ゆかしい装束で包丁式
古式ゆかしい装束で包丁式

 
 

☆鯉は食べない
 
 さて、この神社にはもう一つ興味深い話が伝わっている。実はこの神社の周辺地域では、鯉料理を食べないという習慣があるのだ。これにも歴史的な出来事が背景にある。
 
 時は長元2(1029)年のこと、境内で井戸を掘っていたところ、大きな鯉が飛び出した。この不思議な出来事に驚き、神主がその鯉を後一条天皇に献上したところ、天皇は大変喜ばれ「日本一社禁鯉宮(いっしゃきんりのみや)」と書かれた勅額を下賜され、それ以来、鯉は神様の使いとされたのである。そのため、地元では鯉を食べないばかりか、鯉の絵柄の食器も使わず、さらに鯉のぼりも揚げないという禁忌が今なお守られている。
 
 まさに神社の歴史と地域住民の生活は、長い歴史とともに歩んで来たわけだ。

本殿(右)と神楽殿の間に多くの人が
本殿(右)と神楽殿の間に多くの人が

 
 

☆住民たちが自ら運営
 
 実はこの高椅神社には職員が常駐しているわけではなく、運営は宮司と氏子そして地元自治会などの地域住民が支えている。伝統を受け継いできた住民が中心となり、包丁式などの行事を盛大に開催しているわけだ。こうした活力の源泉はいったいどこにあるのだろうか。
 
 この素朴な疑問を氏子の方に投げかけたところ、「高椅神社は地元の誇りだから、それを守っていきたいのです。」という実に明快で説得力のある答えが返ってきた。つまり、地域の誇りを守っていくという目的(ビジョン)のもと、地域住民が役割(ミッション)を認識し、行動(アクション)しているというわけだ。
 
 守られているのはソフト面だけではない。この神社の最大の見どころは、見事な彫刻が施された江戸中期建造の荘厳な楼門である。しかし、数百年の風雪に耐え、老朽化が進んだため、何とか修復したいと多額の寄付を募ってきた結果、ようやく改修計画が実現することとなった。

荘厳な楼門が参拝者を迎える
荘厳な楼門が参拝者を迎える

 
 

☆歴史を守りながら次なる展開へ
 
 高椅神社は古事記の時代から、江戸時代には徳川幕府とも近い結城藩の加護を受けるなど、地域とともに連綿と築き上げられた誇り高き宝である。そして「この神社を守ること、すなわちそれは地域住民が守られること」であると、地域の人たちは長い暮らしの中で身を持って実感しているのだろう。
 
 この地域を一段と活性化させるためには、歴史的な資産を核にして、観光としても多くの人たちを呼び込むことが必要だ。すでに、神社以外の地元特有の資産にも光を当て、魅力を発信しようとの活動にも取り組んでいる。
 
 田園地帯における歴史的な資産と住民が一体となった地域づくりが着実に進んでおり、今後の展開に引き続き注目していきたい。

 

( 2015年11月8日寄稿 )