世界遺産登録をめざす富岡製糸場1  by 菊地 正浩

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●富岡市誕生の歴史
 いま群馬県富岡市周辺が熱い。平成19年(2007)に世界遺産国内暫定リストに搭載されてから、訪れる観光客も多く、官民あげての観光振興に力を入れている。富岡市とは県西部、利根川の支流鏑(かぶら)川流域に位置し、地名は江戸時代初期に始まり比較的新しい。明治22年(1889)、富岡、七日市(なのかいち)、曽木の三郷が合併して富岡町となる。昭和29年(1954)、富岡町、一ノ宮町、小野、黒岩、高瀬、額部(ぬかべ)の四村が合併して富岡市となる。昭和30年(1955)吉田村、昭和34年(1959)福島町の一部、昭和35年(1960)丹生(にう)村を編入、2006年平成の大合併で妙義町と合併して現在に至り、数奇な合併の歴史を辿った。
 慶長16年(1611)、徳川幕府が中仙道脇位置に新町建設を計画、宮崎村(現・富岡市)の住民を小幡藩瀬下郷へ移住させ富岡郷をつくったのが始まりである。富岡郷は砥沢(とざわ)村(現・南牧(なんもく)村)で産出される幕府御用達の砥石(といし)や廻米(かいまい)の下仁田(しもにた)(姫)街道における輸送基地とした。中央に位置する七日市には七日市藩(加賀前田藩の支藩1万石)の陣屋跡(現・富岡高校)が残っている。
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樋の造り方で屋根が曲がって見える目の錯覚
●製糸都市への道
 この富岡市に明治5年(1872)、我が国最初の官営模範工場、富岡製糸場が建設されてから製糸都市へと変貌していった。この富岡製糸場を中心に絹産業遺産群(10か所)を、世界遺産に登録させようと運動している。何故、富岡を中心に絹産業が発展したのか? 地理的には南部に御荷鉾(みかほ)山地、西端部には大桁山、北部は標高2~300mの丘陵性山地などに囲まれている。中央部を鏑川が東へ流れ、左岸の高田川との合流点西方で、両川に挟まれた段丘面に主邑の富岡市街が形成されている。
 市域一帯は和銅4年(711)に建てられた多胡(たご)碑に見える「甘楽(かんら)郡」の地がある。甘楽は韓(から)で、この地に移り住んだ高い農業技術と文化を持った韓(現朝鮮半島)からの帰化人を中心に開拓が進められた。隣の下仁田町で韓の古銭がたくさん発見されたことや、一ノ宮の本宿郷土遺跡からは、古墳時代~平安時代の大集落跡が発見されたことなどからも伺い知ることができる。もともと群馬県でもこの一帯は蚕糸業が盛んであり、藤岡市の高山社や小幡・上野(こうずけ)地区などの養蚕農家が組織した、甘楽社小幡組や黒保根村(現・桐生市)の甘楽社水沼組などが代表格である。京都の西陣に対して東の西陣と言われた桐生絹産業を支えていた。即ち、桑の木栽培に適した段丘と、清流があり地理・地形的にも適地である。溯れば、楮や三椏の栽培にも適し、清流があることは、手漉き和紙の里でもあった。小幡・秋畑紙、桐生紙などは代表的な和紙であった。しかし、明治維新後の養蚕振興により和紙の里は姿を消すことになったのである。
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4月23日につづく
( 2009年4月21日 寄稿 )