江戸・東京を支え・守った閘門(こうもん)(1)   by 菊地 正浩

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治山・治水は国づくりの柱と言われてきた。徳川家康による江戸開府にはじまり、世界一の都市「首都東京」の繁栄に至るまで、水との戦いが続けられてきた。いや、現在も異常気象と思われる「線状降水」による河川の氾濫・洪水と戦っている。 江戸・東京を守り、船運の河港としても栄え、経済発展に寄与してきた日本の閘門。中でも関東の閘門なしには江戸・東京の発展はなかった。

見沼通船堀~我が国最古の閘門開閉~ 国指定史跡
パナマ運河(1914年完成・海抜26mの高さにあるガツン湖まで上昇させる)より180年以上も歴史がある世界最先端の運河。1727年(享保12年)徳川吉宗が、東西2本の代用水路とその間を流れる芝川とを結ぶ運河を開削したことで、通船堀の運行が始まった。芝川の水位が3m低いことから開閉式の閘門をつくった。

見沼通船堀
見沼通船堀
見沼通船堀
見沼通船堀
通船堀閘門
通船堀閘門
通船堀閘門
通船堀閘門

 

見沼代用水西縁・東縁とその中央を流れる芝川を結び江戸と船運でつながった。

西縁―655m―芝川―387m東縁間の計1042m、閘門は各々2か所作られた。

見沼代用水は利根川から取水する灌漑用水で見沼溜井に代わるという意味である。

利根川河岸の行田市中条で取水、途中星川から荒川の河底を「柴山の伏越」という特殊な工法による。蓮田市上瓦葺で綾瀬川を掛樋で渡し、上尾市の東方で見沼盆地の西側を流れ、東縁と西縁に分かれる。末端は東京都内に及び長さ6km、灌漑面積150k㎡。

〇見沼代用水が出来る経緯
新田開発のため治水と用水源確保、また水害対策として利根川や荒川の瀬替えをした。

川に堰を設けて水を溜め、湖沼を貯水池(溜井)にした。見沼も両岸が最も狭くなる所に「八丁堤」を造り、多くの水を貯めて水位をあげるようにした。

1629年(寛永6年)に行われ「見沼溜井」が完成、東西両端から下流に用水路が引かれた。結果、埼玉南部から江戸にいたるまで新田が開発された。一方、水位が上がったことで、周囲の田畑が水没したところが出た。これを「見沼水いかり」「沼欠(ぬまがけ)」と呼ばれて多くが移転した。また、新田開発が進むと水需要が増し、再び用水不足が問題になった。

〇江戸中期、徳川吉宗の「享保の改革」で見沼溜井もさらに新田開発を進め、1727年(享保12年)溜井の廃止とそれに代わる、利根川から取水する「見沼代用水」に着手。工事に当たった者延90万人と言われる。翌1728年完成、見沼溜井は「見沼田んぼ」へ変わった。

〇1958年(昭和33年)狩野川台風(台風22号)により、見沼田んぼも全域で冠水。貯水量1千万立方メートルにもおよび、遊水池の役目で下流域の洪水被害を軽減した。
このことから、貯水・遊水機能を維持するため、埼玉県は1965年(昭和40年)「見沼田園農地転用方針」、通称「見沼三原則」を定め、都市化開発を制限、洪水防止政策をとった。

見沼代用水
見沼代用水
見沼代用水と通船堀入口
見沼代用水と通船堀入口

( 2016年3月19日寄稿 )