『風林火山』第6回「仕官への道」

NO IMAGE

花倉の乱のあと、武田家臣・前島昌勝が福島一族を匿い成敗されたのは史実にもあります。この功で勘助は梅岳承芳から還俗した今川義元に仕官しようとするが、その容姿が禍して適いません。しかも今川が武田と同盟したことで、武田への復讐もできなくなり、裏目裏目に出る勘助。一方、信玄(晴信)は義元の母・寿桂尼の仲立ちで三条夫人と婚姻が成立します。京都の公家との交流をもとうとするのは守護大名ならではですね。ところで信玄の婚姻はこれが初めてでなく、史実では13歳のとき上杉朝興の娘を娶り、翌年身籠ったまま亡くなっています。これが勘助の思い人ミツとオーバーラップさせているのかもしれません。
勘助が仕官先を悩んでいるときに、またも青木大膳登場。北条家臣にもかかわらず乱どりをしたため駆逐され、今川への仕官を勘助に頼んできます。しかし、さすがずる賢い勘助、庵原忠胤の家臣と青木を戦わせる隙に馬を奪って相模国(神奈川県)へと逃亡。この勘助との絡ませ方がいいですね~。勘助は北条氏康の武術指南・松田七郎左衛門を通じて仕官を試みるが、そこで北条を頼って落ち延びてきた因縁の福島彦十郎と鉢合わせ。果たして北条への仕官なるかというところで次回へ。
史跡紀行では神奈川県小田原市の小田原城と箱根町の早雲寺を紹介していました。小田原城は16年前に行ったきりで、まだそのときはカミヤキでの撮影でした。もう一回撮影に行こうと思っていても、なかなか行けない現状。義経の取材で石橋山などは行っていますが。
hojosoun.jpg odawarastamp.jpg
ところでJR小田原駅前には、戦国大名北条氏の祖である北条早雲像が建っています。角に松明をつけた牛が脇に3頭いますが、これは早雲が明応4年(1495)に小田原城を攻略した際に、「火牛の計」を用いて勝利をおさめた由来からですが、この「火牛の計」というのは、『史記』にみられる斉国の田単の用いた奇計からの創作。同じく寿永2年(1183)の木曽義仲の倶利伽羅峠の戦いでもネタが使われています。田単の「火牛の計」は牛の尻尾に火をつけたのであり、角に火をつけたら牛は前に進まず後ずさりしてかえって味方を混乱に陥れかねません。それにしても3代目というのが地味なのか、北条氏康の銅像はありませんね。まあ今川義元の銅像もありませんが。ちなみに信玄像はJR甲府駅前、勝頼像はJR甲斐大和駅前に建っています。そういえば勘助の銅像も今のところ見ませんね。
あとおまけですがJR小田原駅には国鉄時代のスタンプ(右)も残っています(2007年1月現在)。消耗が激しいのでいつまであるか分かりませんが、改札窓口で申し出てください。
投稿者:管理人
人気blogランキングへ
※旅じゃBLOGでは会員からの投稿およびそれ以外の読者からのご意見・質問をお待ちしています。デジカメ写真の投稿も大歓迎です。(文字量は400~800Wが目安ですが基本的に自由です。たくさん書いていただいた場合は、複数日に分けることもできますので。おもしろ・びっくり写真などに簡単なネームだけでも全然OKです)。会員の方は直接書き込めるようにシステムを構築中ですが、なにぶんまだWEBコンテンツ技術が追いつきませんので、当分の間は管理人までメールで投稿お願いします。(宛先は必ず明記してください。迷惑行為防止のため、コメントとトラックバックをいったん保留後公開いたします)