サヨウナラ由比町2「歴史編」

NO IMAGE

yuihonjinkoen.jpg
 江戸から京都までの東海道五十三次の十六番目の由比宿は、北は青森・尻屋崎、南の下関から約735㎞と、ちょうど本州のど真ん中に位置する宿場町です。由比の名の語源は、いろいろな関係を結ぶ、「結(ゆい)」から生まれたようで、その昔は湯井とか湯居、由井などいろいろな字体で表されていました。現在の「由比」の字体になったのは江戸時代からのようです。また、豪族が地方を支配した平安後期の1056年、「前九年の役」で大活躍をした大宅光任の曽孫・光延が、源頼朝から駿河の清水・高橋、由比、西山の三郷を与えられ、光延の三人の息子の一人である光高が由比の俗姓を名乗り、由比氏として名主君臨、現在もその子孫が健在しています。
hiroshigemuseum.jpg
 平成6年、町おこしの一つとして、江戸時代の歴史に触れられる施設・由比本陣公園内に「東海道広重美術館」が開館しました。歌川広重の東海道五十三次の「由井」や、ゴッホが模写した事で有名な「亀戸梅屋舗」など1300点が収集・展示されています。その向かいには、『慶安太平記』で全国に名を知らしめた駿河の快男児・由比正雪の生家と言われる「正雪紺屋」があります。
syosetsukonya.jpg syosetsukonyaannaiban.jpg
 正雪は『由比根元記」に「由比宿紺屋吉岡兼房の倅富士太郎」と記されていますが、浪人救済のために正雪が起こした「慶安の変」は、幕府への謀反の騒動として処罰は厳かったようです。正雪の身内はすべて死罪とされ、現存する紺屋が出生地なのかは定かではありません。私は幼少の頃、捻挫した痛い足を引きずりこの正雪紺屋に通い治療した思い出があります。柔術で覚えたという治療は、慣れた手つきで痛みも早くとれ、さすが正雪の子孫! とおじいさんを尊敬していました。ただこの頃は、正雪がどんな人物だったのかは知りませんでしたが。
つづく
投稿者:にわあつし
【人気blogランキングへ】