手漉き和紙の里~米沢の蚕卵紙  by 菊地 正浩

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 山形県米沢市は県南東部に位置。東部は奥羽山脈、南部から西部にかけては吾妻連峰に属する山岳地帯。北部中央に米沢盆地に含まれる平坦地が開けている。

 南部山岳地帯を発源とする梓川、羽黒川、松川、大樽川、小樽川などの諸河川が北部平野部を潤す。
 

「さみだれを あつめて早し 最上川」

 

(芭蕉)

 

~折からの五月雨の雨量を集めて、最上川は満々とみなぎり、

本流となって流れ下っていることよ~

 

 最上川の源流から米沢盆地を流れる情景をしばしの間眺めていたのであろう。

 米沢は伊達・蒲生時代を経て、慶長年間(1596~1615)に入り、会津120万石上杉景勝の所領となり、武将直江兼続が30万石の城主となった。

上杉神社

 

上杉謙信公祠堂跡

 関ヶ原で西軍について敗れて、会津若松城120万石を召し上げられ、米沢30万石に減封となる。米沢に家臣約六千人を引き連れたが、収容するのに街割、原野開拓など苦労が耐えなかった。

 寛文4年(1664)さらに15万石に半減させられ、藩財政は窮乏していった。そして登場したのが第10代藩主上杉治憲「鷹山」である。明和4年(1767)九州高鍋藩から請われて婿となった、この時鷹山17歳である。

 

 「なせば成る なさねば成らぬ 何事も

 成らぬは人の なさぬなりけり」

 

上杉鷹山公之像

 

 

鷹山の石碑

 どのような政治家だったのか、詳しく説明する必要もなかろう。元アメリカ大統領ケネディが世界で最も尊敬する政治家として、上杉鷹山の名をあげて演説している。

 数々の産業振興策を打ち出したなかに養蚕がある。家臣の手内職に機織りを奨励し、米沢織の基礎を築いた。米沢市史によると、明治7年の産業に「蚕卵紙128469貫」と記されている。蚕が卵を産み付ける手漉き和紙のことである。

 城下から国道121号を鬼面川(小樽川)沿いに福島県へ向って走ると、神原・神漉という集落がある。神は紙のことで、かつて楮原、紙漉きの里であった証しである。残念ながら米沢の蚕卵紙も絶え、米沢織りも機械化されて発展した。

 

 国道をさらに南下すると大峠トンネルに入る。途中に山形県と福島県の県境標識がある。福島県に入れば日中温泉・熱塩温泉で日中和紙の里を経て喜多方和紙の里となる。

 

( 2012年10月13日 寄稿 )