5月3・4日は両国にぎわい祭り2

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●回向院
 明暦3年(1657)、振袖火事といわれる江戸の大火が発生した。下町一帯は勿論、江戸城天守閣まで類焼するという凄まじさで、死者10万8千人といわれている。この状況を視察した将軍家綱の叔父が、将軍に進言して本所に50間四方の土地を与え回向院を建立した。犠牲者のほとんどが身元不明の武士、町民であったが、回向院では石碑を建て、身分や宗派の差別なく弔った。初代の住職には、徳川家菩提寺である芝の増上寺から幕府の命を受けて就いた。後に寺の境内で、慰霊の勧進相撲が興行されたが、これが我が国の大相撲発祥となったのである。因みに、旧両国国技館は回向院の隣地にあった。
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 境内には、海難供養碑(ロシアへ漂流した大黒屋の船、船型の碑)、江戸文化の担い手達の墓碑(浄瑠璃の竹本義太夫等の他、三味線の皮となる猫や犬の供養)、猫の報恩伝説(魚屋利兵衛と商家のとら猫)、義賊・ねずみ小僧次郎吉の墓(写真左)相撲力塚(10代から76年間の相撲塚)(写真右)などが見られる。祭りの当日には本堂で、大本山増上寺雅楽会による雅楽の演奏が行われたり、江戸太神楽、投扇興などのほか法話も聞ける。普段では見聞できない行事なので、毎年大勢の人が訪れ本堂はいっぱいで入り切れなくなってしまう。
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●吉良邸跡(回向院の裏手)
 墨田区両国3丁目、旧本所松坂町に、なまこ壁に囲まれた吉良邸跡がある。赤穂浪士47士が討入りしたところで、『忠臣蔵』として有名になった場所である。見事に仇討ちをして、その首を洗ったとされる井戸(写真下左)が残っている。吉良上野介追慕碑(写真下中央)吉良家の忠臣20士の碑(写真下右)もあり、今も訪れ供養する人は絶えない。現在、都の指定旧跡となっている。
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パート3につづく
投稿者:菊地正浩
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