大相撲よもやま話3

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国技館の歴史1
 国技館は明治42年(1909)、回向院境内北側に誕生しました。同時に桟敷席などを仕切る御茶屋さんも回向院の参道両側に建ち並ぶようになりました。この回向院裏手で隅田川の辺に筆者の母親の家がありました。家の前から周辺は相撲部屋が多く、近所付き合いが多かったそうです。
 筆者が生まれた時には、家の前にある若松部屋からお祝いとして兜を頂きました。隅田川の花火になると朝から忙しく、ビールやスイカを冷やし、枝豆と冷麦を茹でて、屋上の物干しに席を作って招待しておりました。また、母親が娘時代には盆暮れになると、佃の渡しに乗り佃煮を買いに行かされたそうです。その中元・歳暮品を持って相撲部屋回りをしていたそうで、なぜ喜んでお使いをしたかと言うと、相撲部屋の女将さんたちは「ご苦労さん」と言ってお駄賃をくれたそうです。
 そんな国技館でしたが、大正12年(1923)9月1日、関東大震災で焼失したのです。ですから筆者の知っている国技館は再建された国技館(写真上)というわけです。母親はちょうど女学校時代だそうで、みな国技館の焼失を惜しんだそうです。
 さて、相撲の場所が始まると、筆者も子どもながら毎日のように相撲が見られました。本日の打ち止めから4~5番位の取り組み、すなわち三役の登場頃になると、木戸を開放していたようです。お馴染みの御茶屋さんのところへ行くと、「良く来たね」と言って中へ入れてくれるのです。関取が支度部屋から出て通路を通り土俵に行く、その通路で見られるのです。土俵の四隅には柱があって、その上には神社の屋根が飾られ、立派な男の千木が光っていました。柱は邪魔で現在のように屋根を吊るしたほうが相撲は見やすいですが、柱を相手にてっぽうの準備運動をする姿が見られないのは寂しいです。
 御茶屋さんでは桟敷客に酒やつまみ、料理にお土産を出しますが、料理には必ず厚焼き玉子が付いています。その玉子を焼いて四方を切り落とし綺麗な型にしますが、そのときに出る、切り取られた隅の部分を頂けたのです。これが何とも美味しい一品でした。
パート4(明日)につづく
投稿者:菊地正浩
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