手漉き和紙の里(6)~桐生和紙~  by 菊地 正浩

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hiejinjanotaibokukusunoki.jpg ●桐生城下町
 文治2年(1186)、藤原秀郷(ひでさと)の後裔といわれる桐生小太郎綱元が住みついたのが始まり。観応元年(1350)、桐生国綱が市外の北郊梅田の里、柄杓山(標高361m)に城を築いた。通称、城山と呼ばれ今も山頂付近や山腹に馬回り、掘割などの遺構を残している。桐生田沼線という街道を行くと、城の入口には日枝神社がある。桐生国綱が神木として献じた楠の大木が生い茂っている。クスノキ科の常緑高木で南国から渡来、関東以南の暖地に生え、高さ20mにも達するもので普通は群生しない。しかし、ここの楠は4本の大木が並んで立っており珍しいとされている。昭和33年(1958)、群馬県の天然記念物に指定された。城は室町時代末期まで桐生氏の本拠であった。永禄の頃(1558~70)には、越後の上杉謙信について小田原の北条氏と戦う。上杉謙信も桐生氏を重要していたという。天正18年(1590)、小田原城が落城し徳川家康によって廃城されたのである。

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●和紙の里・梅田
 桐生市の北端、根本山を水源とする桐生川は、桐生湖・桐生ダムを経て渡良瀬川へと流れる。その綺麗な流れと水質は、川のほとりの其処、此処に小屋掛けをして、楮(こうぞ)を洗い、叩き、手漉く、和紙の里であった。漉かれた和紙は桐生城御用達のほか、享保から天明にかけて桐生商人、書上(かきあげ)文左衛門により「桐生紙」として江戸に送られたという。
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 今では当時を偲ぶことができないが、桐生紙の伝統を受け継ぎ、未晒(みざらし)で黄ばみと張りのある和紙を作り続けている和紙工房がたった1軒ある。桐生湖をさらに上流へと進むと、梅田5丁目という里で星野増太郎氏一家が和紙工房をやっている。桐生紙の伝統技法を守り、漉き方だけでなく漉き模様や透かし模様などにも取り組んでいる。作られた和紙は大切に箱に納められ保管されている。この和紙を求めて訪れる人だけに直売している。
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 知る人ぞ知るで、星野氏は「桐生市指定重要無形民俗文化財技術保持者」なのである。漉かれた和紙は、書画や文化芸術に多く使われるが、学校の卒業証書にも使用されている。和紙工房には楮(写真右)、三椏(みつまた)が栽培されている。また、昔は桐生川の清流を使っていたが、近年は不純物も多く、水量も減少してきたので、山の湧水をパイプを引いて使っている。楮や三椏を洗ったり、黄蜀葵(とろろあおい)をつけたり、手漉きの水として使うが、飲料水にも良い。一杯飲ませていただいたが、軟水で癖もなく滑らかでとても美味しい水である。家族に後継者もいて伝統を守りながら頑張っている。ぜひ桐生和紙を守っていって欲しいと願う。
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●名物桐生うどん
 この地域は寒いので稲作にはあまり適さない。小麦と蕎麦を作る農家が多い。そのうえ良質な水があるために「うどんやそば」が美味しい。それは「桐生うどん」として評判を呼んでいる。桐生市街でもよいが、この梅田の里で味わう「うどん」は格別である。桐生湖畔、旧道のところに『椿茶屋』という店がある。店内には和紙で作られた凧などの作品が飾られて雰囲気を出している。
 庭には和紙の原料となる三椏が植えられている。三椏は春に花をつけるが、普通は白い蕾から黄色い花を咲かす。しかし、ここにはやがて赤い花を咲かせる三椏が植えられていた。さすが和紙の里だけはあると思う。「うどん」のほうも本物である。ここを訪れた人は会員となり、リピーターも多い。それだけの価値はある。水は何にでも命なのである。
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白い蕾の三椏(写真左)と黄色の花をつける三椏(写真右)

( 2009年4月27日 寄稿 )