手漉き和紙の里(19)~復活された海老根(えびね)和紙1~  by 菊地 正浩

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海老根手漉き和紙の集落
 郡山(こおりやま)は安積(あさか)と呼ばれていた。地名は古代安積郡の軍衙(ぐんが)(軍務を取扱う役所)があったことに由来するが、戦国期に入って郡山と呼ばれるようになった。大正13年(1924)、郡山町と小原田(こはらだ)村が合併して市制となる。昭和29年(1954)、富田村の一部、同30年、三春町と高瀬、巌江(いわえ)2村の一部と大槻町を編入。同40年、安積、日和田、富久山(ふくやま)、熱海(あたみ)、田村の5町、三穂田(みほだ)、逢瀬(おうせ)、片平(かたひら)、喜久田(きくた)、湖南(こなん)の5村を合併、中田、西田の2村を編入して現在に至る。
 この中田村海老根が手漉き和紙の里であった。ちなみに西田は三春人形、三春駒の発祥地である。250m前後の郡山盆地は更新世紀の湖成層(郡山層)堆積面が、離水後に開析されてできた台地面である。中心から東は阿武隈山地の丘陵、西は奥羽山脈の山地から猪苗代湖畔、北は安達太良山(1700m)におよぶ広さである。近世には奥州街道の宿駅、二本松藩の代官所が置かれ市場町としても栄えた。
 阿武隈川の支流、五百川(ごひゃくがわ)、藤田川、逢瀬川、笹原川によって対面原(たいめんはら)、広谷原(こうやはら)、庚担原(こうたんばら)、牛庭原(うしにわはら)などに分けられる大槻扇状地。東部は阿武隈川に沿って3㎞の谷底平野が延びる。大半が原野であったが、安積疏水(そすい)の完成で開拓が進み、現在の繁栄につながった。
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郡山市開成館と開拓史料
●郡山を語るとき、安積開拓を抜きには語れない
 松尾芭蕉の訪れた頃は、人口1000人余の宿場町に過ぎなかった。明治9年(1876)、明治天皇の東北行幸に随行した大久保利通などは、アメリカ視察の際に感じた西部開拓に思いをはせ、「安積開拓」の有望性を感じた。江戸時代よりの士族授産の開拓地として「安積開拓」を決定、国営事業として全国9藩から旧士族五百戸を入植させた。荒れた原野の開拓を、猪苗代湖の水を引くという当時誰もが思ってもみなかった疏水事業を考えたのである。不毛の大地が実りの大地に変貌した、現在の郡山市中心街である。この開拓に関する多くの史料は、安積開拓発祥の地「郡山市開成館」(入館210円/10~17時/月曜(祝日の場合は翌日)休/デ024-924-2157)として公開されている。
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見事な和紙のスタンドと観覧券

( 2009年8月13日 寄稿 )