世界遺産登録をめざす富岡製糸場2 by 菊地 正浩

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ワインを飲んでいたブリューナ邸
●富岡製糸場の歴史
 ペリー来航、開国、安政の五カ国条約締結、貿易開始、生糸の輸出という流れは、各地の蚕糸場から日本のシルクロードを経て横浜に運ばれ、輸出が盛んになった。明治新政府は殖産興業の一つとして製糸業に力を入れ、生糸の輸出による外貨獲得に乗り出した。そして、我が国の模範となる官営の製糸場建設に取りかかった。軍需、産業、文化などあらゆる分野で欧米に追いつけ、追い越せと外国人指導者を招き技術導入を図るが、製糸技術についてはフランス人、ポール・ブリューナを招いた。ブリューナは候補地選定のため各地を回った。東京への至便さと、工場の立地条件を考えて富岡に白羽の矢を立てたのである。
 主な理由は、①もともと養蚕地を抱えており原料の繭(まゆ)が確保しやすい、②広大な工場建設地に地元の同意が得られる、③製糸に欠かせない清流(鏑川)があり、東京への舟運ともなった、④燃料の石炭は近くの高崎、吉井で採炭できる、⑤建設に必要な資材、材木は妙義山の大木杉、石材は甘楽の連石山、レンガの目地(めじ)は下仁田の石灰と揃えられる。などであつた。
 明治4年(1871)、ブリューナはいったんフランスへ帰国、製糸機械を購入し技師、女工13名を伴い帰国した。翌年、建造物は完成したが、工女募集に際しては、ブリューナが毎夜赤ワインを飲む姿を見て、若い娘の血を飲んでいるという噂により、思うように採用ができなかった。国は全国の町長、村長、士族の娘を率先して応募に当らせ、下は10歳から20歳以上、556名を採用、当時の労働時間では初の8時間労働を採用、給料も破格の待遇とした。それまでは、細井和喜蔵の著書「女工哀史」に書かれているとおりの実態であつたが、それに比べれば様変わりの待遇であった。その表れは、「女工」とは呼ばず「工女」と呼ばれた。しかし、これらの待遇は採算がとれず赤字であったが、国営だからこそできたことである。
 このような努力の甲斐あって、明治5年(1872)10月、明治政府の生糸輸出振興策模範工場、我が国初の官営機械製糸場は操業を開始したのである。その後、明治26年、三井製糸に払下げ、同35年、原合名会社へ譲度、昭和13年(1938)、片倉工業㈱へ譲度されてから同62年工場閉鎖まで続けられた。平成16年(2004)、国の文化財指定となったことを受け、翌17年、富岡市が買収を計画、その敷地はなんと、55391㎡の広さである。同時に片倉工業から富岡市へ建造物が寄贈された。平成18年(2006)、敷地が無事富岡市に譲度されたので、国重要文化財の指定を受けた。このような経過を辿り、世界遺産国内暫定リスト搭載を迎えたのである。
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レンガはフランス積み倉庫(写真左)/レンガはイギリス積み油倉庫(写真右)
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●富岡製糸場の見どころ
 日本の赤レンガ番付表で東の横綱に位置されている。建築方法は木骨レンガ造り、積み方はフランス積みと一部油倉庫はイギリス積み。木骨は妙義山の杉の大木、レンガは甘楽で焼いたもので土のみによる。土台石は甘楽町連石山の牛伏砂岩(ちなみに甘楽町小幡の城下町は見事な石垣による武家屋敷などが残っているが、石垣などは連石山の石と鏑川の支流雄川(おがわ)の石である)。大煙突は高さ37.37m(これまで37.5mとされてきたが先般国土地理院による測量で修正、原因不明、筆者は地盤沈下と推定)。我が国初の避雷針。など見どころが多い。これらは、多くの観光ボランティアである解説員が、自作の資料とアイデアで親切に説明してくれる。
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製糸場の機械群(写真左)/乾燥庫(写真右)
 なんと云っても圧巻は内部の製糸機械であり、今でも同型は碓氷製糸場で稼動している。筆者はグループではなく、ほとんど独占的に長い時間説明を受けたが、付き合ってくれた人は、小幡出身の学校の先生で、定年後ボランティア活動をしている解説員岩井隼人さんであった。ここに紹介し深謝したいと思う。
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 その他、旧甘楽社小幡組倉庫(歴史民俗資料館)、碓氷峠鉄道施設、赤岩地区養蚕農家群、養蚕栃窪風穴、荒船風穴、薄根の大クワ、冨沢家住宅、高山社発祥の地、旧上野(こうずけ)鉄道関連施設、絹産業遺産群(リスト搭載)も含め、百聞は一見にしかず、である。

( 2009年4月23日 寄稿 )