世界遺産を旅する  by 弘実 和昭

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  世界遺産は、1972年ユネスコ総会で採択された制度である。遺跡景観自然など、人類が共有すべき普遍的価値を持つ不動産やそれに準ずるものが対象となるという。2011年で936件登録されている。その内訳は文化遺産725件、自然遺産183件、複合遺産28件である。

  地域的にはヨーロッパにその半数がある。一番多いのがイタリア(47件)、次にスペイン(43件)、中国(41件)、フランス(37件)、ドイツ(36件)と続く。非常に多くの物件が登録されている国がある一方で、世界遺産条約締約188カ国の中、1件も登録物件を持たない国も数多くある。明らかに、ヨーロッパの観光産業を意識した結果であるとも言えるようだ。

 日本は14位(16件)である。文化遺産は法隆寺、姫路城、古京都、原爆ドーム、白川郷、厳島神社、古奈良、日光、琉球、高野山、石見銀山、平泉の12ヶ所。 自然遺産は、屋久島白神山地、知床 、小笠原諸島の4ヶ所。自然遺産に富士山だけでなく日本三景が入っていないのが面白い。

 評価したいのは、広島の原爆ドームやアウシュビッツ強制収容所、奴隷貿易の拠点セネガル共和国のゴレ島、核実験場のビキニ環礁、政治犯の強制収容所があった南アフリカ共和国のロベン島などが負の遺産として登録されていることだ。人類が行った愚行を未来へと語り継ぐ象徴として、この登録の価値は高い。

 

世界遺産 承徳のチベット仏教寺院

  北京に最近出来た日本人建築家の建物を見学に行ったとき、一日余計に時間を作り承徳へ行ったことがある。ここも世界遺産である。名前も知らなかった観光地である。行きは列車、帰りはバスにした。北京から5時間ほどかかるが、この列車はなかなか快適で、のんびりと山の間を蛇行して進む。大地の断層がむき出しになった山の間を走るのだが、これぞ大陸の風景、日本にはない景観である。ときどき鍬をふるう農民がいて、家畜ものんびりと草を食む。

 着いた承徳の街は平凡な中国の田舎町である。そこにかつて清朝皇帝の避暑と公務を行う場所として建てられた山荘がある。皇帝は、一年のうち半年はここで王公貴族や外国の使節と会見したり、政務を行ったり、避暑地として過ごしていた。皇室最大の庭園とチベット仏教の寺院群が付随している。清王朝は、満州の少数北方民族であり、文字も満州文字を使い、宗教はモンゴルなどと同じチベット仏教だ。

中国は、四千年の歴史の中で、平安時代は金、鎌倉時代はモンゴルに、江戸時代になると再び異民族である北方少数民族清に支配される。清王朝は、300年も続いた。中国を漢民族の国とするなら、毛沢東が中華人民共和国を樹立するまで、実に長い間言葉も文字も宗教も異なる民族に支配されていた国が中国であると言うことも出来るのだ。異民族支配のため、官僚の汚職や賄賂の横行などが社会のシステムにはびこっていいて、今でも中国の大きな欠点となっている。承徳の宮殿に残る満州文字やチベット仏教の遺跡を見ていると、漢民族のうめき声が聞こえてきそうだ。漢民族のチベット嫌いはこの辺からも窺い知れる。

 この街に世界遺産がなければ、私は承徳の街を訪ねることはなかったと思う。世界遺産登録は、名前の知られていない無名な観光地も突然世界の表舞台に引きずり出す事が出来る。しかも世界遺産は決して古いものとは限らない。完成から30年ほどしか経過していないシドニーオペラハウスが登録された例もある。観光の活性化は、人を呼び寄せ雇用を創出する。そしてそのことが、結果的に世界中の価値ある遺産を守ることにも繋がるはずである。