地歴と旅(KK)

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東日本大震災と磐梯熱海温泉、これからの観光福島を探る④ トルヌス特別号から  by 菊地 正浩

  • 2012.07.13

  ●五百川と温泉のいわれ  資料によれば「久安年中(1145—1155)に皇子様とある過失により都より東の方五百番目の川の畔に流罪に処せられ給う。警護の司人皇子様を都より遠く流し給はんことを哀れみ、道筋の川々僅小溝をも其の数に数入れ記しつつ下り給ひ、遂に安積安達の界なる高倉の里に来り、漸く五百の数に達したり。よって其の時より此の川を五百川と稱するに至る。」  時を経て、「室町時代初期の建武(1334—1336)の頃、京の公家の娘「萩姫」の夢枕に立った不動明王が都から東北方面に行き五百本目の川岸に霊泉があると告げられた」とある。姫は不治の病をこの地で湯治し、全快して帰ったと伝えられて […]

東日本大震災と磐梯熱海温泉、これからの観光福島を探る③ トルヌス特別号から  by 菊地 正浩

  • 2012.07.11

●熱海町の誕生いきさつ  磐梯山は天に達する磐(いわ)の梯(はしご)という意である。明治21年(1888)に大規模水蒸気爆発があり、磐梯式噴火として世界に知られた。  はじめは、大字中山、石筵、高玉、玉山の四大字で安積郡高川村であった。  昭和15年、熱海町に改称。同29年、丸守村と合併して今日の郡山市に至る。   ●何故、東北に「熱海」なのか?  磐梯に伊豆地方の熱海、上伊豆島、下伊豆島などの地名があるのは、文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に起因する。この時、戦功のあった工藤祐経に安積郡の領地が与えられた。  祐経は伊豆国の東海岸地方に勢力を張った伊東氏の支流で、伊東氏は伊豆、 […]

” 江戸時代に学べ! ” 塙代官所跡が教える「少子高齢化・子育て支援」対策  by 菊地 正浩

  • 2012.07.09

 天明3年(1783)、浅間山の大爆発に端を発した「天明の大飢饉」は、東北一帯を荒廃させた。成層圏に達した火山灰で日照が減り、農作物被害、多数の餓死者、風評被害、暴動も発生したという。とりわけ、口減らしの姨捨(姨捨山伝説)、人減らしの口封じ(堕胎、新生児殺し)は人口減少を招き地域の活力を失わせた。 ●天領塙(はなわ)の名代官寺西封元(てらにしたかもと)  福島県東白川郡塙町は、東日本きっての美林「八(や)溝(みぞ)の杉」とコンニャクの町として知られる。八溝山系を脊梁とし中央を久慈川が東流し、今なお日本の原風景を残している。   享保14年(1729)天領となり塙に陣屋が置かれた。寛政4年(17 […]

東日本大震災と磐梯熱海温泉、これからの観光福島を探る② トルヌス特別号から  by 菊地 正浩

  • 2012.07.03

●磐梯熱海温泉地区には見所が多い  磐梯熱海温泉のある郡山市の歴史は、日本三大疏水の一つ安積疏水を抜きには語れない。        明治9年(1876)、明治天皇の東北地方行幸時、大久保利通などにより国の大規模事業の適地として安積地区が選ばれた。猪苗代湖より取水した安積疏水の完成は荒地を豊かな水田に変え、疏水を利用した沼上、竹之内、丸守の3発電所は地域の発展に貢献した。平成21年には、経済産業省が歴史的建物、施設に認定し、「近代化産業遺産」となった。五百川の畔、レンガ造りの建物が残りその風情を伝えている。  昭和40年の市町村合併で郡山市となり役場は、熱海行政センターと名を […]

東日本大震災と磐梯熱海温泉、これからの観光福島を探る① トルヌス特別号から  by 菊地 正浩

  • 2012.06.29

 福島県の磐梯熱海温泉は、JR郡山駅から磐越西線で3駅目(快速で約15分)、磐越自動車道では磐梯熱海ICを降りて5分で磐梯熱海駅に着く。風評被害にも見舞われているというこの地に、今何が起こっているのか? 何が必要なのか? 3月22〜23日、旅ジャーナリスト会議メンバー5名(森田代表、小川事務局長、菊地、荒木、吉野の各会員)で訪れた。頑張れ、磐梯熱海温泉。東北の名門温泉をもっと良く知ろう。    ●明治初期、鉄道開通で人口が増えた熱海町    磐梯熱海は、観光の全盛期に比べれば人通りは少なく客待ちタクシーも寂しげだ。  駅舎にある観光協会に立ち寄り、「イラストマップ」を貰い最 […]

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