手漉き和紙の里(KK)

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手漉き和紙の里(1)~西の内紙2  by 菊地 正浩

  • 2009.01.31

 山方町では伝統的な紙漉き技術を残すため、紙のさと和紙資料館を開設した。ここの技術は昭和46年(1971)、県の無形文化財に指定された。和紙は中世の佐竹氏時代から漉かれていたが、水戸光圀が紙の生産に力を入れ、領内に楮(こうぞ)、三椏(みつまた)を植えさせて奨励した。この和紙は水戸藩のみならず江戸表へも出荷され、御用紙、商人の帳面紙、所謂大福帳などとして好評を博し、やがて「西の内紙」として有名になった。水戸光圀が有名な大日本史編纂に用いたのがこの和紙である。  西野内が和紙生産の中心になりえたのは、良質な原料の楮と久慈川支流の清流、加えて農閑期を利用し優れた漉き手が多かったことと、久慈川の水運に […]

手漉き和紙の里(1)~西の内紙1  by 菊地 正浩

  • 2009.01.30

 茨城県の旧那珂郡山方町(やまがたまち)は旧常陸国北部にあり、古くから文化の開けた町で、山方遺跡や多くの歴史と伝統文化が息づいている。八溝(やみぞ)山地と久慈(くじ)山地に挟まれ、中央部を清流久慈川が縦断する水と緑と鮎の里である。  町名は中世の山方氏の居城があったことに由来するといわれる。北部は河岸段丘でこんにゃく栽培や和牛飼育、南部は沖積低地で米とタバコ栽培が盛ん、近世は水戸藩領となった。関東と陸奥(むつ)国(大部分は現青森県と岩手県の一部)を結ぶ南郷(なんごう)街道の宿場町、また久慈川と那珂川を結ぶ水運の河岸町として栄えた。  そのなかでも西野内地区は手漉き和紙の西の内紙の産地として有名 […]

和紙の里探訪5

  • 2008.03.21

●おわりに  一口に和紙といっても種類はたくさんある。紙漉き技術が中国で発明され遣隋使、遣唐使や高麗人の僧侶、曇徴によって我が国に伝播されたが、日本人の英知と器用さは、さまざまな原料を使い、さまざまな用途に合う日本独特の和紙を作るようになった。やがて、多くの絵師や書家、美術家、芸術家、工芸家などの手により、見事な書、絵画、地図、工芸品、美術品、襖、屏風、扇子、伝統工芸品、絵画などの形となり、たくさんの文化・芸術を生んできた。  今日、博物館、美術館、民族・歴史資料館などで目に触れるものの多くが、和紙の発達なくしては考えられなかったことである。もちろん都が京都・奈良にあった時代のことゆえ、紙漉き […]

和紙の里探訪4

  • 2008.03.20

●高麗(こま)神社と高麗郷  はるか二千年以上の古に、東アジアでいち早く国家を形成したとされる高句麗。隣国などの猛攻にも耐え、多くの文化、芸術を残して消えていった国。その国より渡来した王族、高麗王若光を祀る高麗神社。そこは武蔵国、高麗川の清流と緑豊かな土地であった。霊亀2年(716)5月16日、女帝の元正天皇のとき新設された高麗郡の中心地であった(『続日本紀』)。  現在、高麗郡建部から1300年に当たる平成28年(2016)に向けて、色々と町興しの企画がされている。高麗王若光は東国の七国に住む高句麗人1799名の人々と共に移住し、高い技術でこの地を開拓、紙漉き技術も伝播したと言われる。このと […]

和紙の里探訪3

  • 2008.03.19

●和紙の原料  古くから和紙の原料は、楮(こうぞ〈写真左〉、桑科の落葉低木で3m位に成長。主に西日本の山地に自生、四国、高知産が多い。当地では埼玉、茨城、群馬産を使用。コウゾ・カウゾ・カンズ・カウソなどと呼ばれたがカミソ、紙麻の音便とも言われる)、三椏(みつまた〈写真右〉、沈丁花科の落葉低木で2m位に成長。紙幣の用紙として使われる)、雁皮(がんび、沈丁花科)の靭皮繊維を中心に使われ各々特徴がある。このほか麻、桑、竹、パルプなども用いられる。ネリには黄蜀葵(トロロアオイ、アオイ科の一年草で根を使用)。ネリは美しく均等な厚さの紙を漉くために不可欠なもので、国内では茨城県産が多い、四国の土佐産が根太 […]

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