稲葉会員が静岡新聞に紹介されました

NO IMAGE

2007年4月16日の静岡新聞「古道を歩く」の下田街道⑨梨本宿で稲葉修三郎会員のことが紹介されました。以下、新聞の中身をOCRで読み取りましたので、ぜひご覧ください。
shizuokashinbun.jpg
百二十万人弱の人でにぎわった今年の河津桜まつり。既に花影は失せ、葉桜となったカワヅザクラの大木の下に昨年十月、石碑を置いた。「峠を越えて 瀬を渡り 伴に歩んだ 五十年」と刻む。河津町梨本地区の中心、川合野で民宿を営む稲葉修三郎さん(82)が妻美代子さん(77)と重ねた金婚の祝い。稲葉さんは父親が早逝し大家族を支えた。職替えは十六にも及ぶ。
下田街道の宿は湯ケ島(伊豆市)とこの梨本の二カ所。梨本を飛ばす強行軍もあったが、下田を出て小鍋峠を越えても天城の山並みがそびえ、人家が消えた中で急峻な谷や川を渡らなければならない。梨本に宿を取ることが多かった。
稲葉さんが「南総里見八犬伝」などで知られる文人、滝沢馬琴の随筆「燕石雑志(伊豆の海)」を紹介してくれた。一八〇〇年代初め、馬琴は逗留先の伊豆下田から天城越えで江戸に帰る途次、まだ日は高かったけれど天城山六里を越えがたいと思い、梨本村に宿泊する。「馬琴は小鍋坂、大鍋坂の水音もいと遠し湯が島の道、と口ずさんだ」と稲葉さん。下田屋という旅人宿だったが、既に廃業。本陣や脇本陣も様変わりしていて宿駅の面影はない。
梨本宿へば河津町小鍋から大鍋を経て入り、大鍋川と河津川を渡る。合流部であり、橋下を清流が若をはむようにして勢いよく下っていく。馬琴が記した水音は二百年後の今も鮮烈だ。
橋を渡り坂道を少し上ったところの小さな三差路に道標があった。倒れたのだろうか、二つに折れたものをセメントで接合している。
「右下田 左はま道」「右三嶋 左下田道」とそれぞれの面に刻んだ文字が何とか読み取れる。下田街道と海岸へ向かう浜道の分岐点を示す。建立したのは君沢郡小海村(沼津市)の増田七兵衛。七兵衛が立てた道標は小鍋峠の入り口、下田市北の沢にもあった。
車一台の通行がやっとの急坂がいかにも旧道らしい。いったん国道414号に出て、稲葉さんの民宿「てっぽう」の看板を目印に旧道の下り坂に入る。脇の水路で蛍の餌となるカワニナを確認しうれしくなった。上は国道で車が行き交うが、河津川や支流の瀬音がかき消してくれる。道沿いではツバキの花や夏ミカンの実が彩りを加え、脇道を行く楽しさが増す。
旧道はループ橋の直下に出る。この間には伊勢新九郎(北条早雲)の軍勢に滅ぼされた深根城(下田市)主関戸吉信のものとされる墓があり、大日如来像や供養塔などをまとめた場所も。延焼を食い止めたケヤキは火伏さんと呼ばれている。
幕末、通商条約締結談判のため初代米国総領事ハリスや通訳ヒュースケンが下田から江戸に向かい、梨本の天城山慈眼院(坪井弘司住職)に泊まった。慈眼院は国道沿いになってしまったが、当時は七兵衛建立の道標近くに山門があり、深山幽谷の地とされた。先々代の諦堂住職はハリスをしのんでユニークな位牌をつくっていた。戒名は「愛日院殿誠心圓融大居士」。石に米国、左に日本の国旗を配し、末永い日米友好を願った。
河津町観光協会長でもある弘司住職(51)は温泉施設を建設中。これまでのユースホステルと一体化して観光面での活用を意気込む。今月二十一日がプレオープン。古刹も時代の変化に立ち向かっている。(文・鈴木寛一郎 写真・塚原勝二)
〈メモ〉
梨本宿を巡るコースは伊豆の踊子文学碑の温泉場、湯ケ野(河津町)が起終点の踊子歩道に一部含まれる。踊子歩道は大鍋の橋を渡らないで発電所跡、つり橋を経て民宿「てっぼう」前に出る。七滝口まで同じ道。湯ケ野-七滝口約50分。伊豆急河津駅からバスで湯ケ野まで13分。下田街道はコースではないが、七滝・修善寺方面行きバス西湯ケ野下車。問い合わせは河津町観光協会〈電0558(32)0290〉、中伊豆東海バス〈電0558(72)1841〉へ。
投稿者:にわあつし
人気blogランキングへ