手漉き和紙の里(58)~江戸を支え歴史を残した武州原紙「大幡(おおはた)紙」~  by 菊地 正浩

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武蔵国由井郷大幡村(現東京都八王子市西寺方町)は八王子市の外れ、北淺川と出入川の合流地点に位置する。八王子市史によると江戸時代、甲州街道に沿う一宿場町で八王子盆地の中央が八王子横山十五宿である。

明治22年市町村制施行で神奈川県南多摩郡八王子町となった。明治26年より東京府に移管され、大正6年10月に東京府下最初で最大の市となった。昭和16年小宮町を合併、同30年加住、川口、恩方、元八王子、横山、由井の6ヵ村を合併。同34年浅川町を合併し、総計97町の大所帯となった。その内の西寺方町に大幡村と紙屋村があった。

この地域の歴史は古く川口村は縄文文化の宝庫でもある。平安朝の初めに出来た倭名類聚鈔に多摩の古い地名の一つとして記されている。武蔵国大字出入村26字、川口村85字(上54、下31)、犬目村11字、楢原村13字の五村からなっていた。

山地は高尾、景信を中心とする関東山地の南部を占め、その東端に当たり60~70mの高度を有する。浅川地区の高尾山(600m)、小仏峠(546.23m)、景信山(725.10m)、恩方地区の明玉峠(739.15m)、陣馬山(857m)、和田峠(688m)などが取り巻いている。これらの山地は北より川口北、北淺川、南淺川の各支流により開析され、構造線に沿う谷はよく開析されて沖積地が開け、露頭も少なく多くの谷は余り開けずに深い谷を造っている。

北淺川は陣馬高原を発源として案下川と呼び、醍醐に発するものを醍醐川と呼んで、渓流を寄せ集め上恩方町関場の落合で北淺川となる。

もう一つ淺川の支流に川口川があり、関東山地の最東部今熊山を発源として、上川町、川口町、犬目町、楢原町、中野町を貫流して横山町に至り淺川となる。旧川口村はこの川の流域に形成され、大幡村、紙屋村は川口丘陵の尻尾にあたる所である。

川上川
川上川

● 大幡の地名と大幡紙~紙漉き技術はあきる野市の乙津軍道紙に伝えられた

大幡山寶生寺
大幡山寶生寺

現在、大幡という地名は使われていないが、宝生寺の後背地が分譲地として開発され西寺方町となった。この寺は大幡山寶生寺と云い、唯一大幡の歴史を伝えている。大幡山寶生寺史によると、初見は鎌倉時代の應長元年(1311)10月、真福寺文書の儀海写本の奥書に見られる。大幡の地名は広く八王子の川口地区にも及んでいたことが記されている。應永8年(1396)天野顕譲渡文書に「武蔵国由井郷大幡村」とあり、八王子市域内に於いて最古の地名の一つとされている。

紙谷橋
紙谷橋
紙屋集落と紙谷橋
紙屋集落と紙谷橋

江戸時代になり多摩郡由井領寺方村という小名になったが、寺方村の地名は寶生寺によって付けられたものである。寺方村西片の小名に「紙屋(谷)」がある。寺有文書の信康覚(天正18年—1590)にも神谷峰とあり、この地の名産に大幡紙が載せられている。

大幡紙の起源は古く、鎌倉時代の武蔵国船木田の物産「武州原紙」は大幡紙のことである。江戸時代には紙船役を課せられていた。江戸中期になり大幡紙の紙漉き技術は乙津村軍道に伝えられたという。

軍道紙は関が原の落武者が住みついた所として知られる。戦の先陣に掲げる大幡が漉かれたことは有名であるが、大幡村から紙舟半艘分を譲り受け、伝播されたものである。

大幡紙の原料は楮であるが、漉かれた紙は端を裁断して整えない。このため「はしきらず」と呼ばれ、丈夫な和紙は明治初期まで蚕卵紙として評判であつた。

風土記稿には紙舟役永285文とか明治5年(1872)の蚕卵紙40枚という数が文献で見られる。西方寺町の小名「紙屋」、川口川に架かる「紙谷橋」、商店の屋号「加美屋」、寺の「大幡山」、北西の山際の「大幡」などはかつての和紙作地の遺称である。

 

( 2016年1月14日投稿 )