重要文化財「日本銀行本店(旧館本館)」1

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 明治中期の西洋式建物で、赤坂離宮(現在の迎賓館・紀州徳川家跡、明治42年〈1909〉片山東熊の設計で竣工)とともに、我が国の二大傑作と言われる。明治29年(1896)、5年半の歳月をかけて完成。設計者は東京駅や旧両国国技館も手掛けた辰野金吾で、ベルギ-中央銀行を見本にルネッサンス様式を取り入れたネオバロック建築。関東大震災、東京大空襲にもめげず、110余年経過した今でも日本橋のシンボルとして、昔の面影と美しさを保っている。とくに大正12年(1923)9月1日の関東大震災では、独特の耐震建築で倒壊しなかったものの、翌2日になって、堅牢な石造りをもってしても周辺の延焼の火の手により、3階の明り取りの窓から炎が侵入してしまった。行員による必死の消火活動で、3階は全焼したが1、2階は一部だけにとどまった。震災時こそだから中央銀行の使命を果たそうと、翌3日定刻より少し遅れたものの開店、震災に伴う混乱回避のため、金融などの緊急対策を打ち出していった。その後、東京大空襲にもめげず歴史の証人として美しい姿を保ち続けている。
matsukatamasayashi.jpg 松方正義(1835~1924)
●日本銀行の創立
 明治維新は徳川幕府260年余にわたる封建制度を解体した。富国強兵、殖産振興を目標としつつ、新政府が着手したのは貨幣制度の改革で、明治4年(1871)5月には、早くも新貨条例を公布した。問題山積のなか、財政上の必要から太政官札以下数種の不換政府紙幣を発行した。結果、自ら貨幣制度の基礎を危うくし、ついに明治10年(1877)2月、西南戦争勃発を機に矛盾が露呈した。戦費調達のため、27百万円の不換政府紙幣、15百万円の不換国立銀行紙幣を乱発したため、銀紙の値開きが著しくなった。米価は2倍、貿易収支赤字、正貨流出、金利高騰、投機熱などインフレ-ションの展開となってしまった。このインフレ-ション対策には不換紙幣の整理が必至であつた。明治14年(1881)10月、松方正義の大蔵卿就任により着手され、明治15年(1882)6月、不換紙幣整理方策の中核として、日本銀行が創立された。
パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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