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2008年03月 アーカイブ

2008年03月01日

河津桜と早春の爪木崎3

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●下田港・ペリーロード
 下田は幕末開港の歴史探訪や黒船下田港内めぐりによる湾内からの眺望も趣がある。華やかさはないものの、町おこしのひとつとしてペリーロードの散策が静かなブームにもなっている。

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 日露和親条約が結ばれた長楽寺、日米下田条約が結ばれた了仙寺(写真左)(境内裏手には古墳跡(写真右)がある)辺りから用水路の両側に沿って、ペリー上陸記念碑のある港まで続く。ここは幕末当時の下田の花街跡。ミニ倉敷のように情緒溢れている。町おこしの一環として用水路を綺麗にしたり、趣のある品揃えの店、ちょっと入ってみたくなるような飲食店などゆったりとした散策が楽しめる。

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●むすび
 今回、河津桜まつり取材と秘湯の宿爪木崎「風」に泊まり、早春の南伊豆の旅を味わった。今年のNHK大河ドラマ『篤姫』は、これからペリー来航による幕末の開港、開国の場面を迎える。下田開港博物館に立寄り、さらに知識を高めることで一層興味が湧くであろう。伊豆急下田駅からは特急踊り子号で帰京の途に着く。ホームには無事帰るように祈る石造の「カエル像」が見送ってくれる。

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おしまい
投稿者:菊地正浩
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2008年03月02日

『篤姫』第9回「篤姫誕生」

 幾島(松坂慶子)登場。広川よりきつい教育にさすがの於一も圧倒されている様子です。しかし、「口にしたことは守り通す」という姿勢いいですね。口先ばかりの人間が多い世の中ですから人間的にもすばらしいことです。その一方で於一の薩摩訛りを指摘しており、これが菊本自害の理由に強引に結びつけようとしているのがミエミエです。だったら最初からそのような出自の娘を養女にもらわなければすむことですから……。
 この幾島についてまたまた桐野先生のブログを参考にさせていただきますが、調べてみますと家定正室篤姫の御年寄(奥向きのすべてを取りしきる役)で、最初は「藤田」と名乗っていたそうです。元々は薩摩の出身で、斉彬の祖父にあたる島津斉宣の娘郁姫に仕え、京都の近衛忠煕に嫁いだ際に上京。嘉永3年(1850)に郁姫が亡くなると出家して「得浄院」と号していたそうです。しかし、ドラマを観てますと剃髪していない様子。また幾島は「こぶ」のあだ名で呼ばれてように史実では大きなこぶがあったそうです。
 そしていよいよ於一が本題の「篤姫」を名乗ることになります。これは11代将軍家斉に嫁いだ正室広大院(8代藩主島津重豪の娘)が「篤姫(とくひめ)」を名乗っていたことにちなんで「あつひめ」と名づけられたそうです。
 一方で13代将軍となる家祥が父家慶の死に際してネジをまけとか、雨の中花に水をやっていたりと馬鹿殿ぶりを強調していましたが、どうもこれってわざと演じているようにもみえてしまうんですね。それとも『三国志』の阿斗(劉禅)のようなキャラなのでしょうか。

 史跡紀行では再び鹿児島市内に戻って石橋記念公園の西田橋と鶴丸城跡を紹介していました。元々は甲突川に架かっていた石橋を移転・復元したのが石橋記念公園で、ここには西田橋のほか、高麗橋・玉江橋も架かっています。併設の記念館は無料で見学でき、スタンプもあります。最初に行ったときは休館日でしたが、最終日に再度訪れてスタンプをGETしましたのでUPします。

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 それにしても鶴丸城跡の大奥跡があの駐車場とはビックリしました。昨年の『風林火山』でも高遠城跡の勘助郭跡も駐車場になっていたし、観光開発と史跡保存のギャップを感じてしまいます。

投稿者:管理人
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2008年03月03日

ヨーロツパ心に残る町5

ブルージュ 〔ベルギー〕
「天井のない美術館」と言われる、美しい街ブルージュは、首都ブリュッセルから、オーステンデ方面への急行列車で約1時間。車窓いっぱいにベルギー・フランドル地方の広がる田園地帯を眺めながらの、のどかな列車旅だ。
 13世紀頃から北海に通じる航路の拠点でヨーロッパ最大の港町として栄えたブルージュは、15世紀末、港への航路が泥で埋まり北海への道が絶たれると、繁栄の町から閉ざされてしまい、20世紀初めに新しい海路が開かれるまで何百年もの間歴史の蔭に埋もれていた。

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 中世ハンザ同盟の町として、豪華絢爛に輝いていた時代そのままに現存する町並みは、心に響くものがある。ブルージュ駅から街の中心マルクト広場に聳えるベロアの塔までは、ゆっくり歩くこと約30分。メロディを奏でるカリヨンの音とともに、366段の石段を登り詰めた高さ83mの鐘楼からの眺望は、煉瓦色の屋根の鮮やかさと、三角形の切り妻の家並みの階段状の形が、宝石のカットのような美しさに見える。そして「北のベニス」と呼ばれるほどに、迷路のように張り巡っている運河の輝きは、名の如く宝石を散りばめたような世界である。
 今回訪れた6月のブルージュは、曇り空に時折小雨のぱらつく肌寒い気候であった。濡れた石畳の通りを歩き、見上げるゴシック建築の市庁舎やベロアの塔は、フランドル特有の霧が、覆い被さりまた流れて行き、幻想的な世界を描き、深い眠りの歴史を映し出しているようである。

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 遊覧ボートで巡る町並みはまた違う顔がある。橋梁の下すれすれに進むなか、運河の両岸には歴史的建物が続き、建物を覆う蔦や木々とともに運河に映る。折り返し地点近く「愛の湖」には、白鳥が戯れ子どもたちが遊ぶ。すぐ近くには、かつて中世ヨーロッパで流行した「らい病」で、帰らぬ子どもたちを収容したという、ペギン会修道院の白い建物があり、激動の時代の哀れさを語りかけているようである。

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 昔、アントワープで貿易会社をしていた友人家族に連れられ、初めて訪れたブルージュのマルクト広場の屋台で子どもたちと食べた、マスタードをたっぷりとつけた揚げたてフライドポテトの味が忘れられず、今回も移動屋台を探す。観光馬車乗り場横に屋台を発見し、寒いなかホカホカのフライドポテトを、昔を思い出しながら食べる。

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 ブルージュでの味は、本場ベルギーのまろやかな味の琥珀色ビールと愉快なチョコレート、そしてホカホカのフライドポテトが最高のグルメであった。

パート6につづく
投稿者:にわあつし
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2008年03月04日

倍率325倍、公募のいすみ鉄道社長に吉田氏

本日のお客様は実に約8カ月ぶりのカリスマ編集者森田芳夫氏です。

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 2月28日付けの朝日新聞千葉版は、経営再建中の第三セクター「いすみ鉄道」が公募していた社長に、吉田平氏(48)が選ばれ、4月1日から2年間就任すると報道した。
 同社は1988年の開業以来、赤字続きで県などの支援を受けていたが、民間の経営感覚をとりいれて再生をはかろうと、年収7百万円で社長を公募したところ、全国から325人が応募、年齢も21歳から76歳だったという。吉田氏は旧千倉町(現南房総市)生まれで、父が創業した千葉市にあるバス・タクシー会社平和交通(有)など3社を経営する。千葉市内で「買物バス」の企画をするなど、新サービスの企画や豊富な経験とノウハウが評価されたと報じられている。
 紙面の最後には「客の視点を大切に再生の実現に努力したい」という本人のコメントが掲載されていた。

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投稿者:森田芳夫(写真提供:上田)
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2008年03月05日

「向う両国」門前仲町の魅力1

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江東区西部、深川との境を首都高速5号線が通り、永代通りと清澄通りが交差し、その下を地下鉄営団半蔵門線と都営大江戸線が走る。近代化されはしたが今なお江戸下町の名残を止める。地下鉄を降りて地上に出ると、深川不動堂や富岡八幡宮に参詣する人、参道の両側に並ぶ店で土産品を買う人、名物深川蒸篭めしに行列をつくる人、一年を通して終日賑わいを見せる、それが東京の下町門前仲町の魅力である。

●いわれ
 承応2年(1653)四代将軍家綱の時、永代寺地所に門前町屋を開き、永代寺門前仲町と称したのが町名の起源とされる。8月15日を中心に行われる「深川八幡祭り」、10月初旬越中島橋そばの臨海公園で催される「深川の力持」、大横川ほとりの黒船橋公園で公開される「木場の角乗り」は有名である。

●隅田川への架橋
 明暦の大火「振袖火事」によって多数の犠牲者を出したことを反省し、幕府は大川(隅田川)に橋を増設することとなった。それまでは江戸城を守るという軍事上の見地から、千住大橋の一か所しか架かっていなかった。最初に現在の両国橋より下流20~50m付近に大橋を架けた。その後、元禄6年(1693)に新大橋が架けられると、それまでの大橋を改め武蔵国と下総国、両国を往来することから何時しか江戸っ子が「両国橋」と名付けたという。元禄11年(1698)には永代橋、安永3年(1774)に吾妻橋(当初は大川橋と呼んだ)が完成し、以降順次隅田川への架橋がなされていったのである。
 ちなみに両国橋だけでも5回焼け落ち、大水により2回流失、破損による改修は十数回にのぼる。明治8年(1875)にやっと新しい木橋が完成するも、明治30年(1897)に夏の川開きで大勢の人の重みにより、両側の欄干が落ち数十人が死傷した。明治37年(1904)に鉄橋となるも、大正12年(1923)の関東大震災により改修、昭和7年(1932)やっと現在の姿になったが、昭和20年(1945)3月には東京大空襲にもあっている。

●江戸下町とは
 橋が架けられると橋番という係を置き、広場を造った。人が来るから必然的に店や見せ物小屋ができたのである。武蔵国側では広小路という繁華街ができて、江戸の気取った人たちで賑わった。一方、下総側の東両国を「向う両国」と呼んで、少々見下していたのである。しかし、向う両国のほうがざっくばらんな江戸下町の人情溢れる人たちで賑わったという。粋な築地、浜町河岸の芸者と人情味ある深川、辰巳芸者に代表されていたようである。日本橋を出て広小路の繁華街を抜けて両国橋を渡ると大相撲発祥の地「回向院(えこういん)」があった。それから紀伊国屋文左衛門の屋敷(現在の清澄庭園)を抜けると門前仲町に行けた。永代橋が架かると、日本橋からまっすぐに門前仲町に行けるようになった。『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士も吉良邸討入り後、この永代橋を渡り、江戸城の近くを通り三田から芝高輪の泉岳寺へと歩いて行ったのである。

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パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月06日

「向う両国」門前仲町の魅力2

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●富岡八幡宮
 徳川幕府が開かれた当時、深川一帯は江戸湾内に点在する砂州の集まりであった。いたるところ葭葦が茂り、住む人も少なく漁業する人が主で集落程度でしかなかった。その一角に永代島と呼ばれる小さな島があり、その一帯を菅原道真公の後裔といわれる長盛法印が埋め立てて、社地を氏子の居住地とし、寛永4年(1627)八幡宮を創設したとされる。この開拓地が現在の八幡宮境内、深川公園、富岡町、門前仲町に該当、6万508坪という広大な社有地であったといわれる。その後、真言宗大栄山永代寺を建立、長盛法印自ら初代住職となった。明治維新となってから神仏分離令により、永代寺は廃止させられ、現在跡地は深川公園となっている。およそ千年前の利根川は向島辺りで東京湾へと流れていたが、治水工事により銚子のほうへと流れを改修、従って隅田川はずっと後に出現したのである。
 隅田川の出現により同じ氏子地域である深川と日本橋、京橋の一角を分断することになってしまった。深川側となった永代島にある八幡宮なので、昔は「永代八幡宮」とも言われた。この永代島八幡宮(富岡八幡宮)と永代寺に、江戸の人々が参詣するようになると、大名、小名の下屋敷や豪商の別邸などが建ち賑わうようになった。そして、門前町が発生し江戸文化の華が開くこととなる。辰巳芸者に代表されるごとく辰巳情緒、下町情緒なるものが醸成されていったのである。

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●門前町
 江戸湾の魚貝を獲って細々と暮らす漁師町であった小さな永代島が、深川という広い地域に展開されていき、門前町が発生した。隅田川に注ぐ支流や堀川という水利の便は木場となり、佐賀町の倉庫地帯となり、やがて下町の工業生産地帯を形成していった。現在、東京でも比較的純朴な下町情緒溢れる土地柄で、その沿革を辿ると八幡宮との歴史的結びつきによるものであることがよく理解できる。この一帯の人々は富岡八幡宮を尊敬し、祭礼を愛好し伝統を守り続けている。


パート3につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月07日

「向う両国」門前仲町の魅力3

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●富岡八幡宮の祭礼(深川八幡祭り)
 毎年8月15日を中心に行われ、江戸三大祭りの一つに数えられている。他の二つは山王日枝神社と神田明神で「神輿の深川、山車の神田、だだっ広いが山王様」と言われ、それぞれ百か町村以上の氏子町内を有していた。寺社奉行直轄免許の祭礼で「天下祭」と呼ばれていた。なかでも八幡宮の祭礼は下町風の勇み肌祭礼として、勇壮な神輿振りで庶民に人気があった。当初は御船祭であったが、元禄時代深川に屋敷のあった紀伊国屋文左衛門が、金銭に糸目を付けず総金張りの大神輿を奉納したことから神輿祭りになったという。しかし、大正12年(1923)の関東大震災で惜しくも焼失してしまった。
 粋で神輿好きな深川っ子の悲願は、平成3年5月にようやく成就、台輪幅1.5m、屋根の最大幅2.9m、高さ4mを越え総重量は約4.5トンに達するものである。大きさ重さともに日本一を誇り、装飾には多くのダイヤ、ルビ-、24Kの純金がふんだんに使われるという真に見事なものである。奉納の儀式は目を見張るものであったが全国にも報道された。まさに江戸下町っ子の心意気そのものであろう。
 3年に一度行われる「本祭り」には氏子各町から大神輿ばかり五十数基が列を組んで約2㎞も練り歩く。沿道には7~80万とも言われる見物客で埋まる。神輿の担ぎ手に水を浴びせることから別名「水掛祭り」とも言われ、昔からの伝統を守り江戸の粋を伝える唯一の祭りとなっている。

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●深川不動堂
 元禄時代に江戸町人を中心に不動尊信仰が広まった。成田山新勝寺は信徒数も増え、寺格も上り本山へと発展していった。この過程で成田山のご本尊、不動明王を江戸で参拝出来ないものかと考えるようになった。元禄16年(1703)4月に初めて江戸に於ける出張ご開帳が実現した。“お犬様”で知られる五代将軍綱吉の母桂昌院が、成田山の不動明王を江戸で参拝したいと言って実現した。桂昌院は深川の木場にある州﨑神社(境内には波除碑・津波警告の碑がある)の守り神にもなっている。成田山を出発した総勢約300人の行列は、ご本尊共々一週間かけて到着、2カ月にわたる江戸ご開帳は大変な人気であった。
 このご開帳場所となったのが永代寺境内で、深川不動堂の起こりとされる。明治になり神仏分離令によって永代寺は廃寺となり、明治2年(1869)現在の地に深川不動堂が認められた。同14年に本堂が完成したが、関東大震災と東京大空襲と二度も焼失した。幸いにもご本尊は焼失を免れた。昭和26年(1951)、千葉県印旛沼の龍腹寺を移築して現在の本堂とした。江東区最古の本造建築で老朽化が著しく、平成3年大改修をした。平成14年、300年記念事業として内佛殿を建立、東都随一の不動霊場として幅広い信仰を集めている。

パート4につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月08日

「向う両国」門前仲町の魅力4

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●百万歩の男「伊能忠敬」
 我が国の地図史は伊能忠敬(1745~1818)抜きには語れない。延享2年(1745)、上総国九十九里浜のほぼ中央、小関村の名主の家で誕生した。名を「三次郎」といい、幼少より読み書き、算盤などの基礎教育を受け書物を好んだ。17歳で佐原の酒造元伊能家へ入婿、商才を発揮して財を成した。当時、地球が円いことは判っていたが、大きさ、距離は判っていなかったので、地球を測ることを考えていたという。49歳で息子に家督を譲って江戸に出て、天文学者高橋至時(よしとき)の門下となり測量術の習得に励んだのである。

●江戸黒江町の隠宅
 伊能忠敬は江戸の住まいを黒江町、現在の門前仲町一丁目に構えた。19歳も年下の高橋至時の弟子となり、暦学、天文学を学ぶ傍ら、門前仲町の隠宅を中心に深川、浅草辺りまで歩測して地図を作成したという。伊能は訓練の結果一町を158歩で歩いた。一町は60間、1間は6尺、1尺は30.30cmとすれば、歩測の一歩は69.03cmとされる。寛政12年(1800)4月19日、幕府の命を受け全国測量に出発する。早朝に富岡八幡宮に参拝してから蝦夷地に旅立ったといわれる。伊能は17年の歳月をかけ全国を測量した。この時、日頃訓練した歩測に加え、間縄と天体観測を駆使して測量していった。この間10回の旅立ちであったが、その都度富岡八幡宮に参拝し無事を祈ったのである。

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●伊能忠敬の銅像
 平成13年1月20日、富岡八幡宮参道入口大鳥居前に銅像が建てられた。大きな黒御影石に刻まれた日本地図を背景に、杖先方位盤を手に測量へと旅立つ姿である。銅像の隣りには、国土地理院による新地球座標系の国家基準点(三等三角点)が設置され、まさに近代日本地図の祖、伊能忠敬に相応しいものと言えよう。多くの参詣者、観光客が名物深川めし(あさりのせいろむし)、甘酒屋を訪れるが、この銅像も必ず目に触れ、後世に永く語り継がれていくことであろう。                                      
●むすび
 隅田川への架橋は順次行われ、近年はレインボ-ブリッジも出現した。かつて永代島から深川へ深川へと埋め立てられ拡大されていった「向う両国」であるが、今や超近代的な都市に変貌しつつある。平成23年度(2011)には業平橋、押上地区に、デジタル放送用アンテナを付け、450mの高さに展望台を備えた、約610mの新タワ-が出現する。「向う両国」、下町などと言われ見下されていたようなことは、武蔵国側にお返ししたい気持であろう。忘れてならないのは、あくまでも埋め立て地である。地球温暖化による東京湾海面上昇は何時災害をもたらすか判らない。木場の州﨑神社境内にある「波除碑・津波警告碑」を決して忘れてはならないと思う。

おしまい
投稿者:菊地正浩
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2008年03月09日

『篤姫』第10回「御台所への決心」

「お姫様教育」ならぬ将軍正室の「御台所教育」としてエスカレートしていきます。箸の使い方から三味線、鼓打ちなど相変わらず大変ですな。篤姫はまたも目に落書きしていますし。さすがの幾島も覚悟のない篤姫に困り果て、斉彬に真相を話すべきと云っております。
 ついに篤姫に真相を打ち明けると、篤姫は茫然自失。眠れない夜についに城から逃亡まで企ててしまいます。そこで斉彬に真相を問い質し、ようやく御台所になることを決意。「己の意志で江戸へ赴き、国を守りたい」と云っています。しかし、幕政破綻の一因として大奥の奢侈があったのではないですかな。そのあたりは江戸に行ったあとの篤姫を見ないと分かりませんが。
 そして相変わらず家祥の馬鹿殿ぶり。折しも黒船来航でてんやわんやで、老中の阿部雅弘は大名・幕臣から庶民にまで対策を求めたようです。家祥が採用した「酒でもてなして、火薬庫の所在を調べ、相手が眠ったところに火を放てばよい」という案のもとは、新吉原の遊女屋主人藤吉の献策がもとになっています。たしかこの案が成功した暁には「吉原一廓の門の通用を許してほしい」というものだったのですが……。あと庭でアヒルを追いかけてずっこける家祥。この話は創作のようですが。今回、初耳だったのは海防掛の深谷盛房(野村信次)。生年は1767年で没年は不詳だそうですが、一応、老年のため致仕する嘉永7年(1854)までは存在が確認できます。しかし、時代設定からみると当時87歳! 野村信次さん(63)でも若すぎたようです。
 
 史跡紀行では徳川斉昭の故郷・茨城県水戸市を紹介しました。何たる奇遇。実は昨日、梅の花を見に偕楽園へ行ってきたばかりなのです。今年は寒かったせいもあってか。梅の花はまだ八分咲きでしたが、ものすごい人だかりでした。偕楽園の徳川斉昭と七郎麿(のちの15代将軍慶喜)の像も見たばかり。今回はその偕楽園と水戸駅のスタンプをUPします。

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≪追伸≫
桐野先生が15日にようやく再放送で観れたそうです。相互リンクということで。先生のブログもどうぞ。

投稿者:管理人
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2008年03月10日

「天下第一の桜」信州高遠城址公園のお花見にJRが臨時列車と臨時バスを運行

天下のカリスマ編集者として名を馳せ、会代表および伊那ふるさと大使でもある森田芳夫氏より速報です。

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園内約1500本の桜のうち、最も美しいと合併前の高遠町長ご推薦の銘木。
高遠美術館にほど近い。

アルプスの残雪を背景に、ピンクの色取りが美しく浮かび上がる高遠城址公園の桜、1500本が一斉に満開となる時期にあわせ、今年はじめて臨時列車「高遠さくらまつり号」と臨時バスが運行される。
 運転日は満開の見通し日である4月12日(土)・13日(日)、19日(土)・20日(日)の4日間に限られる。往復とも一日一本。

≪往き≫
高遠への臨時列車■松本駅9:28発→岡谷駅9:57着・10:10発→伊那北駅10:50着(中央線から飯田線へ乗り入れ)
■千葉・東京から岡谷駅でこの臨時列車・臨時バスに乗り継ぐためには「あずさ3号」千葉駅6:38発→新宿駅7:00発→岡谷駅10:05着・10:10発に接続。
高遠への臨時バス(臨時列車利用者専用)伊那北駅11:00発→高遠さくらホテル11:25着(公園までは徒歩10分)

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山城だった城跡から町をのぞむ。

≪帰り≫
高遠からの臨時バス(臨時列車利用者専用)高遠さくらホテル15:00発→伊那北駅15:25着
伊那北駅からの臨時列車■伊那北駅15:57→岡谷駅16:33着・16:39発→松本駅17:14着■新宿駅へは岡谷駅で17:15発「スーパーあずさ28号」に接続。新宿駅19:36/13・20日のみ岡谷駅で15:51発臨時列車「あずさ56号」に接続。新宿駅19:21着

 なお、臨時列車利用者に限り伊那北駅~高遠さくらホテルの往復バス代と公園入園券がセットになったパスポートが1000円で発売される(伊那北駅)。伊那北駅にはこの期間、臨時の売店や祭りが開かれ、歓迎ムードを盛り上げる。

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高遠の桜は「花が咲く」というより、「花がたわわに実る」という感じ。

投稿者:森田芳夫
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2008年03月11日

-18℃の町のごちそう

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 厳寒の北海道・旭川ではラーメンが「ごちそう」です。ラーメンスープの油膜が熱あつを保っていて、湯気も出ません。
 全国ラーメンチャンピオンにもなった、熊っ子チェーン本店/相原さんの店では、魚や昆布も使った出汁で、まろやかで熱いあつい醤油ラーメンを出してくれます。この暑さが寒気をやっつけてくれるわけです。

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 こんな、デカネタのすし店もありますが。

投稿者:伊藤建介
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2008年03月12日

ヨーロッパ心に残る町6

アヴィニョン〔フランス〕
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 夕暮れ迫るのアヴィニョン橋は、ローヌ川を照らす夕日の輝きで、小金色に染まっていた。澄んだプロバンスの空の下、絵のように美しい風景は、つい踊りたくなるような幸せの気分にさせられる。

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 童謡でもおなじみのサン・ベネゼ橋は、中世の城壁で囲まれた町のはずれ、穏やかに流れるローヌ川のほとりで、川面に浮かぶように架けられている。城壁に囲まれた古都は、クリスマスを真近に控えてイルミネーションが町並みを飾り、露店の焼き栗屋では、熱く香ばしいひとときの味覚が、寒い街行く人々を誘う。

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 元ローマ法王庁であった巨大な宮殿を筆頭に、数々の美術館や美しい教会など、城壁の中の町並みには見どころが溢れている。忙しい時間で訪れた古都の、土産店の壁で賑やかに鳴いていたプロバンスの蝉の「チ、チ、チ」と唄う声が、毎日、私の店の壁でも鳴いている。冬に連れて来たプロバンス蝉だが、夏になって、我が町清水の蝉と仲良くなるだろうか? 鳴き声を聞くたびに、アヴィニョンの美しい風景を思い出す。

 アヴィニョンへは、パリ・リヨン駅からTGVで約2時間40分。アヴィニョンTGV駅から町の市内まではシャトルバスで15分。在来線で他の都市から来ると、到着するアヴィニョン・セントル駅は町の入口だ。駅前からレビュブリック門を入ると、メインストリートがまっすぐ延び、法王庁や、サン・ベネゼ橋へは直線距離である。

パート7につづく
投稿者:にわあつし
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2008年03月13日

だんだん変わってくる

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 銀座2丁目の大成建設のビル跡に、「デ・ビアスビル」ができた。私はかつて、この近くの実業之日本社の社員だったので、大成建設ビル爆発事件直後、編集部のニコンFを持ってかけつけたら、生々しく硝煙臭があった。
 このビルは光井純という方の作品だそうだが、作者は天才なのだろうか? 心のゆらぎや、落ち着きを、町の景色を無視した、マネーのための作品のように感じる。50年、100年後に重厚さを増して気高くあるだろうか。

投稿者:伊藤建介
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2008年03月14日

信州・須坂の三十段雛飾り

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 信州の須坂市では人形博物館で、雛人形を市民の持ち寄りで飾っています。五段や七段飾りではなく、タイトルのとおり三十段もの雛飾りです。その前に立つと圧巻です。雛壇の横には「つるし雛」が飾られています。
 おそらく日本一の人形集合でしょう。4月13日(日)まで展示しています。
 ゆっくり写真をみてください。

投稿者:伊藤建介
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2008年03月15日

春のユニバーサル・スタジオ・ジャパン新アトラクション発表

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 3月4日午後、東京で「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」の4月からの新アトラクション「ファンタスティック・ワールド」の発表会があった。キャッツ風のキャラクターが登場。ロンドン生まれでアメリカ育ちの「キャッツ」がいかにハリウッドでも影響を受けているかがわかる。CMは私でも知っているWaT。
なんだか春到来を感じつつです。

投稿者:伊藤建介
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2008年03月16日

『篤姫』第11回「七夕の再会」

 時代も話もデンデンムシのように進みませんね。
 まあ、本編の江戸に入ってしまうと話が急速に進みそうな気がしますが、あえて3月までは鹿児島で引っ張るようです。その前に篤姫にはもう一度だけ両親や幼馴染などに会わせてやりたいという制作側の配慮なのでしょうか。
 篤姫が御台所になる決心をし、輿入れの時期も近づいているので、今和泉家の両親にももう一度会わせてやろうという斉彬の配慮。ひょんなことからこれが肝付尚五郎に知られ、尚五郎は「江戸へ行かせてくれ」と言い出す。これがきっかけで篤姫と尚五郎が七夕の日に再会できましたとさ。めでたし、めでたし。といったところで特筆すべきところもなくなってきました。どうも江戸と鹿児島の二元中継が鹿児島に重きを置きすぎて、江戸の話が散漫になっているような気にがしてなりません。
 あと、ひとつ気になったのは、尚五郎が茶屋で食していたのは両棒(ぢゃんぼ)餅ではなかったかという点です。両棒餅は鹿児島の郷土菓子で、串が1本でなく2本刺さっているのが特徴です。ぢゃんぼとは鹿児島の訛りで上級武士が刀を2本脇に差していた姿だそうで、そこからつけられたそうです。餅の面積が広いので串を2本刺してバランスをとっているのでしょう。仙巌園(磯庭園)の名物です。

 史跡紀行では鹿児島県南さつま市坊津町を紹介していました。今回登場した星合香のルーツとなる香を伝えたのが、奈良時代に唐から戒律を伝えるためにやってきた鑑真ゆかりの地です。江戸時代には薩摩藩密貿易の地になっていたようですが、今回は坊津を紹介するために強引に香の話をもってきたような感じです。何もそこまでしなくてもと思ったのが正直な感想で、未踏の地ですので写真もスタンプもありません。今回はこれにて失礼させていただきます。
 前回、家祥がアヒルを追いかけるシーンを創作と書いてしまいましたが、桐野先生の御指摘でこれは史料にも見られる出来事で史実のようです。不勉強のため失礼致しました。詳しくはこちらをご覧ください。


投稿者:管理人
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2008年03月17日

和紙の里探訪1

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日本の伝統美「小川和紙:細川紙」
我が国独特の技術と上品で素朴、強靭な和紙。経巻、書道、文庫、工芸紙をはじめ色々な紙が漉かれ広い分野で使われてきた。我が国の歴史と文化そのものであろう。埼玉県比企丘陵一帯に1300年の歴史が息づく「細川紙」を漉く和紙の里がある。

●紙の伝播
 後漢の時代(105年)に蔡倫(さいりん)が麻から紙を作った。紙漉きの始まりである。それまでの木簡、竹簡、ヨーロッパではパピルスの葉、羊皮紙などにかわる画期的な発明であった。蔡倫の発明した紙漉き技術は、シルクロードを経てすぐ伝播すると思うであろうが、歴代の皇帝達は決して外部には漏らさなかったようである。もっともそれだけ紙は貴重品であったという何よりの証拠である。ヨ-ロッパへの伝播は、751年、唐と西の大帝国アッパース朝が、中央アジアのタラス(カザフスタンとキルギスの上辺)で戦争をした。結果はアッパース朝の大勝に終わり、捕虜となった唐人のなかに紙漉き職人がいたのである。791年にこの職人はバクダッドに送られた。紙漉き技術はやがてアラブ全域、ヨ-ロッパ、アメリカへと伝播していった。中国製紙法の西方伝播はシルクロ-ド史上特筆される事件であった。ちなみにイギリス、アメリカへの伝播は発明以来実に約1000年の歳月を要しており、この間、パピルスの葉、羊皮紙などの時代が続いたのであった。

●日本への伝播
 推古18年(610)に高麗人の僧侶、曇徴(どんちょう)によってもたらされたと言われる。これより先607年に第一回遣隋使として小野妹子などが派遣された。また、隋が滅んだあと引き続き行われた遣唐使のなかには真言宗開祖の空海(弘法大師)、天台宗開祖の最澄もいたので、色々な技術とともに経巻に纏わることゆえ紙漉き技術を持ち帰ったとして何ら不思議ではない。
 大化改新(645)で孝徳天皇が詔を発したなかに、「よろしく国々のさかいを観、或は図し持ち来たって示したてまつれ」(『日本書紀』)とある。我が国で最初の地図の作成命令とされる。もちろん紙がなければできない話であろう。天平10年(738)諸国に命じて、「国郡図」を作成させている(『続日本紀』)。
 さらに、平安中期になると源氏物語前編のなか、鈴虫では「唐の紙はもろくて、朝夕の御手ならしにもいかがとて、紙屋(かんや)人を召して-----------心ことに清らに-------」とある。朝夕におけるトイレの紙のことである。この頃の紙はもろかったので、日本独特の和紙が生まれていく。もっともトイレの紙を使えるのは相当身分の高い者であり、江戸時代でも庶民は竹箆を使用していたくらい紙は貴重品であった。やがて日本の和紙は中国へと逆輸出されていくことになる。

パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月18日

和紙の里探訪2

●武蔵国(武州)和紙の里~東秩父村・小川町~
 東秩父村は外秩父山地の北東部。昭和31年(1956)8月1日、槻川村と大河原村が合併、村の8割が山林である。和紙製造は奈良時代より続いており、約1300年の歴史と伝統を有し小川和紙の発祥地とされている。当時の面影を今に伝える和紙の里として、手漉き和紙の見学や紙漉き体験ができる。小川町は昭和30年(1955)2月、旧小川町、八和田村、竹沢村、大河村が合併。翌年、寄居町と一部境界変更して今日に至っている。南西部は800m前後の山々が盛り上り、北東部は100~200mの丘陵地である。南部は槻川、左岸に支流の兜川が流れ合流点が町の中心地である。穴八幡古墳、行人塚古墳群などがあり歴史は古い。774年「正倉院文書」の図書寮解や、924年延喜式などの文献に紙を奉じた記録が残されている。紙漉きが産業として栄えるようになり、江戸元禄期の文化、文政時代には江戸から最も近い紙の産地として発展していった。
 現在、東秩父村と小川町では、手漉き和紙業者12名が「細川紙」の技術保持者として伝来の家業に励んでいる。機械漉き業者4社と併せ、伝統的な和紙生産に加え、後継者育成、日本文化の伝統を担う産地として取り組んでいる。

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江戸末期の細川紙紙漉き家屋

●小川和紙:細川紙
 小川和紙を代表するものに「細川紙」がある。古くは武蔵紙とも呼ばれ、小川付近に移住してきた高麗人の技術がもたらしたとも言われている。宝亀5年(774)光仁天皇の頃、図書寮解「諸国未進紙並筆事」の条に、「武蔵紙四百八十帖、筆五十管」と記録されており、この地の和紙が献上されていたことを物語っている。その後の経過を表わす文献は見当たらないが、東秩父村、小川町で約1300年もの間漉かれ作られ続けている良質の和紙である。原料には楮100%を使用した未晒し紙で、独特の技術によって上品、素朴で丈夫な紙である。この地を代表する細川紙は、淡黄色の明るい紙色と光沢を持ち、地合の締まった、毛羽立ちが生じにくく強靭で存在感のあることが特徴と言われ、多くの愛好家に親しまれている。

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 由来については確たる文献など見当たらない。紀伊の高野山麓にある紙漉き村、細川村で漉かれていた奉書紙が、徳川幕府の初め武蔵国小川に移されたとも言われる。江戸の紙問屋からは一番近い唯一の紙漉き生産地であり、小川和紙の一種として「細川紙」を珍重したと言われる。その純粋性と強靭さは昔のままの姿で漉き続けられており、全国的にも類例が少ないことから、昭和53年(1978)3月、国の重要無形文化財に指定された。

パート3につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月19日

和紙の里探訪3

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●和紙の原料
 古くから和紙の原料は、(こうぞ〈写真左〉、桑科の落葉低木で3m位に成長。主に西日本の山地に自生、四国、高知産が多い。当地では埼玉、茨城、群馬産を使用。コウゾ・カウゾ・カンズ・カウソなどと呼ばれたがカミソ、紙麻の音便とも言われる)、三椏(みつまた〈写真右〉、沈丁花科の落葉低木で2m位に成長。紙幣の用紙として使われる)、雁皮(がんび、沈丁花科)の靭皮繊維を中心に使われ各々特徴がある。このほか麻、桑、竹、パルプなども用いられる。ネリには黄蜀葵(トロロアオイ、アオイ科の一年草で根を使用)。ネリは美しく均等な厚さの紙を漉くために不可欠なもので、国内では茨城県産が多い、四国の土佐産が根太く粘りも強いとされている。美男かづら、ノリウツギ、ニベなども使うが、紙がやや赤くなったりしてトロロアオイにはおよばない。

genryonokouzo.jpg 原料の楮

●紙漉きに向く土地柄
 紙漉きにあった土地の条件を備えていなければならない。もちろん原料の楮やネリの黄蜀葵などが入手可能なことは言うまでもない。また、楮や黄蜀葵の栽培、育成が難しいので、農作業の知識も必要となる。重要なのは清流、綺麗な水がなければ和紙は漉けないし、太陽の陽が当たらないと乾燥させることができない。
 東秩父村、小川町は秩父山系の麓の小川盆地で、町の南側を槻川が流れており、支流の兜川など豊かな清流に恵まれていたことが、小川の手漉き和紙を育んだといって良かろう。紙漉きは農家の副業(冬)として作られ、12~3月までは寒漉きといって最も良い時期とされる。夏場は原料が傷みやすく、黄蜀葵の働きが悪いからであるが、何といっても農作業の繁忙期であることも否めない。現在、槻川は水量も減少してしまい、古の清流ではなくなり、残念ながら井戸水を使用するようになってしまった。

パート4につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月20日

和紙の里探訪4

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●高麗(こま)神社と高麗郷
 はるか二千年以上の古に、東アジアでいち早く国家を形成したとされる高句麗。隣国などの猛攻にも耐え、多くの文化、芸術を残して消えていった国。その国より渡来した王族、高麗王若光を祀る高麗神社。そこは武蔵国、高麗川の清流と緑豊かな土地であった。霊亀2年(716)5月16日、女帝の元正天皇のとき新設された高麗郡の中心地であった(『続日本紀』)。
 現在、高麗郡建部から1300年に当たる平成28年(2016)に向けて、色々と町興しの企画がされている。高麗王若光は東国の七国に住む高句麗人1799名の人々と共に移住し、高い技術でこの地を開拓、紙漉き技術も伝播したと言われる。このとき朝廷からは従五位下の位を与えられ、その後王の位を授かって大和朝廷の官人として仕えたのである。その遺徳を偲び作られた霊廟が高麗神社の始まりである。明治29年(1896)入間郡への併合により高麗郡の名は消えたが、高麗神社、高麗川、高麗峠、高麗本郷、西武秩父線高麗駅、JR八高線高麗川駅などゆかりの名前が残る高麗郷は健在である。高麗郷とは明治元年(1868)の郡制によると、現在の日高市、鶴ヶ島市の全域と飯能市、入間市、狭山市、川越市の一部にまたがる広大な地であった。

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●高麗神社をとりまく史跡と自然
 高麗神社の創建にあたった高麗氏は、平安末期から明治に至るまで34代にわたり修験者であった。現在の宮司は高麗家59代である。この神社には歴史を綴る宝物、文化財が数多く残されており、なかでも高麗家住宅は国指定重要文化財となっている。境内は穏やかで清浄なる神域で、豊かな緑の中季節ごとに花が咲き、訪れる人を魅了してやまない。政界や文化人など多くの名士が訪れ、参拝記念に手植えをした樹木を見ると歴史の重みを感じる。

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●高麗にも「雷門」がある
 雷門といえば浅草の浅草寺にある門にかけられている大提灯を思うであろう。しかし、高麗神社の至近にある、聖天院の門にも、なんと雷門と同じような大提灯がぶら下がっている。この聖天院は高麗王若光の霊廟がある。高麗神社と並び訪れて参拝、見学する人が絶えない。時を越えて古の遠い高句麗に想いをはせることができる。

パート5につづく
投稿者:菊地正浩
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2008年03月21日

和紙の里探訪5

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●おわりに
 一口に和紙といっても種類はたくさんある。紙漉き技術が中国で発明され遣隋使、遣唐使や高麗人の僧侶、曇徴によって我が国に伝播されたが、日本人の英知と器用さは、さまざまな原料を使い、さまざまな用途に合う日本独特の和紙を作るようになった。やがて、多くの絵師や書家、美術家、芸術家、工芸家などの手により、見事な書、絵画、地図、工芸品、美術品、襖、屏風、扇子、伝統工芸品、絵画などの形となり、たくさんの文化・芸術を生んできた。

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 今日、博物館、美術館、民族・歴史資料館などで目に触れるものの多くが、和紙の発達なくしては考えられなかったことである。もちろん都が京都・奈良にあった時代のことゆえ、紙漉き技術は近畿、四国、中部地方を中心に発達、徐々に北上していった。しかし、武蔵国が都から遠いにも拘わらず、比較的早く伝播したのは高麗人たちのおかげかもしれない。近年は書くことよりも印刷やコピ-などに頼り、和紙を使って書いたりして直接触れることが少なくなったが、日本の伝統美「和紙」も忘れてはならないと思う。

おしまい

今回の主な施設とアクセス

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東秩父村 和紙の里
電車=JR八高線・東武東上線小川駅からバス20分
クルマ=関越自動車道嵐山・小川ICから15分
入場無料/9~17時(体験は15時まで)/毎週月曜(祝日の場合は翌日)休/問合せ0493-82-1468
http://www.washinosato.co.jp/

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埼玉伝統工芸会館
電車=JR八高線・東武東上線小川駅から徒歩10分
クルマ=関越自動車道嵐山・小川ICから10分
入場大人300円/小中学生150円/9時30分~17時/毎週(祝日の場合は翌日)休/問合せ049-372-1220
http://saitamacraft.com/

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高麗神社
電車=西武池袋線高麗駅から徒歩40分あるいはタクシー5分、JR八高線高麗川駅から徒歩20分
クルマ=関越自動車道鶴ヶ島ICから20分
問合せ042-989-1403
http://www4.ocn.ne.jp/~fkoma/

投稿者:菊地正浩
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2008年03月22日

どうにかならなかったのか!

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 3月6日、湘南短大の帰りに横須賀港に停泊中のイージス艦「あたご」を 見ました。
 一番目立つ桟橋に停泊していて、ここは事故を起こす前からの 定位置です。
 船首には傷跡が見えますし、船上には救命ボートも、海上に 投げるとすぐに膨らむゴムボートもちゃんと着いていました。
 写真を撮ってすぐに、少々辛い思いで港を後にしました。
 上の写真は横須賀港で右側に潜水艦が2艘停泊中、「あたごは」中央左上です。

投稿者:伊藤建介
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2008年03月23日

『篤姫』第12回「さらば桜島」

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 鹿児島編最終回です。篤姫が輿入するため、別れの宴ということで島津4家や他の武家などと別れの宴を行います。しかし、実の父母に対しても言葉づかいや態度に関してビシビシいう幾島、たまりませんな~。嗚呼、篤姫とうとう泣いちゃったよ。このあたり実に人間臭さが出ていていいじゃないですか。
 これに対し、無様と怒る幾島に対して、斉彬は父母と直接面会させる配慮をとります。ウチの母なんか実家がすぐ近くでしたから、いつでも会える反面、僕の場合は休みに出かける楽しみもなかったわけですが、一生故郷に戻れないというのはそれはそれで時代の悲劇といえましょう。
 今回は今和泉島津家の総出演で兄の忠冬、忠敬まで登場。父の忠剛は今回病で斃れてしまうのですが、翌年には亡くなってしまいます。忠冬も安政6年(1859)に亡くなり、長生きできたのは忠敬(1892年没)だけなんですね。
 最後に篤姫は船で大坂へ向かう前に桜島の見える場所に立ち寄り、桜島に別れを告げ、「薩摩を思って泣くのは最後」と戒めます。宮尾登美子の小説では都井岬を経て、国東~下関~丸亀と海路を大坂に向かう設定になっていますが、実際はJR鹿児島本線~山陽本線のルートに近い陸路で向かったようです。しかし、次回はもう江戸。道中での話や京都での話はすっ飛ばしてしまうんですね。
 
 史跡紀行ではタイトルの通り鹿児島市の桜島を取り上げました。現在は鹿児島市に編入されましたが、桜島フェリーで渡る島の西半分は桜島町でした。桜島へは桜島桟橋から頻繁にフェリーが出ており、10分で対岸を結んでいます。この桜島フェリー実に短い船旅ですが、船内では立ち食いうどんも味わえます。なぜか船にのるとこういううどんが食したくなるものですね。フェリーのスタンプ第18桜島丸しかないようで、押せるかどうかは運不運もありそうです。対岸の桜島は温泉や恐竜公園、ビジターセンターなどがあって楽しめます。

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 そういえば先週月曜の『新ヤッターマン』の第10話は「タイガードラマーアツヒメだコロン!」で、時事ネタを話題にしていたようですね。桐野先生のブログのコメント欄で知ったのですが、全然気づかずに見過ごしてしまいました。

投稿者:管理人
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2008年03月24日

春の東京湾 観音崎・鴨川の浜辺

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 3月8日土曜日に新ワカメをゲットしに観音崎へ。岬の灯台の近く、鴨川の入り江で一息をつきました。浜辺では自転車で遊ぶ子どもや犬も走り回って、海水も暖かく、春の到来です。東京湾を隔てて、千葉の鋸山が近くにあります(写真中央)
 鴨川は小さな入江に汐の香りも漂い、ほっとします。携帯カメラで撮りました。

投稿者:伊藤建介
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2008年03月25日

十勝三股駅の盛衰

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 北海道十勝平野の奥、大雪山の東側に、かつて材木で栄えた十勝三股がある。私が訪れた1971年には、まだ国鉄士幌線の終着駅だった。広い駅構内には、材木運搬の貨車が数えきれないほどで、駅前には材木が大量に積まれ、材木店、食堂、理髪店、雑貨店があって、山中のちょっとした町であった。しかもツーンと材木の匂いが漂っていた。一日に50本も材木搬出貨物列車が出発していたそうだ。
 運搬がトラックに変わり、材木の伐採も終わると、人々が去った。写真のようにかつての駅舎らしきと駅前らしき場所に2軒家があるだけの、あまりにも息を呑む別世界の風景だ。そこに生まれ、生活していた人々をふと思った。

投稿者:伊藤建介
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2008年03月26日

ヨーロッパ心に残る町7

二ーム〔フランス〕

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「ちょっと見て! 私の車掌姿似合うでしょ! 」
 ニーム駅ホームで、発車するまでの間、TGVから降り立つ女性客に帽子をかぶせ、和やかな場を創っている車掌のユニークさに脱帽。ニーム駅でのワンシーンである。

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 南フランス・プロバンス地方のニームは、ローマ時代の遺跡が多く、ゴッホの絵の舞台アルルと共に、イタリア的な顔をもつ町だ。パリ・リヨン駅から最新2階建TGVデュープレックスで約3時間。TGVはパリを離れ高速路線に乗ると、最高速度でフランスを横切るように南下。2階車窓から流れるさまは、緑溢れる田園と牧歌的風景から始まり、シャンパーニュの葡萄畑、やがて絵の具で塗り尽くしたような真っ青な空と、土色の家並みと渇いた大地に変わり、隣国スペインに近づいた実感を覚える。

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 12月なのに、快晴の空気はまるでクールミントのように清々しく、身体全体がリフレッシュさせられた。奴隷同士の残酷な戦いの場であった古代闘技場跡の片隅で、気持ちよく眠りについている猫の姿に「平和だなー!」と、プロバンスの町に酔いしれた旅であった。

パート8につづく
投稿者:にわあつし
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2008年03月27日

ああ上野駅

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 茨城県笠間市に用があり、上野駅へかけつけました。特急「スーパーひたち」で友部駅まで1時間。普通列車で2時間です。迷わず普通列車で向かいましたが、窓側に座ったので、嬉しくて、子どものように景色を眺めていました。
 上野駅のホームでは、60年代のスキー行で夜行列車に乗ったころを思い出しました。
 かつて構内には「東北弁」がゆきかい、啄木がそのなかをさまよったのでしょう。
 「集団就職列車」も、夜行急行の「津軽」もいまはありませんが。

 懐かしい関連記事「スタンプ物語26・上野駅」もご覧ください。

投稿者:伊藤建介
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