福島原発・死の町は何時甦る! by 菊地 正浩記
- 2015.06.08
- 原子力発電をめぐって
東日本大震災・福島原子力発電所事故でも立ち続ける歴史の証人
「原町無線電信所アンテナ主塔」のモニュメント
2015年3月1日、国道6号と常磐自動車道が全線開通した。富岡町から南相馬市は帰還困難区域のため、国道は信号黄色点滅が続きノンストップで走る。
国道からは脇道へ入れない。バリケード封鎖され警官が厳重に警備している。JR常磐線は竜田駅から原町駅までが全線不通で復旧の目途は立っていない。この間、バスがノンストップで運行を始めた。汚染物資がビニール袋に入れられあちらこちらに山積みされている。
勿論、SA、PA、外食産業、コンビニもなく人影も何もない、音のしない死の町である。
高速道路も途中、5~6マイクロシーベルト/hという電光掲示板が目につく。
相馬野馬追祭で知られる、福島県南相馬市(元原町市高見町)の国道6号線沿いに無線塔のモニュメントがある。
太平洋を越えてアメリカと通信する目的で、逓信省(現郵政省)が大正10年3月、1万1千トンのセメント、当時の金額で35万円、3年がかりで建設した。
当時は周囲に200mの鉄塔を五基建て、アンテナ線をクモの巣状に張っていた。主塔の高さは201,16m、根回り55mもあり、東京タワーが出来るまでは東洋一のノッポ塔として知られた。
大正12年9月1日、関東大震災が発生。死者、行方不明10余万人の大惨事となった。海外への第一報はこの塔からホノルルを経由してサンフランシスコのRCA局長あてにツーツートントンと打電された。
「ホンジツ ショウゴ、ヨコハマニオイテ、ダイジシンニツイデ、カサイオコリ、ゼンシハホトンドモウカノナカニアリ、シショウサンナク、スベテノコウツウキカントゼツシタリ。――――」無線は世界に発信され各地から色々な義援金が送られてきた。
無線通信の進歩により花形だったアンテナ時代は過ぎ、昭和8年に発信停止した。塔は記念物として保存の為、市に無償で払い下げられた。市内一円から見えるノッポ塔はシンボルとなった。60年にわたる歳月で風雨にさらされ、ボロボロとなり危険となった。解体か補強かで4年も論争が続いたが、人命尊重から撤去が決定した。
昭和56年10月、上部から解体して同57年3月に姿を消した。総工費5億2千万円、コカーンクリート塊は11トントラックで1250台もあった。
翌年10月、10分の一のモニュメントが建設され同市のシンボルとして甦った。当時からの姿は東日本大震災でも倒壊せず、むしろ敷地の傍らに避難の仮設住宅が建てられている。
○「死の町は甦るのか!」
富岡駅前は今もって時計の針が止まっている。駅舎は地震と津波で無残な姿となり、改札口のパイプだけが残っている。線路は雑草で見えず、打ち上げられた車が放置され、駅前商店街も人影がなく、音のない「死の町」そのままで、不気味な静けさである。復興事業が進められているが、多分筆者がこの世にいる間に人々の帰還は困難と思う。
( 2015年6月8日寄稿 )
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