皇居守護の戦争遺跡を訪ねて ~近衛師団司令部庁舎(現東京国立近代美術館工芸館) と高射砲台跡~ by 菊池 正浩
- 2017.06.13
- 地歴と旅(KK)
戦後70年、50年振りに皇居御文庫が公開された。御文庫とは天皇陛下が御住まいの防空壕、その老朽化した姿の映像が流された。
外務省外交資料館は戦後70年企画として、1945年(昭和20年)8月15日に玉音放送された「大東亜戦争終結の詔書」と9月2日、東京湾上の米国軍艦ミズーリー号で調印されたポツダム宣言受託の「降伏文書」の原本を公開した。
終戦に至るまで、8月9日と8月14日に御文庫で開催された御前会議では、本土決戦を主張する軍部の抵抗と同調する一部将校の暴走により、近衛師団長が暗殺されるなど、所謂「宮城事件」の舞台があった。
●御文庫での御前会議~宮中・吹上御所の防空壕は1942年(昭和17年)末に完成
屋根の厚さは3m。昭和17年は中国本土、東南アジア各地、南太平洋各地に侵攻していた時期で、この時すでに皇居内に防空壕を建設していたとは?
8月9日の第一回御前会議、天皇陛下はじめ鈴木首相以下12名。ポツダム宣言受託条件で意見が割れ結論出ず。
8月14日の第二回御前会議、第一回のメンバーに閣僚全員等を加えて総勢23名の出席、天皇陛下のご意志を受け鈴木首相が主導したが、軍部の抵抗にあった。天皇陛下は涙をぬぐってご聖断を下した。
●ポツダム宣言受託阻止のため一部の陸軍将校がクーデター
畑中健二少佐、窪田健三少佐、上原重太郎大尉が皇居を護衛する近衛師団司令部庁舎に乱入、森赳近衛師団長と同席していた白石通教第二総軍参謀を惨殺。皇居を包囲して通信網を遮断、東京放送局(現NHK)を占拠し、偽の近衛師団長命令を作成して師団兵に命令。
この時、鈴木貫太郎首相は私邸にいて難を逃れた。その後、反乱軍は首相の私邸に放火したが、直前に脱出して無事であった。
近衛師団司令部庁舎は、1910年(明治43年)陸軍技師田村鎮(やすし)の設計で建てられ、1972年(昭和47年)重要文化財指定を受けて改修。1977年(昭和52年)に工芸館となった。
●玉音放送へ未明の攻防
東京放送局の放送会館を反乱軍が包囲、宿直職員を軟禁、反乱軍の声明を放送させるようせまる。一方、玉音放送阻止の為、録音テープを必死で探す。
高嶋辰彦東部軍参謀はクーデター将校が発令した偽の近衛師団長命令を取り消した。
夜が明けた5時過ぎ、田中静壱東部軍司令官が近衛師団司令部庁舎に到着し反乱軍兵士の検挙を命じた。
5時30分に阿南惟幾陸軍大臣が陸相公邸で割腹自殺。クーデターの首謀者、畑中健二少佐と椎崎二郎中佐は皇居の芝生上でピストル自殺した。
玉音放送は無事、正午に放送されて終戦となった。
●高射砲台跡
近衛師団司令部庁舎から皇居乾門の前を千鳥ヶ淵に向かうと小高い台地がある。宮城事件を見守りながら、まだ続く米軍の空襲に備えて皇居を守るため7台の高射砲列があった。 現在は千鳥ヶ淵を眺めての遊歩道となっている。
●鈴木貫太郎記念館
鈴木首相は御前会議、玉音放送後、終戦処理の大任を果たして、1946年(昭和21年)9月、郷里の茨城県関宿に帰った。
2.26事件では数発の弾丸を受け、内一発は体内に残っていた。
1948年(昭和23年)4月17日、「永遠の平和」という一語を残して81歳の生涯を閉じた。記念館は、1963年(昭和41年)開館、遺品や歴史的資料が展示されている。
( 2017年6月13日寄稿 )
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