「向う両国」門前仲町の魅力2

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●富岡八幡宮
 徳川幕府が開かれた当時、深川一帯は江戸湾内に点在する砂州の集まりであった。いたるところ葭葦が茂り、住む人も少なく漁業する人が主で集落程度でしかなかった。その一角に永代島と呼ばれる小さな島があり、その一帯を菅原道真公の後裔といわれる長盛法印が埋め立てて、社地を氏子の居住地とし、寛永4年(1627)八幡宮を創設したとされる。この開拓地が現在の八幡宮境内、深川公園、富岡町、門前仲町に該当、6万508坪という広大な社有地であったといわれる。その後、真言宗大栄山永代寺を建立、長盛法印自ら初代住職となった。明治維新となってから神仏分離令により、永代寺は廃止させられ、現在跡地は深川公園となっている。およそ千年前の利根川は向島辺りで東京湾へと流れていたが、治水工事により銚子のほうへと流れを改修、従って隅田川はずっと後に出現したのである。
 隅田川の出現により同じ氏子地域である深川と日本橋、京橋の一角を分断することになってしまった。深川側となった永代島にある八幡宮なので、昔は「永代八幡宮」とも言われた。この永代島八幡宮(富岡八幡宮)と永代寺に、江戸の人々が参詣するようになると、大名、小名の下屋敷や豪商の別邸などが建ち賑わうようになった。そして、門前町が発生し江戸文化の華が開くこととなる。辰巳芸者に代表されるごとく辰巳情緒、下町情緒なるものが醸成されていったのである。
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●門前町
 江戸湾の魚貝を獲って細々と暮らす漁師町であった小さな永代島が、深川という広い地域に展開されていき、門前町が発生した。隅田川に注ぐ支流や堀川という水利の便は木場となり、佐賀町の倉庫地帯となり、やがて下町の工業生産地帯を形成していった。現在、東京でも比較的純朴な下町情緒溢れる土地柄で、その沿革を辿ると八幡宮との歴史的結びつきによるものであることがよく理解できる。この一帯の人々は富岡八幡宮を尊敬し、祭礼を愛好し伝統を守り続けている。
パート3につづく
投稿者:菊地正浩
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