忘れてはならない戦後の名曲
「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」と「リンゴの唄」

忘れてはならない戦後の名曲<br>「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」と「リンゴの唄」

NHKラジオ第一放送ラジオドラマ

 

菊地正浩

 

太平洋戦争終盤、全国の主要都市にはB29の空襲による犠牲者が多く出た。広島・長崎の原爆投下や東京大空襲、沖縄本島での地上戦等が代表的な戦災であろう。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で本所・両国を中心とする下町一帯が焦土と化し、10万人の犠牲者が出た。確認出来た生存者は約1千人ほどであった。

この件については、「明日も平和であるためにを推進する会」で語り継ぎをしている。また、拙書「地図で読む 東京大空襲」(草思社)で詳述し、雑誌、機関誌などへの投稿、各地での講演会等で語り継いでいる。

今回は、戦後74年を迎えるにあたり、あまり振り返られていない、むしろ忘れ去られようとしている、「戦争孤児」のことを思い出して貰いたいし、一人でも多くの人に知って欲しいと筆をとった。

 

「とんがり帽子」

作詞:菊田一夫  作曲:古関裕而  歌唱:川田正子、ゆりかご会

 

♪緑の丘の 赤い屋根

とんがり帽子の 時計台

鐘が鳴ります キンコンカン

メエメエ仔山羊(こやぎ)も 啼いてます

風がそよそよ 丘の上

黄色いお窓は おいらの家よ

 
「とんがり帽子」は菊田一夫の原作によるNHKのラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌であるがドラマの題名と同様に呼ぶ人も多い。このドラマは1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日まで790回の放送に及んだ。

 

ドラマの舞台となったのは現在の長野県安曇野市。大正時代に「有明温泉」として賑わった温泉旅館の閉館後、戦後の1946年(昭和21年)、鉄筋の有明高原寮という青少年更生施設を建設、親を失った児童達を受け入れた。1980年(昭和55年)、取り壊しに際し旧穂高町が譲り受けて、約600m離れた松尾寺の北側に時計つきの旧建物を移築し

「鐘の鳴る丘集会所」として現存している。

【鐘の鳴る丘集会所】

 


【館内の「鐘の鳴る丘」収録、放送の写真展】

 

2008年(平成20年)10月29日には安曇野市の有形文化財に指定された。

毎日、10時、12時、15時になると「とんがり帽子」のメロディーが流される。当時の子供たちは外で遊んでいても、夕方5時15分、「とんがり帽子」のメロディーが流れてくると、ラジオにかじりついてドラマを聞き、我が身と重ね合わせていたものである。

これらの子供たちは現在80歳前後となっている。学童疎開で東京へ帰ったら親を亡く

して途方に暮れ、生き残った子供たちも多くは親を亡くし、浮浪児となった。代表的なのは上野駅のガード下、地下道などに寝泊まりして、シューシャンボーイ(靴磨き)、スリ、カッパライ、物乞いなどで命をつないでいた。

当時、戦争孤児は12万人いると言われ、戦争孤児は誰が作ったのか?と、むしろ進駐軍からの問いかけがあった。こうした背景からこのドラマと歌が生まれたのである。

リンゴの唄」

作詞:サトウハチロー  作曲:万城目正  歌唱:並木路子

 

♪赤いリンゴに くちびる寄せて

だまってみている 青い空

リンゴは何にも いわないけれど

リンゴの気持は よくわかる

リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

青森県五所川原市が舞台の戦時中の作詞である。「戦時下にはあまりにも軟弱すぎる」という理由で検閲不許可となった。終戦後、1946年(昭和21年)になって日の目を見る。

戦後復興期の象徴として注目され、戦後ヒット曲の第一号となる。2007年(平成19年)、日本の歌百選に選出された。

 

  • 並木路子のエピソード

1921年(大正10年)9月30日、浅草で生まれた。関東大震災も経験した生粋の下町っ子である。

1936年(昭和11年)に松竹少女歌劇学校に合格して歌手を目指す。

1945年(昭和20年)3月9日、立川基地航空隊へ慰問に出かけた。

父親は南方のパラオで戦死、兄も戦死、恋人も神風特攻隊で玉砕。

3月10日、東京大空襲で逃げる途中、母親と一緒に隅田川に飛び込んだが、溺れてい

るところを引き上げられた。母親とは数日後、芝増上寺で悲しい対面、文字通りの一人き

りになった。悲しみに明け暮れる暇もなく翌月には中国へ軍の慰問に派遣された。

7月、やっと東京に帰ってきたが全てが焼け野原であつた。そして終戦を迎えた。

リンゴの唄を渡された時、「私はこのような明るい歌は歌えない」と断ったが、万城目

正さんが「悲しいのは貴女だけではない、だから世の中を明るくするために歌ってくれ」

と言われた。並木路子の歌を聞いて、美空ひばりなどが真似をして歌ったり、刺激を受け

た歌手が出てくるが、並木路子は紅白歌合戦にも一度も出ず、悲劇の歌手だがそんなこと

はおくびにも出さずに明るく歌い続けた。

 

今年(2019年)は平成から新しい元号に変わり、ますます昭和が遠のく時代の流れを感じるであろう。戦争を経験した人たちも少なくなり苦しかった時代を語り継ぐ人がいなくなった。歌の力は大きい、「とんがり帽子」・「リンゴの唄」の他にも戦後の荒んだ心を癒してくれた歌がたくさんある。それぞれの心の中にある“忘れてはならない”歌を大切にしたい。