ナゴヤの熱田さん

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ナゴヤ国が誇るお宮が三種の神器のひとつ草薙の剣が祭神の熱田神宮です。草薙の剣は平家滅亡の際に壇ノ浦で沈んだともいわれていますが、熱田に祀られている御神体は誰も見たことがなく、ベールに包まれています。創建は不明ですが、12代景行天皇(71~130)のときには、すでに存在していたらしく、子の日本武尊(やまとたける)が東国平定の際に当地の娘と結婚し、日本武尊の死後に所持していた草薙の剣を祀るようになり、伊勢神宮に次ぐ権威のある神社として栄えました。
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鎌倉幕府を開いた源頼朝の母は、この熱田大宮司藤原季範の娘・由良御前でした。頼朝は当地に生まれたといわれており、神宮近くの誓願寺の山門には頼朝生誕地の碑が人知れず建っており、境内には産湯の井戸も復元されています(頼朝生誕地説は瑞穂区の龍泉寺にもあり)。ナゴヤといえば信長・秀吉・家康と三英傑ばかり取り上げられますが、頼朝もナゴヤ国出身だったのです。そして父義朝の三男として生まれますが、母が由緒正しい出自の正室であったため、嫡男として京都で育てられ、13歳で従五位下右兵衛権佐に任じられています。しかし、平治の乱で源氏は敗北し、頼朝も捕らわれの身となり、伊豆に流されます。そして20年後、平家打倒の旗を挙げ、平家を滅ぼし武家社会を築くのです。ちなみに頼朝の弟義経も鞍馬から出て奥州藤原氏のもとへ行く際に熱田神宮に寄り、元服を行ったともいわれます。
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時は下って永禄3年(1560)、「海道一の弓取り」と云われた今川義元が上洛をめざして尾張に侵攻します。このとき信長は電光石火の奇襲によって、寡兵ながらも桶狭間で義元を討ち取り、覇道を歩むことになるのですが、この戦いの前に信長が戦勝祈願に寄ったのが熱田神宮です。このとき信長が「すべて表だったら我が軍の勝ち」と言って、ひと握りの永楽銭を投げ、落ちたものを確認するとすべて表でしたが、実は両面を貼り付けて必ず表が出るようにしていたという逸話があります。そして戦勝祝に寄進した信長塀も境内に残っているのです。
ということで今回は熱田神宮の歴史について触れましたが、次回は熱田神宮のグルメなどについて紹介します。
投稿者:管理人
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