「向う両国」門前仲町の魅力1

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江東区西部、深川との境を首都高速5号線が通り、永代通りと清澄通りが交差し、その下を地下鉄営団半蔵門線と都営大江戸線が走る。近代化されはしたが今なお江戸下町の名残を止める。地下鉄を降りて地上に出ると、深川不動堂や富岡八幡宮に参詣する人、参道の両側に並ぶ店で土産品を買う人、名物深川蒸篭めしに行列をつくる人、一年を通して終日賑わいを見せる、それが東京の下町門前仲町の魅力である。
●いわれ
 承応2年(1653)四代将軍家綱の時、永代寺地所に門前町屋を開き、永代寺門前仲町と称したのが町名の起源とされる。8月15日を中心に行われる「深川八幡祭り」、10月初旬越中島橋そばの臨海公園で催される「深川の力持」、大横川ほとりの黒船橋公園で公開される「木場の角乗り」は有名である。
●隅田川への架橋
 明暦の大火「振袖火事」によって多数の犠牲者を出したことを反省し、幕府は大川(隅田川)に橋を増設することとなった。それまでは江戸城を守るという軍事上の見地から、千住大橋の一か所しか架かっていなかった。最初に現在の両国橋より下流20~50m付近に大橋を架けた。その後、元禄6年(1693)に新大橋が架けられると、それまでの大橋を改め武蔵国と下総国、両国を往来することから何時しか江戸っ子が「両国橋」と名付けたという。元禄11年(1698)には永代橋、安永3年(1774)に吾妻橋(当初は大川橋と呼んだ)が完成し、以降順次隅田川への架橋がなされていったのである。
 ちなみに両国橋だけでも5回焼け落ち、大水により2回流失、破損による改修は十数回にのぼる。明治8年(1875)にやっと新しい木橋が完成するも、明治30年(1897)に夏の川開きで大勢の人の重みにより、両側の欄干が落ち数十人が死傷した。明治37年(1904)に鉄橋となるも、大正12年(1923)の関東大震災により改修、昭和7年(1932)やっと現在の姿になったが、昭和20年(1945)3月には東京大空襲にもあっている。
●江戸下町とは
 橋が架けられると橋番という係を置き、広場を造った。人が来るから必然的に店や見せ物小屋ができたのである。武蔵国側では広小路という繁華街ができて、江戸の気取った人たちで賑わった。一方、下総側の東両国を「向う両国」と呼んで、少々見下していたのである。しかし、向う両国のほうがざっくばらんな江戸下町の人情溢れる人たちで賑わったという。粋な築地、浜町河岸の芸者と人情味ある深川、辰巳芸者に代表されていたようである。日本橋を出て広小路の繁華街を抜けて両国橋を渡ると大相撲発祥の地「回向院(えこういん)」があった。それから紀伊国屋文左衛門の屋敷(現在の清澄庭園)を抜けると門前仲町に行けた。永代橋が架かると、日本橋からまっすぐに門前仲町に行けるようになった。『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士も吉良邸討入り後、この永代橋を渡り、江戸城の近くを通り三田から芝高輪の泉岳寺へと歩いて行ったのである。
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パート2につづく
投稿者:菊地正浩
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