手漉き和紙の里(8)~再現なるか彦間紙~  by 菊地 正浩

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飛駒の根古屋森林公園と梅林
●飛駒村(ひこまむら)とは彦間川(ひこまがわ)からの地名
 栃木県下野国(しもつけのくに)安蘇(あそ)郡飛駒村(現・栃木県佐野市)は、県南西部で群馬県と接し渡良瀬川の支流彦間川が流れている。ちなみに桐生田沼線(R66)を走ると桐生川ダムのある梅田湖に抜け桐生和紙の里に出る。明治22年(1889)、田沼(低湿地のためにつけられた地名といわれる)など8村が合体して田沼町となる。昭和29年(1954)、三好、野上の2村、同31年に飛駒と新合の2村を編入。2005・2平成の大合併で佐野市、田沼町、葛生(くずう)町が合併し今日に至っている。町域の大部分は足尾銅山のある足尾山地で、根本山(標高1199m)をはじめ1000m級の山々を背にし、旗川、秋山川、彦間川などが渡良瀬川へと注ぐ。飛駒村とは彦間川からきた地名である。
 原料の楮は山野や畦に自生し、また畑でも栽培した。ネリの黄蜀葵(とろろあおい)のことを古くからオホレンと呼んでいた。飛駒産の生紙(きがみ)は「飛駒八寸」と言われ有名であった。八寸とは障子の桟(さん)の寸法で障子紙や大福帳として使われた。色は多少黒いが丈夫で長持ちすると評判であった。大正4年(1915)に新しい製法を取り入れ、八寸から襖紙や唐傘紙の大判を漉くようになった。また、桐生地方の絹流通手形紙としても使われ、市札の彦間紙として重要な役目を果たした。この頃の漉き家は24~5戸もあったという。しかし、戦後は洋紙に押され、昭和43年(1968)に惜しまれつつ歴史の幕を閉じたのである。
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飛駒和紙会館と飛駒名物天大根そば850円
 平成4年(1992)にまちづくりの一環として、飛駒和紙保存会が結成され、和紙作り伝承の活動を開始した。平成8年(1996)に飛駒の根古屋森林公園内に飛駒和紙会館を建設した。現在、休日には手漉き和紙の体験教室が行われている。しかし、今のところ彦間川から名付けられた彦間紙を漉く家はなく、残念ながら消えてしまったのである。今後は保存会の彦間紙復活の活動を期待するのみである。
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●唐沢山城址(唐沢山神社)
 唐沢山(標高230m)城は約1000年も前に、「むかで退治」の伝説や天慶の乱で平将門を討伐した藤原秀郷(ひでさと)が築城した。その後、後裔の佐野房綱が小田原征伐で豊臣秀吉に味方をして所領安堵となった。慶長7年(1602)、房綱の養子信吉の時代に幕府の命により春日岡城(現・城山公園)に移り、廃城となったのである。城は宇都宮、新田山、厩橋(うまやばし)、川越、忍、太田とともに関東七堅城と言われた。
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 明治16年(1883)、一族、旧臣などで秀郷公の遺徳をしのび、本丸跡に神社を創建し今日に至ったのである。神社のある本丸跡(写真左)には苔むす石垣が当時のまま残されている。その他、二の丸、三の丸、馬場、大炊井(写真中央)、枡形城門跡(写真右)など多くの古跡、旧跡が見られる。
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●安蘇の河原
 彦間川と並行して流れる秋山川、唐沢山への入口に架かる唐沢橋のたもと、ここが万葉集に出てくるところである。万葉集(巻14)にある「下毛野(しもつけの)安蘇の河原よ石踏まず、空ゆと来ぬ汝(な)が心告(の)れ」と刻まれた歌碑がある。阿蘇の河原とはこの秋山川の河原のことである。我が国最古の歌集である万葉集、まだ仮名がない時代で原歌は漢字の音を使っている。「私はこの河原の石踏んだのも気づかないほどに夢中で空を飛ぶように急いで貴女に逢いに来たのです、ぜひ貴女の気持を聞かせてください」と若者が娘に求愛している歌である。現代版ラブレターと比べては如何でしょう。
manyosyukahi.jpg 万葉集の歌碑

( 2009年5月14日 寄稿 )