国歌(君が代)と国旗(日の丸)を知る旅

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 君が代と日の丸のルーツ、意味を知らないで国旗に向かい歌っている日本人が多くなりました。オリンピックや国体などでも、若者は知っていて日の丸を見上げ歌うのでしょうか?
 今年、初詣の折、千鳥が淵戦没者墓苑にある細石(さざれいし)の巌を見てそんなことを思いました(1/13付旅じゃCom参照)。そこで、長野県諏訪大社(下社秋宮)にある細石の巌と日の丸の発祥地、鹿児島県の照国神社を紹介してお話いたします。
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●君が代—「君が代は千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」です。
写真のように小さな石が、長い間にたくさん集まり固まって大きな巌となり、さらに苔がむすほど、千年も万年も大君の長寿と治世が栄えますように、という意味をこめたお祝いの歌です。その原歌(もとうた)は古今和歌集巻七に賀歌として「わがきみは—–」とあります。平安中期頃に「わがきみは」が「きみがよは」に変わって広まり、中世・近世を通じ色々な所で使われました。明治新政府は、外交上からも国歌制定が必要となり、薩摩琵琶歌「蓬莱山」の中で歌われていた「君が代」を歌詞にしました。当初、英国人が作曲したが馴染まず、10年後宮内省の雅楽部によって今日の曲にされました。明治13年(1880)11月3日天長節(明治天皇誕生日、現文化の日)に宮中で初演奏されました。明治26年(1893)に祝祭日の奉唱歌として文部省より告示され、我が国の国歌として定着したのです。
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●日の丸—歴史は古く、赤い丸は万物に恵みをもたらす太陽を形どり、皇祖神天照大神を仰ぐ日本人が考え出した、シンプルなデザインと言えます。王朝時代の儀場に掲げられた「日章」の幡(ばん)に見られます。やがて源平以来、武士たちは扇面に日の丸を描きました。後醍醐天皇は「日月を金銀にて打付けたる錦の御旗」を官軍の旗印とし、戦国武将たちは日の出をかたどった日足紋を家紋とし、赤丸印を旗指物などに使いました。秀吉・家康の御朱印船には朱の丸が、江戸時代には将軍の御座船や御城米船にも掲げられ、幕府の旗印と考えられました。開国を迫り外国船が来航したり、諸大名も大型船を建造したりするようになりました。
 NHK大河ドラマ『篤姫』でお馴染みとなった薩摩の島津斉彬が、水戸の徳川斉昭と建議、安政元年(1854)7月、「白地に日の丸の幟(のぼり)」を日本の惣船印と定めて布告しました。発案にあたった島津斉彬は、「日の丸の旗は日本(ひのもと)を日本(にっぽん)といひ且つ日出づる国と唱(よ)ぶに相応し、又天照大神の岩戸を出でられしよりこの日本は開け始めし国なれば、夫等(それら)の故事をも考えて発案したものだ」と語っている。これにより日本の船も日の丸を国旗として掲げ航海するようになったのです。明治新政府も、明治3年(1870)1月27日に正式に公布、これを記念して1月27日を「国旗制定記念日」としました。今では、この日に国旗を掲揚する家もほとんど見られなくなりました。
 読者の皆さんも鹿児島へ旅をしたら西郷隆盛も結構ですが照国神社へ、長野県諏訪に旅したら御柱の祭りだけでなく、諏訪大社下社に立ち寄り、君が代、日の丸のルーツに触れてみては如何でしょう。
投稿者:菊地正浩
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